サキュバスにご用心 scene2
文字数 3,966文字
人気のない階段の踊り場で足をとめ、穂積は額の汗を拭った。
肩で息をして、呼吸を整える。
その表情は、いままで幾多の修羅場を潜り抜けてきた特高魔術師とは思えないほどに強張っていた。
「ほ、穂積さん……」
「わかってる、アッシュ。落ち着いて。大丈夫」
眉間に深い皺をつくり、穂積は口元を引きつらせた。
「とにかく、男に会わなければ大丈夫。どこかに身を隠そう」
「どこかというと、どこでしょう」
アッシュはシルバーグレイの大きな瞳に不安な光を灯し、しきりに周囲に視線を巡らせている。まるで刑事に追われている犯罪者のようだ。
穂積はどこに身を隠すべきかを考えた。
普段ならすぐにでも思いつきそうなものだが、どうにも頭が混乱していて考えがまとまらない。
まったく、美鴨のやつはなんてものを仕入れてくれたのだ。
それをよりにもよって、うちのフロアの冷蔵庫に入れておくなんて。
こんなわけのわからないことで、うっかり出くわした顔も名前も知らない中年のおっさんと、そういうあれこれをしてしまうかもしれないなど。
それに、私はまだ、未経験なのだ。
ちゃんとしたキスだってしたことないのだ。
だってそういうものは、一番大切な人とするものだし。
それにもう、誰とするのかなんて、心のなかでは決めているわけだし。
だから。
「絶対にいや……」
穂積はうめいた。
地獄の亡者を思わせる、しゃがれた声だった。
「美鴨さんは数分で効果が出るって言ってましたけど。穂積さん大丈夫ですか?」
「いまのところはなんともないけど……あんまり研究されてないって話だし、眉唾かもよ」
穂積は乾いた笑いを浮かべた。
それが希望的観測でしかないことは、彼女自身もよくわかっている。
だから、どうにか頭を働かせ、身を隠す場所を考えなければ。
エビの効果が出る前にそこにいかなければ。
「仮眠室――はダメだ。内側から鍵かけられない。救護室――もダメだ。ドクターが男だし。うー……絶対に男が入ってこないところがいいから――」
「えと、女子トイレはどうですか」
「それだ!」
アッシュの両肩に手をやり、激しくうなずく。
そこなら絶対に男は入ってこれないし、各階にある。
閉じこもるのはきついが、背に腹はかえられない。
「アッシュ、いくわよ」
「はぃ」
アッシュは自分の身体を抱き締めるようにして、か細い声で答えた。
「大丈夫。最悪、アッシュだけはなにがなんでも私が守る」
「そんな、穂積さん……」
「エビを食べようって言ったの私だしね。あはは」
「でもでも、わたしも美味しく食べましたし……穂積さんのせいじゃないですから」
「アッシュはいい子だなあ、もう」
「にゅー」
アッシュの頭をわしゃわしゃと撫でてやると、そんな声が返ってくる。
目を細めて気持ちよさそうにしているので、まるで猫みたいである。
「よし!」
穂積は自分の頬を叩いて気合を入れた。
足をとめているのは一階から二階へ続く階段の踊り場で、二階は大小の会議室が並ぶフロアだ。各部署に割り当てられたフロアは三階からとなっているから、二階はまだ人に会う可能性が低い。
「二階のトイレにいくわ」
敢然と一歩を踏み出した穂積は、
「穂積?」
頭上からかけられた声にぎょっとして足をとめた。
「か、覚馬……!?」
裏返った妙な声が喉からもれる。
怪訝な顔をしてこちらを見ているのは、綾瀬覚馬だった。
穂積と同じ実習生であり、アッシュの教育担当。
そして、彼女の婚約者――正確には元婚約者だ。
「なんて声出してんだ」
「えっと……な、なんでもないの。ホント、ちょっとびっくりしただけ」
覚馬はいつもの〈志帥館〉の制服姿で、いくつかの資料を小脇に抱えていた。
二階の会議室で打ち合わせでもあったのだろう。
彼はこちらの事情など知るわけもなく、そのまま階段を下りてくる。
「まだ食堂の日替わり残ってるかな?」
「そ、そうね、どうかしら……」
穂積は息を呑んだ。
なんでもない会話をしただけなのに、胸がドキドキする。
お腹の下あたりがきゅんきゅんして、体温が上昇しているのが自分でもわかった。
頬が熱い。
これはひょっとして、エビを食べた症状が出始めているのでは……?
こちらの様子に気づいたアッシュが、袖をくいくいと引っぱって囁いてくる。
(穂積さん、大丈夫ですか?)
(だ、大丈夫。多分)
穂積は小さくうなずいた。
アッシュの様子は普段と変わりないところを見ると、美鴨の言ったとおり個人差があるらしい。
彼女は息を呑み、荒くなる呼吸を整えた。
男を見てハアハア言っているなど、とんだ変態である。
それでも動悸は激しくなるばかりで、どうしようもない。
覚馬を見ないようにして目を伏せる。
「穂積、調子悪そうだけど大丈夫か?」
そんな言葉をかけられて、彼女は耳まで赤くなった。
こいつは普段はちっとも私のことを気にかけた素振りを見せないくせに。
そういうところに、ちゃんと気づいてくれるくらいには見ていてくれてはいるのだ。
「覚馬さん! あの、えと、大丈夫です。穂積さん、お昼ご飯食べすぎたんです」
「なんだそりゃ……」
アッシュのフォローに、覚馬が嘆息する。
「あんまり食べすぎると太るぞ」
「う、うるさいな……」
もごもごと言ってちらりと覚馬を見やる。
覚馬は仕事のときに見せる大人びた厳しい表情ではなく、年相応の少年が友人とバカ話をするときに見せるような笑顔だった。
「なんで栄養が胸にいかないんだか」
「貧乳言うなし」
有坂穂積は、綾瀬覚馬のことが好きである。
それはもう、どうしようもないくらいに好きである。
家同士が決めた婚約者だったからではない。
そんなことに関係なく、彼女は彼のことが大好きだった。
有坂穂積の初恋の相手は間違いなく彼だったし、後にも先にも、きっとそれが最後の恋なのだと思っている。
だというのに。
覚馬ときたら自分が綾瀬の家から絶縁されて婚約が破棄されたから、二人は釣り合わないなんてことを思っているのだ。
まったく。本当に。バカバカしい。
「覚馬あっ!」
穂積は声を上げると、お互いの吐息がかかるくらいの距離にまで近づいた。
突然のことに覚馬がぎょっとした表情を見せる。
「おい、穂積、近い……」
「わ、私に胸がないかどうか、確かめてみれば?」
「は……?」
「だから、確かめてみればいいじゃん」
ああ、私は一体なにを言っているのだろう。
穂積は顔を赤くして下唇をそっと噛んだ。
こんなことはもっと軽いノリで、ふざけた感じで言わないとダメだ。
それでも――
「私はさ、覚馬にならなにされもいいと、思ってるし」
彼女が自分でも驚くほどにか細く、切ない声が喉からもれる。
これは全部、エビのせいだ。
エビが本意とは別にそうさせるのだ。
いや、本当にそうか?
こんな行動を取ってしまうのはエビのせいかもしれないけれど、いっそエビの力で覚馬と初体験したいって、私は思っている。
「穂積、落ち着けって。なに言ってるかわかってるのか」
覚馬はこちらの様子が普段とは違うので、明らかに動揺していた。
そういう彼を見るのは、なんだか嬉しい。
どうやら私も本気を出せばまんざらでもないのだな、と思えてくる。
穂積は口元を少しだけ緩めて、さらに身体を密着させた。
「覚馬ぁ」
踊り場の壁に覚馬を押しつけるようにして、彼の耳元で囁く。
「好き好き、大好き」
そのまま彼の耳たぶを甘噛みした。
「穂積……よせって……」
「えー。よさないよ」
甘い声。
穂積は自分がこんなことができるなんて、こんな声を出せるなんて、信じられない気持ちだった。
エビの力はすごい。
「その気にさせてあげようか?」
彼女は覚馬の股下に左膝を滑り込ませた。
「ねえ、覚馬」
首筋に舌を這わせると、彼の味がした。
信じられないほどに、心臓が早鐘を打つ。
「あ、ちょっ、穂積――」
覚馬の声に興奮がとまらない。
「ほら、確かめて」
彼女は覚馬の手を取ると、なんの躊躇もなく自分の胸に当てた。
彼の手にちょうどおさまってしまうくらいのサイズで、決して大きくはないけれど。
「ん……」
穂積は吐息とともに声をもらした。
「いっぱい触っていいよ?」
ああ、もう、我慢できない。
どうしようもない。
「私と――」
全部エビのせいだ。
「――しよっか?」
「ダメですーっ!」
穂積の声に答えたのは、アッシュだった。
彼女はどうにかしてぐいぐいと二人を引きはがし、
「覚馬さん、いってください! 早く! ここはわたしが!」
「いや、なんなんだ、これ……?」
「とにかく、逃げてください!」
「アッシュ、放して! 私は覚馬とするんだからあ!」
「穂積さん、こんなところでなんてこと言ってるんですか!」
穂積はじたばたと暴れたが、背後から羽交い絞めにされているのでうまく動けない。
「覚馬さん! 美鴨さんに伝えてください」
「なにを?」
「エビの件と言えばわかりますから」
「エビ……?」
覚馬はさらに困惑した表情になった。
だが、目の奥がぐるぐる回っている穂積を見て、床を這うようにして距離を取った。
「とにかく、雛菱に伝えればいいんだな?」
「はい、お願いします! わたしもいつまでもつか……」
「わかった!」
「覚馬、まって!」
追いすがってくる穂積を一顧だにせず、覚馬は踊り場から一気に階段を駆け下りる。
「覚馬のバカ……」
あとには不満げな穂積の声だけが残った。
肩で息をして、呼吸を整える。
その表情は、いままで幾多の修羅場を潜り抜けてきた特高魔術師とは思えないほどに強張っていた。
「ほ、穂積さん……」
「わかってる、アッシュ。落ち着いて。大丈夫」
眉間に深い皺をつくり、穂積は口元を引きつらせた。
「とにかく、男に会わなければ大丈夫。どこかに身を隠そう」
「どこかというと、どこでしょう」
アッシュはシルバーグレイの大きな瞳に不安な光を灯し、しきりに周囲に視線を巡らせている。まるで刑事に追われている犯罪者のようだ。
穂積はどこに身を隠すべきかを考えた。
普段ならすぐにでも思いつきそうなものだが、どうにも頭が混乱していて考えがまとまらない。
まったく、美鴨のやつはなんてものを仕入れてくれたのだ。
それをよりにもよって、うちのフロアの冷蔵庫に入れておくなんて。
こんなわけのわからないことで、うっかり出くわした顔も名前も知らない中年のおっさんと、そういうあれこれをしてしまうかもしれないなど。
それに、私はまだ、未経験なのだ。
ちゃんとしたキスだってしたことないのだ。
だってそういうものは、一番大切な人とするものだし。
それにもう、誰とするのかなんて、心のなかでは決めているわけだし。
だから。
「絶対にいや……」
穂積はうめいた。
地獄の亡者を思わせる、しゃがれた声だった。
「美鴨さんは数分で効果が出るって言ってましたけど。穂積さん大丈夫ですか?」
「いまのところはなんともないけど……あんまり研究されてないって話だし、眉唾かもよ」
穂積は乾いた笑いを浮かべた。
それが希望的観測でしかないことは、彼女自身もよくわかっている。
だから、どうにか頭を働かせ、身を隠す場所を考えなければ。
エビの効果が出る前にそこにいかなければ。
「仮眠室――はダメだ。内側から鍵かけられない。救護室――もダメだ。ドクターが男だし。うー……絶対に男が入ってこないところがいいから――」
「えと、女子トイレはどうですか」
「それだ!」
アッシュの両肩に手をやり、激しくうなずく。
そこなら絶対に男は入ってこれないし、各階にある。
閉じこもるのはきついが、背に腹はかえられない。
「アッシュ、いくわよ」
「はぃ」
アッシュは自分の身体を抱き締めるようにして、か細い声で答えた。
「大丈夫。最悪、アッシュだけはなにがなんでも私が守る」
「そんな、穂積さん……」
「エビを食べようって言ったの私だしね。あはは」
「でもでも、わたしも美味しく食べましたし……穂積さんのせいじゃないですから」
「アッシュはいい子だなあ、もう」
「にゅー」
アッシュの頭をわしゃわしゃと撫でてやると、そんな声が返ってくる。
目を細めて気持ちよさそうにしているので、まるで猫みたいである。
「よし!」
穂積は自分の頬を叩いて気合を入れた。
足をとめているのは一階から二階へ続く階段の踊り場で、二階は大小の会議室が並ぶフロアだ。各部署に割り当てられたフロアは三階からとなっているから、二階はまだ人に会う可能性が低い。
「二階のトイレにいくわ」
敢然と一歩を踏み出した穂積は、
「穂積?」
頭上からかけられた声にぎょっとして足をとめた。
「か、覚馬……!?」
裏返った妙な声が喉からもれる。
怪訝な顔をしてこちらを見ているのは、綾瀬覚馬だった。
穂積と同じ実習生であり、アッシュの教育担当。
そして、彼女の婚約者――正確には元婚約者だ。
「なんて声出してんだ」
「えっと……な、なんでもないの。ホント、ちょっとびっくりしただけ」
覚馬はいつもの〈志帥館〉の制服姿で、いくつかの資料を小脇に抱えていた。
二階の会議室で打ち合わせでもあったのだろう。
彼はこちらの事情など知るわけもなく、そのまま階段を下りてくる。
「まだ食堂の日替わり残ってるかな?」
「そ、そうね、どうかしら……」
穂積は息を呑んだ。
なんでもない会話をしただけなのに、胸がドキドキする。
お腹の下あたりがきゅんきゅんして、体温が上昇しているのが自分でもわかった。
頬が熱い。
これはひょっとして、エビを食べた症状が出始めているのでは……?
こちらの様子に気づいたアッシュが、袖をくいくいと引っぱって囁いてくる。
(穂積さん、大丈夫ですか?)
(だ、大丈夫。多分)
穂積は小さくうなずいた。
アッシュの様子は普段と変わりないところを見ると、美鴨の言ったとおり個人差があるらしい。
彼女は息を呑み、荒くなる呼吸を整えた。
男を見てハアハア言っているなど、とんだ変態である。
それでも動悸は激しくなるばかりで、どうしようもない。
覚馬を見ないようにして目を伏せる。
「穂積、調子悪そうだけど大丈夫か?」
そんな言葉をかけられて、彼女は耳まで赤くなった。
こいつは普段はちっとも私のことを気にかけた素振りを見せないくせに。
そういうところに、ちゃんと気づいてくれるくらいには見ていてくれてはいるのだ。
「覚馬さん! あの、えと、大丈夫です。穂積さん、お昼ご飯食べすぎたんです」
「なんだそりゃ……」
アッシュのフォローに、覚馬が嘆息する。
「あんまり食べすぎると太るぞ」
「う、うるさいな……」
もごもごと言ってちらりと覚馬を見やる。
覚馬は仕事のときに見せる大人びた厳しい表情ではなく、年相応の少年が友人とバカ話をするときに見せるような笑顔だった。
「なんで栄養が胸にいかないんだか」
「貧乳言うなし」
有坂穂積は、綾瀬覚馬のことが好きである。
それはもう、どうしようもないくらいに好きである。
家同士が決めた婚約者だったからではない。
そんなことに関係なく、彼女は彼のことが大好きだった。
有坂穂積の初恋の相手は間違いなく彼だったし、後にも先にも、きっとそれが最後の恋なのだと思っている。
だというのに。
覚馬ときたら自分が綾瀬の家から絶縁されて婚約が破棄されたから、二人は釣り合わないなんてことを思っているのだ。
まったく。本当に。バカバカしい。
「覚馬あっ!」
穂積は声を上げると、お互いの吐息がかかるくらいの距離にまで近づいた。
突然のことに覚馬がぎょっとした表情を見せる。
「おい、穂積、近い……」
「わ、私に胸がないかどうか、確かめてみれば?」
「は……?」
「だから、確かめてみればいいじゃん」
ああ、私は一体なにを言っているのだろう。
穂積は顔を赤くして下唇をそっと噛んだ。
こんなことはもっと軽いノリで、ふざけた感じで言わないとダメだ。
それでも――
「私はさ、覚馬にならなにされもいいと、思ってるし」
彼女が自分でも驚くほどにか細く、切ない声が喉からもれる。
これは全部、エビのせいだ。
エビが本意とは別にそうさせるのだ。
いや、本当にそうか?
こんな行動を取ってしまうのはエビのせいかもしれないけれど、いっそエビの力で覚馬と初体験したいって、私は思っている。
「穂積、落ち着けって。なに言ってるかわかってるのか」
覚馬はこちらの様子が普段とは違うので、明らかに動揺していた。
そういう彼を見るのは、なんだか嬉しい。
どうやら私も本気を出せばまんざらでもないのだな、と思えてくる。
穂積は口元を少しだけ緩めて、さらに身体を密着させた。
「覚馬ぁ」
踊り場の壁に覚馬を押しつけるようにして、彼の耳元で囁く。
「好き好き、大好き」
そのまま彼の耳たぶを甘噛みした。
「穂積……よせって……」
「えー。よさないよ」
甘い声。
穂積は自分がこんなことができるなんて、こんな声を出せるなんて、信じられない気持ちだった。
エビの力はすごい。
「その気にさせてあげようか?」
彼女は覚馬の股下に左膝を滑り込ませた。
「ねえ、覚馬」
首筋に舌を這わせると、彼の味がした。
信じられないほどに、心臓が早鐘を打つ。
「あ、ちょっ、穂積――」
覚馬の声に興奮がとまらない。
「ほら、確かめて」
彼女は覚馬の手を取ると、なんの躊躇もなく自分の胸に当てた。
彼の手にちょうどおさまってしまうくらいのサイズで、決して大きくはないけれど。
「ん……」
穂積は吐息とともに声をもらした。
「いっぱい触っていいよ?」
ああ、もう、我慢できない。
どうしようもない。
「私と――」
全部エビのせいだ。
「――しよっか?」
「ダメですーっ!」
穂積の声に答えたのは、アッシュだった。
彼女はどうにかしてぐいぐいと二人を引きはがし、
「覚馬さん、いってください! 早く! ここはわたしが!」
「いや、なんなんだ、これ……?」
「とにかく、逃げてください!」
「アッシュ、放して! 私は覚馬とするんだからあ!」
「穂積さん、こんなところでなんてこと言ってるんですか!」
穂積はじたばたと暴れたが、背後から羽交い絞めにされているのでうまく動けない。
「覚馬さん! 美鴨さんに伝えてください」
「なにを?」
「エビの件と言えばわかりますから」
「エビ……?」
覚馬はさらに困惑した表情になった。
だが、目の奥がぐるぐる回っている穂積を見て、床を這うようにして距離を取った。
「とにかく、雛菱に伝えればいいんだな?」
「はい、お願いします! わたしもいつまでもつか……」
「わかった!」
「覚馬、まって!」
追いすがってくる穂積を一顧だにせず、覚馬は踊り場から一気に階段を駆け下りる。
「覚馬のバカ……」
あとには不満げな穂積の声だけが残った。