第1話:日本の昭和、満州事変

文字数 1,523文字

 原幸恵は横浜・伊勢佐木町の名家、原家の次女1921年5月8日に生まれた。一方、友原勇吉は横浜の友原商店に1921年1月10日に誕生した。大正時代は日本でも船景気など経済も順調だった。しかし、その後の日本経済は第一次世界大戦時の好況「大戦景気」、1920年には戦後不況に陥って企業や銀行は不良債権を抱えた。1923年に発生した関東大震災により経済混乱に見舞われた。

 その復興のために発行された震災手形が膨大な不良債権と化した。さらに中小の銀行は折からの不況を受けて経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていた。1927年3月14日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相が「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と失言し、金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生した。一旦は収束したが4月に鈴木商店が倒産した。

 その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれたことから金融不安が再燃した。これに対して高橋是清蔵相は片面印刷の200円券を臨時に増刷して現金の供給に手を尽くし、銀行もこれを店頭に積み上げるなどして不安の解消に努め、金融不安は収まった。ところが、1929年「昭和4年」10月にアメリカ合衆国で起き世界中を巻き込んでいった世界恐慌の影響が日本にも押し寄せた。

 1930年から1931年にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた、このが戦前の日本における最も深刻な恐慌となった。第一次世界大戦による戦時バブル「日本の大戦景気」の崩壊により銀行が抱えた不良債権が金融システムの悪化を招いた。一時は収束したが、その後の金本位制を目的とした緊縮的な金融政策により日本経済は深刻なデフレ不況に陥った。
 恐慌は1932年まで続き、満州事変による軍需景気で収束した。1931年9月18日の柳条湖事件に始まった日本軍の満州侵略戦争と続いた。関東軍は軍中央の反対で当初、企図していた満州領有は断念したが親日政権を樹立させた。次いで独立国樹立をめざして着々と工作をすすめ、1931年11月には清朝廃帝の愛新覚羅溥儀「あいしんかつらふぎ」を天津の日本租界から満州へ脱出させた。

 また、日本はイギリスなどの対日宥和「ゆうわ」政策を利用し、国際連盟で現地への調査委員会派遣を提案、12月これが可決され、イギリスのリットンを隊長とする調査委員会が派遣されることとなった。1932年10月2日公表されたリットン報告書は日本の主張を否認し、東三省の列強による共同管理を提案した。もちろん、日本は、これに強く反発した。

 しかし、1933年2月24日に国際連盟総会でリットン報告書が42対1「反対は日本のみ、シャムが棄権」で可決されると、日本代表松岡洋右は総会を退場した。3月17日、日本は連盟に脱退を通告し、ワシントン体制から離脱する方向へ向かった。この間、1933年1月に関東軍は「満州国」の領域と主張する内蒙古「モンゴル」の熱河省に侵攻した。

 2月以降には万里長城を越えて関内の河北省にも攻め込んだ「熱河作戦」5月21日、塘沽停戦協定が調印され柳条湖事件以来の軍事的膨張はいちおう終結し、関東軍は長城線へ撤収した。1934年3月「満州国」は帝政を施行し、溥儀「ふぎ」は皇帝となった。日本の軍部は在満機構改革を強引に進め、12月対満事務局の発足で満州を一元的支配下に収めた。

 関東軍は「匪賊『ひぞく・徒党を組んで略奪・殺人などを行う盗賊』」の討伐を重ねたが日本の経済開発による収奪、特に満州移民に伴う土地略奪は不断の抗日運動を活発化させた。日本は抗日運動の根絶と資源・市場の獲得をめざし1935年から華北工作を推進したが中国の抗日救国運動を活発化させた。
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