闇市零号の話

文字数 4,362文字

 買い出しを頼まれぶらぶらと人混みの商店街を彷徨っていると、少し外れの通りから目線を感じた。三太郎は首をかしげる。二人ほどの青年。見覚えのない連中だった。良い感情は持たれていなさそうだが、さてどうするかなと思案する。彼の容姿はそこそこ目立つため一部には名が知れている。どこかで恨みを買ったか、はたまた何か気に入らぬのか。
 小桜も居ないことだし、どうにかして撒くか。そう思った次の瞬間、目の前に足を出された。躓きそうになり慌てて踏みとどまり、隣を見る。二人。片方の男が腕を振り上げて、彼の頭に向けて上から振り下ろした。間一髪、横に飛び、三太郎は男たちを睨んだ。四人、いや、後ろにあと数人。走るか──と思った矢先に、あざけるような声がした。
「今日はあの出来損ないの猫娘は居ないのか?」
 灰色の瞳が、辺りを見るのを止めた。次の瞬間三太郎は、口を開いた男の顎に、下から頭突きを食らわせていた。
「──この餓鬼!」
 大声に人が悲鳴をあげ、周囲の目線が集まる。だがそれ以外の雑多な声やら人やらが多く、すぐに辺りは同様の、混みあった通りへと戻っていく。
「誰だい兄さんら、人を急に殴りつけといて──」
 にやりと笑う少年を、男たちは真顔になり取り囲んだ。仕方ねえな。三太郎は心中で呟いた。案の定、腕をひっつかまれ路地裏に連れていかれる。抵抗しようとしたが大通りは人に迷惑だと考え、路地に入った瞬間に腕を掴んでいる男を引き倒す。裏路地には表と変わって人は居ない。気にも留めまい。    
怒号が飛んで、拳が乱れ飛んだ。やがて、暴れる三太郎を男たちが押さえ込む。荒い息を呑み込みながら肩で息をする三太郎を警戒するように、男たちは囲いを解かない。
「手間かけさせやがって──篠崎の旦那の言う通り、生意気な餓鬼だ──」
「しかし、面は悪くねえな。廻すか?」
「俺にそっちの趣味はない、女はそこらに転がっている、しかも混血だ。」
 髪を掴んで引き摺り上げられ、三太郎は相手の男を睨んだ。どうやら篠崎少年の父親の子飼いの連中らしい。数人は昏倒させたが、多勢に無勢である、抵抗を封じられた。
 こいつ、アメ公のあいの子か。目が。じゃあ親はパン助だな。篠崎のとこの坊っちゃんに土喰わせたらしい。溝川突っ込んでやれ、そんなんじゃ足りねえ、そうだ──犬連れて来い、彼処にうろついてたやつ。
 そんな会話を聞きながら、三太郎は考えた。とりあえず小桜は寺にいるからそれでいい。あとは、自分がどうするかだが。別に死んでも構わない、痛いのは勘弁だが多分痛い、こうなった以上のんびり構えるしかないか、そう他人事のように考えながら、辺りを見る。男達は、子犬と母犬を連れてきた。母犬は吠えながら、子犬を護るように男達に牙を剥いている。その犬には見覚えがあった。どこかの建物の隙間の箱に棄てられていた野良犬たちだ。母犬は紅い首輪をつけていた。犬をどうするのだろう。
「やれ。」
 男の一人が、母犬を殴り付けた。母犬は鳴き声を上げて倒れる。その倒れた犬を、男は三太郎の頭上に掲げた。まさか。
「止め──」
 仔犬が吠えたのと、三太郎が口を開いたのは同時だった。男達はにやりと笑うと、犬の腹に、刃物を突き立てて、一気に引いた。
 犬の断末魔と、血と内蔵が、三太郎の上に降り掛かった。
 不意に、彼の脳裏に、女を惨殺する兵隊の姿が浮かんだ。歌いながら女を犯し、床下で泣きながら耳を塞ぐ自分の上で──その女の声が煩いと、首を斬り裂いた。彼は母の兄だった。彼に文句を言い噛みつくと、「お前の父は裏切り者だ、生かしてやるだけ有難いと思え」と怒鳴られた。反抗した罰だと言って、その死骸と共に小屋に閉じ込められた。
 思えば随分と乱暴なこともされた。疎ましかった混血児を日本人に投げ返せて、彼らも安心しただろう。冬だ。死骸は刻一刻と冷たくなって行った。牧子もそうだった。死体は冷たいものだと、彼は思っていた。しかし、母犬の血は暖かかった。獣の匂いと、消化器官を切り裂いたとき特有の、酸っぱい匂いがした。
「……あ。」
 三太郎は膝を付いた。男達はその匂いと光景に衝撃を受けたのだろうと思い、彼に罵声を浴びせた。
「どうだ、懲りたか?」
「気持ち悪いだろ、犬のはらわたはよ──」
「お前みたいな餓鬼が、篠崎の坊っちゃんに手出すんじゃねえよ」
「………」
 三太郎は、震えながら何かを呟いた。男は、聞こえねえな?と耳を寄せる。
「子犬の前で母犬殺すとは、酷えことしやがるな」
 その言葉を耳元で囁いて、三太郎は男の耳に噛み付いた。男が悲鳴をあげる。食い千切ってやろうと思ったが、柔らかく温かい感触に少し躊躇いが生じた。半分ほど耳が裂けたようだった。人の肉は案外、食い千切るのは難しい。男が耳を押さえ叫ぶ。赤いものが指の隙間から垂れた。別の男に跳ね飛ばされ、三太郎は血塗れのまま地面に倒れる。
「この野郎──!」
 蹴りが降ってきた。どうしょうもないな、これは。あちこちに鈍い衝撃が走り、彼の目の前は白くなった。それからじわじわと、痛みと熱が込み上げてきた。最早庇うことすら面倒になり、されるがまま笑う。痛みの輪郭で自分の形がわかるような気がした。暖かかった犬の血が冷えてきた。寒いな。と三太郎は他人事のように思った。ずっと寒かった。多分、これからも。殴られるところは少し熱さを感じる。何もないより痛みのが好きだ。嗚呼、寒い。
 昔を思い出した。きちんと寝ない子は狼に攫われるという子守唄。背広を着た男。背の高い人々。白いどころか灰色の世界。外の吹雪に揉まれた厳しい父の顔つきは、暖炉の前に来ると和らいでいく。夜外へ出る父。静かな朝。母が宙を見つめ、冷えていくペチカ。子供の手では上手く燃料を燃やせなかった。誰も帰らない。何処にも帰れない。ハルビンの踊り子。ロマノフカの村。ヤポンスキー。殴ってくる腕、引いてもらった手。線路。あんたどっからきたの。かわいそうにね。しばらくここで暮らすといいよ。あたし牧子。最近は変だ。将校さんが帰ってしまった。旅の燕は日暮れにゃかえる、せめて私もふるさとへ、泣いちゃいけない笑顔を見せて、行こよ帰ろよ母の膝……。何だっけ。あの歌。牧子さんが歌ってた。
 日本が負けたらしい。ソ連軍が攻めてくるってよ。どうなるんだ。おじさん。おばさんがた。この子は日本の子です。父親は日本人です。あたしが言葉も教えてやりました。狭い船。沈まないよね、黙れ露助の子。佐世保につく前に復員船が沈んだって。いや、対馬の疎開船じゃなかったかい、それは。どうせここらももう魚雷が。長崎は暑いだろうかね。本土は何年ぶりだろう、どこへ行くのか。揺れているね随分。もう俺は死にたいよ。黙れ、五月蠅いぞ。日本。父さんの生まれた場所。残暑。暑いところだ。明るい。焼け野原。どこへ行っても変わらないから。東京行くと食べ物があるらしい。ついておいで。ね、上野。人。人。人は暖かかった。生ぬるかった。暑かった。獣のにおい。白粉のにおい。パン助って何?あんたは知らなくていいよ。これでも喰いな。寒いね。私はもうだめだから、あんたはよそへ行きなさい。あたしの世話は妹がしてくれる。舞子ちゃん。お願いね。寒いね、冬。ね、寒くても、お腹が空いても、なんとかして生き抜いてやりなさい……。かわいそうなはこのこでござい。名前をあげましょう。三太郎さん。
 綺麗な白い指が最初に自分の身体に傷をつけてくるようになったのは何時だったか。赤い口が猫のように自分の背を噛むようになったのは。首に手をかけてくるようになったのは。寂しい少女の八つ当たり。痛くて苦しい時に、生きているのだと、この痛みは死んでしまった人たちは味わえないのだと、だからこれは贅沢な事なのだと。無に帰りたいのは我儘なのだ。みんなみんなどうしょうもない。痛い。  
 暫くして、周りが静かになった。様々な記憶を振り払うと耳がうわん、と鳴る。鼓膜がいったか、と再び頭を揺らそうとしたが、視界が歪んで辞めた。男達の気配は無い。死んだと思って諦めたか、この程度で良いと思ったか。彼奴等は戦争に行ったのだろうか。人間なかなか死ねねえんだ。嫌なもんだ。身体を動かす気力がなく横たわっていた手を、何者かが嘗めた。三太郎は薄目を開けて、自分の手を眺める。小さな仔犬が居た。
「……おまえ、」
 仔犬は甘い声を出した。口の中に血が溜まっていたのを吐き出しながら身を起こす。肋が傷んだ。折れてんなこれ。冷静にそう思い、ゆっくりと息を吐き出した。肺に刺さっては居ない──。呼吸は出来る。血まみれだが、刺し傷はない。息の根を確実に止める気はなかったということか。
「俺は、お前の母さんじゃないよ……ばか。あっちいけ。」
 仔犬を追い払おうと手を振るが、彼は母の匂いを感じているのだろう、離れない。
「……だから、お前の母さんはもう帰らないんだよ」
 三太郎は、自分の顔を拭った。親のない仔犬。急に死に別れた、小さな命。
「お前が──幾ら此処でおりこうにしてても……誰も、世話しちゃくれねえんだよ。」
 彼の声は少し震えていた。仔犬は、元気に鳴いた。暫く不思議そうに三太郎の手を嗅ぐ。それから、彼の奥に落ちていた犬の死骸に気が付き、そちらへ駆け寄り、嘗め始めた。やがて母が起きないことにおかしく思ったのだろう。吠え始める。
「……黙れったら!」
 その声に苛立ち、三太郎は地面を叩いた。その衝撃で肩と胸に痛みが走り、思わず呻く。仔犬はきゃん、と甲高く鳴いて、三太郎に走り寄り、その手の周りをくるくると回った。再び、匂いを嗅いで動きを止める。三太郎の口が小さく、ごめんな。と動いた。
「……お前、兄弟はないのか。父さんはどこの誰だ。」
 仔犬はつぶらな瞳を三太郎に向ける。まっさらな、何も濁るところのない眼だった。
「……皆どっかへ行ったか。強く生きろよ、おまえ……シロとかポチじゃああんまりだしな……うん、零号にしよう。まっさらな、零号。」
 1から始まるところを、零にされた、可哀想な零号。何もないところから強くなれ。かつてあったものを糧にして、零から人は立ち上がる。三太郎は地面に叩き付けた拳を緩め、仔犬を撫でた。立ち上がらなければ、終わるだけだ。
「……まぁ、まだ俺が生きてるってことは……御礼参りをしなくちゃな……俺と、お前の二匹分だな……」
 ゆらり、と少年は立ち上がる。血塗れのまま。銭湯には行けねえから、どっかの蛇口で洗うしかないか。そんなことを考えながら、右足を踏み出そうとした一歩目で激痛が走り、彼はその場に崩れ落ちた。あ、おかしい。これ──。黒い斑点のようなものが、視界にちらついた。
 そのまま、彼の意識は闇に呑まれた。遠くで、誰かが自分を呼んだ気がした。
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