スライム大捜査線 プロローグ
文字数 4,663文字
闘争と流血が魔術の流儀それゆえに、
魔術師たちの楽園に今日も血風吹きすさぶ。
スマホの画面には古めかしい映像が再生されていた。
狭苦しい取調室だ。
やたらとぎらついた男が、デスクを挟んで向き合う優男を睨みつけていた。
逮捕された容疑者と、それを取り調べる強面の刑事。
あまりにもわかりやすい光景だった。
咥えていた煙草を灰皿に押しつけて、刑事がいきなり立ち上がった。
「いい加減にしろや! おう、こら! いつまでもだんまりでとおると思ってんのか、ああっ!?」
デスクに拳を叩きつける激しい音が室内に響く。
容疑者の男は刑事を見上げ、挑発するように笑った。
それにかっとなった刑事が、デスクを蹴り飛ばした。
吸い殻が溢れている灰皿が床に落ちて、中身がぶちまけられる。
刑事が容疑者の胸倉を掴み上げ、容赦なく殴り飛ばした。
壁に激突してうめき声を上げる容疑者は、
「ぼ、暴力! 刑事に暴力振るわれたよ!」
してやったりと叫んだ。
だが、刑事はまったく動じずに、続けざまに強烈な蹴りをくれた。
「お前がそういう態度ならなあ、紳士の時間は終わりだ! おう!」
うめき声をもらして崩れ落ちる容疑者を無理やりに立ち上がらせて、刑事は息がかかりそうなくらいに顔を近づけて凶悪な笑みを浮かべる。
引きつった悲鳴を、容疑者の優男がもらした。
「弁護士……弁護士呼んでくれ。傷害で訴えてやる!」
「弁護士だあ? おう、いくらでも訴えろや! その前に、話もできねえくらいやってやろうか! ええっ!?」
「あ、あんたそれでも警官かよ……こんなこと」
「ああ、俺は警官よ。いいか、警察ってのはな! お前らみたいな犯罪者にはなにしてもいいんだよ! わかったか! ああっ!?」
刑事がさらに暴行を加えようとしたとき、取調室に上司や同僚がなだれ込んできた。
室内に怒号が響き、暴れる刑事が容疑者から引き離され――
「……えと、あの、覚馬さん」
その動画をじっと見ていたアッシュ・セヴンが、当惑した声をもらした。
「これは一体なんでしょう……?」
再生されていた動画と同じような取調室である。
彼女は緩く三つ編みにしたシルバーグレイの髪先を触りながら、小首を傾げた。
まるでファンタジーの世界から飛び出してきた妖精を思わせる少女だった。
きめ細かい白い肌は透きとおるようで、髪と同じシルバーグレイの瞳は愛嬌があって幻想的だ。
プリーツスカートにネクタイを締めた白いブラウスという格好は、いかにも育ちのいいお嬢様然としていて、彼女にはよく似合っている。
「アッシュ、君も一応は特高の捜査員だ。取り調べのひとつもできなきゃな」
動画の再生を停止して、綾瀬覚馬は言った。
まだ少年と言ってもいい年齢だったが、年相応のあどけなさは微塵もない。黒い瞳には剣呑な光が宿っており、その表情はどこか皮肉めいていた。
彼の言葉のとおり、アッシュは特別高等魔術警察の捜査員だった。
先だってマギウス・ヘイヴンと呼ばれるこの東京を騒然とさせた事件に深く関わっていたが、高度に政治的なあれこれによって、現在は身分を偽装して特別高等魔術警察が保護下に置いているのだ。
覚馬はそんな彼女の教育担当であり、時間を割いては座学や実地訓練を行っている。
「それはもちろんです……!」
アッシュはやる気まんまんという風に、両拳を握って顔の前に掲げた。
そのせいで大きな胸が寄せて上げられて、ブラウスがパツパツになっている。
ボタンがはじけ飛びそうだったし、下着が透けていて目の毒だ。
「そしたらやってみろ」
「えと……なにをでしょう?」
「いま見せただろ。あんな感じで、とりあえず俺を容疑者に見立ててやってみろ」
「だってあれは昔の映画じゃないですか。フィクションですよ、フィクション」
アッシュの言葉は至極まっとうだった。
だが、覚馬は意に介した様子もなく続けた。
「いいか、アッシュ。特高ってのはな、紳士淑女の集まりの民警とはわけが違う。魔術師の犯罪と見れば、なにをやってもいいんだよ」
「そんなわけないです!」
「いや、ホントだって。監視カメラもなけりゃ、弁護士が同席するわけでもないからな」
「覚馬さん……だからずっと始末書を書いているんですね?」
「いいからいいから」
「よくないです。違法捜査ですよ違法捜査」
半眼になったアッシュの言葉は、それでも無視された。
「こいつは典型的な北風と太陽のやり方なんだよ。一人が容疑者を恫喝して、もう一人がそれをなだめながら優しい言葉をかけるんだ」
「だったら覚馬さんが北風をやればいいじゃないですか。わたしは太陽がいいです」
「そいつはときと場合による。だから、どっちもできないとな」
「うぅ……」
覚馬の言葉はある意味では正論だったので、アッシュは地団駄を踏んだ。
デスクを挟んで向き合っている覚馬を改めて見やり、嘆息する。
目の前の教育担当は確かに凶悪犯罪者のような目つきをしているし、口も態度も悪いし、一歩間違えたら本当に魔術師の犯罪者として特別高等魔術警察に逮捕されていたのではないかと思える。
「いま、割と失礼なこと思っただろ?」
「はぅ……そんなことないです、全然まったくですヨ」
「すぐに顔に出てるぞ」
「ワタシ、ニホンゴ、ワカラナイノデ」
「そんなんでうやむやになるか!」
「むぅ……わかりました。仕方ないですね。やればいいんでしょう、まったく」
アッシュは観念したかのように肩を落とした。
「最初からそう言えばいいんだよ。ほら、俺を恫喝してみろ、特高の刑事さん」
覚馬はわざとらしく脚を組むと、パイプ椅子に浅く腰かけてチンピラみたいな態度になった。実にさまになっている。
「覚馬さん、ガラが悪いです」
「うるせえよ」
「では……いきますよ」
アッシュは大きく息を吸い込むと、先ほどの動画を頭のなかに思い描いた。
思い切ってデスクを叩くと、勢いよく立ち上がる。
「お、おい、こらー!」
気の抜けるような声とともに、弱々しく拳が振り上げられた。
彼女は覚馬を睨んでいるつもりなのだろうが、ちっとも怖くない。
「学芸会かよ」
「うぅ……」
アッシュは拳を下ろして、拗ねたように唇を尖らせた。
「わたしにはやっぱり無理です」
「無理ったって、これくらいはできるようになってもらわないとな」
覚馬は苦笑をもらすと、パイプ椅子から腰を上げた。
アッシュの手を取ると、自分の胸倉にもってくる。
「ほら、思い切り掴んで」
「は、はい……」
指示のとおり、彼女は覚馬の胸倉を掴んだ。
「そのまま自分のほうに引き寄せろ」
「こう、ですか……?」
ぐっと引っ張られた覚馬との距離が、一〇センチほどになる。
アッシュのほうが頭ひとつ分は身長が低いため、見上げるようなかたちになった。
彼女の耳元で囁くようにして、覚馬は言った。
「殴ってみろ」
「はぅ……それはさすがに」
「いいから、ほら」
「ダメですよ、できません」
「アッシュ、やれって」
「そんな……」
囁き合う二人の様子は、傍から見ると先輩からセクハラを受けている後輩に見えなくもない。
なので、取調室のドアを開けて顔を出した有坂穂積が、
「おーい、覚馬。佳菜子さんが呼んで――」
そこまで言ってぴたりと言葉をとめた。
艶やかな黒髪をポニーテールにした、大人びた少女である。
すらりとした長身で、ファッション雑誌のモデルのようだった。
彼女はじっとりとした目で二人を睨んだ。
「あのさ、なにしてるわけ?」
「ほ、穂積さーん!」
アッシュは覚馬との距離を取ると、涙目になって穂積に駆け寄った。
「覚馬さんに取り調べのやり方を教わっていたんですけど、うまくできなくて」
「あー、ほら、泣かない泣かない。よしよし」
「うぅ……」
穂積は嘆息をもらすと、アッシュの頭を優しくなでなでした。
そうすると彼女は目を細めて気持ちよさそうにするので、まるで猫みたいである。
「穂積、あんまり甘やかすなよ」
「別に甘やかしてるわけじゃないけど。アッシュに覚馬みたいなやり方できるわけないじゃん。ホントに暴力警官なんだから」
「うるせえよ」
覚馬は困ったように前髪をくしゃくしゃとやった。
「課長が俺を教育担当にしたんだから、俺のやり方を教えるしかないだろ」
「それはそうかもしれないけど……」
腕を組んで少しばかり思考を巡らせた穂積は、なにかを閃いたらしくちらりとアッシュに視線をやった。
「アッシュ、そしたら私が教えてあげるから見てなさい」
「は、はい」
「穂積?」
怪訝な声をもらした覚馬は、次の瞬間、力任せに胸倉を掴まれて取調室の壁に押しつけられた。
「……っ」
喉元を圧迫されて声が出ない。
これは容疑者に悲鳴をあげさせないためのテクニックだ。
「覚馬ぁ……!」
穂積の冷たい眼光と底冷えする声に、覚馬は本気でぞっとした。
「仕事中に巨乳女といちゃついてんじゃねえわよ! こらあっ!」
反論しようにも声が出ない。
こうして取り調べを受けている容疑者は、捜査員が言ったことに同意したことになってしまう。記録上は。
「私が、貧乳のよさも、徹底的に教えてやろうじゃん! 覚悟しなさいよ! 足腰立たないようにしてやるから!」
暴力的な言葉を耳元で浴びせられ、さらに喉元を絞めつけられる。
覚馬は一瞬だけ意識が飛びそうになった。
「ほ、穂積さん……!」
悲鳴じみた声を上げて、アッシュが慌てて間に入ってくる。
どうにか二人を引きはがしながら、彼女は言った。
「落ち着いてください。覚馬さんは貧乳もきっと好きですから……!」
「あんたが貧乳言うなし!」
「ね? そうですよね、覚馬さん」
「うげっ……げほっ……」
激しくせき込みながら、覚馬はこくこくとうなずいた。
「穂積さん! 覚馬さんもこう言ってますから、許してあげてください」
「ほら、やっぱり彼女はなだめ役のほうが向いてると思うけど?」
「穂積……無茶するなって」
かすれた声で、覚馬はうめいた。
アッシュは頭上に「?」を浮かべて小首を傾げたあと、
「あ……いまのは練習ですか?」
「そうよ。私をなだめながら、話せない覚馬から言質をとったことにするあたり、結構センスあると思うな」
「そ、そうでしょうか」
「嬉しそうにしてんなよ。ったく、質が悪いことしやがって」
「覚馬だってやってるじゃん」
「まあ、そりゃそうなんだけど。自分がやられるとたまったもんじゃないな」
覚馬はうんざりした声で頭を振ると、絞めつけられた喉の調子を確かめるように何度か咳払いした。
「で、佳菜子がなんだって?」
「あ、そうそう。佳菜子さんが二人に頼みたいことがあるってさ」
「俺とアッシュで? 穂積は?」
「私は夜勤だったから、今日はもう上がりなの。ご愁傷様」
穂積は軽い調子で言って、子供っぽく笑った。
黙っているとクールで大人びている彼女は、実際には表情が豊かで親しみやすい。
「せいぜいこき使われてきなさい。私はシャワー浴びて寝るけど」
覚馬はアッシュと顔を見合わせて、深く嘆息した。
彼女が不安そうに言ってくる。
「わたしたち二人って、どんな仕事でしょうか?」
「さあな。ま、せいぜいこき使われるとするさ」
魔術師たちの楽園に今日も血風吹きすさぶ。
スマホの画面には古めかしい映像が再生されていた。
狭苦しい取調室だ。
やたらとぎらついた男が、デスクを挟んで向き合う優男を睨みつけていた。
逮捕された容疑者と、それを取り調べる強面の刑事。
あまりにもわかりやすい光景だった。
咥えていた煙草を灰皿に押しつけて、刑事がいきなり立ち上がった。
「いい加減にしろや! おう、こら! いつまでもだんまりでとおると思ってんのか、ああっ!?」
デスクに拳を叩きつける激しい音が室内に響く。
容疑者の男は刑事を見上げ、挑発するように笑った。
それにかっとなった刑事が、デスクを蹴り飛ばした。
吸い殻が溢れている灰皿が床に落ちて、中身がぶちまけられる。
刑事が容疑者の胸倉を掴み上げ、容赦なく殴り飛ばした。
壁に激突してうめき声を上げる容疑者は、
「ぼ、暴力! 刑事に暴力振るわれたよ!」
してやったりと叫んだ。
だが、刑事はまったく動じずに、続けざまに強烈な蹴りをくれた。
「お前がそういう態度ならなあ、紳士の時間は終わりだ! おう!」
うめき声をもらして崩れ落ちる容疑者を無理やりに立ち上がらせて、刑事は息がかかりそうなくらいに顔を近づけて凶悪な笑みを浮かべる。
引きつった悲鳴を、容疑者の優男がもらした。
「弁護士……弁護士呼んでくれ。傷害で訴えてやる!」
「弁護士だあ? おう、いくらでも訴えろや! その前に、話もできねえくらいやってやろうか! ええっ!?」
「あ、あんたそれでも警官かよ……こんなこと」
「ああ、俺は警官よ。いいか、警察ってのはな! お前らみたいな犯罪者にはなにしてもいいんだよ! わかったか! ああっ!?」
刑事がさらに暴行を加えようとしたとき、取調室に上司や同僚がなだれ込んできた。
室内に怒号が響き、暴れる刑事が容疑者から引き離され――
「……えと、あの、覚馬さん」
その動画をじっと見ていたアッシュ・セヴンが、当惑した声をもらした。
「これは一体なんでしょう……?」
再生されていた動画と同じような取調室である。
彼女は緩く三つ編みにしたシルバーグレイの髪先を触りながら、小首を傾げた。
まるでファンタジーの世界から飛び出してきた妖精を思わせる少女だった。
きめ細かい白い肌は透きとおるようで、髪と同じシルバーグレイの瞳は愛嬌があって幻想的だ。
プリーツスカートにネクタイを締めた白いブラウスという格好は、いかにも育ちのいいお嬢様然としていて、彼女にはよく似合っている。
「アッシュ、君も一応は特高の捜査員だ。取り調べのひとつもできなきゃな」
動画の再生を停止して、綾瀬覚馬は言った。
まだ少年と言ってもいい年齢だったが、年相応のあどけなさは微塵もない。黒い瞳には剣呑な光が宿っており、その表情はどこか皮肉めいていた。
彼の言葉のとおり、アッシュは特別高等魔術警察の捜査員だった。
先だってマギウス・ヘイヴンと呼ばれるこの東京を騒然とさせた事件に深く関わっていたが、高度に政治的なあれこれによって、現在は身分を偽装して特別高等魔術警察が保護下に置いているのだ。
覚馬はそんな彼女の教育担当であり、時間を割いては座学や実地訓練を行っている。
「それはもちろんです……!」
アッシュはやる気まんまんという風に、両拳を握って顔の前に掲げた。
そのせいで大きな胸が寄せて上げられて、ブラウスがパツパツになっている。
ボタンがはじけ飛びそうだったし、下着が透けていて目の毒だ。
「そしたらやってみろ」
「えと……なにをでしょう?」
「いま見せただろ。あんな感じで、とりあえず俺を容疑者に見立ててやってみろ」
「だってあれは昔の映画じゃないですか。フィクションですよ、フィクション」
アッシュの言葉は至極まっとうだった。
だが、覚馬は意に介した様子もなく続けた。
「いいか、アッシュ。特高ってのはな、紳士淑女の集まりの民警とはわけが違う。魔術師の犯罪と見れば、なにをやってもいいんだよ」
「そんなわけないです!」
「いや、ホントだって。監視カメラもなけりゃ、弁護士が同席するわけでもないからな」
「覚馬さん……だからずっと始末書を書いているんですね?」
「いいからいいから」
「よくないです。違法捜査ですよ違法捜査」
半眼になったアッシュの言葉は、それでも無視された。
「こいつは典型的な北風と太陽のやり方なんだよ。一人が容疑者を恫喝して、もう一人がそれをなだめながら優しい言葉をかけるんだ」
「だったら覚馬さんが北風をやればいいじゃないですか。わたしは太陽がいいです」
「そいつはときと場合による。だから、どっちもできないとな」
「うぅ……」
覚馬の言葉はある意味では正論だったので、アッシュは地団駄を踏んだ。
デスクを挟んで向き合っている覚馬を改めて見やり、嘆息する。
目の前の教育担当は確かに凶悪犯罪者のような目つきをしているし、口も態度も悪いし、一歩間違えたら本当に魔術師の犯罪者として特別高等魔術警察に逮捕されていたのではないかと思える。
「いま、割と失礼なこと思っただろ?」
「はぅ……そんなことないです、全然まったくですヨ」
「すぐに顔に出てるぞ」
「ワタシ、ニホンゴ、ワカラナイノデ」
「そんなんでうやむやになるか!」
「むぅ……わかりました。仕方ないですね。やればいいんでしょう、まったく」
アッシュは観念したかのように肩を落とした。
「最初からそう言えばいいんだよ。ほら、俺を恫喝してみろ、特高の刑事さん」
覚馬はわざとらしく脚を組むと、パイプ椅子に浅く腰かけてチンピラみたいな態度になった。実にさまになっている。
「覚馬さん、ガラが悪いです」
「うるせえよ」
「では……いきますよ」
アッシュは大きく息を吸い込むと、先ほどの動画を頭のなかに思い描いた。
思い切ってデスクを叩くと、勢いよく立ち上がる。
「お、おい、こらー!」
気の抜けるような声とともに、弱々しく拳が振り上げられた。
彼女は覚馬を睨んでいるつもりなのだろうが、ちっとも怖くない。
「学芸会かよ」
「うぅ……」
アッシュは拳を下ろして、拗ねたように唇を尖らせた。
「わたしにはやっぱり無理です」
「無理ったって、これくらいはできるようになってもらわないとな」
覚馬は苦笑をもらすと、パイプ椅子から腰を上げた。
アッシュの手を取ると、自分の胸倉にもってくる。
「ほら、思い切り掴んで」
「は、はい……」
指示のとおり、彼女は覚馬の胸倉を掴んだ。
「そのまま自分のほうに引き寄せろ」
「こう、ですか……?」
ぐっと引っ張られた覚馬との距離が、一〇センチほどになる。
アッシュのほうが頭ひとつ分は身長が低いため、見上げるようなかたちになった。
彼女の耳元で囁くようにして、覚馬は言った。
「殴ってみろ」
「はぅ……それはさすがに」
「いいから、ほら」
「ダメですよ、できません」
「アッシュ、やれって」
「そんな……」
囁き合う二人の様子は、傍から見ると先輩からセクハラを受けている後輩に見えなくもない。
なので、取調室のドアを開けて顔を出した有坂穂積が、
「おーい、覚馬。佳菜子さんが呼んで――」
そこまで言ってぴたりと言葉をとめた。
艶やかな黒髪をポニーテールにした、大人びた少女である。
すらりとした長身で、ファッション雑誌のモデルのようだった。
彼女はじっとりとした目で二人を睨んだ。
「あのさ、なにしてるわけ?」
「ほ、穂積さーん!」
アッシュは覚馬との距離を取ると、涙目になって穂積に駆け寄った。
「覚馬さんに取り調べのやり方を教わっていたんですけど、うまくできなくて」
「あー、ほら、泣かない泣かない。よしよし」
「うぅ……」
穂積は嘆息をもらすと、アッシュの頭を優しくなでなでした。
そうすると彼女は目を細めて気持ちよさそうにするので、まるで猫みたいである。
「穂積、あんまり甘やかすなよ」
「別に甘やかしてるわけじゃないけど。アッシュに覚馬みたいなやり方できるわけないじゃん。ホントに暴力警官なんだから」
「うるせえよ」
覚馬は困ったように前髪をくしゃくしゃとやった。
「課長が俺を教育担当にしたんだから、俺のやり方を教えるしかないだろ」
「それはそうかもしれないけど……」
腕を組んで少しばかり思考を巡らせた穂積は、なにかを閃いたらしくちらりとアッシュに視線をやった。
「アッシュ、そしたら私が教えてあげるから見てなさい」
「は、はい」
「穂積?」
怪訝な声をもらした覚馬は、次の瞬間、力任せに胸倉を掴まれて取調室の壁に押しつけられた。
「……っ」
喉元を圧迫されて声が出ない。
これは容疑者に悲鳴をあげさせないためのテクニックだ。
「覚馬ぁ……!」
穂積の冷たい眼光と底冷えする声に、覚馬は本気でぞっとした。
「仕事中に巨乳女といちゃついてんじゃねえわよ! こらあっ!」
反論しようにも声が出ない。
こうして取り調べを受けている容疑者は、捜査員が言ったことに同意したことになってしまう。記録上は。
「私が、貧乳のよさも、徹底的に教えてやろうじゃん! 覚悟しなさいよ! 足腰立たないようにしてやるから!」
暴力的な言葉を耳元で浴びせられ、さらに喉元を絞めつけられる。
覚馬は一瞬だけ意識が飛びそうになった。
「ほ、穂積さん……!」
悲鳴じみた声を上げて、アッシュが慌てて間に入ってくる。
どうにか二人を引きはがしながら、彼女は言った。
「落ち着いてください。覚馬さんは貧乳もきっと好きですから……!」
「あんたが貧乳言うなし!」
「ね? そうですよね、覚馬さん」
「うげっ……げほっ……」
激しくせき込みながら、覚馬はこくこくとうなずいた。
「穂積さん! 覚馬さんもこう言ってますから、許してあげてください」
「ほら、やっぱり彼女はなだめ役のほうが向いてると思うけど?」
「穂積……無茶するなって」
かすれた声で、覚馬はうめいた。
アッシュは頭上に「?」を浮かべて小首を傾げたあと、
「あ……いまのは練習ですか?」
「そうよ。私をなだめながら、話せない覚馬から言質をとったことにするあたり、結構センスあると思うな」
「そ、そうでしょうか」
「嬉しそうにしてんなよ。ったく、質が悪いことしやがって」
「覚馬だってやってるじゃん」
「まあ、そりゃそうなんだけど。自分がやられるとたまったもんじゃないな」
覚馬はうんざりした声で頭を振ると、絞めつけられた喉の調子を確かめるように何度か咳払いした。
「で、佳菜子がなんだって?」
「あ、そうそう。佳菜子さんが二人に頼みたいことがあるってさ」
「俺とアッシュで? 穂積は?」
「私は夜勤だったから、今日はもう上がりなの。ご愁傷様」
穂積は軽い調子で言って、子供っぽく笑った。
黙っているとクールで大人びている彼女は、実際には表情が豊かで親しみやすい。
「せいぜいこき使われてきなさい。私はシャワー浴びて寝るけど」
覚馬はアッシュと顔を見合わせて、深く嘆息した。
彼女が不安そうに言ってくる。
「わたしたち二人って、どんな仕事でしょうか?」
「さあな。ま、せいぜいこき使われるとするさ」