5 鹿児島神宮と宇佐神宮・前篇

文字数 5,850文字

 備考は続きます。
 イザナミと熊野信仰の関係を考えたイザナミ考は、舞台を熊野国から九州南域の熊曽国へと移します。
 ただし前回と今回は備考。今回は前篇。という事は次回は後篇。つまり備考は3回となります。色々と考えてたら長考となりました。すみません。
 鹿児島県、島津氏の歴史を神社と神話で考えます。
 鹿児島県、島津氏の歴史に興味がなければ、かなりややこしいので読まず、次次回を読んでください。前前週、前週は投稿ができなかったため、えーと、4週後になります。



 鹿児島県は、大昔は大隅半島の大隅国と薩摩半島の薩摩国に分けられてました。
今も大きく大隅地域と薩摩地域、そして離島と呼ばれる薩南諸島と分けられてます。

 さらに薩摩半島の万之瀬川以南は、大昔は阿多(アタ)と呼ばれてました。
 昔の薩摩国阿多郡。今の南薩地域。アタのハヤトが住んでました。
 薩南諸島は南薩地域のさらに南方となります。タネのハヤトが住んでました。
 万之瀬川の川口(入江)は自然の良港。琉球王国を含む薩南諸島や南洋諸島、そして大陸の交易港で、大昔の薩摩半島の中心は南薩地域といわれます。今は南さつま市金峰町に阿多という地名だけが残ります。
 そして川内平野にある、昔の薩摩国の中心の薩摩国薩摩郡。国分寺の建ってた高台の国分寺台地は、ホノニニギの居宮が建ってたといわれます。
 川内平野に流れる川内川と万之瀬川の間は川薩地域。サツマのハヤトが住んでました。
 国府を設け、神話の書かれた時代に、薩摩半島の中心は南薩地域から川薩地域へと移ります。アタのハヤトからサツマのハヤトへと変わります。
 つまり薩摩国は中央政権の完全統治国となります。
 ついで。
 川内川以北は北薩地域。八代海に面します。紀州蜜柑の渡来港があります。
 大陸(古代中国の唐国)の蜜柑と、南洋諸国(一説に琉球王国)のクネンボが合わさり、温州蜜柑となります。かつて温州は鹿城と呼ばれてました。
 じつは鹿城も、鹿児島神宮も、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市/式内名神大社/常陸国一宮/官幣大社)も鹿に関わります。鹿児島神宮は西征で、鹿島神宮は東征で、中央政権の地方統治の要衝、海路の要港となります。
 諏訪大社(長野県諏訪湖周辺/式内名神大社/信濃国一宮/官幣大社)も鹿に関わり、地方統治の要衝。そして鹿島神を祀る鹿島神宮の常陸国も、チカト(千鹿頭)神を祀る諏訪大社の信濃国も古代王国と天孫降臨の神話があります。筑紫は全国各地にあります。まあ、ウマやキリンに任せましょう。
 さらについで。
 今の薩摩半島の、鹿児島県の中心は、島津氏により鹿児島県鹿児島市(薩摩国鹿児島郡)へ移ります。薩摩藩の藩庁があり、1601年に島津忠恒(島津家久)が建てた鹿児島城があります。鹿児島県民は鹿児島城と呼びません。なぜか鶴丸城と呼びます。
 鹿児島城、いえ、鶴丸城からは籠島(麑島)、いえ、桜島が見えます。笑えます。
 何故、鹿児島県民はカゴシマを避けるのでしょうか。どうしても考えたい事。
 せっかく、4週間も考えたので、書きます。



 さらにさらについで。
 1940年に薩摩郡は川内市となります。
 市政のために市町村合併を続け、薩摩国の元中心という冠語をつけ(薩摩川内市となり)、原子力発電所の誘致を行います。地震、火山、さらに洪水の多い川内川の川口に原子力発電所を建てます。しかし鹿児島市、霧島市、鹿屋市に負けます。いまだ負けてます。なんとなく笑えます。



 今回(前篇)は大隅国の神社。薩摩国の神社は次回(後篇)。
 大隅国の式内社は大社1社と小社4社の5社。
 薩南諸島の屋久島(824年までは多禰(タネ)国)の益救神社(鹿児島県熊毛郡/式内小社/県社)。桜島の噴火でできた神造島に関わる大穴持神社(鹿児島県霧島市/式内小社/県社)。わからない事の多い宮浦神社(宮浦宮/鹿児島県霧島市/式内小社/県社)。
 韓国宇豆峯神社(鹿児島県霧島市/式内小社/県社)。
 霧島連山の第一峰、神話で空国(韓島/朝鮮半島)の望める韓国岳が神体。天孫降臨地の高千穂峰は、じつは第二峰。なんとなく笑えます。
 大隅国のできた翌年に、714年に豊前国宇佐郡から大隅国曽於郡の宇豆(宇都/宇津)峯の山頂へと遷祀。祭神はスサノヲの子神(または随神)イタケル。多禰国の経由後、木ノ国(紀伊国)に木種を齎した神。しかし本来の祭神は八幡神と考えられます。
 イタケルは紀伊国と出雲国、さらに穴門(長門)国、石見国に関わる神。あとで考えましょう。
 鹿児島神宮(鹿児島県霧島市/式内大社/大隅国一宮/官幣大社)。
 大隅国と薩摩国の国境に広がる国分平野。日向国も接します。国分平野の西方にある日向(日当)山の山麓に建ちます。祭神は山のサチヒコ(天津日高彦火火出見尊)。山のサチヒコの居宮跡地といわれます。
 しかし薩摩半島と大隅半島に囲まれた入海の籠島(麑島)が神体。本来の祭神も、籠島の神格化の籠島(麑島)神。鹿児島の地主神。コノハナサクヒメといわれます。

 またもついで。ローカルニュースで知ったので。
 宮崎平野の北方にある延岡平野。日向国臼杵郡英多(アガタ)郷は、延岡城が建ち、のちに宮崎県延岡市となります。コノハナサクヒメの住むアタと同地説があります。
 愛宕山があり、かつて笠沙の山(笠沙の碕)と呼ばれてました。
 愛宕山公園を愛宕山笠沙の御碕公園に名称変更を只今審議中。なんとなく南さつま市笠沙町を思いだします。なんとなく笑えます。

 という事で。
 海のサチヒコの後裔のハヤトが祀る鹿児島神宮の祭神は、山のサチヒコ。
 薩摩国にありません。927年の延喜式神名帳で大隅国桑原郡の鹿児嶋神社の比定社。大隅国にあります。ゆえに別名は大隅正八幡宮。
 国分平野も、さらに西方の黒川岬のある姶良平野も大隅国。大隅国は鹿児島湾の湾岸までも領地(国地)を広げます。
 籠島(麑島)は、13000年前の姶良カルデラの噴火でできた外輪山といわれます。
 大隅国と薩摩国の国境で、肝付氏の治める大隅国大隅郡に属しました。黒川岬と同じく、籠島(麑島)は海上の戦場となります。そして島津氏が勝ち、薩摩国、薩摩藩に属し、1698年に桜島となります。
 しかし1914年に、噴火で桜島は大隅半島と繋がります。いまだ桜島は大隅地域に属します。
 さらに八幡宮という事は、祭神は韓国宇豆峯神社と同じく、八幡神。
 ハヤトの祖神が倒された地に、祖神を倒した神が祀られてます。ハヤトが殺された地に、殺生を戒めた八幡神が祀られてました。
 鹿児島神宮の社名が郡名、県名となります。じつは薩摩藩も正くは鹿児島藩。
 何故、鹿児島県民はカゴシマを避けるのでしょうか。
 籠島(麑島)神は、鹿児島の地主神は避けられまい、と噴煙をあげます。



 コノハナサクヒメの子神の、山のサチヒコは島津氏により祀られます。

 姶良カルデラの外輪山の北薩火山群に囲まれた姶良平野。桜島に連なる外輪山に囲まれたカルデラが姶良平野と錦江湾(鹿児島湾)。
 姶良平野の錦江(黒川岬)と錦江湾の桜島が、島津氏にとり大事な地となります。姶良カルデラが、鹿児島県、島津氏の歴史に影響を与えます。

 九州南域は加久藤カルデラ、姶良カルデラ、阿多カルデラなどの外輪山に囲まれ、平地が少なく狭く、各々の平地が険しい山で阻まれます。阻まれたため、住地が異なれば血族姻族意識も弱くなります。瀬戸内海の海人族、住吉(住江/スミノエ)族と同じく、ハヤトも同族意識が弱かったと考えられます。
 そして島津氏は住吉族に関わります。

 農耕が始まり、平地=農地=領地という概念が生じ、領地紛争が始まります。一説にハヤトの反乱も中央政権の農地政策(班田収受の法)が原因といわれます。
 720年にハヤトの反乱が起きてから、1197年に外様の島津忠久が守護職に就き、1581年に錦江(黒川岬)で和歌を詠むまで、紛争が続きます。島津氏は氏祖の忠久の、鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝のため、九州南域の3国(薩摩国・大隅国・日向国)を治めなければなりません。薩摩藩(鹿児島県)を守らなければなりません。
 鹿児島神宮の祭神を変えたキッカケは県民教育もありますが、少ない狭い平地を守る島津氏の結束もあります。県民教育は、白砂台地という耕しにくい農地で農耕を続ける農民(藩民/県民)の結束もあります。蜜柑とイモだけで生きていけません。
 九州南域に大陸の大戦大乱、朝鮮半島の内戦内乱で逃れついた馬韓国や弁韓諸国の帰化人、さらに黒潮で流れついた南洋諸島(東南アジア)の渡来人、様々な氏族民族部族が集まります。
 少ない狭いけれど充分な平地に住み、紛争を避けるため、ほかの民族と関わらず、漁撈や交易を自由に営んでました。充分な、自由な生活。とくにアタのハヤトは、漁撈や交易で充分に栄えてました。オオスミのハヤトは早々に農耕を始めました。
 大隅半島に志布志湾があります。島津氏の統治が始まる鎌倉時代に、日向国諸県郡志布志があり、志布志の浦と呼ばれてました。語源はわかりませんが、明治時代に、鹿児島県民に有明湾と別名で呼ばれ、昭和時代に正式名称として志布志湾となりました。有明湾と呼ぶ県民はいません。

 やがてアタのハヤトも農耕を始め、やがて中央政権に生活が縛られます。抗いますが、優秀な指導者が殺され、多数の民は捕まり、移されます。
 残された、バラバラとなった民の、結束のシンボル、アイテム。神。
 忠久が祀った神は天孫神、皇孫神でありません。
 同名の異なった神。神名をなぞった神。海(アマ)の彼方の祖神と考えられます。
 忠久は信濃国の地頭職も任じられ、九州南域(とくに鹿児島県)に多数の諏訪大社の分祀神社を建てます。社名は南方神社。祭神はミナカタヌシ(南方刀美神)。南方(ナンポウ)の彼方の祖神。
 しかし忠久の思惑に反し、国内の、藩内の色々な政争、内戦内乱で祭神の神性は変わります。



 八幡神は豊前国の秦氏により祀られました。

 鹿児島神宮の社伝で、八幡神は、まずは大隅国桑原郡の正八幡宮に降り、のちに豊前国宇佐郡の八幡宮へ遷ったと伝えます。当地に日神降臨と似た神話もあります。
 さらに八幡神は大隅国曽於郡の韓国宇豆峯神社へ分けられます。笑えます。
 鹿児島神宮と宇佐神宮は八幡神の本貫地で争い、鹿児島神宮は焼かれます。鑰島神社の社伝で、鹿児島神宮の焼失後の1097年に鹿児島神宮の鑰(鍵)を納め、社名を鑰島神社と改めたと伝えます。鑰島神社は海のサチヒコ(火闌降命)を祀ります。八幡神の神威(焼かれた御蔭)で、海のサチヒコに鑰(釣針)が戻されます。

 何時、鹿児島神宮の祭神は変わったのでしょうか。

 という事で続きます。



 おまけの神社。
 神功皇后が三韓征討でスミヨシ(スミノエ)三神に戦勝を願い、叶い、祀った住吉神社。ゆえに有名な住吉神社は瀬戸内海から九州北域までの沿岸にあります。
 スミヨシ三神に奉じる住吉族は、神話、史話に書かれてませんが、安曇族に近い海人族と考えられます。大阪府大阪市の住吉大社(式内名神大社/摂津国一宮/官幣大社)が本社といわれますが、奉じる氏族は津守氏であり、住吉氏でありません。
 ややこしくなります。
 スミヨシ三神は住吉(スミヨシ)の地に祀られた神。地名が神名になります。住吉は、もとは墨江(住之江/スミノエ)と呼ばれた入江なのでスミノエ三神。江は津(湊)となり、神功皇后の下賜で津を守る氏族、津守氏となります。摂津国住吉郡を本拠地とする、ホノアカリの後裔氏族。津(湊)を守る氏族。のちに瀬戸内海の各津に住吉神社を奉じた氏族も、各地の津守氏。ゆえに同族意識はなく、安曇族に治められます。つまり住吉氏は津守氏と関係はありません。
 瀬戸内海の強い潮流を司る神は、強い潮流から江(津)を守る神と変わります。さらに神功皇后の三韓征討で、航海安全、戦勝祈願などの神性が加わります。
 スミヨシ三神の元名はツツノヲ三神。強い潮流を司る神、穢を禊ぐ神。
 ツツノヲ三神を祀る住吉氏の本拠地は、福岡県福岡市の住吉神社(式内名神大社/筑前国一宮/官幣小社)となります。
 九州北域に、安曇族の奉じる志賀海神社(福岡県福岡市/式内名神大社/官幣小社)、宗像族の奉じる宗像大社(福岡県宗像市/式内名神大社/旧官幣大社)が建ちます。宰府を含めて畿内と朝鮮半島を結ぶ要衝は、すべて九州北域の筑紫国にあります。



 おまけのおまけの神社。
 ムナカタ三神は九州北域(筑紫国)の宗像大社と、瀬戸内海(安芸国)の厳島神社に祀られてます。じつは住吉神社と同じく、宗像神社も九州北域から瀬戸内海までの沿岸に建ちます。
 ただしちょっとだけ、異なります。神功皇后の三韓征討の海路は瀬戸内海を渡って大阪湾へ辿りつき、津守氏の奉じる住吉大社が建ちます。
 宗像神社は九州北域から瀬戸内海、紀伊水道を渡り、紀伊半島までの沿岸に建ちます。神武東征の海路。
 宗像大社と同じく、瀬戸内海の厳島神社(広島県廿日市市/式内名神大社/安芸国一宮/官幣中社)も宗像神社の本社といわれます。いずれスサノヲに関わり、朝鮮半島、大陸の交易に関わります。神話で、スサノヲは高天原の日神と誓約後、新羅国に降り、気にくわない国と言い、出雲国に降ります。
 かつて南洋諸島と交易が行われた時代は、九州南域の日向国(熊曽国)から紀伊半島の紀伊国(熊野国)を経て大和国へと黒潮と紀の川で結ばれました。
 そして朝鮮半島、大陸と交易が行われた時代。
 神武天皇は九州北域の筑紫国から紀伊国を経て大和国へと青潮、瀬戸内海、紀伊水道と紀の川で結ばれました。大阪湾、河内湾(のちに大阪平野)に阻む敵国がありました。
 神功皇后、応神天皇は紀伊国を経ず、大阪湾、居宮のある河内国で結ばれます。

 スサノヲは新羅国を気にくわない国と言います。
 かつて朝鮮半島、大陸は、出雲国と交易を行ってました。青潮で結ばれてました。出雲王権の存在はわかりません。ただ、交易の史実はあります。

 出雲国は大和国により滅ぼされ、黄泉国(根ノ国)に変えられます。
 スサノヲは黄泉国に眠ります。
 熊野国も、そして熊曽国も忘れられ、黄泉国(底ノ国)に変えられます。
 コノハナサクヒメは眠りません。忘れさせません。地の底で怒り、火をあげます。

 朝鮮半島、大陸は、大和国と交易を行います。
 スサノヲは新羅国を気にくわない国と言います。
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