コッペリアは二度死ぬ プロローグ

文字数 3,098文字

 闘争と流血が魔術の流儀それゆえに、
 魔術師たちの楽園に今日も血風吹きすさぶ。


 春はもうすぐそこまで迫っていたが、夜の海は凍えるような寒さだった。
 高層ビル群の明かりは遥か彼方にあり、夜空に星はない。
 漆黒の海をいく船舶の汽笛の音が幻であるかのように聞こえ、打ち寄せる静かな波音によってかき消されていく。
 耳元で無線機のノイズがわずかに走る。
 すぐに女の声がした。
『フギン1より捜査員各員。状況は?』
『フギン2よりフギン1、異常なし』
『フギン3よりフギン1、異常なし』
『フギン4よりフギン1、異常なし』
 左耳につけている無線機のイヤホンから次々と聞こえる声に、綾瀬覚馬は白い息を吐いた。
 双眼鏡型の暗視スコープを両目に当てて、割り当てられた持ち場から周囲を見渡す。
 二〇〇艇以上の個人所有のクルーザーが整然と並べられているマリーナである。
 防波堤によって確保された静水域には何本もの係留桟橋がかけられ、陸地側には宿泊と気象・海象予報を可能にする設備を備えた白亜の建物が見える。
『フギン5、状況は?』
 覚馬はそれが自分のコールサインだと知っていたが、すぐには答えなかった。
 どこぞの金持ちが保有している二階建てのジャンボクルーザーの屋根の上に腹ばいになり、ただじっとマリーナの入口を見やっている。
 彼はまだ少年と言ってもいい年齢だったが、年相応のあどけなさは微塵もなかった。
 夜に溶け込むような漆黒の意匠に身を包み、その左腕には旭日章に三本足のカラスがあしらわれた紋章が刺繍されていた。
 そして、なによりも異様なのは、腹ばいになっている彼の横にある一振りの日本刀だった。
『フギン5、綾瀬覚馬巡査部長、状況を報告しなさい』
 無線機から再び女の声が響く。
 この現場を仕切っている別当佳菜子警部の声だ。 
 覚馬は再び白い息を吐いた。
「フギン5よりフギン1――」
 異常なし、と言葉を続けようとした瞬間、彼は低いエンジン音を聞いた。
 マリーナの入口に船影が現れる。
「中型のヨットクルーザーを確認。マル対のクルーザーと同型」
 クルーザーはゆっくりと静水域を走り、覚馬が待機している係留桟橋に近づいてくる。
『フギン1よりフギン5。こちらでも確認した。どこに向かってるかわかる?』
「ここに接舷するぞ……いま、接舷した」
 覚馬のすぐ目の前で、クルーザーは停止した。
 釣り人風の男が一人出てきて、係留ロープで船体を固定している。
 同時に陸側から一台のライトバンがマリーナに入ってきて、覚馬が身を隠している係留桟橋の前に停車した。
 すべてのドアが同時に開き、四名の男が降り立つ。
 全員がダウンジャケットなどを着込み、こちらもいかにも釣り人然としていた。
 ハッチバックを開けて取り出したものも、釣り竿やクーラーボックスなどだ。
 男たちは木製の係留桟橋に足音を響かせ、クルーザーに近づいていった。
 クルーザーからも四名の男が姿を現す。
「フギン1、マル対が取引相手と接触するぞ」
『フギン5、まだ手を出さないでよ。せめて応援が一人いくまで待機して。フギン4がすぐにつくからさあ』
「そんな時間あるのかよ」
 その言葉は無線の向こうの上司に向けられたものではなく、覚馬の自問だった。
 なにせ少ない捜査員が、だだっ広いマリーナに散らばっている。
 接触した男たちは、お互いの代表同士がなにやら言葉を交わしていた。
 続けてタブレットを開き、その画面を確認。
 遠目に見る限りは、夜明け前に沖合に釣りに出かけるグループにしか見えない。
 だが、実際は引き渡す物品のリストと、金額の確認をしているはずだ。
 一人の男がクーラーボックスを足元に置き、ふたを開けた。
 覚馬の位置からでは中身までは見えないが、恐らく札束が入っている。
 連中は盗品を売りさばく故買屋のグループとその取引相手だった。
「佳菜子、まずいぞ。連中、クルーザーごと引き渡すつもりだ」
 男たちは続けて車のキーとクルーザーのキーを交換している。
『……やっばいな。ブツを車に運ぶと思ってたのにさあ』
 無線の向こうで、佳菜子が露骨に舌打ちした。
 もうここいらが潮時だろう。
 覚馬たちの目的は、クルーザーのなかに積み込まれているブツの押収だ。
 海に出られては厄介なことになる。
「佳菜子、情報だと相手は魔術師じゃないはずだ。俺一人でもなんとかなる」
『ちょいまちなさいって、覚馬!』
 コールサインを呼ぶのも忘れて、佳菜子が言ってくる。
 だが、覚馬はもう聞いていなかった。
 音もなく身を起こすなり、日本刀を手にしてクルーザーの屋根から飛び降りる。
 木製の係留桟橋に派手な音を立てて着地し、彼は一斉にこちらに視線をやった男たちに向かってバッジを掲げた。
 左腕の刺繍と同じ、旭日章と三本足のカラスの紋章。
「特高だ」
 マリーナに吹く寒風よりも底冷えする声で、覚馬は言った。
「窃盗及び魔術的物品盗品等関与罪の容疑で逮捕する。抵抗すれば武力によって制圧するぞ」
「と、特高……?」
「普通のサツカンじゃねえのか!」
「冗談じゃねえ!」
「なんで人殺しどもが!?」
 男たちは口々にそう言って、忙しなく周囲を見渡した。
 だが、残念ながらここは係留桟橋のドンつきだ。
 周りは黒々とした冬の海で、逃げ場はない。
「人を無差別殺人鬼みたいに言うんじゃねえよ。大人しくしてりゃなにもしない」
 覚馬は手にした日本刀を腰の帯剣ベルトに差し込むと、努めて冷静に言った。
「あんたらが取り引きしようとしてるブツのなかに、うちの管轄の代物が混じってるって情報があってな。改めさせてもらう」
「だからこんな得体の知れねえもんを買いつけるのはいやだったんよおっ!」
 男の一人が取り乱した声で叫び、懐から自動拳銃――トカレフのコピー品だ――を引き抜いた。
 銃口が向けられる瞬間、覚馬は日本刀の鯉口を切り、左手ですらりと抜刀した。
 水に濡れる艶めかしい白刃が、夜の闇に輝く。
 息を呑むほどに美しい刃文は、背筋がぞっとするほどだ。
 露時雨良晴――二尺八寸。
 鍛錬の際に水属性の精霊を生きたまま練り込んだという魔術刀。
 もつ者のマギを喰らい、その刀身は常に水に濡れ、どれだけ人を斬っても絶対に曇ることはない。
「抵抗するなと――」
 覚馬は露時雨を左肩に担ぐようにして構えると同時に、一瞬で男たちとの距離を詰めた。
「――言ったはずだ」
 踏み込むと同時に、白刃が弧を描く。
 耳に残る澄んだ音を立てて、自動拳銃の銃身が簡単に両断された。
 目を見開く男に向けて、すかさず白刃を斬り上げる。
 峰打ちだ。
 骨が折れる鈍い音がして、男がもんどり打って倒れた。
 収拾がつかなくなる。
 残った男たちも一斉に自動拳銃を抜き放ち――
「四大精霊〈爆風のように激しく〉!」
 こんな殺伐とした場には相応しくない、快活な少女の声を全員が聞いた。
 覚馬はぎょっとして、だがもう手遅れだった。
 覚馬たちのいた係留桟橋の先端に目に見えないなにかが激突する。
 それはサッカーボール大の穴を桟橋に穿ち――
 瞬間、空気が破裂する強烈な音。
 猛烈な風圧に数メートルの水飛沫が上がり、係留桟橋は木片になって飛散した。
 覚馬も、そして男たちも軽々と吹き飛ばされて、数秒の間空中を浮遊した。
「マジかよ」
 覚馬は近づく海面を目にして、それだけを言った。
 海は想像していたよりもずっと冷たかった。
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