22 熊野と熊野と熊曽・後篇

文字数 1,555文字

 熊野国は切岸の険しい熊野灘と熊野カルデラでできた険しい山と多雨による川。日向国(熊曽国)も切岸の険しい日向灘と加久藤カルデラでできた険しい山と多雨による川。黒潮で結ばれた熊野国と日向国は似てます。

 720年にアタのハヤトの反乱。再乱防止のため、721年に多数のアタのハヤトは大和国に強制移住を強いられます。
 強制移住のまえ、じつはアタのハヤトは紀伊国の紀の川の川岸に移り住んでました。大和国宇智郡阿陀郷。阿陀之鵜飼の始祖。のちの鵜飼氏。
 ハヤトは黒潮で流れついた薩南諸島、琉球王国の琉球(沖縄)諸島を含む南西諸島、南洋諸島(東南アジア)の渡来人の後裔、そして縄文人の先祖(ルーツ)といわれます。
 九州南域、そして紀伊半島に移り住みました。大和王権の前の葛城王権は日向国と紀伊国を経て南洋諸島と交易がありました。黒潮と紀の川で結ばれてました。

 アタのハヤトは神武天皇に抗います。
 神武東征で難波の海(大阪湾)からの上陸が阻まれ、紀伊半島からの上陸となります。アタのハヤトに阻まれて紀の川を遡れず、切岸の険しい熊野灘に着きます。
 のちにアタのハヤトは紀氏に討たれます。木ノ国は紀氏の治める紀ノ国、紀伊国と変わります。



 何故、アタのハヤトは日向国から紀伊国へと移り住んだのでしょうか。

 鬼界カルデラの、7300年前の世界最大の噴火は、九州南域に始まる縄文文化を終わらせました。縄文人は、アタのハヤトは宮崎平野や延岡平野に、サツマのハヤトは北薩地域、さらに九州西域の肥国(肥後国)に逃れました。
 そしてアタのハヤトは黒潮で、紀伊半島、さらに伊豆半島、房総半島に移り住みます。東日本に縄文文化を齎します。住吉氏の本貫地は福岡県福岡市の住吉神社(式内名神大社/筑前国一宮/官幣小社)。のちに三嶋大社となります。神話で、コノハナサクヒメは親神オオヤマツミに富士山とともに東日本の山々を譲られます。三嶋大社を北限に、オオヤマツミを祀る神社は西日本に多く、三嶋大社の以北でオオヤマツミを祀る神社は、三嶋大社の分祀、または近代創建の神社といわれます。
 安曇氏とともに神武天皇に順った住吉氏。順わなかった住吉氏も考えられます。アタのハヤトとともに、犬とともに全国の江に移ったと考えられます。阿多御手犬養氏。
 鬼界カルデラ、姶良カルデラ、加久藤カルデラ、阿蘇カルデラはハヤトに、縄文人に影響を与えます。

 という事で続きます。



 おまけの神社。
 熊野本宮大社(熊野坐神社)に祀る熊野坐大神の別名は家都美御子(ケツミミコ)。
 一説に木(ケ)の御子、つまりスサノヲの子神のイタケル(五十猛命)といわれます。伊太祁曽神社(和歌山県和歌山市/式内名神大社/紀伊国一宮/官幣中社)の祭神。韓国宇豆峯神社(鹿児島県霧島市/式内小社/県社)の祭神。多禰国から紀伊国へと木種を齎した神。台風が齎した木の御子の神。
 のちにスサノオは紀伊国(木ノ国)から石見国を経て出雲国の熊成(クマナリ)峯に降り、根ノ国へと堕ちます。

 紀の川を遡れない神武天皇は切岸の険しい熊野灘に着きますが、大熊に阻まれます。熊をトーテムとする蛮族に阻まれます。紀の川のアタのハヤトと異なる山人族。皇祖神タカミムスヒに授けられた神剣で蛮族を討ちます。そして険しい紀伊山を越えます。
 神剣を渡したタカクラジはニギハヤヒの子神。
 熊野坐大神に奉じる熊野氏はニギハヤヒの後裔氏族といわれます。
 神武天皇に熊野国を譲り、石見国へ移ります。のちの物部氏。出雲氏と関わります。
 島根県大田市に建ち、イタケル(五十猛神)を祀る五十猛神社。同じく大田市に建ち、ニギハヤヒの子神ウマシマジ(宇摩志麻遅命)を祀る物部神社(式内小社/石見国一宮/国幣小社)。物部神社の総本社。

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