スライム大捜査線 scene4
文字数 6,118文字
地下の排水設備は、コンクリート壁の水溝と大小の排水管が組み合わされて、複雑怪奇な迷宮と化していた。
マグライトの明かりだけを頼りに、膝まである水をざぶざぶとかき分けて進む。
覚馬はいい加減うんざりしてきたが、腕時計を確認するとまだ地下に潜ってから三〇分も経過していなかった。
「雛菱、マギの濃度は?」
「数値的には精霊が存在をたもてる理論値ですかね。どうやらマギスポットに入ったみたいですね」
「よし。気を抜くなよ。スライムの大きさが二〇センチくらいだとしたら、そこいらの排水管のなかってこともあり得るからな」
「えと、覚馬さん。見つけたらどうしましょうか。捕獲ですか?」
覚馬と同じようにマグライトを手にしているアッシュが、眉を八の字にして言った。
「そんなアッシュちゃんにはこれを差し上げよう」
そう言った美鴨が、背負っているリュックから柄が伸縮する虫取り網を取り出す。
「見つけたらこれで捕獲してね」
「えと……ええ……? 本当に大丈夫ですか、こんなので」
虫取り網を手にしたアッシュは困惑顔だ。
「覚馬センパイもいりますか?」
「いらねえよ。俺は捕獲する気はないからな」
「えー。捕獲しましょうよ。貴重なスライムじゃないですか」
「知るか。俺は捕獲しろって命令は受けてない」
「でも、佳菜子センパイはあたしに任せるって言ってましたけどね」
「覚馬さん……」
「俺たちに任せるって話だろ? 勝手に解釈するなって」
「覚馬さん」
「だからこそ、ここは専門家であるあたしの意見を尊重してですね」
「覚馬さんーっ!」
アッシュの悲鳴じみた声に、二人は言葉をぴたりととめた。
彼女は大きな目を見開いて、手にしているマグライトが照らす先を見ていた。
その視線につられて、覚馬もゆっくりと首を向ける。
「……!?」
絶句した。
半透明の赤いゼリー状のなにかが、いく手を塞いでいる。
その大きさはゆうに二メートルを超え、水溝いっぱいに広がっていた。
まるで巨大なグミだ。
「おい……雛菱」
「なんですか、覚馬センパイ」
二人は視線を交わすことなく、震える声で続けた。
「クラゲくらいなんだろ?」
「ええ、培養槽から出すときは。でもあれだと、エチゼンクラゲですね」
「面白くもねえし笑えねえよ!」
覚馬の叫び声が合図であったかのように、巨大なスライムがゆっくりと動きだした。
マグライトに照らされて、巨体が近づいてくる。
「覚馬さん……あれ」
アッシュがなにかに気づき、引きつった声をもらした。
それはスライムのなかに取り込まれた無数のネズミであり、あるものはどろりと溶けたようになっており、あるものは完全に骨になっていた。
「雛菱、どう見ても捕食してるだろ、あれ……」
「あれだけ成長すると、大気中のマギだけじゃエネルギー不足なんですよ。マギは一種の生命エネルギーですから、ネズミでも足しにはなるんじゃないですか。微々たるものですけど……」
「冷静に言ってる場合か。ってことはだな――」
覚馬は半歩だけ下がった。
「魔術師であるわたしたちのほうが」
アッシュは一歩だけ下がった。
「ネズミよりいい餌ってことじゃないですかあっ!」
美鴨は踵を返して駆け出した。
「雛菱! おまえ!」
「美鴨さんずるい!」
口々に叫び、脱兎のごとく走る。
スライムは想像以上の速さで追いかけてきた。
「マジかああああああああああああああああああああああああああっっっっっ!!!!」
水溝に溜まっている水をばしゃばしゃと蹴散らして、覚馬は叫んだ。
「雛菱! なんで、あいつ、赤いんだよ!」
「レッド、スライム、ですよ! 火属性の、精霊宝石を、核にして、いるんです!」
三人は肩をぶつけ合いながら、我先にと走る。
「だから、火属性の攻撃、してきますぅ!」
そう言ったアッシュは半ば泣きそうな声だった。
「聞いてねえ!」
「すいません、言うの、忘れてました!」
「おまえ! マジで! 帰ったら覚えてろよ!」
「あたし、Sですけど、Mもいけるんで、よろしくです!」
「二人とも、そんなこと、言ってる場合ですかぁ……!」
「覚馬センパイ! 危ない!」
そう言った美鴨の華麗な足払いを喰らって、覚馬は水溝に溜まった水に頭から突っ込んだ。
派手な水飛沫が上がる。
「覚馬さん!」
「雛菱、おまえなあっ!」
アッシュが悲鳴じみた声を上げて足をとめるのと、ずぶ濡れになった覚馬が身を起こして叫んだのはほぼ同時だった。
美鴨は白衣の裾を翻して、すでに先をいっている。
彼女は足をとめることなく、ちらりと視線だけを向けた。
「美少女JKの、後輩のために、身体を張るなんて、覚馬センパイ素敵です!」
「うるせえっ! この貸しはでかいからな!」
「身体で、払いますから!」
「その言葉忘れるなよ! あとでひどい目にあわせてやるからな!」
「まずは、お口で、してあげますからー!」
そんな言葉を残して、美鴨の姿が暗闇の向こう側に消えていく。
「か、覚馬さぁん……スライムが」
アッシュの情けない声のとおり、巨大なスライムは目前にまで迫ってきていた。
彼女のマグライトに照らされる巨体はぞっとするほどで、無機質な佇まいは不気味ですらあった。
「アッシュ、下がってろ。やるしかねえか、くそ」
覚馬は濡れそぼった髪をかき上げて、右手で魔術刀の鯉口を切った。
鞘から水があふれ出す。
そのまま音もなくすらりと抜刀した。
水に濡れる白刃が艶やかに輝き、刃文は身震いするほどに美しい。
露時雨良晴――二尺八寸。
鍛錬の過程で水属性の精霊を生きたまま練り込んだ魔術刀。
抜刀すれば使い手のマギを餌にして、刀身は常に水に濡れ、いくら人を斬ろうとも血や脂で曇らない。
綾瀬覚馬は魔術刀を使う、撃剣魔術師と呼ばれる魔術師だった。
「こんなやつを相手にすることになるなんてな」
魔術刀を上段に構え、スライムと相対する。
来栖派一刀流・降竜の構え。
もっとも、彼が学んだのはあくまでも剣術だ。
スライムなんてものを相手にすることは想定されていない。
「こいよ、デカブツ」
覚馬が殺気立った眼光をスライムに向けた。
瞬間、スライムの巨体がわずかに震える。
「ゼリーがぷるるんってなるみたいですね」
「呑気なこと言ってんなよ」
スライムの前方に光り輝く粒子がちらほら舞いはじめた。
それは目視できるまでに収束したマギの光で――
瞬間、一メートルほどの火球が出現して、水溝を赤く照らした。
熱気が空気を焦がし、覚馬は考えるよりも先に一歩を踏み出した。
火球が放たれる。
「覚馬さん……!」
アッシュの声を背中に受けて、覚馬はそのまま火球に飛び込んだ。
同時に左足を大きく踏み込み、魔術刀を縦に一閃。
来栖派一刀流・竜牙釣瓶落とし!
火球が真っ二つに両断され、あらぬ方向に飛んでいく。
ちょうどアッシュの左右をとおりすぎ、水溝のコンクリート壁に激突。
爆発。
衝撃と同時に爆炎が広がり、水溝が一気に明るくなった。
巻き上げられた水飛沫と吹き飛んだコンクリート片が降り注ぐなか、アッシュは頭を抱えてうずくまった。
マギを操る精霊の属性攻撃。
これは魔術でいうところの、四大精霊魔術に近い。
むしろ欧州で主流の四大精霊魔術は、そもそも精霊が使うこの力を長大なスペル詠唱によるマギの活性と意味の付与によって疑似的に再現したものだ。
とはいえ、錬金魔術による人工生命であるスライムが、精霊と同じ力を使うとは。核にした精霊宝石がよほど質のいいものだったのか、あるいは突然変異的な進化か。
「アッシュ! 無事か!」
「は、はい! 大丈――」
彼女の言葉は最後まで続かなかった。
スライムの巨体がすぐそこに迫ってきていた。
覚馬もろとも、そのままのしかかられる。
「……!?」
感覚としては重たい水のなかに閉じ込められたようなものに近かった。
息ができずに、身体が思うように動かない。
自分がスライムのなかに取り込まれたと自覚したのは、目に見える風景が半透明の赤いフィルターをかけられたようになっていたからだ。
(覚馬さんは……?)
見れば覚馬はどうにか回避したらしく、スライムの外側にいた。
このまま獲物を窒息死させて、じわじわと消化していきながらマギを吸収するのだろう。
どうにか脱出しなければ、ドブネズミと同じ末路だ。
アッシュはクロールの要領で身体を動かそうとしたが、全身に重りがつけられているかのようだった。
外に出るどころか、徐々にスライムの中心部に引き込まれていく。
(獲物に逃げられないようにするつもりなんだ……)
それは覚馬も気づいているようで、暴れて体力を使うな、というサインを送ってきていた。実際、息はそう長くは続きそうにない
だが、覚馬にはなにか考えがあるようで、アッシュが引き込まれていくスライムの中心部を指さした。
(あれは……?)
そこにあるのはスライムを培養する際に、核に使われたと思わしき赤い精霊宝石だった。
それを破壊すれば、このスライムを倒せる。
中心部に引き込まれているのはむしろ好都合だ。
(えと、あの、どうしましょう?)
不安げな視線を覚馬に向けると、彼はしきりに腰のあたりを触った。
(あ……!)
アッシュはその意図に気づいて小さくうなずいた。
彼女の腰の後ろには、自動拳銃がある。
これなら、引き金を絞るだけだ。
重たい腕を腰の後ろに回し、どうにか自動拳銃を抜き放つ。
彼女の小さい手でも扱いやすい、ドイツ製のコンパクトモデル。
問題はスライムのなかでもきちんと作動するのかということだったが――そんなことを気にしている余裕はなかった。
アッシュは中心部にある精霊宝石に銃口を密着させると、引き金を絞った。
撃鉄が落ちて撃針が薬莢のケツを叩き、火薬が爆ぜる。
スライムのなかにいるせいだろう。スライドが緩慢に動いて途中でとまり、排莢される空薬莢が薬室に挟まった。
(ジャムった!)
アッシュは内心で悲鳴をもらした。
これでもう使えない。
どうにか一発だけ発射された九ミリの弾丸は、精霊宝石を破壊できずにわずかな傷をつけただけだった。
覚馬に向けて小さく首を振る。
だが、次の瞬間。
巨大なグミのようなかたちを維持していたスライムが、ばしゃりという音を立てて崩れ落ちた。まるで砂浜に打ち上げられたクラゲのようになる。
「けほっ……」
激しくせき込みながら、アッシュは空気を肺に吸い込んだ。
地下の澱んだ空気すら、恐ろしくうまく感じる。
「大丈夫か、アッシュ」
「あの、ありがとうございます」
差し出された覚馬の手を掴んで立ち上がる。
「君の銃も、さすがにあの距離なら外さないな」
「もうっ、どうしてそういうこと言うんですか」
「怒るなよ」
「覚馬さんはもっとわたしを褒めて育てるべきです!」
「悪い悪い。よくやったな」
覚馬は微苦笑を浮かべると、穂積がよくやるように彼女の頭をなでた。
「にゅー」
妙な声をもらして、アッシュがはにかむ。
「えと、そういうことですよ」
「どういうことだか」
覚馬は嘆息して、魔術刀を鞘に納めた。
「これで一件落着……ですか?」
「ああ、とんだ仕事だったな」
「まったくです」
得体の知れないゼリー状の物体でべたべたになった髪を触り、アッシュは小さく嘆息した。髪どころか全身がべたべたで、げんなりとした気持ちになる。
「早く帰ってシャワー浴びたいです」
と、彼女の着ている漆黒の戦闘服の一部が朽ちた木のように崩れた。
「へ?」
間の抜けた声が、アッシュの喉からもれる。
それが合図だったかのように、戦闘服がいたるところからボロボロと崩れはじめる。
「え? ちょっと? え?」
戸惑う彼女をよそに、腕、肩、胸元、腹部、太もも、あらゆる場所から白い肌が露出していく。
「やぁん……覚馬さん、見ないでください!」
アッシュは顔を真っ赤にして、その場にうずくまった。
いまや戦闘服はほとんど布切れ同然で、なにも隠せていない。
全裸よりどこなくエロい感じになっている。
「見るなと言われてもな……」
「はぅ……ガン見です!」
「アッシュ、パンツも崩れかかってるぞ」
白い下着もボロボロで、彼女のかたちのいいお尻が丸見えである。
「うぅ……恥ずかしくて死にそうです。死んだ。わたし死にました!」
「死んでないから安心しろ」
覚馬はますます身体を小さくするアッシュをできる限り見ないようにしつつ、ひょっこりと戻ってきた彼女に言った。
「で、こりゃどういうことだ、雛菱?」
「消化するのに邪魔な石油製品から分解しようとしたんじゃないですか。仮説ですけど」
美鴨が羽織っていた白衣をアッシュにかけてやりながら言った。
石油製品――つまりはナイロン繊維やポリエステル。要は衣服ということか。
彼女は打ち上げられたクラゲみたいになったスライムの残骸のなかに足を踏み入れ、
「覚馬センパイ、生きたまま捕獲してって言ったじゃないですか」
「無茶言うな。こんなやつ、どうしろってんだ」
「まあでも、核になった精霊宝石が手に入ればそれで――」
美鴨は赤い精霊宝石を拾い上げ、しげしげと眺めた。
そして。
「あ」
銃弾によって傷ついていた精霊宝石が砂のように崩れ去る。
数秒の間、美鴨は固まっていた。
ぎりぎりと壊れた玩具みたいに首を回し、覚馬に食ってかかる。
「はあっ!? どういうことですか、覚馬センパイ!?」
「どうもこうも、精霊宝石を破壊しないと倒せなかったんだよ」
「マジで勘弁してくださいよ! この精霊宝石、めっちゃ高価なんですよ! あたしがどれだけ苦労して手に入れ――」
そこまで言ってから、美鴨はぴたりと言葉をとめた。
わざとらしくせき払いし、眼鏡を両手で押し上げる。
彼女は飛び切りの笑顔を浮かべて言った。
「いまの聞かなかったことにしてくださいね、覚馬センパイ」
「そうだな」
覚馬は半眼になって彼女を睨んだ。
「詳しくは本部で聞いてやる」
「いまのはあ、冗談じゃないですか。冗談」
「美鴨さぁん」
後ずさった美鴨の肩を、がっしりとアッシュが掴んだ。
こちらもじっとりとした半眼になっている。
どこから取り出したのか、彼女は手錠を美鴨の手にかけた。
「え? あれ? アッシュちゃん?」
「覚馬さん、連行してください」
その言葉に従い、覚馬は無言で美鴨の襟首を掴んだ。
「え? え? ウソですよね? 覚馬センパイ?」
「いこうか、雛菱」
「え―――――――――――――――――――――――――――――――っっっっ!?」
美鴨の悲鳴が地下に響いた。
彼女はずるずると引きずられながら、暗闇のなかを連れていかれた。
マグライトの明かりだけを頼りに、膝まである水をざぶざぶとかき分けて進む。
覚馬はいい加減うんざりしてきたが、腕時計を確認するとまだ地下に潜ってから三〇分も経過していなかった。
「雛菱、マギの濃度は?」
「数値的には精霊が存在をたもてる理論値ですかね。どうやらマギスポットに入ったみたいですね」
「よし。気を抜くなよ。スライムの大きさが二〇センチくらいだとしたら、そこいらの排水管のなかってこともあり得るからな」
「えと、覚馬さん。見つけたらどうしましょうか。捕獲ですか?」
覚馬と同じようにマグライトを手にしているアッシュが、眉を八の字にして言った。
「そんなアッシュちゃんにはこれを差し上げよう」
そう言った美鴨が、背負っているリュックから柄が伸縮する虫取り網を取り出す。
「見つけたらこれで捕獲してね」
「えと……ええ……? 本当に大丈夫ですか、こんなので」
虫取り網を手にしたアッシュは困惑顔だ。
「覚馬センパイもいりますか?」
「いらねえよ。俺は捕獲する気はないからな」
「えー。捕獲しましょうよ。貴重なスライムじゃないですか」
「知るか。俺は捕獲しろって命令は受けてない」
「でも、佳菜子センパイはあたしに任せるって言ってましたけどね」
「覚馬さん……」
「俺たちに任せるって話だろ? 勝手に解釈するなって」
「覚馬さん」
「だからこそ、ここは専門家であるあたしの意見を尊重してですね」
「覚馬さんーっ!」
アッシュの悲鳴じみた声に、二人は言葉をぴたりととめた。
彼女は大きな目を見開いて、手にしているマグライトが照らす先を見ていた。
その視線につられて、覚馬もゆっくりと首を向ける。
「……!?」
絶句した。
半透明の赤いゼリー状のなにかが、いく手を塞いでいる。
その大きさはゆうに二メートルを超え、水溝いっぱいに広がっていた。
まるで巨大なグミだ。
「おい……雛菱」
「なんですか、覚馬センパイ」
二人は視線を交わすことなく、震える声で続けた。
「クラゲくらいなんだろ?」
「ええ、培養槽から出すときは。でもあれだと、エチゼンクラゲですね」
「面白くもねえし笑えねえよ!」
覚馬の叫び声が合図であったかのように、巨大なスライムがゆっくりと動きだした。
マグライトに照らされて、巨体が近づいてくる。
「覚馬さん……あれ」
アッシュがなにかに気づき、引きつった声をもらした。
それはスライムのなかに取り込まれた無数のネズミであり、あるものはどろりと溶けたようになっており、あるものは完全に骨になっていた。
「雛菱、どう見ても捕食してるだろ、あれ……」
「あれだけ成長すると、大気中のマギだけじゃエネルギー不足なんですよ。マギは一種の生命エネルギーですから、ネズミでも足しにはなるんじゃないですか。微々たるものですけど……」
「冷静に言ってる場合か。ってことはだな――」
覚馬は半歩だけ下がった。
「魔術師であるわたしたちのほうが」
アッシュは一歩だけ下がった。
「ネズミよりいい餌ってことじゃないですかあっ!」
美鴨は踵を返して駆け出した。
「雛菱! おまえ!」
「美鴨さんずるい!」
口々に叫び、脱兎のごとく走る。
スライムは想像以上の速さで追いかけてきた。
「マジかああああああああああああああああああああああああああっっっっっ!!!!」
水溝に溜まっている水をばしゃばしゃと蹴散らして、覚馬は叫んだ。
「雛菱! なんで、あいつ、赤いんだよ!」
「レッド、スライム、ですよ! 火属性の、精霊宝石を、核にして、いるんです!」
三人は肩をぶつけ合いながら、我先にと走る。
「だから、火属性の攻撃、してきますぅ!」
そう言ったアッシュは半ば泣きそうな声だった。
「聞いてねえ!」
「すいません、言うの、忘れてました!」
「おまえ! マジで! 帰ったら覚えてろよ!」
「あたし、Sですけど、Mもいけるんで、よろしくです!」
「二人とも、そんなこと、言ってる場合ですかぁ……!」
「覚馬センパイ! 危ない!」
そう言った美鴨の華麗な足払いを喰らって、覚馬は水溝に溜まった水に頭から突っ込んだ。
派手な水飛沫が上がる。
「覚馬さん!」
「雛菱、おまえなあっ!」
アッシュが悲鳴じみた声を上げて足をとめるのと、ずぶ濡れになった覚馬が身を起こして叫んだのはほぼ同時だった。
美鴨は白衣の裾を翻して、すでに先をいっている。
彼女は足をとめることなく、ちらりと視線だけを向けた。
「美少女JKの、後輩のために、身体を張るなんて、覚馬センパイ素敵です!」
「うるせえっ! この貸しはでかいからな!」
「身体で、払いますから!」
「その言葉忘れるなよ! あとでひどい目にあわせてやるからな!」
「まずは、お口で、してあげますからー!」
そんな言葉を残して、美鴨の姿が暗闇の向こう側に消えていく。
「か、覚馬さぁん……スライムが」
アッシュの情けない声のとおり、巨大なスライムは目前にまで迫ってきていた。
彼女のマグライトに照らされる巨体はぞっとするほどで、無機質な佇まいは不気味ですらあった。
「アッシュ、下がってろ。やるしかねえか、くそ」
覚馬は濡れそぼった髪をかき上げて、右手で魔術刀の鯉口を切った。
鞘から水があふれ出す。
そのまま音もなくすらりと抜刀した。
水に濡れる白刃が艶やかに輝き、刃文は身震いするほどに美しい。
露時雨良晴――二尺八寸。
鍛錬の過程で水属性の精霊を生きたまま練り込んだ魔術刀。
抜刀すれば使い手のマギを餌にして、刀身は常に水に濡れ、いくら人を斬ろうとも血や脂で曇らない。
綾瀬覚馬は魔術刀を使う、撃剣魔術師と呼ばれる魔術師だった。
「こんなやつを相手にすることになるなんてな」
魔術刀を上段に構え、スライムと相対する。
来栖派一刀流・降竜の構え。
もっとも、彼が学んだのはあくまでも剣術だ。
スライムなんてものを相手にすることは想定されていない。
「こいよ、デカブツ」
覚馬が殺気立った眼光をスライムに向けた。
瞬間、スライムの巨体がわずかに震える。
「ゼリーがぷるるんってなるみたいですね」
「呑気なこと言ってんなよ」
スライムの前方に光り輝く粒子がちらほら舞いはじめた。
それは目視できるまでに収束したマギの光で――
瞬間、一メートルほどの火球が出現して、水溝を赤く照らした。
熱気が空気を焦がし、覚馬は考えるよりも先に一歩を踏み出した。
火球が放たれる。
「覚馬さん……!」
アッシュの声を背中に受けて、覚馬はそのまま火球に飛び込んだ。
同時に左足を大きく踏み込み、魔術刀を縦に一閃。
来栖派一刀流・竜牙釣瓶落とし!
火球が真っ二つに両断され、あらぬ方向に飛んでいく。
ちょうどアッシュの左右をとおりすぎ、水溝のコンクリート壁に激突。
爆発。
衝撃と同時に爆炎が広がり、水溝が一気に明るくなった。
巻き上げられた水飛沫と吹き飛んだコンクリート片が降り注ぐなか、アッシュは頭を抱えてうずくまった。
マギを操る精霊の属性攻撃。
これは魔術でいうところの、四大精霊魔術に近い。
むしろ欧州で主流の四大精霊魔術は、そもそも精霊が使うこの力を長大なスペル詠唱によるマギの活性と意味の付与によって疑似的に再現したものだ。
とはいえ、錬金魔術による人工生命であるスライムが、精霊と同じ力を使うとは。核にした精霊宝石がよほど質のいいものだったのか、あるいは突然変異的な進化か。
「アッシュ! 無事か!」
「は、はい! 大丈――」
彼女の言葉は最後まで続かなかった。
スライムの巨体がすぐそこに迫ってきていた。
覚馬もろとも、そのままのしかかられる。
「……!?」
感覚としては重たい水のなかに閉じ込められたようなものに近かった。
息ができずに、身体が思うように動かない。
自分がスライムのなかに取り込まれたと自覚したのは、目に見える風景が半透明の赤いフィルターをかけられたようになっていたからだ。
(覚馬さんは……?)
見れば覚馬はどうにか回避したらしく、スライムの外側にいた。
このまま獲物を窒息死させて、じわじわと消化していきながらマギを吸収するのだろう。
どうにか脱出しなければ、ドブネズミと同じ末路だ。
アッシュはクロールの要領で身体を動かそうとしたが、全身に重りがつけられているかのようだった。
外に出るどころか、徐々にスライムの中心部に引き込まれていく。
(獲物に逃げられないようにするつもりなんだ……)
それは覚馬も気づいているようで、暴れて体力を使うな、というサインを送ってきていた。実際、息はそう長くは続きそうにない
だが、覚馬にはなにか考えがあるようで、アッシュが引き込まれていくスライムの中心部を指さした。
(あれは……?)
そこにあるのはスライムを培養する際に、核に使われたと思わしき赤い精霊宝石だった。
それを破壊すれば、このスライムを倒せる。
中心部に引き込まれているのはむしろ好都合だ。
(えと、あの、どうしましょう?)
不安げな視線を覚馬に向けると、彼はしきりに腰のあたりを触った。
(あ……!)
アッシュはその意図に気づいて小さくうなずいた。
彼女の腰の後ろには、自動拳銃がある。
これなら、引き金を絞るだけだ。
重たい腕を腰の後ろに回し、どうにか自動拳銃を抜き放つ。
彼女の小さい手でも扱いやすい、ドイツ製のコンパクトモデル。
問題はスライムのなかでもきちんと作動するのかということだったが――そんなことを気にしている余裕はなかった。
アッシュは中心部にある精霊宝石に銃口を密着させると、引き金を絞った。
撃鉄が落ちて撃針が薬莢のケツを叩き、火薬が爆ぜる。
スライムのなかにいるせいだろう。スライドが緩慢に動いて途中でとまり、排莢される空薬莢が薬室に挟まった。
(ジャムった!)
アッシュは内心で悲鳴をもらした。
これでもう使えない。
どうにか一発だけ発射された九ミリの弾丸は、精霊宝石を破壊できずにわずかな傷をつけただけだった。
覚馬に向けて小さく首を振る。
だが、次の瞬間。
巨大なグミのようなかたちを維持していたスライムが、ばしゃりという音を立てて崩れ落ちた。まるで砂浜に打ち上げられたクラゲのようになる。
「けほっ……」
激しくせき込みながら、アッシュは空気を肺に吸い込んだ。
地下の澱んだ空気すら、恐ろしくうまく感じる。
「大丈夫か、アッシュ」
「あの、ありがとうございます」
差し出された覚馬の手を掴んで立ち上がる。
「君の銃も、さすがにあの距離なら外さないな」
「もうっ、どうしてそういうこと言うんですか」
「怒るなよ」
「覚馬さんはもっとわたしを褒めて育てるべきです!」
「悪い悪い。よくやったな」
覚馬は微苦笑を浮かべると、穂積がよくやるように彼女の頭をなでた。
「にゅー」
妙な声をもらして、アッシュがはにかむ。
「えと、そういうことですよ」
「どういうことだか」
覚馬は嘆息して、魔術刀を鞘に納めた。
「これで一件落着……ですか?」
「ああ、とんだ仕事だったな」
「まったくです」
得体の知れないゼリー状の物体でべたべたになった髪を触り、アッシュは小さく嘆息した。髪どころか全身がべたべたで、げんなりとした気持ちになる。
「早く帰ってシャワー浴びたいです」
と、彼女の着ている漆黒の戦闘服の一部が朽ちた木のように崩れた。
「へ?」
間の抜けた声が、アッシュの喉からもれる。
それが合図だったかのように、戦闘服がいたるところからボロボロと崩れはじめる。
「え? ちょっと? え?」
戸惑う彼女をよそに、腕、肩、胸元、腹部、太もも、あらゆる場所から白い肌が露出していく。
「やぁん……覚馬さん、見ないでください!」
アッシュは顔を真っ赤にして、その場にうずくまった。
いまや戦闘服はほとんど布切れ同然で、なにも隠せていない。
全裸よりどこなくエロい感じになっている。
「見るなと言われてもな……」
「はぅ……ガン見です!」
「アッシュ、パンツも崩れかかってるぞ」
白い下着もボロボロで、彼女のかたちのいいお尻が丸見えである。
「うぅ……恥ずかしくて死にそうです。死んだ。わたし死にました!」
「死んでないから安心しろ」
覚馬はますます身体を小さくするアッシュをできる限り見ないようにしつつ、ひょっこりと戻ってきた彼女に言った。
「で、こりゃどういうことだ、雛菱?」
「消化するのに邪魔な石油製品から分解しようとしたんじゃないですか。仮説ですけど」
美鴨が羽織っていた白衣をアッシュにかけてやりながら言った。
石油製品――つまりはナイロン繊維やポリエステル。要は衣服ということか。
彼女は打ち上げられたクラゲみたいになったスライムの残骸のなかに足を踏み入れ、
「覚馬センパイ、生きたまま捕獲してって言ったじゃないですか」
「無茶言うな。こんなやつ、どうしろってんだ」
「まあでも、核になった精霊宝石が手に入ればそれで――」
美鴨は赤い精霊宝石を拾い上げ、しげしげと眺めた。
そして。
「あ」
銃弾によって傷ついていた精霊宝石が砂のように崩れ去る。
数秒の間、美鴨は固まっていた。
ぎりぎりと壊れた玩具みたいに首を回し、覚馬に食ってかかる。
「はあっ!? どういうことですか、覚馬センパイ!?」
「どうもこうも、精霊宝石を破壊しないと倒せなかったんだよ」
「マジで勘弁してくださいよ! この精霊宝石、めっちゃ高価なんですよ! あたしがどれだけ苦労して手に入れ――」
そこまで言ってから、美鴨はぴたりと言葉をとめた。
わざとらしくせき払いし、眼鏡を両手で押し上げる。
彼女は飛び切りの笑顔を浮かべて言った。
「いまの聞かなかったことにしてくださいね、覚馬センパイ」
「そうだな」
覚馬は半眼になって彼女を睨んだ。
「詳しくは本部で聞いてやる」
「いまのはあ、冗談じゃないですか。冗談」
「美鴨さぁん」
後ずさった美鴨の肩を、がっしりとアッシュが掴んだ。
こちらもじっとりとした半眼になっている。
どこから取り出したのか、彼女は手錠を美鴨の手にかけた。
「え? あれ? アッシュちゃん?」
「覚馬さん、連行してください」
その言葉に従い、覚馬は無言で美鴨の襟首を掴んだ。
「え? え? ウソですよね? 覚馬センパイ?」
「いこうか、雛菱」
「え―――――――――――――――――――――――――――――――っっっっ!?」
美鴨の悲鳴が地下に響いた。
彼女はずるずると引きずられながら、暗闇のなかを連れていかれた。