サキュバスにご用心 プロローグ
文字数 2,423文字
闘争と流血が魔術の流儀それゆえに、
魔術師たちの楽園に今日も血風吹きすさぶ。
その日、有坂穂積は珍しく暇だった。
特別高等魔術警察の花形部署である公安打撃一課に実習生として身を置く彼女は、優秀な特高魔術師として普段は寝る間もないほどに忙しい。
だというのに、ぽっかりと手が空く妙な時間というものが確かにあるのだ。
「こんなことなら美容室でも予約しとけばよかったな」
伸びてきた前髪を気にして、穂積はなんとなく上目遣いになった。
すらりとした長身に、ポニーテールにした黒髪が印象的な少女である。
大人びた顔立ちと雰囲気はまるでファッションモデルのようだったが、表情が豊かなこともあってどこか親しみやすい。
穂積はイスの背もたれに体重をあずけて、大きく伸びをした。
デスクはお世辞にも片づいているとは言い難く、支給されているノートPCで作業できるスペースがどうにか保たれている状態だった。左右には資料が絶妙なバランスで積み上げられており、私物の単行本や雑誌も混ざっている。
とはいえ、誰のデスクも似たようなものだった。
ペーパーレスが叫ばれて久しいなか、とかく警察官あるいは魔術師という人種は紙が好きらしい。
「いやー、時間どおりにランチにいけるとか奇跡だな」
穂積は同年代の少女がつけるにしてはシックな意匠の腕時計を確認した。
一一時四五分。少し早いが、いまからいけば並ばずにすむだろう。本部の一階にある食堂は安くておいしいのだ。
「エビフライ♪ エビフライ♪」
妙な歌を口にしながら、穂積は立ち上がった。
彼女がいる公安部のフロアに人影はほとんどない。
みんな複数の事件を抱えて捜査に奔走している。
かくいう彼女もそうだ。
だが、今日は別だ。
あのサックリした衣に自家製タルタルソースが絶品の、エビフライ定食(六八〇円/税別)を食べるのだ。
口元をゆるめながら無人のフロアを出ようとした矢先、
「あの、穂積さん」
涼やかな声に呼びとめられる。
足をとめて振り返ると、どこか困った顔をした小柄な少女が立っていた。
なぜか両手で発泡スチロールの箱を抱えている。
生鮮食品などを輸送する際に使う、保冷用の箱だ。
「アッシュ、なにそれ?」
「えと、わたしもわからないんです」
同僚であるところのアッシュ・セヴンは眉を八の字にして、自分が抱えている発泡スチロールの箱を見た。
緩く三つ編みにしたシルバーグレイの髪に、同じ色をした大きな瞳。
まるでアニメやゲームに出てくる妖精のようだった。
彼女は先だってマギウス・ヘイヴンを騒然とさせた事件に深く関わっていたが、穂積が知らぬ高度に政治的なあれこれによって、現在は特別高等魔術警察が身分を偽装して保護下に置いている。
「冷蔵庫を整理していたら奥から出てきたんです」
「覚馬のやつ、そんな仕事押しつけてるの?」
「いえ、庶務の方に頼まれたんです。冷蔵庫の中身を定期的に整理しないと、すぐに一杯になってしまうそうで。覚馬さんは覚馬さんでいろいろと忙しいみたいですし」
「なにが忙しいんだか。覚馬はちゃんとやってる?」
「はい。覚馬さんは優しいですよ?」
「男は愚かだから、可愛い女の子には甘いのよ」
穂積は周囲に視線をやった。
アッシュの教育担当であるところの綾瀬覚馬の姿はない。
「可愛いとか……そんなこと。やめてください」
「あのねえ。アッシュがそんなこと言うのは、嫌味以外のなにものでもないんだから」
「えと、そうでしょうか」
「そうなんですよ」
穂積はしげしげとアッシュの顔をのぞき込んだ。
自分がもっていないもの全てをもっている彼女。
可憐で、どこか儚げで、思わず守ってあげたくなる。
「な、なんでしょう?」
じっと見つめられて、アッシュは居心地が悪そうにした。
「胸もエロいし」
「はぅ……穂積さん、セクハラです……」
アッシュが耳を赤くして、困った顔で抗議の声を上げる。
胸元を隠すように発泡スチロールの箱をきつく抱き締め、それが返って大きな胸をむぎゅっと強調する。
「ヤバ可愛い」
穂積は小さく嘆息した。
なんという不公平。
神の残酷さ。
「もう! わたしの胸の話はいいんです。それよりもこれです。勝手に捨てていいのかわからなくて」
「ふむ」
発泡スチロールの箱を受け取った穂積は、とりあえず上下左右を確認してみた。
きっちり密閉されており、なにかが入っていることは間違いない。ただ、宛先も差出人も表記がなく、手がかりというものはまったくなかった。
「開けてみるしかないかなあ」
「でもでも、きっと誰かのものですし」
「冷蔵庫に放置してるくらいなんだから、忘れてると思うけど」
穂積は手近な打ち合わせスペースのデスクに発泡スチロールの箱を置くと、容赦なく開封した。
ひんやりとした空気がもれ出てくるなか、箱をのぞき込む。
「こ、これは……」
穂積が困惑した声をこぼした。
果たしてそこにあったものは。
「エビ……ですね」
アッシュが見たままを言った。
中身はエビだった。
手長エビのような、そうでないような。
見事なサイズのエビが六尾、冷凍されている。
「誰かが通販とかで買ってそのまま入れといたんじゃない?」
「はあ……でも、結局これどうしましょう。持ち主を探したほうがいいでしょうか」
「うーん。ずっと放置されてたわけだし、もういいと思うけど」
穂積は見事なエビをしげしげと眺め、不意に言った。
「これ……食べるか」
「はい?」
アッシュが間の抜けた声をもらす。
「どうせ捨てるならさ、私たちで食べちゃわない?」
「そんな、泥棒じゃないですか……」
「違う違う。捨てるものを有効に活用してるだけ。むしろエコじゃん。それに――」
「それに?」
「お昼に、エビフライ食べようと思ってたの」
魔術師たちの楽園に今日も血風吹きすさぶ。
その日、有坂穂積は珍しく暇だった。
特別高等魔術警察の花形部署である公安打撃一課に実習生として身を置く彼女は、優秀な特高魔術師として普段は寝る間もないほどに忙しい。
だというのに、ぽっかりと手が空く妙な時間というものが確かにあるのだ。
「こんなことなら美容室でも予約しとけばよかったな」
伸びてきた前髪を気にして、穂積はなんとなく上目遣いになった。
すらりとした長身に、ポニーテールにした黒髪が印象的な少女である。
大人びた顔立ちと雰囲気はまるでファッションモデルのようだったが、表情が豊かなこともあってどこか親しみやすい。
穂積はイスの背もたれに体重をあずけて、大きく伸びをした。
デスクはお世辞にも片づいているとは言い難く、支給されているノートPCで作業できるスペースがどうにか保たれている状態だった。左右には資料が絶妙なバランスで積み上げられており、私物の単行本や雑誌も混ざっている。
とはいえ、誰のデスクも似たようなものだった。
ペーパーレスが叫ばれて久しいなか、とかく警察官あるいは魔術師という人種は紙が好きらしい。
「いやー、時間どおりにランチにいけるとか奇跡だな」
穂積は同年代の少女がつけるにしてはシックな意匠の腕時計を確認した。
一一時四五分。少し早いが、いまからいけば並ばずにすむだろう。本部の一階にある食堂は安くておいしいのだ。
「エビフライ♪ エビフライ♪」
妙な歌を口にしながら、穂積は立ち上がった。
彼女がいる公安部のフロアに人影はほとんどない。
みんな複数の事件を抱えて捜査に奔走している。
かくいう彼女もそうだ。
だが、今日は別だ。
あのサックリした衣に自家製タルタルソースが絶品の、エビフライ定食(六八〇円/税別)を食べるのだ。
口元をゆるめながら無人のフロアを出ようとした矢先、
「あの、穂積さん」
涼やかな声に呼びとめられる。
足をとめて振り返ると、どこか困った顔をした小柄な少女が立っていた。
なぜか両手で発泡スチロールの箱を抱えている。
生鮮食品などを輸送する際に使う、保冷用の箱だ。
「アッシュ、なにそれ?」
「えと、わたしもわからないんです」
同僚であるところのアッシュ・セヴンは眉を八の字にして、自分が抱えている発泡スチロールの箱を見た。
緩く三つ編みにしたシルバーグレイの髪に、同じ色をした大きな瞳。
まるでアニメやゲームに出てくる妖精のようだった。
彼女は先だってマギウス・ヘイヴンを騒然とさせた事件に深く関わっていたが、穂積が知らぬ高度に政治的なあれこれによって、現在は特別高等魔術警察が身分を偽装して保護下に置いている。
「冷蔵庫を整理していたら奥から出てきたんです」
「覚馬のやつ、そんな仕事押しつけてるの?」
「いえ、庶務の方に頼まれたんです。冷蔵庫の中身を定期的に整理しないと、すぐに一杯になってしまうそうで。覚馬さんは覚馬さんでいろいろと忙しいみたいですし」
「なにが忙しいんだか。覚馬はちゃんとやってる?」
「はい。覚馬さんは優しいですよ?」
「男は愚かだから、可愛い女の子には甘いのよ」
穂積は周囲に視線をやった。
アッシュの教育担当であるところの綾瀬覚馬の姿はない。
「可愛いとか……そんなこと。やめてください」
「あのねえ。アッシュがそんなこと言うのは、嫌味以外のなにものでもないんだから」
「えと、そうでしょうか」
「そうなんですよ」
穂積はしげしげとアッシュの顔をのぞき込んだ。
自分がもっていないもの全てをもっている彼女。
可憐で、どこか儚げで、思わず守ってあげたくなる。
「な、なんでしょう?」
じっと見つめられて、アッシュは居心地が悪そうにした。
「胸もエロいし」
「はぅ……穂積さん、セクハラです……」
アッシュが耳を赤くして、困った顔で抗議の声を上げる。
胸元を隠すように発泡スチロールの箱をきつく抱き締め、それが返って大きな胸をむぎゅっと強調する。
「ヤバ可愛い」
穂積は小さく嘆息した。
なんという不公平。
神の残酷さ。
「もう! わたしの胸の話はいいんです。それよりもこれです。勝手に捨てていいのかわからなくて」
「ふむ」
発泡スチロールの箱を受け取った穂積は、とりあえず上下左右を確認してみた。
きっちり密閉されており、なにかが入っていることは間違いない。ただ、宛先も差出人も表記がなく、手がかりというものはまったくなかった。
「開けてみるしかないかなあ」
「でもでも、きっと誰かのものですし」
「冷蔵庫に放置してるくらいなんだから、忘れてると思うけど」
穂積は手近な打ち合わせスペースのデスクに発泡スチロールの箱を置くと、容赦なく開封した。
ひんやりとした空気がもれ出てくるなか、箱をのぞき込む。
「こ、これは……」
穂積が困惑した声をこぼした。
果たしてそこにあったものは。
「エビ……ですね」
アッシュが見たままを言った。
中身はエビだった。
手長エビのような、そうでないような。
見事なサイズのエビが六尾、冷凍されている。
「誰かが通販とかで買ってそのまま入れといたんじゃない?」
「はあ……でも、結局これどうしましょう。持ち主を探したほうがいいでしょうか」
「うーん。ずっと放置されてたわけだし、もういいと思うけど」
穂積は見事なエビをしげしげと眺め、不意に言った。
「これ……食べるか」
「はい?」
アッシュが間の抜けた声をもらす。
「どうせ捨てるならさ、私たちで食べちゃわない?」
「そんな、泥棒じゃないですか……」
「違う違う。捨てるものを有効に活用してるだけ。むしろエコじゃん。それに――」
「それに?」
「お昼に、エビフライ食べようと思ってたの」