part 5 臓器造りの特級技能者、その前身は異端の人形師
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今じゃ人工臓器を特級AI搭載の技能体より上手く作ると重宝されてるが、もともと私はただ人の体が好きで、人形を作ってた。顕微鏡ででも見ない限り、本物と区別がつかないほどのを。といっても、本物の死体ってところだね。人形を動かしたり、生きてるように見せたくはなかった。動かないのが好きなんだ。
なぜかって? さあ、うまく説明できないけれど、生きた人間だって、時間を止めて見れば、生き生きした躍動感なんてありゃしない、脈も呼吸もなくて、死体と同じだろう。時間を止めるって、いったいどういうことだろうね。ものをどこまで小さく分割できるかは、議論になるじゃないか。素粒子だ何だって話だ。本当は無限に小さくできるとしても、人間の認識の限度は当然あるだろう。でも時間は? 時間にだって、人間の捉え得る限界の小さな欠片があるはずだろう。私はその欠片よりももっと小さなところ、そこに住んでるものが好きなんだ。
望も言ってた、「わかるよ、動いたりしたら台無し。動かない方がずっと素敵」ってね。望は本当はもう動物より抽象立体作りに興味を移していて、仕事の傍ら熱心に作ってたが、一貫した好みは私と同じ、時を止めたように動かないこと。「でなきゃいっそ、速すぎて止まって見えるくらいがいいね」なんて笑い合ったりもしてたね。どこか時間にあからさまに縛られたものが、気になって仕方がないんだ。それにね、人と比べようもないほど短命な、もしくは長命な生き物から見れば、私たち生きた人間だって、時間の枷に囚われて、さぞや気味の悪い振る舞いをしているんだろうよ。そう考えるとおかしいじゃないか。
剥製を飾るくらいだ、人は動かない動物を不気味とは感じない。でも人の形となると魂の宿る器らしくて怖いのか、人形なんか作っていると、魂など与える気がなくても、いや、なければ余計に、気味悪がられた。偽の魂でいいから宿らせたいという願いならば、反発もされるが共感も得られるようでね。アンドロイドなんかも最初は嫌われたが、いじましい願いの結実が実際人の役に立ったってんで許されたんだろう。動くってことはそういう、役に立つかもしれないっていう、一種の言い訳になるらしい。その点私の人形は違う。もちろん働かない、重くて自立しない、表情やポーズもつけ難い、それでいて人間そっくりの、まさに死体だ。
何でもかんでも監視される社会はその頃からさ、気味悪がられるのは構やしないが、死体そっくりだけに何度か面倒事になりかけた。隠れて作ろうにも、人形は大きいし、材料の合成や道具に凝るほど大がかりになる。手間暇かけてコソコソするのも我慢ならなくて、ふと悪戯心が湧いた。人形を本物の死体に見せられるか、いっそ試したくなったんだ。