ザントマンがくる プロローグ

文字数 2,679文字

 闘争と流血が魔術の流儀それゆえに、
 魔術師たちの楽園に今日も血風吹きすさぶ。


 未明から降り始めた雨は、朝になってもやまなかった。
 頭上を覆う鋼鉄色の分厚い雲から降り続ける雨は、東京湾のウォーターフロントにそびえる高層マンション群を塗りつぶすかのようだ。
 その遥か対岸は再開発に取り残された埋め立て地で、高層ビルどころか家の一軒もない広大な空き地だった。
 普段はひっそりと静まり返り、セイタカアワダチソウが海風に揺れるばかりだが、いまは屋根に赤色灯を回転させている警察車両が集まってにわかに騒がしい。すべてが覆面車両で、それが警視庁のものではないことは見る者が見ればすぐにわかる。
 現場に臨場している連中も、刑事にしてもどこか剣呑な雰囲気だった。
「一課第三係、綾瀬覚馬」
 イエローテープで封鎖線が張られている現場の入口で、彼は警視庁の刑事たちを締め出した同僚の捜査員にバッジを掲げた。
 旭日章に三本足のカラスの紋章が鈍く光る。
 それが魔術師の犯罪を取り締まる特別高等魔術警察のシンボルだということは、マギウス・ヘイヴンと呼ばれるこの東京では小学生でも知っていることだった。
 雨に濡れる黒髪をかき上げて、覚馬は軽く敬礼をした。
 封鎖線を潜る。
 彼はまだ少年と言ってもいい年齢だったが、年相応のあどけなさは微塵もなかった。
 官給品のレインコートに身を包み、左腕には『特高公撃一』と記された腕章がある。
 なによりも異様なのは右腰に日本刀を帯びていることだったが、誰も咎める者はいない。
「まったく、こんな朝っぱらから」
 覚馬はぼやくと、現場にくる途中に買ってきた缶コーヒーのプルタブを押し上げて、口をつけた。甘ったるい味が、脳を刺激する。
 腕時計で時間を確認すると午前六時八分だった。
 まだ街は眠っている時間だ。
 いまから一時間ほど前。湾岸地域の埋め立て地で、海から漂着したと思われる死体が発見された。
 第一発見者は渡し船をしているポンポン船の船長で、同乗していた飼い犬がやたらと吠えたことで死体に気づいたとのことだった。
 覚馬は雨に打たれながら、青いビニールシートに覆われた一画に目をやった。
 そこが死体発見現場だ。
「覚馬、覚馬、覚馬!」
 彼と同じレインコートを着た女が顔を見せ、軽く手招きした。
 別当佳菜子。
 公安打撃一課第三係長。
 警部の階級にある、覚馬の上司である。
 彼女はショートカットにした癖のある黒髪に派手なポイントカラーを入れており、抜け目のない猫科の動物を思わせる雰囲気を身に纏っていた。
「遅いって。うちじゃ、あんたが最後」
「悪い。ゼミの仕事が終わりやしねえ」
 覚馬は右手でおがむような仕草をすると、缶コーヒーを飲み干してスチールの空き缶を握り潰した。その場に捨てようとして――やめる。
 彼は早足で佳菜子に近づいた。
 ビニールシートを打つ雨音が大きくなる。
「さすがはさあ、碓氷ゼミのゼミ長ってとこね。でも、こんな早くから後輩君たちに稽古つけてるの?」
「レポートの添削だよ。俺は赤ペン先生じゃないんだけどな」
「それはお気の毒」
「うるせえよ。そっちも実習生をこき使いすぎなんだよ」
 佳菜子と肩を並べて歩きながら、覚馬は吐き捨てた。
 綾瀬覚馬は特別高等魔術警察の警察官養成学校である〈志帥館〉の学生だった。成績優秀につき実習生として推薦されて、現場で実践経験を積んでいるという立場だ。
 もっとも、階級が実習生であることを示す巡査部長であることを除けば、任せられる仕事に違いはなにもない。
「状況を確認したら現場は鑑識に明け渡すからさあ、帰ったら捜査会議ね」
「へいへい」
 佳菜子は覚馬の肩を軽く叩くと、
「あたし一服してくるから」
 そう言って近くの捜査車両に駆け込んでいく。
 覚馬はそんな彼女の背中に嘆息をもらしながら、奥へと向かった。
 死体はすでに海から引き上げられており、鉄パイプとビニールの屋根で組まれた簡易テントの下に寝かされていた。雨には濡れないが、海を漂流していたのだからあまり関係ない。
「穂積」
 覚馬は同僚の有坂穂積の姿を認めて名前を呼んだ。
 彼女も彼と同じ〈志帥館〉から推薦された実習生だ。
 穂積はテントの下でしゃがみ込んで、まじまじと死体を見ていた。
 こちらの声に反応して顔を上げる。
 目鼻立ちがはっきりしていて、ありていに言ってファッション雑誌のモデルのようだった。長く伸ばした艶やかな黒髪はポニーテールにされており、彼女の動きに合わせて毛先が揺れる。
「覚馬、やっときた。遅いじゃん。学校からバイク?」
「ああ。雨だと面倒だよな」
「本部にいれば私の車で臨場できたのに」
「雨のなかを? 穂積の運転で? 俺はまだ死にたくないよ」
「なによそれ」
 穂積が不満そうに唇を尖らせる。
 黙っていると大人っぽくてクールな印象の彼女だが、口を開くと表情が豊かで親しみやすい。
 穂積はアルファロメオ・ミトというオシャレで可愛いイタリア車に乗っているが、運転は最悪だった。乗らなければ死ぬという状況でも、できれば遠慮したい。乗っても事故で死ぬかもしれないからだ。
「どこのギルドの魔術師だ?」
「まだ確定じゃないけど、〈九龍商会〉の魔術師って線が濃厚ね」
 死体の状態は幸い、そこまで腐敗はしていない。海をただよっていたせいで一部は魚の餌になってしまっているが、一見して死体の男は東洋人に見えた。
 年齢は三〇代から四〇代。
 着衣は紺ないしは黒のスーツ。
 どこにでもいるサラリーマンに思える。
「身分証が残ってたのか?」
「所持品はなし。けど、スーツの内ポケットに名刺が一枚残ってた」
「なるほど」
 穂積の横にしゃがみ込み、死体の顔をのぞき込む。
「名刺は鑑識がもっていったけどね。名前はヘクター・ヤン。勤務先はファレノプシス貿易。池袋にある小さな食品商社みたい」
「〈九龍商会〉のフロントカンパニーってことか?」
「多分。いま佳菜子さんが問い合わせ中」
「ホントかよ。一服してたぞ」
 ヤンなる男の死体には表情がなかった。
 苦しみも、安らぎもない。
 死体の両目が抉り取られているからだ。
 顔にぽっかりと穿たれた二つの空洞。
 目がない人間の顔というものが、これほど無機質に感じられるとは。
 覚馬も同じような死体を見るまでは想像もしていなかった。
 両目を抉り取られて殺された魔術師の死体が出たのは――これで三人目だった。
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