いつかの慈庵寺 壱(玄林和尚の話)

文字数 6,802文字

 初めて会話をしたときと比べて、少年の様子が変わっていたのを、玄林和尚は気が付いていた。牧子が死んでから数か月、良く自分に物事を訪ねていた少年は最近こちらに寄り付かず、久々に来たと思えば、今までは少ししか手をつけなかった菓子を大切そうに包み持って帰る。大方居場所を見つけたのだろう。玄林はこの寺から出ることをあまりしない身であったため確かめる事はしなかったが、それを微笑ましく思っていた。
「和尚、俺な、三太郎って名前貰った。だからもう、そう呼べ。」
「おお、そうか。良かったな」
「そういえば、和尚には名前あるのか」
「玄林と言う。お前、何やら可愛がって貰う姉さんでも出来たか」
「んー、姐さんではない、それはもう牧子さんが居たからね。色々あるんだ」
 浮浪児を売春婦が可愛がると言うのは、戦後よくある話だった。大方今回もそんなところだろうと思い声をかけたが、彼は曖昧に濁すだけだった。日の光の当たる暖かな寺の縁側に、目を細めて座っている。猫の様だ。赤茶けた毛が日の光を反射して透き通っている。春だねえと少年は囁いた。
 この寺の近くに中里公園という公園があり、その桜は大変美しかったのを玄林は覚えていた。中央に大樹があり、桜色が空一面に広がるのである。
「花見でも行ったらいかがかな。中里公園は美しい桜が咲いているぞ。」
「桜?これが桜か。」
 そうか、桜を知らぬのか。玄林は庭の木を指し示した。
「この花は桜と言う。花見というのはこの花を愛で、宴席を設けたりする…」
「中里公園ならわかる。人が多くて嫌いだ。この寺で良い。此処は人が少ないし、居ても墓参りや俺みたいなのが多い──なあ、和尚、この寺は無縁仏が多いな。」
 縁側に風が吹いた。桜吹雪が舞う。少年は和尚の顔を伺おうとして、桜の花びらにそれを阻まれた。桜が降ってきた、と少年は目を見開いた。これが、春か。暖かいな。寒いのは嫌いだ。風に舞う雪の白さしか知らなかった彼には、桜は不思議なものだと感じられた。白に近い薄桃色の吹雪。身を刺す冷たさのない、妙な温さ。淡いようでいて、幹はしっかりとしている。小桜。なるほど。
「三太郎、桜の花は死体の上に咲くとも言う──墓地の桜は綺麗だろう。吞み込まれるなよ」
 玄林は声を低くしてそう告げた。少年はもっと、色々なものを見た方がいい。死体の転がる敗戦残暑の九月から枯れていく木々、荒んでいく人々、冷え込む冬、ようやく活気づきだした春だ。
 不気味な寺に入り浸らずとも。普通の人間とも触れ合うべきだ。たとえその人々が彼のことを嫌おうとも。
「ああ、だからか。」
 しかし彼は、玄林の言葉に笑った。それから縁側から飛び降りて、桜の木の幹に手を当てる。
「死んでこんな綺麗な花の下で眠れるなら、母さんも牧子さんも喜んだろうから──埋めてやれば良かったな。」
 彼は桜を背にして笑う。荒んだ暮らしの割には、随分と無邪気な笑みだった。
 そうだった。元来死は身近なものであるということを、この時代も子供でも判っていた事だったのだ。上野駅は「ノガミ」と呼ばれ、戦争孤児や家出少年、不良の溜まり場になっていた。それらの孤児に玄林は声をかけて寺へ連れてきたり風呂に入れてやったり、食べ物をやったりして好きにさせていた。それは、戦乱の時代から続く彼なりの罪滅ぼしのつもりだった。
 しかしこれも有漏の善だと、玄林は良く自重したものだった。どうやら彼等は経文を読み掃除をし、座禅をするよりも、テキ屋ややくざの手伝い、客引きやスリや乞食のほうが良いらしく逃げ出してしまう。それも是非もないことだ。あるがまま生きる、其れで良いのだ。きっと。
 彼はそんな子供が多い中、仏教に興味を持つ珍しい混血の子供だったから覚えていた。なんでも話を聞けば、母親が熱心な正教徒だったという。道理で。神を信じないし仏も信じないという彼は、牧子の一件以来、興味深げに禅や仏教の話を聞いてきた。生来考える事が好きなのだろう。頭も悪くはない。だから玄林はこの子供が気に入ってきていた。
去り際に一度止まって、少年は振り向いた。玄林が首を傾げると真っ直ぐな瞳の彼が桜の木を見ながら口を開いた。
「和尚、今度人を連れて来ていいか。厄介になってる見世物の子。」
「ああ、連れて来てやりなさい」
 玄林は目を瞬かせて答えた。ありがとう、と言って少年は駆け出して行った。

   ◇

「……和尚、来た。」
 汗だくになり珍しく白い顔を赤らめた少年の背中には、美しい少女が乗っていた。彼より三、四歳は歳下であろうか。何処からおぶって来たのか分からないが、人一人を此処まで連れて来るのは骨が折れただろう。そう思い少女を足元に下ろすのを手伝ってやろうと手を伸ばすと、少女はびくりと身を竦めた。
「おお、すまんね。怖い事はしないよ。降ろしてやろうと思ってな」
 少女はふるふると首を振ると、縁側を指差す。少年はそこに少女を下ろした。少女は手をつき、腰を上げて──膝を、常人とは逆に折った。さながら猫の様に、少年の背から降りる。玄林は息を呑む。少女の様子だけではない。その顔に衝撃を受けたのであった。それは彼が遠い昔に逢った──そして、度々夢や、墓石に映り込む者たちの中に見出す面影だったからだ。嗚呼、あの子が生きていたか。心中で何とも言えない感慨を抱き、玄林はため息をついた。
「和尚、水飲んでくる!」
 少年はそういうなり井戸の方へ駆け出した。春の陽気の中、自分より少し軽い少女を背負うのは相当暑かったようだ。こちらを不安そうに見上げる少女と二人残されて、玄林はやれやれと頭を掻いた。
「私は玄林と言う。お前さんの名は?」
「……」
 どうやら酷く警戒されているようで、少女は黙ったまま辺りを見渡している。やがて少女は首を傾げた。彼女は以前会ったことがあるかのように和尚の顔をじっと見、それから少し笑みを浮かべた。意志の強そうな黒い瞳。和尚はしゃがみ、少女に目線を合わせた。自分の『兄嫁』の面影を宿した顔の少女に。
「あの少年とは仲良しなのか」
「……あなた、三太郎の何。」
 鈴を転がすような声が、赤い唇から漏れた。
「彼が偶にここにやって来る。菓子をやったり飯をやったりだ。」
「お菓子。」
 ぱちり、と少女の黒真珠のような目が瞬いた。
「じゃ、あの子が持ってきたのはここのなのね。お菓子屋さんと知り合いになるとは思わなかったけど、お寺さんなら納得だわ」
 どうやら、寺から少年が持って帰るようになった菓子はこの少女に渡っていたらしい。成程、これが彼奴の観音様か。玄林はそう苦笑しながら奇形の少女を眺める。
──嗚呼、美しい、忌まわしい顔だ。
 とんと、因果な話だね。因縁を感じ取った彼は溜息をついた。心中で呟く。
──讃岐から逃れて戻ってきて、またこの武蔵の国に辿り着くとは。どこへ行こうと、はざまははざま。あの子の娘。南無釈迦牟尼仏。

◇◇

 玄林が彼らに会ってから、数度目かの盆が来た。この数年で、東京はだいぶ熱くなったように思う。一九五〇年代、上野の闇市は「アメヤ横丁」に代わり、戦後の焼け野原だった場所には、身なりのきれいな人々が歩き回り、渡米品や食用品が並ぶようになった。経済はどんどん上向きになり「戦後」の二文字は人々の生活から薄れていった。
 そんな中、小さな興行社の一員として、相変わらず、三太郎と小桜は度々この慈庵寺に来ていた。寺には付き合いのある香具師が屋台を出すこともあるので、ヤマさんはこれに関してはうるさくは言わなかった。坊さんの所なら金がかからないしね、と以前笑っていたのを小桜は聞いた。相変わらず少年は少女を背負い、この古寺へやってきた。三太郎の背も随分高くなっていた。そのうち自分の背丈を追い越すようになり、低い声で話し始めるのだろうと、玄林は思っていた。

 そんなある九月ごろの事である。和尚の居ない、境内の裏手。無縁仏の奥通り。三太郎は、自分より二つほど年上の少年の背に馬乗りになり、その腕を背中に回し押さえつけていた。小桜は嗤いながら、虫をその少年の顔に押し付けている。
「──!」
 抵抗するように首を振る少年に、小桜は嘲笑って囁く。
「いいの?叫んだら──虫が口の中に入ってしまうわよ」
 身なりのいい少年だった。しかし、その頬は腫れ、服には泥がついていた。三太郎の肩の布が不自然に破けている。以前彼等を嘲り嬲った少年を、引っさらって此処まで連れてきたのは三太郎だった。   何となく不気味な、この境内の裏は誰も来ないということを知っていた彼らは、よくそこを遊び場にしていた。身寄りのない無縁者、はぐれもの、参る人のいない墓に手を合わせてから、その周囲でなんとなしに戯れる。今日は──遊ぶわけではなかったが。
「よう、にいさん。もいっぺん言ってみな、見世物の子がなんだって?捨て子、忌み子、愚か者?まぁ捨て子はそうだが、それの何が悪いんだ──お前だって、親父がたかだか町内会長だ財閥の子会社やってんだって威張り腐って、金積んで兵役逃れして、やることはやった成金野郎と、おかめそっくりの婆から放り出された塵芥じゃねぇか。」
 小桜は、蠢く蛇の尻尾を口に加える。赤い唇から、緑味の黒い鱗の蛇が彼女の首に一巻きされ、首をもたげて少年の顔面に舌を出す。
「ねえ、あたしのとこの小屋の子は、芸ができないうちは何するかご存知?悪食って言ってね、何もできないから物を食べる芸を見せるしかないのよ。物といっても、おまんま食えるわけじゃないわ。虫とか、葉っぱとか、蝋燭はちょっと練習がいるけど──鶏とか、蛇とか……出来るかしらね、お金持ちの子に。皆が飢えているときにご自分らだけおまんま頂戴していた、贅沢者のあんた達に。」
 やらなきゃ死ぬのよ。
 小桜はそう言って、けらけらと笑った。まあ、あたしも芸者の子だったから、花街には、ある所には食べ物もお金もあったということを、知らないわけではないのだけれど。忘れてしまったわ。呟きながら、首を振り続ける涙目の少年の鼻を小桜は摘んだ。少年の顔が真っ赤になり、足をばたばたと暴れさせる。三太郎はしっかり上半身に馬乗りになり身体を動かせないようにした。ぱかりと、息を吸い込むように少年の口が開く。小桜はその口に、飛蝗を放り込んだ。少年が吐き出そうとするその口を、更に砂を掴んだ三太郎の手が塞ぐ。
 げぼ、と咽るような音がして、少年が暴れて声を出そうと藻掻く。少年の顔が、砂と唾液と鼻水でぐしゃぐしゃになった。
「──誰も助けちゃくれねえよ。お前だって、お前の親父が小桜や俺を野良犬のようにぶん殴った時、笑って見てたじゃねえか。こいつの顔は高いんだよ。俺が庇えたから良いものを、傷付いたら俺もヤマさんに折檻だ。だが、その後俺はお前の顎を砕きに来るぜ。」
 三太郎は耳元でそう囁く。ごくり、とその喉が動いたことを確認して、手を放した。少年が口中のものを吐き出す。
「はい、お水。」
 小桜は笑って、金魚鉢を差し出した。濁った水の中に金魚が数匹浮いている。
「……こんな、の!」
 少年が顔をあげて首を振った。生臭い匂いが彼の鼻を突いた。
「お祭りの金魚ってね、一生懸命掬われないように頑張るでしょう。でも掬われて飽きられて捨てられちゃう子も、掬われて大事に大きくなるまで育ててもらえる子も偶に居るの。それでね、一生懸命掬われないようにして生き延びた子たちもね、次の年にまで飼うの大変だからって──全部捨てられちゃうこともあるの。良い人はちゃんと業者さんに返すけど。」
 小桜は金魚鉢に手を突っ込み、死んだ金魚を少年の耳元に置く。少年は顔を震わせてそれを振り落とした。金魚の死骸が、横たわった少年の横に落ちる。
「ねぇ、貴方は、一生懸命にポイから逃げた金魚を悪いと思う?馬鹿だと思う?思わないわよね。たまたま上手に飼ってもらえるだけの──良い金魚?らんちゅうだか、出目金だか知らないけど。」
 小桜は、少年の頭の上で金魚鉢を引っくり返した。ざばりと腐った水が流れ、生きている金魚がビチビチと泥中を藻掻く。少年は目を閉じ、すすり泣きを始めた。白いメリヤスのシャツには、金魚鉢の水が薄黄色のような染みと、腐った匂いをつけている。
「ああ、金魚死んじゃうわ。」
 黒真珠のような瞳を虚ろに輝かせ、小桜はそう呟いた。
「汚えな。」
 三太郎は、少年の背中の布で泥と涙と涎に塗れた手を拭いた。洗ったようでも泥水育ち、と小桜は謡った。そして、自らの手を見つめる。白く細い指。その指が、少年を指差した。
「ごめんなさい、だからもうやめ──」
 少年の手を三太郎は離す。上半身を起こそうとする彼の背中に、三太郎が蹴りを入れる。
「もう、小桜を殴らないか。俺達に構わないか?」
 少年は泣きながら応えた。
「殴らない、構わない!」
「言ったな。約束だぞ。」
 少年は何度も頷く。三太郎は手を貸して少年を立たせた。彼は怯えた瞳で、自分より背の低い三太郎と小桜を交互に見た。あたりのぬるい空気をまといながら、小桜は怪しく座り微笑んでいる。三太郎は無表情で、震える少年を見詰めていた。
「何をしている。」
 和尚の声が聞こえ、三人はそちらを向いた。少年は、涙目で喚きながら和尚へと駆け寄った。情けない奴。三太郎は静かに呟いた。和尚は、少年を宥めながら本堂へと戻っていった。
「見つかっちゃったわね、三太郎。どうする?」
 三太郎は、暫くその後ろ姿を眺めていたが、どうもしない。と呟いて、足元の金魚を拾い上げた。そのまま、無縁仏の並ぶ区画の土を手で軽く掘る。少女は首を傾げて地面を掘る土で汚れていく手を見た。やがて小さな穴が出来る。三太郎はそこに金魚を投げ入れた。
「埋めるの?あたし達が殺したのに。」
 三太郎の首に爪を突き立てながら、小桜は笑う。
「ん。こいつ等は元々だめだった、わかってんだろ。」
 応えながら三太郎は、金魚に土を被せて手を合わせた。
「そうねえ、和尚様、あたし達叱りに来るかしら?」
 わかんね。と、ふてくされたような声が呟く。多分普通の大人は叱る。それは、俺達といいとこの息子だったらあっちを叱る奴は居ない。道義的に──良い事でもない。でも最初に手を出したのは向こうだと、三太郎は考えた。やられて黙っていれば──やられるだけになる。例え負けようが、あいつらに手を出すとそれなりに面倒だと言うことをしっかりと示さなければならない。
 ──謝るくらいなら、はじめっからやってねぇ。
心中で呟きながら考える。和尚の言うところの教えでは、金魚を殺したのは無益な殺生だっただろうか、と思う。しかし、無益な殺生なんてそこらに転がっているのだ。母が死んでも、人が死んでも、自分は生きていた。兵隊が沢山死んでも、アメリカ人がそこらを彷徨いていても、別に朝日は登ってきたし、夜は寒かった。あれだけ絶望した終戦も、引き上げも、何もかももう、記憶の彼方に追いやる人も多いのだった。代わりは見つかる。嘆く奴ほど直ぐ見つける。人を大事にしないやつほど、さっさと、忘れてまた人を害する。それが立派なことだとされる世の中なら、俺はずっと負けていて良い。どうせ全て忘れられて、戻るところに日常が戻っていく。人は、強い。
「……三太郎、小桜」
 唐突に奥から聞こえた和尚の声に、二人は地面を弄る手を止めた。いつの間に現れたのか、二人を真っ直ぐに見つめながら玄林はため息をつく。
「あれの親父は割と厄介な奴だぞ。何ということをしたのだ。」
 和尚もやっぱりそうなのか、と三太郎は目を伏せた。雪駄が歩み寄ってくる足音がする。殴られるだろうか、怒鳴られるだろうか。少女は頬を膨らませた。
「あら、ごめんなさい、和尚様もお金が怖いのね。」
 小桜は顎を少しだけあげてそう言った。挑発に怒ることなく、玄林和尚はその頭を撫でた。
「そうではない、報復があるといけないから──今晩だけでも寺に泊まりなさい。荷主には連絡しておこう。どうせ明日が休みだからここへ来たのだろう。そして、あの子にも悪いところはあるのだろう。お前達はなかなかえげつない悪餓鬼だが──弱い者いじめを楽しむ質ではあるまい。」
 二人は、顔を見合わせた。
「あたしはせいせいしたわ。楽しかった。」
 小桜はそう言った。三太郎は僅かに笑った。それでも、と和尚は頷いた。三太郎を風呂に入れてやったときの手酷い身体の傷痕や、小桜の二の腕にある、火かき棒の焼き跡を思い、和尚は目を伏せた。先程の少年は篠崎と言い、彼の父は某財閥の子会社の社長だった。その一族の墓は立派にこの寺に立っては居るが、墓参りには一族の人間ではなく、雇われの人間が面倒そうに花を差し入れるだけだった。泥と腐臭のする水を流した彼に着物を貸してやりながら玄林は篠崎少年の胴を見た。彼は、痣一つ、傷痕一つない、綺麗な肌をしていた。

 

 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み