第6話:終戦直後の騒動

文字数 1,573文字

 8月15日未明、「聖断」をも無視する椎崎二郎中佐や井田正孝中佐などの狂信的な陸軍将校により玉音放送の録音音源の強奪とクーデター未遂事件が皇居を舞台に発生し森赳近衛師団長が殺害されたが15日朝に鎮圧されるなど昭和天皇の元ポツダム宣言受諾をしたにもかかわらず陸軍内で争いが起きた。6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べている。クーデター中、阿南惟幾陸相は15日早朝に自殺した。

 また7時21分より全国と外地、占領地のラジオ放送で正午に昭和天皇自らのラジオ放送が行われる旨の2回目の事前放送が行われた。正午に昭和天皇はラジオ放送「玉音放送」をもって日本の全国民と全軍にポツダム宣言受諾と日本の敗戦を表明。全ての日本軍の戦闘行為は停止され玉音放送終了後、直ちに終戦に伴う臨時閣議が開催された。鈴木首相から「阿南陸軍大臣は今暁5時に自決されました。謹んで、弔意を表する次第であります」との報告があった。

 そして、阿南陸相の遺書と辞世の句も披露された。
「大君の 深き恵に 浴みし身は 言ひ遺こすへき 片言もなし」
 閣僚達は1つ空いた陸軍大臣の席を見ながら予想していたこととはいえ大きな衝撃を受けた。午後、大本営は大日本帝国陸軍と海軍に対し「別に命令するまで各々の現任務を続行すべし」と命令し、自衛のための戦闘行動以外の戦闘行動を停止するよう」命令した。

 しかし、日本の敗戦を知った厚木基地の一部将兵が16日に徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり停戦連絡機を破壊するなどの抵抗をした。しかし、徹底抗戦や戦争継続の主張は止んだ。他には大きな反乱は起こらず外地や占領地を含むほぼ全ての日本軍が速やかに戦闘を停止した。大任を終えた鈴木内閣は8月17日、「閣内の意見を統一できず、聖断を仰ぐに至った責任を取る」として、内閣総辞職し、後継に東久邇宮内閣が成立した。

 1945年11月1日に東京の日比谷公園で餓死対策国民大会が開催された。友原家の方では幸恵さんが1945年2月1日に体調が悪いと告げた。そこで産婦人科を受診すると妊娠が判明し出産予定日が12月11日と告げられた。友原勇吉が東京は危ないと感じ、1945年4月初旬に友原幸恵さんと共に箱根湯本にある原家の定宿の旅館に部屋を借りて疎開した。1946年5月12日には、東京世田谷区で「米ヨコセ」区民大会が開かれたが。

 そして、宮城へデモ行進し、一部の人々は坂下門まで、なだれ込む事件が発生した。1週間後には飯米獲得人民大会「食糧メーデー」が大規模に開催され、飯米獲得人民大会代表が首相官邸に座り込みをかけた。腹を空かした子供たちが街中で通りすがりの進駐軍兵士たちにガムやチョコレートなどをねだる光景も散見された。こうした極悪の食糧事情を背景として、特に都市部の子供たちの体格が痛ましいほどに悪くなった。

 文部省の調査によると、戦前「1937年」と戦後「1945年」の7歳~13歳の児童の平均体位を比較すると田舎では若干の減少に留まった。しかし、都市部では男女ともに身長も体重も大幅に減少した。例えば小学校6年の女児では体重で2.2キロ、身長で4.4センチも萎縮した。そんな1945年12月8日に友原幸恵さんが小田原の病院に入院し12月11日に男子を出産した。その後、友原初男と名付けた。

 しかし、この頃の食糧事情は厳しかった。それでも箱根湯本の宿の女性達が食べ物を供出してくれ何とかしのいだ。この当時の猛烈なインフレーションで終戦後の庶民の生活は厳しいものだった。消費者米価は政府の厳しい管理下にあるにもかかわらず敗戦から2年後の1947年には戦前の46倍になり1950年には160倍にも達した。また、東京の小売物価指数は戦後5年の間に250倍近くにもなったと言う。
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