21 熊野と熊野と熊曽・中篇

文字数 3,598文字

 熊野詣は修験道の修行の疑似体験。
 険しい暗い、奥まった那智山を、曲がりこんだ那智川を辿ると、人の住む領域から境目を越えると神の棲む、神の隠(籠)る領域へと変わります。目の前に広がる明るい神秘な地、神聖な地、まさに観音菩薩の補陀落山(補陀落浄土)。観音菩薩は、熊野大神は善悪貴賤清浄不浄を隔てません。辿った、すべての人を受け入れます。
 そして温泉。修行の後の一温泉。熊野詣がはやります。笑えます。



 九州南域(鹿児島県と宮崎県)は古事記で建日別。日本書紀で襲国。じつは襲国は国名でなく、地名。
 熊曽(古事記:熊曾/日本書紀:熊襲)の地名の所以も、諸説があります。
 まずは肥後国(熊本県)球磨郡から大隅国(鹿児島県)曽於(囎唹)郡までの、蛮族が棲む地。蛮族が棲むクマの国とソオの国の説。
 つぎは大隅国曽於郡だけの、熊のような蛮族が棲むソの国の説。または熊をトーテムとした蛮族が棲むソの国の説。神武東征で、大熊が棲む地の熊野と同説。ノ(野・濃など)という地名は草木の生えた広い平地。ソ(曽・蘇など)という地名は断崖となった河岸、海岸、または滝のある処。
 いずれ中央政権にまつろわぬ、王化に順わぬ、山に隠った蛮族。



 イザナギは、瀬戸内海で黄泉国の穢を禊ぎますが、潮が速い為に儘なりません。潮の緩い橘の小門で禊ぎます。そして三貴神が生じます。禊の地に江田神社(宮崎県宮崎市/式内小社/県社)が建ってます。
 かつて当地は檍原といわれてました。ハラ(原)という地名は農作地以外の平地。居住地。つまり村、国。また、九州で古い地名の原は、ハル(バル)と読みますが、何故か檍原はアハキハラ(アワキハラ/アオキハラ)。
 古事記の筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原、日本書紀の筑紫日向小戸橘之檍原。今の宮崎県宮崎市阿波岐原町。檍は黐や橿などの別名といわれますが、常緑の木はすべて檍(アオキ)。橘も常緑の木。小戸は波食による岸を表し、つまり橘の植る波食崖のある原。
 江田神社の近所に弥生時代の檍遺跡があります。檍遺跡は前方後円墳の墓地遺跡で、国内最大の木槨(木製墓室)が見つかり、有名な奈良県(大和国)の纒向遺跡の木槨を上まわります。大和国と、瀬戸内海の彼岸の日向国の関係が考えられます。また、多数の九州南域限定の地下式横穴墓や横穴墓もあります。大和国の統治以前の、ハヤトの国があった証拠。イザナミと別れたあと、瀬戸内海でワタツミの三神(安曇氏)やスミヨシの三神(住吉氏)に導かれ、ハヤトの国でイザナギは三貴神を産みます、いえ、産ませます。

 神武天皇は、日向国に住む、海のサチヒコの後裔のアタのハヤトの娘を娶ります。海のサチヒコは神武天皇の祖父の兄。伯祖父。
 神武東征のまえ、日向国吾田邑(吾田村)のアヒラヒメ(日本書紀:吾平津媛・古事記:阿比良比売)を妃として娶ります。アヒラヒメの兄はアタのハヤトの王(日本書紀:吾田君小橋・古事記:阿多之小椅君)。
 タギシミミ(日本書紀:手研耳・古事記:多芸志美美)とキスミミ(古事記:岐須美美/日本書紀:記載なし)が産まれます。
 五十鈴川、伊勢、吉野など、同じ地名が多い九州南域と紀伊半島。

 かつて日向国と大和国は、紀伊半島の紀伊国を経て黒潮と紀の川で結ばれてました。
 しかし神武天皇は日向国から瀬戸内海、紀伊水道、そして紀伊半島の熊野国を経て大和国へと進みます。神武東征は黒潮、紀の川を進みません。険しい瀬戸内海と険しい山を進みます。外海の領海権はアタのハヤトにあり、瀬戸内海の領海権のある安曇氏や住吉氏が導いたと考えられます。つまりアタのハヤトと姻戚関係が拗れます。

 のちに神武天皇は大和国で、ふさわしい后としてヒメタタライスズヒメ(古事記:比売多多良伊須気余理比売/日本書紀:媛蹈鞴五十鈴媛)を娶ります。
 カンヤイミミ(古事記:日子八井命神/日本書紀:八井耳命)、ヌナカワミミ(古事記:神沼河耳/日本書紀:神渟名川耳)が産まれます。ヌナカワミミは2代綏靖天皇。カンヤイミミの後裔は多氏。肥国造、阿蘇国造などの九州北域と、科野(信濃)国造などの東北地方を治める支族があります。古事記を編んだ太安万侶も後裔の一人。
 そして。神武天皇の長子の、アタのハヤトの王の妹の子のタギシミミは神武東征に順い、神武天皇の死後に謀反を起こし(た言われ)、カンヤイミミに討たれます。



 宮崎平野は南北に長く、西側は山に、東側は海(日向灘)に囲まれます。
 今の宮崎県の中心は宮崎市。宮(江田神社)の建つ岬(崎)。
 昔の日向国の、大昔の熊曽国の中心は宮崎平野と離れた宮崎県東諸県郡綾町(日向国諸県郡阿陀能奈珂椰)。加久藤カルデラの外輪山に囲まれ、国内最大の照葉樹林があります。霧島連山は、加久藤火山の噴火でできた加久藤カルデラの外輪山。加久藤火山の噴火はいつかわかりませんが、いまだ霧島連山は火山活動を続けてます。

 霧島連山は霧島火山帯のひとつ。南西諸島から開聞岳、桜島(籠島/麑島)、霧島連山、阿蘇山へと連なります。鬼界カルデラ、姶良カルデラ、加久藤カルデラ、阿蘇カルデラの外輪山。霧島火山帯は、山陽の二上山火山帯(瀬戸内火山帯)の火山活動が終わった同時に始まった山陰の大山火山帯(白山火山帯)に連なります。西日本火山帯。九州南域と山陰は火山で結ばれます。火山活動時期が似てます。

  九州全県に火山、または火山活動があります。しかし火山性温泉がある他県と異なり、宮崎県は火山性温泉がありません。
 火山活動がなく、火山性温泉がある和歌山県。火山活動があり、火山性温泉がない宮崎県。熊野信仰は、全国各地の山岳信仰の山に修験道とともに広がります。そして何故か火山性温泉が関わります。霧島連山も山岳信仰、修験道がありますが、熊野信仰ははやりません。



 霧島神社の論社4社の、霧島神宮(鹿児島県霧島市)と霧島岑神社(宮崎県小林市)の主神はホノニニギ(饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊)。東霧島神社(宮崎県都城市)の祭神はイザナギ。霧島東神社(宮崎県西諸県郡)の祭神はイザナギとイザナミ。
 本来の祭神は霧島連山(高千穂峰)を神体とした山神と考えられます。海に聳える島嶼も山のため、オオヤマツミは山神、そして海神となります。また、オオヤマツミは古事記でイザナギとイザナミが産み、日本書紀でイザナギに斬り殺されたカガヒコの屍に生じた神。日向国に移り住んだ海人族アタのハヤト、山人族クマソの奉じる神。
 霧島神社は延喜式神名帳に日向国の式内社とあり、本来は霧島連山の北麓(宮崎県)側に建ってました。霧島連山の再度の噴火で遷ったため、論社4社となり、のちの修験道で道場となった霧島岑神社が比定社といわれました。
 しかし島津氏の意向で霧島連山の南麓(鹿児島県)側の霧島神宮が比定社となります。御朱印に[天孫降臨地]と添え書かれます。

 ホノニニギは、オオヤマツミの娘神コノハナサクヒメを娶り、山のサチヒコが産まれます。コノハナサクヒメもアタのハヤトの娘。山のサチヒコも、神武天皇も幼名(諱)は彦火火出見命。日向国を治める神威と権威の襲名と考えられます。
 薩摩国、大隅国、日向国を治める島津氏はホノニニギ、神武天皇に肖ります。

 延喜式神名帳の式内社、霧島神社の比定社は霧島岑神社。祭神はホノニニギ。
 しかしアタのハヤトの奉じる神、のちにオオヤマツミと呼ばれる神を祀った神社。
 霧島連山(高千穂峰)を神体とした祭祀場に建った神社。
 天孫降臨神話により霧島神社の論社に変わった神社はべつにあります。
 イザナギが禊いだ地の諸県郡。
 昔の日向国の、大昔の熊曽国の中心の宮崎県東諸県郡綾町(日向国諸県郡阿陀能奈珂椰)。東霧島神社(宮崎県都城市/もとは北諸県郡)と霧島東神社(宮崎県西諸県郡)があります。東霧島神社の社伝で、鬼磐階段の説話を伝えます。



 明治維新。
 神武東征は紀元前667年。さらに天孫降臨は1792480年前。さらに日神生誕はもっと前。明治6年(1873年)に熊曽国、日向国は、宮崎県となります。
 島津氏の県民教育で、県民は神話(天孫降臨神話や神武東征神話)を、史話(明治維新)を誇らしく語ります。

 という事で続きます。



 おまけの神社。
 宮崎神宮(宮崎県宮崎市/官幣大社)の創建、由緒は不明。天孫降臨神話と神武東征神話で、近所で有名な神社。明治6年(1873年)に明治政府が宮崎神社と変えます。
 宮崎神宮は神武天皇の皇宮の跡地に建ったといわれます。神武天皇の生誕地に建った狭野神社(宮崎県西諸県郡)、宮崎神宮、そして天孫降臨地と東征出立地に建った高千穂神社(宮崎県西臼杵郡)も古社といわれますが、神話とともに編まれた延喜式神名帳に江田神社以外は載ってません。
 江田神社があり、宮崎郡(宮崎市)となり、宮崎神宮と変わります。
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