7 鹿児島神宮と宇佐神宮・後篇

文字数 2,979文字

[鹿児島神宮と宇佐神宮・後篇]の再再投稿。前回の投稿分と、[1熊曽国と日向国・前篇]も再考&改稿。
 考えすぎ、長すぎの雑考となりすぎました。という事で、潔く分けました。

 娘神(姫神)は、神に奉じる巫の神格化。奉じる巫神が奉じられる娘神となります。奉じる神が主神、娘神が配神(随神)として祀られる事もありますが、奉じる神が祟る神となると、忌み(斎み)隠そうとなります。やがて隠した神が忘れられ、娘神だけが祀られる事もあります。忘れられた、隠された、巫が奉じた祟る神を考えます。



 宇佐神宮の祭神は神託の神、八幡神。
 21代雄略天皇や31代用明天皇の病を治した巫は、すでに大和国で有名。治癒で有名な巫の奉じる神、八幡神。次第に八幡神の神託も有名になります。
 有名な神託が769年の道鏡事件。
 そしてクマソ(ハヤト)の反乱から東大寺の建立へと連なった神託があります。

 最初に、史話に書かれた麑島(籠島)、つまり桜島の噴火は708年。以前も噴火や火山活動はありました。何故、708年の噴火が記録に書かれたのでしょうか。
 
 702年にクマソの反乱が起き、征討、分断、統治のため、同年に唱更(ハヤト)国ができ、704年に薩摩国となります。分断、統治に従ったサツマのハヤトの国。
 従ったクマソをハヤトという説と、山人族のクマソと海人族のハヤトという説があります。海に聳える島も山。生活圏を海岸や河岸から山奥へと移したハヤトがクマソとなり、もとは同族と考えられます。

 所有権がはっきりとできない海や海の幸と異なり、山や山の幸の所有権ははっきりとできます。クマソは突然と襲われ、有無を言わせず、所有権を奪われます。

 4年後の708年に祟るように麑島の噴火。同年に鹿児島神宮の遷祀があります。
 現社地は日向(日当)山の山麓。旧社地は山麓の奥まった処。山のサチヒコの皇宮の跡地。ウガヤフキアエズ(ウカヤフキアハセス)の生誕の地。石體神社が建ってます。
 石體神社は鹿児島神宮の元社。ただし宮浦神社(宮浦宮/鹿児島県霧島市/式内小社/県社)と同じく、わからない事が多い神社。安産祈願の神社。

 鹿児島神宮の社伝で、544年に八幡神の降臨を伝えます。宇佐神宮の創建(550〜570年)以前に合わせたと考えられます。鹿児島神宮の創建は不明となりますが、708年の遷祀で、本来の祭神が八幡神に変わります。
 クマソの再乱に応じるようにオオスミのハヤトの反乱が起き、713年に大隅国ができ、宇佐神宮の分祀で714年に韓国宇豆峯神社が建ちます。
 4年後の718年にさらに祟るように麑島の噴火。
 720年にアタのハヤトの反乱が起きます。また、同年に藤原氏の氏祖の藤原不比等が疫病で病死。不比等は当代45代聖武天皇の祖父。
 持統天皇の子の草壁王も、孫の42代文武天皇も早世。皇統は子と孫の后の43代元明天皇、44代元正天皇の女天皇が継ぎます。曽孫の聖武天皇も病弱。疫病、政争が続くなか、麑島の噴火とクマソ、ハヤトの反乱が続きます。
 さらに不比等の子の藤原四兄弟も疫病で病死。内乱内戦、飢餓、そして地震が続きます。麑島の祟りは近づきます。
 聖武天皇は逃げるように740年に山城国の恭仁京、744年に摂津国の難波京、745年に大和国の平城京に遷都。近づく麑島の祟り、逃げる聖武天皇。
 そして。
 聖武天皇は八幡神の神託で、ハヤトの慰霊と殺生の滅罪のため、放生会を行います。
 高天原の日神の神託でありません。皇祖神のタカミムスヒの神託でありません。
 出自不明の神の神託を信じ、佛を頼り、全国に国分寺(国分尼寺)を、大和国に総国分寺として東大寺を建てます。八幡神は神佛習合を進めた神といわれます。
 752年の東大寺盧舎那佛像の開眼供養会。国ツ神、天ツ神、八百万神の代表として八幡神が、慈悲を求めて佛に跪きます。国ツ神、天ツ神の代表は高天原の日神でなく、皇祖神のタカミムスヒでなく、蕃神。神話に書かれてない、出自不明の神。
 
 麑島の噴火、反乱、疫病、飢餓、地震、政争は、なにも因果関係はありません。
 しかし聖武天皇は、天武天皇の死因を思いだします。

 八幡神の神託は巫が告げます。
 八幡神に奉じる一族の娘が、八幡神の神託を告げます。
 言わない高天原の日神、言わなくなったタカミムスヒに代わり、八幡神は言います。
 宮中の巫は、奉じる一族のため、タカミムスヒの神託を告げません。
 神宮の巫は、奉じる一族のため、高天原の日神の神託を告げません。
 天武系皇統に仕える一族は、忖度のすえ、思慮のすえ、神託を告げられません。



 天智天皇は秦氏に山城国遷都を勧められました。しかし山城国はいまだ未開の地で、天智天皇は断り、息長氏の勧めた近江国遷都を決めました。
 壬申の乱で、息長氏は天武天皇を導き、勝ち、天武系皇統が続きます。
 天智系皇統は絶えます。

 八幡神は中央政権の権威で神威を高めます。祀る一族の権威を広めます。

 聖武天皇の娘の46代孝謙天皇(重祚で48代称徳天皇)による道鏡事件。八幡神の神託で天武系皇統が絶え、天智系皇統が復します。現代に継がれる皇統。
 769年の道鏡事件から1468年まで、約700年は麑島の噴火はありません。
 八幡神は天智系皇統の守護神となります。

 天智系皇統に復した桓武天皇は、再び、秦氏に山城国遷都を勧められます。そして秦氏の本拠地に約1000年も続く平安京ができます。現代の京都に繋がります。

 宇佐神宮の遥拝、平安京(京都府)の守護、そして神宮と並ぶ二所宗廟として石清水八幡宮(男山八幡宮/京都府八幡市/二十二社(上七社)/官幣大社)が建ちます。
 高天原の日神を離れた伊勢国に逐いやり、もっと離れた豊前国の八幡神を祀ります。
 一説に天武系皇統の守護神の祀る神宮ゆえに天智系皇統の天皇は親拝を行わないといわれます。笑えます。

 慶応4年(1868年)に石清水八幡宮親拝のあと、薩摩藩の大久保利通の奏上により遷都が進められます。大政奉還、王政復古をめざした明治維新。

 屬天皇我皇可牧萬民之運、天人合應、厥政惟新。

 古いしがらみを棄て、維新(惟新)なる時代の為の遷都計画。
 しかし古いしがらみを棄てきれず、奠都となります。江戸を東の京の都、東京と改め、東西両京とした東京奠都。



 八幡神に奉じる一族の権威は広まり、権力は高まり、権威、権力を求め、一族の内紛が次々と起きます。創建時の奈良時代から現代まで、約1500年も続きます。笑えます。

 という事で続きます。



 おまけの神社。
 新田神社(鹿児島県薩摩川内市/薩摩国一宮/国幣中社)は、主神にホノニニギ(天津日高彦火邇邇杵尊)、配神に父のオシホミミ(正哉吾勝々速日天忍穂耳尊)と祖母の高天原の日神(天照皇大御神)を祀ります。
 薩摩国の、本来の一宮は枚聞神社(鹿児島県指宿市/式内小社/国幣小社)。国府の近所で、鎌倉幕府と島津氏の意向で当社が一宮となります。明治政府の社格も枚聞神社よりも上格。当地はホノニニギの皇宮の跡地、陵墓といわれます。なのに江戸時代までは八幡神を祀り、新田八幡宮(川内八幡宮)と呼ばれてました。笑えます。
 明治政府により1874年(明治7年)にホノニニギの陵墓となり、1914年(大正3年)に新田神社となります。天皇親拝で有名。
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