6 鹿児島神宮と宇佐神宮・中篇

文字数 7,205文字

 備考は続きます。今回は何故か中篇となります。つまり備考は4回となります。
 鹿児島県、島津氏の歴史、さらに今回は鹿児島県、島津氏の歴史から思いっきり離れます。備考の備考。笑えます。
 ずっと投稿ができなかったため、備考を続け、えーと、えーと、どのくらいでしょうか。
 イザナミ考と別に書けばよかった、と後悔。


 
 前説をいくつか。まずは神功皇后の三韓征討について。
 神話で、神功皇后の三韓征討は有名。
 朝鮮半島南域にある辰韓国(のちの新羅国)、馬韓国(のちの百済国)、弁韓諸国(のちの伽倻国・加羅国など)で三韓。時代が代わり、新羅国、百済国、そして朝鮮半島北域の高句麗国も三韓と呼ばれます。じつは神功皇后の時代がはっきりとわからないため、また、神話で新羅国だけが書かれてるため、三韓征討は、じつは辰韓国(新羅国)だけ、または朝鮮半島南域だけといわれてます。とりあえず新羅国は討ちました。
 神功皇后の夫は14代仲哀天皇。子は15代応神天皇。
 母は新羅国の王族の後裔一族の女。つまり母の母国を討ちました。
 父は9代開化天皇の後裔一族の男。住吉氏とともに謎の氏族、息長氏の氏祖。



 つぎは皇統交替について。2説があります。
 初代神武天皇と、2代綏靖天から開化天皇までの8代の天皇は非実在。欠史8代。
 神武天皇と10代崇神天皇は同一であり、崇神天皇が初代天皇であり、大和王権が始まります。崇神天皇の皇統の伝統を謳うため、神武天皇と欠史8代の天皇は創られた天皇といわれます。
 もうひとつ。初代神武天皇と、2代綏靖天から開化天皇までの8代の天皇は実在。
 神武天皇の後に葛城王権があり、崇神天皇に滅ぼされ、大和王権が始まります。崇神天皇の皇統の正統を謳うため、欠史8代の天皇は葬られたといわれます。

 のちに15代応神天皇(河内王権)、26代継体天皇(越前王権)で皇統交替があり、継体系皇統が現代に継がれます。河内王権と越前王権に息長氏と大伴氏が関わります。

 葛城王権は、葛城国は九州南域の日向国(熊曽国)から、紀伊半島の紀伊国(熊野国)を経て南洋諸島(東南アジア)との交易が行われてました。
 大和王権は、大和国は朝鮮半島、九州北域の筑紫国から、瀬戸内海、紀伊水道で紀伊国を経て大陸との交易が行われました。摂津国、河内国が従わなかったため。
 河内王権は、河内国は、朝鮮半島、筑紫国から、瀬戸内海で摂津国を経て大陸との交易が行われました。土木技術に優れた秦氏を山城(山背)国へ移し、未開地を開きます。
 越前王権は、筑紫国以外に、若狭湾のある越前国(若狭国)から琵琶湖、淀川、瀬戸内海、つまり近江国、山城国、河内国を経て大陸との交易が行われました。継体天皇の本貫は越前国、息長氏の治める近江国、秦氏の治める山城国を通り、陸路と河路で結ばれました。息長氏も越前国と関係があります。ゆえに越前王権といわれます。

 交易が南洋諸島(東南アジア)から大陸と代わります。また、大陸も大和王権は長江南域の江南(華南)地域、河内王権は黄河と長江の間の華中地域、継体王権は黄河、淮河北域の華北地域と変わります。
 
 息長氏の本貫地は筑紫国といわれます。のちの本拠地は近江国坂田郡。山津照神社(滋賀県米原市/式内社/県社)に、祖神の国之常立神を祀ります。最初に生じた神は、古事記で天之御中主神、タカミムスヒ、カミムスヒの造化三神。日本書紀で国之常立神。つまり息長氏の祖神が最初に生じた神となります。



 つぎは漢風諡号と和風諡号について。
 継体持統。
 継体天皇は、前代武烈天皇の世継がいなかったため、応神天皇の5世孫として皇統を継ぎます。解かれつつあった息長氏の血統を結びなおします。
 子に27代安閑天皇、28代宣化天皇。そして29代欽明天皇。
 欽明天皇は、佛教を広め、応神天皇の神霊として八幡神を祀ります。息長氏が見え隠れします。子に30代敏達天皇、31代用明天皇、32代崇峻天皇。そして33代推古天皇。因みに用明天皇の子が厩戸王(厩戸豊聡耳)。
 推古天皇は敏達天皇の異母妹、そして后。皇親政治を考えます。佛教を広めます。
 敏達天皇の孫が34代舒明天皇。和風諡号は息長足日広額天皇。息長氏が見え隠れします。舒明天皇の后が35代皇極天皇(重祚で37代斉明天皇)。
 舒明天皇と皇極天皇の子が38代天智天皇、40代天武天皇。
 天智天皇の居宮を近江国に移した、壬申の乱で天武天皇を導いた、謀反の天武天皇の正統を謳った息長氏。はっきりと息長氏が見えます。

 41代持統天皇は、天智天皇の子、天武天皇の后。天武系天皇の皇統を継ぎます。天智系天皇の血統を結びます。天武天皇が始めた神話、史話編纂を継ぎます。じつは皇統の伝統や正統を書いた史話(国史)は大化の改新(乙巳の変)のとき、燃えてしまいました。
 皇統の伝統(神話)として古事記、正統(史話)として日本書紀を書き始めます。各王権の初代天皇も、天武天皇も謀反で皇統を継いだため、国民や外国に伝統や正統を謳うため必要となります。
 持統天皇は神功皇后と、推古天皇と同一といわれます。神武天皇から推古天皇までが書かれてる古事記は持統天皇が大きく関わります。

 漢風諡号は、古代中国(周代)に習った生前の行為を現す諡(贈り名)。
 和風諡号は、持統天皇に始まった正しい血統、皇統を表す諡。持統天皇の和風諡号は高天原廣野姫天皇。高天原の広い野に居る姫。高天原の日神。



 トンデモ考を続けます。

 持統天皇は神功皇后と推古天皇と、そして高天原の日神と同一といわれます。
 持統天皇の人生に祖母の35代皇極天皇(重祚で37代斉明天皇)の死が大きく関わります。夫の仲哀天皇、敏達天皇、舒明天皇は息長氏の血統で結ばれ、人生は似てます。ただし古事記で情けなく書かれます。
 神功皇后、推古天皇、そして高天原の日神は、古事記で高潔な美女武神として書かれます。また、皇極天皇も含め、男天皇のリリーフでありながら、政(マツリゴト)以上に祭(マツリゴト)に優れました。シャーマン。皇極天皇は皇祖母と呼ばれました。
 皇極天皇は新羅国を討つまえ、筑紫国で亡くなります。そして新羅国に負けます。白村江の戦。皇極天皇が生きてたら、きっと勝ってた神話が神功皇后の三韓征討と考えられます。皇極天皇は持統天皇の承継、憧憬の女天皇と考えられます。
 持統天皇は皇極天皇、父の天智天皇、夫の天武天皇を見ながら、政権政策を考えます。
 蘇我氏、息長氏の次は持統天皇により中臣(藤原)氏が大和政権を動かします。



 三韓の辰韓国は、秦韓国。古代中国の秦国で労役を逃れた様々な民族が馬韓国に作った国。つまり辰韓国は様々な小国の集まった国。つねに領地紛争が続き、斯蘆国が勝ち、新羅国となります。
 神功皇后の三韓征討後、人質として王族一族が九州北域の豊前国に渡ります。
 のちに機織(養蚕)、畑作(稲作)、土木技術に優れたため、瀬戸内海を渡り、山城(山背)国へ移ります。
 じつは九州北域も徐福伝説があります。徐福は3000人の童男童女を従え、財宝財産と五穀の種を持ち、東方の、海の彼方の仙山、蓬莱山へ渡ります。始皇帝の元に帰らず、平原広沢(葦原)で留まり、王となります。秦王国。
 何故、徐福は帰らなかったのでしょうか。帰れなかった、と考えられます。

 一説にスミヨシ三神は海神でなく、オリオン座の三星(参宿)の神格化。
 方位を示し、占星を司る星神といわれます。方士も占星を行います。
 イザナギの禊で生じた海神、航海を導く神。神功皇后の三韓征討で現れた武神、戦勝を導く神、そして星神。
 まとめましょう。
 スミヨシ三神の元名はツツノヲ三神。
 ややこしくなりますが、ツツノヲ三神を祀る住吉氏と、スミヨシ三神を祀る津守氏は姻戚関係はありますが、別族。津守氏は瀬戸内海の海人族。本拠地は摂津国の住吉大社。スミヨシ三神は瀬戸内海の強い潮流から江(津)を守る神。ツツノヲ三神は強い潮流を司る神。のちに星神、武神の神性が加わります。住吉氏が隠れたか、滅びたかわかりません。あとで考えます。
 ワタツミ三神を祀る安曇氏、ツツノヲ三神を祀る住吉氏、ムナカタ三神を祀る宗像氏は近い一族。九州北域の海人族。本貫地は筑紫国の、志賀海神社、住吉神社、宗像大社。そして朝鮮半島、大陸と畿内の交易(海運)を担います。ただし神話で高天原の日神とスサノヲの契約で生まれたムナカタ三神を祀る宗像氏は、はじめ出雲王国と関わります。
 ムナカタ三神は朝鮮半島と日本列島の間の海域、玄界灘の航海を守る神となります。強い青潮(対馬海流)を司る、または夜の航海を守るツツノヲ三神。潮汐を司るワタツミ三神。やがて瀬戸内海の潮流、潮汐を司る神となります。
 しかし時代の潮流を見れなかった住吉氏は滅びます。

 各王権、のちの大和政権と表で関わる安曇氏、宗像氏、裏で関わる息長氏。
 何故、九州北域の海人族と息長氏が関わるのでしょうか。

 そして。 
 次回でアタのハヤトの娘の、コノハナサクヒメと島津氏の関係がわかります。やっとカゴシマと島津氏の関係がわかります。
 さらに島津寺も、息長氏も、筒(=竹)に関わります。
 神功皇后の曽祖父は、竹取物語の竹取の翁のモデルといわれます。かぐや姫は竹取の翁により大臣の政争に弄ばれ、帝に認められます。
 朱智神社(京都府京田辺市/式内小社/郷社)は、息長氏の祖神の迦爾米雷王命(牛頭天王)を祀ります。迦爾米雷王命は、のちに八坂神社に祀られるため、八坂神社の元社といわれます。
 息長氏が治めた当地に、綴喜(筒木)郡にオオスミのハヤトを移り住まさせます。ハヤトは伝承、竹や竹細工を伝えます。氏族に垂仁天皇の妃、迦具夜比売がいます。
 息長氏は、近江国坂田郡が本拠といわれますが、河内国、播磨国なども考えられます。 

[武神彼氏2]の[13*姫の犯した罪と罰]で書きましたが、追考として考えます。次回の投稿前に、ぜひ、読んでください。



 スミヨシ三神と同じく、神功皇后に関わる八幡神。
 八幡神は、神話に書かれてません。つまり神話に応神天皇の関係も書かれてません。欽明天皇により応神天皇の神霊が八幡神となります。
 幡は佛教祭儀で立てる飾り布。大きな幡は大きな威徳(神威)の佛を表します。ヤタノカラス(八咫烏)、ヤタノカガミ(八咫鏡)と同じく、大きな幡。のちに大いな威徳を憑りつかせるため、大きな幡(または多くの幡)を立てます。
 八幡(ハチマン)神は、本来は八幡(ヤハタ)と読みます。様々な神託を行い、神格を上げます。神託の神、そして大きい幡(旗)をひるがえす武神として軍事貴族(武家貴族)や武士に奉じられます。
 葬儀で生前の威徳を大きく見せるため、大きな幡を立てます。
 戦地で自軍の威徳を大きく見せるため、大きな幡を立てます。

 鹿児島神宮の社伝で、継体天皇の時代に流れ着いた古代中国の王女オオヒルメ(大比留女)の子が八幡神と伝えます。昔の祭神。つまり昔の祭神は蕃神(渡来神)、天ツ神。高天原の日神の別名もオオヒルメ。日向(日当)山の山麓に建つ鹿児島神宮の、今の祭神はホノニニギでなく、山のサチヒコ(天津日高彦火火出見尊)。島津氏が祀りました。鹿児島神宮は山のサチヒコの居宮跡地といわれます。
 鹿児島神宮の社伝は、島津氏はホノニニギよりも山のサチヒコのほうが、天孫降臨の神話よりも海幸山幸の神話のほうが大事。九州南域を治める正統な理由が大事。
 ホノニニギは山神オオヤマツミの娘神コノハナサクヒメを娶り、山のサチヒコが生まれます。山のサチヒコは海神オオワタツミの娘神トヨタマヒメ(古事記:豊玉毘売/日本書紀:豊玉姫)を娶り、ウガヤフキアエズ(ウカヤフキアハセス)が生まれます。ウガヤフキアエズは妹のタマヨリヒメ(古事記:玉依毘売/日本書紀:玉依姫)を娶り、神武天皇が産まれます。じつはコノハナサクヒメも、トヨタマヒメも、タマヨリヒメも、山神、海神に奉じる巫の神格化といわれます。そして奉じる巫神が奉じられる娘神となります。
 山のサチヒコも神武天皇も、幼名(諱)は彦火火出見命。山神と海神に認められ、海のサチヒコを負かし、日向の地を治める神威と権威の襲名と考えられます。薩摩国、大隅国、日向国を治める島津氏も肖ります。

 一説に安曇氏の祀るワタツミ三神とオオワタツミは別神といわれます。
 オオヤマツミはクマソ(山人族)が祀る神、オオワタツミはハヤト(海人族)が祀る神。島も山のため、オオヤマツミもオオワタツミもハヤト、または九州全域の海人族が祀る神と考えられます。九州全域にある多数の島々。ならばワタツミ三神もオオワタツミと考えられます。
 神武天皇も、日向国に移ったアタのハヤトの姫を娶ります。
 神武東征のまえ、日向国吾田邑(吾田村)のアヒラヒメ(日本書紀:吾平津媛・古事記:阿比良比売)を娶ります。アヒラヒメの兄は、海のサチヒコの後裔といわれるアタのハヤトの王(日本書紀:吾田君小橋・古事記:阿多之小椅君)。産まれた子はタギシミミ(日本書紀:手研耳命・古事記:多芸志美美命)とキスミミ(日本書紀:記載なし・古事記:岐須美美命)。タギシミミは謀反を起こします。
 キスミミはミナカタヌシと同神のミホススミ(御穂須々美命)と同神といわれます。ミホススミは島根半島の東端に建つ美保神社(島根県松江市/式内小社/国幣中社)の本来の祭神。さらに能登半島の先端に立つ須須神社(石川県珠洲市/式内小社/村社)の祭神。
 出雲国風土記で、八束水臣津野命(古事記でスサノヲの4世孫神の淤美豆奴神と同神)は、国土が狭かったので、杭を打ち、網で高志国(能登半島の一部)を美保の崎(地蔵崎)に、新羅国(朝鮮半島の一部)を支豆支の埼(日御碕)に引いた、国を産んだでなく、国を引いた神話が書かれてます。
 中央政権に抗い、殺されたアタのハヤトの優秀な指導者とミナカタヌシ。
 島津忠久は信濃国の地頭職も任じられ、九州南域(とくに鹿児島県)に多数の諏訪大社の分祀神社を建てます。社名は南方神社。祭神はミナカタヌシ(南方刀美神)。南方(ナンポウ)の彼方の祖神。

 という事でやはり備考は続きます。
 次回は後篇。本当に後篇。たぶん後篇。きっと後篇♪



 おまけでない神社。
 宇佐神宮(大分県宇佐市/豊前国一宮/式内名神大社/官幣大社)は八幡大神(誉田別命/応神天皇)、比売大神(宗像三女神)、神功皇后を祀ります。八幡神社の総本社。
 天台宗、修験道の寺院の並ぶ国東半島の御許山の山麓に建ち、山頂に奥宮と呼ばれる境外摂社の大元神社があります。磐座信仰の祭祀場で、3つの巨石があり、地主神の比売大神を祀ります。ムナカタ三神は、本来は大元神社の祭神といわれます。
 欽明天皇の時代に、佛教とともに応神天皇の神霊として八幡神が祀られ、比売大神と合わさり、さらに神功皇后と合わさり、八幡大神となります。
 ただし大元神社の、本来の祭神は比売大神ムナカタ三神でありません。 
 そして。
 じつはムナカタ三神は1神(1柱)。タキツヒメは三神になる為の、数を合わせる為の神。火須勢理命(または火明命)と同じく、無為の神。三の数霊。アニミズム。数霊言霊崇拝で創られた神。瀬戸内海の要衝となる御許山の山頂の3つの巨石に合わせた神。
 ムナカタ神は、朝鮮半島と日本列島の間の海域、玄界灘の海神を奉じる巫の神格化。
 奉じる巫神が奉じられる娘神となります。とくに沖ノ島(沖津宮)は朝鮮半島と海路、海運、そして国防の要衝となります。ゆえに奉じる海神は、武神の神性もあります。
 宗像大社の祭神は、古事記で沖津宮のタキリヒメ(多紀理毘売)、越前大島(中津宮)のイツキシマヒメ(市寸島比売)、宗像市田島にある辺津宮のタキツヒメ(多岐都比売)。日本書紀と宗像大社の社伝は沖津宮のタゴリヒメ(田心姫=タキリヒメ)、中津宮のタキツヒメ(湍津姫)、辺津宮のイツキシマヒメ(市杵嶋姫)。日本書紀は一書ごとに祭神が異なります。タキリヒメの別名はオキツシマヒメ(奥津島比売)。奥の島の神格化で、イツキシマヒメの別名といわれます。つまり同神。
 じつはタキリヒメは別の神社に祀られてます。
 東松浦半島の呼子港の沖にある加部島の田島神社/佐賀県唐津市/式内名神大社/国幣中社)。旧名を田嶋坐神社。田島に坐す神社。主神として一座にタキリヒメ(田心姫尊)、二座にイツキシマヒメ(市杵島姫尊)、三座にタキツヒメ(湍津姫尊)、田島三神を祀ります。加部島の旧名は壁島。玄界灘の荒波を防ぐ島。沖ノ島と同じく、国防の要衝もなります。
 また、境内摂社に佐用姫伝説の佐與姫(佐用姫)神社が建ち、加部島の別名は姫島。
 佐用姫伝説とタキリヒメの関係はわかりません。

 さらにイツキシマヒメは、厳島の神。厳島神社の祭神。神霊を斎(イツ)き祀る島の神。つまり要衝となる島で海神に奉じる巫神。
 沖津宮の遥拝のための里宮(中津宮・辺津宮)で、海神に奉じる巫の神格化となります。そして奉じる巫神が奉じられる娘神となります。ムナカタ三神は高天原の日神とスサノヲの誓約で生まれた、国ツ神。同じく、生じた五男神は高天原へ渡ったため、天ツ神。天ツ神に従う(奉じる)国ツ神。笑えます。
 イツキシマヒメは宗像大社、厳島神社、そして宇佐神宮(大元神社)の、本来の主神に奉じる巫神。

 石見国(島根県石見地域)に多い大元神社。大元神を祀ります。大元神の本貫、本性はわかりませんが、農耕に関わる神といわれます。そして神紋が亀甲紋で出雲神と考えられます。一説にスサノヲの本貫地の安芸国(広島県安芸地域)の一宮の厳島神社。やはり神紋は亀甲紋。境外摂社に大元神社があります。創建は本社より古く、地主神を祀ります。
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