4 鹿児島湾と錦江湾
文字数 2,158文字
えーと。
今回、鹿児島県の歴史に興味がなければ、かなりややこしいので読まず、次次回を読んでください。毎週木曜投稿のため、2週後になりますが。
前回、鹿児島湾と書きましたが、ちょっとだけ、備考として鹿児島湾を考えます。
鹿児島湾は、江戸時代前は入海(イリウミ)や内海(ウチウミ)と呼ばれました。
明治時代後に、全国各地の入海や内海とまちがえないよう、鹿児島湾という特定の地名になります。1890年頃に正式地名となりましたが、鹿児島県民は、なぜか錦江湾と呼び始めます。そして錦江湾も1960年頃に正式地名となります。
正式表記は[鹿児島湾(錦江湾)]。笑えます。
*
鹿児島湾に流れる川に日木山川があります。加治木(姶良市加治木町)にある低山の日木山の麓を流れます。加治木は、置いたままの船の舵に芽が生え、楠木になったといい、もとは柁木。平安時代に大蔵氏の支族の加治木氏が治めました。本貫地は日木山(もとは肥喜山)で、加治木を見わたせました。
日木山川の別名は黒川で、鹿児島湾の川口(入江)に黒川岬があります。
薩摩藩初代藩主の島津忠恒(島津家久)が黒川岬で詠んだ和歌の「浪のおり かくる錦は 磯山の 梢にさらす 花の色かな」で、黒川岬(入江)は錦江と呼ばれ、いつのまにか入海は錦江湾と呼ばれます。
忠恒は、1598年の朝鮮侵攻(慶長の役)、1599年の内乱(庄内の乱)、1609年の琉球侵攻(己酉の乱)などで有名。とくに朝鮮侵攻は負けるくらいの戦力で戦って勝ったため、忠恒の武勇が広がりました。
父は妙円寺詣りで有名な島津義弘。加治木に義弘を祀る精矛神社が建ちます。島津義弘が熊本県の紀州蜜柑を持ち帰り、桜島蜜柑として育てた説がありますが、忠恒が朝鮮侵攻で紀州蜜柑を、琉球侵攻でサツマイモを持ち帰って育てた説もあります。
黒川岬は、じつは島津氏にとり大事な地。
浪(波)の穏やかなとき 川面に映る錦の色は 磯山の花の色だろう。
日木山川の、もうひとつの別名は桜川。川口の岩山(磯山)に桜が咲いてました。
*
さてと。
私見と独学のトンデモ考察を書きます。
熊曽の地が日向の地となり、薩摩国、大隅国、日向国に分けられます。西征軍の統治が進むなか、大隅国肝属郡を本拠地とした肝付(肝属)氏がきわだってきます。
さらに宥和政策として秦氏の移住が行われます。しかし肝付氏などの在軍氏族、大陸や朝鮮半島の政争、内戦内乱で逃れついた馬韓(百済)や弁韓諸国(伽倻・加羅・任那)の、さらに黒潮で流れついた南洋諸島の、先住の渡来人の多い九州南域。つねに氏族民族部族紛争が起きます。
紛争地のひとつが黒川岬。鹿児島湾の要港。
紛争に勝ち、肝付氏が黒川岬を奪います。しかし時代が阻みます。鎌倉幕府の設立。鎌倉時代と変わります。
1197年に、鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝は島津忠久に大隅国、薩摩国、日向国の守護職を任じます。肝付氏は島津氏の下となります。
島津氏は黒川岬を奪います。しかし時代が阻みます。元寇と、鎌倉時代の終焉。
幕府の権威衰退は地方に及び、肝付氏は島津氏に反逆を起こします。オオスミのハヤトの反逆。
1549年に、黒川岬で肝付氏と島津氏が争います。
1581年に、嫡流肝付氏は負け、滅びます。勝ち奪った黒川岬に忠恒は立ち、和歌を詠みます。
島津氏が薩摩国、大隅国、日向国の統治を進めるなか、反乱と反逆が、時代の阻害がありました。島津氏は鹿児島県、宮崎県の神社の祭神を変え、方言も含め、県民教育に励みます。
1801年に、加治木島津久徴は、黒川岬が錦江と呼ばれるのは忠恒の和歌といい、碑を立てます。
しかし。
忠恒の和歌に黒川岬を錦江と書いてません。
和歌でないとしたら、何故、黒川岬を錦江と呼ぶのでしょうか。
鹿児島県民は鹿児島湾を錦江湾と呼びます。
黒川岬(錦江)からは鹿児島湾と桜島が見えます。一説に噴火のとき、桜の花びらが海面に浮び、籠島(麑島)を、桜島と呼びます。
桜島は、大隅国と薩摩国の国境にあり、島津氏の領地であり、桜島を挟んで肝付氏の領地の大隅半島があります。
1698年に島津氏は籠島(麑島)を桜島と正式表記とします。何故、島津氏はカゴシマを避けるのでしょうか。
1914年に、噴火で桜島が大隅半島と繋がります。
じつは大隅地域は、大隅半島だけでなく桜島も属します。
という事で伏線は次回に続きます。
合わせて九州南域住人の感想、九州北域住人の筑前筑後国、豊前豊後国、肥前肥後国の神社と神話のトンデモ考察を求めます。
*
おまけの神社。
神話の笠沙之御前(吾田の笠狭碕)に建つ野間神社(鹿児島県南さつま市/村社)。
薩摩半島野間岬の野間岳の山腹に建ち、ホノニニギ(瓊瓊杵尊)、コノハナサクヒメ(鹿葦津姫命)、山のサチヒコ(彦火々出見尊)、たぶん海のサチヒコ(火蘭降尊)、火照尊を祀ります。
社伝で、社地はホノニニギの居宮の笠狭宮の跡地と伝えます。
もとは野間岳の山頂に東宮と西宮があり、東宮はホノニニギとコノハナサクヒメを、西宮は子の三神を祀ってましたが、のちに西宮の祭神は娘媽、順風耳、千里眼という中国の神となり、さらに台風被害で現地に東宮と西宮を合わせ、中国の神を変えて祀ります。
なんとなく笑えます。
今回、鹿児島県の歴史に興味がなければ、かなりややこしいので読まず、次次回を読んでください。毎週木曜投稿のため、2週後になりますが。
前回、鹿児島湾と書きましたが、ちょっとだけ、備考として鹿児島湾を考えます。
鹿児島湾は、江戸時代前は入海(イリウミ)や内海(ウチウミ)と呼ばれました。
明治時代後に、全国各地の入海や内海とまちがえないよう、鹿児島湾という特定の地名になります。1890年頃に正式地名となりましたが、鹿児島県民は、なぜか錦江湾と呼び始めます。そして錦江湾も1960年頃に正式地名となります。
正式表記は[鹿児島湾(錦江湾)]。笑えます。
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鹿児島湾に流れる川に日木山川があります。加治木(姶良市加治木町)にある低山の日木山の麓を流れます。加治木は、置いたままの船の舵に芽が生え、楠木になったといい、もとは柁木。平安時代に大蔵氏の支族の加治木氏が治めました。本貫地は日木山(もとは肥喜山)で、加治木を見わたせました。
日木山川の別名は黒川で、鹿児島湾の川口(入江)に黒川岬があります。
薩摩藩初代藩主の島津忠恒(島津家久)が黒川岬で詠んだ和歌の「浪のおり かくる錦は 磯山の 梢にさらす 花の色かな」で、黒川岬(入江)は錦江と呼ばれ、いつのまにか入海は錦江湾と呼ばれます。
忠恒は、1598年の朝鮮侵攻(慶長の役)、1599年の内乱(庄内の乱)、1609年の琉球侵攻(己酉の乱)などで有名。とくに朝鮮侵攻は負けるくらいの戦力で戦って勝ったため、忠恒の武勇が広がりました。
父は妙円寺詣りで有名な島津義弘。加治木に義弘を祀る精矛神社が建ちます。島津義弘が熊本県の紀州蜜柑を持ち帰り、桜島蜜柑として育てた説がありますが、忠恒が朝鮮侵攻で紀州蜜柑を、琉球侵攻でサツマイモを持ち帰って育てた説もあります。
黒川岬は、じつは島津氏にとり大事な地。
浪(波)の穏やかなとき 川面に映る錦の色は 磯山の花の色だろう。
日木山川の、もうひとつの別名は桜川。川口の岩山(磯山)に桜が咲いてました。
*
さてと。
私見と独学のトンデモ考察を書きます。
熊曽の地が日向の地となり、薩摩国、大隅国、日向国に分けられます。西征軍の統治が進むなか、大隅国肝属郡を本拠地とした肝付(肝属)氏がきわだってきます。
さらに宥和政策として秦氏の移住が行われます。しかし肝付氏などの在軍氏族、大陸や朝鮮半島の政争、内戦内乱で逃れついた馬韓(百済)や弁韓諸国(伽倻・加羅・任那)の、さらに黒潮で流れついた南洋諸島の、先住の渡来人の多い九州南域。つねに氏族民族部族紛争が起きます。
紛争地のひとつが黒川岬。鹿児島湾の要港。
紛争に勝ち、肝付氏が黒川岬を奪います。しかし時代が阻みます。鎌倉幕府の設立。鎌倉時代と変わります。
1197年に、鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝は島津忠久に大隅国、薩摩国、日向国の守護職を任じます。肝付氏は島津氏の下となります。
島津氏は黒川岬を奪います。しかし時代が阻みます。元寇と、鎌倉時代の終焉。
幕府の権威衰退は地方に及び、肝付氏は島津氏に反逆を起こします。オオスミのハヤトの反逆。
1549年に、黒川岬で肝付氏と島津氏が争います。
1581年に、嫡流肝付氏は負け、滅びます。勝ち奪った黒川岬に忠恒は立ち、和歌を詠みます。
島津氏が薩摩国、大隅国、日向国の統治を進めるなか、反乱と反逆が、時代の阻害がありました。島津氏は鹿児島県、宮崎県の神社の祭神を変え、方言も含め、県民教育に励みます。
1801年に、加治木島津久徴は、黒川岬が錦江と呼ばれるのは忠恒の和歌といい、碑を立てます。
しかし。
忠恒の和歌に黒川岬を錦江と書いてません。
和歌でないとしたら、何故、黒川岬を錦江と呼ぶのでしょうか。
鹿児島県民は鹿児島湾を錦江湾と呼びます。
黒川岬(錦江)からは鹿児島湾と桜島が見えます。一説に噴火のとき、桜の花びらが海面に浮び、籠島(麑島)を、桜島と呼びます。
桜島は、大隅国と薩摩国の国境にあり、島津氏の領地であり、桜島を挟んで肝付氏の領地の大隅半島があります。
1698年に島津氏は籠島(麑島)を桜島と正式表記とします。何故、島津氏はカゴシマを避けるのでしょうか。
1914年に、噴火で桜島が大隅半島と繋がります。
じつは大隅地域は、大隅半島だけでなく桜島も属します。
という事で伏線は次回に続きます。
合わせて九州南域住人の感想、九州北域住人の筑前筑後国、豊前豊後国、肥前肥後国の神社と神話のトンデモ考察を求めます。
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おまけの神社。
神話の笠沙之御前(吾田の笠狭碕)に建つ野間神社(鹿児島県南さつま市/村社)。
薩摩半島野間岬の野間岳の山腹に建ち、ホノニニギ(瓊瓊杵尊)、コノハナサクヒメ(鹿葦津姫命)、山のサチヒコ(彦火々出見尊)、たぶん海のサチヒコ(火蘭降尊)、火照尊を祀ります。
社伝で、社地はホノニニギの居宮の笠狭宮の跡地と伝えます。
もとは野間岳の山頂に東宮と西宮があり、東宮はホノニニギとコノハナサクヒメを、西宮は子の三神を祀ってましたが、のちに西宮の祭神は娘媽、順風耳、千里眼という中国の神となり、さらに台風被害で現地に東宮と西宮を合わせ、中国の神を変えて祀ります。
なんとなく笑えます。