第4話:敗戦処理1

文字数 1,555文字

 日本政府はポツダム宣言受諾で全日本軍が降伏を決定する用意がある事実を8月10日の8時に海外向けのラジオの国営放送を通じ、日本語と英語で3回にわたり世界へ放送し、また同盟通信社からモールス通信で交戦国に直接通知が行われた。また中立国の加瀬俊一駐スイス公使と岡本季正駐スウェーデン公使より、11日に両国外務大臣に手渡され、両国より連合国に渡された。

 なおスウェーデンなど一部の中立国ではポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する用意がある事実を「日本が降伏した」と早とちりし、一部マスコミがこれを報道した場合があった。ソ連大使館側の要請で10日11時から貴族院貴賓室にて外相東郷と駐日ソ連大使ヤコフ・マリクの会談が行われた。その中で、マリク大使より正式に対日宣戦布告の通知が行われた。

 それに対し、東郷は「日本側はソ連側からの特使派遣の回答を待っておりポツダム宣言の受諾の可否もその回答を参考にして決められる筈なのに回答もせずに何をもって日本が宣言を拒否したとして突然戦争状態に入ったとしているのか」とソ連側を強く批判した。また、10日夜にはソ連軍による南樺太と千島列島への進攻した。

 つまり沖縄に次ぐ日本固有の領土内での市民を巻き込んだ市街戦も開始された。ポツダム宣言は日本政府により正式に受諾されたが、この時点では日本軍や一般市民に対し伏せられており停戦も全軍に対して行われておらず、それはポツダム宣言受諾=降伏ではないことから完全な停戦をでないのはイギリスやアメリカ、ソ連などの連合国も同様であった。

 実際8月10日にはアメリカ軍により花巻空襲が行われ家屋673戸、倒壊家屋61戸、死者42名の被害を出した。8月11日と12日の両日においては日本、連合国の双方の首脳陣において大きな動きはなかったが、8月12日には皇族に対してポツダム宣言受諾を昭和天皇から伝えられた。12日0時過ぎに連合国は日本のポツダム宣言受託決定を受けてアメリカのバーンズ国務長官による返答を行った。

 その回答を一部和訳すると「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため、この必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に『subject to』する」というものであった。外務省は「subject to」を「制限の下に置かれる」だと緩めの翻訳、解釈をしたが、12日午前中に原文を受け取った参謀本部は、これを「隷属する」と曲解して阿南陸相に伝えた。

 そのため、軍部強硬派が国体護持について再照会を主張し、アメリカ1国だけの回答でもあり、鈴木首相も再照会することについて同調した。さらに8月12日の午後、軍令部総長の豊田は梅津陸軍参謀総長ともにポツダム宣言受諾の反対を奏上する。同日、米内海軍大臣は豊田と大西の2人を呼び出した。

 米内は豊田の行動を「それから又大臣には何の相談もなく、あんな重大な問題を陸軍と一緒になって上奏するとは何事か」
「僕は軍令部のやることに、とやかく干渉するのではない」

「しかし、今度のことは、明らかに一応は海軍大臣と意見を交えた上でなければ軍令部といえども勝手に行動すべからざることである。」
「昨日、海軍部内一般に出した訓示は、このようなことを戒めたものである」
「それにも拘らず、かかる振舞に出たことは不都合千万であると非難し、豊田は「申し訳ない」という様子で一言も答えなかった。

 8月13日の9時から行われた軍と政府の最高戦争指導会議では、「バーンズ回答」をめぐり再度議論が紛糾した上、この日の閣議は2回行われ、2回目には宣言の即時受諾が優勢となった。しかし1日以上経っても「バーンズ回答」に対して日本政府側からの回答がなかったため、アメリカ軍とアメリカ政府では「日本の回答が遅い」
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