第2話:日中戦争から日米大戦で敗北

文字数 1,553文字

 1937年7月蘆溝橋事件を発端とする日中戦争の全面化に至った。1937年ついに中国との全面戦争へと発展した。その後、世界情勢が急変する中、事態はいっそう深刻化していった。1939年、ヒトラー率いるドイツと、イギリス・フランスとの間で戦争「第二次世界大戦」が始まった。日本はドイツ・イタリアと同盟を結んだ。

 そして、東南アジアの資源を確保するためフランス領インドシナ北部「現在のベトナム」に軍を進めた「北部仏印進駐」。日独伊三国同盟とイギリス・アメリカとの対立は決定的となった。その後、さらに日本がフランス領インドシナの南部にまで軍を進めると「南部仏印進駐」、アメリカは態度を硬化させた。日本に対しフランス領インドシナ、そして中国からの軍の撤退を強く要求した。

 石油やくず鉄の輸出を禁じる経済制裁を発動した。石油の7割をアメリカからの輸入に頼っていた日本にとっては大変な衝撃だった。経済的な打撃と同時に艦隊や軍用機が動かせなくなるため軍事的にも大きな打撃を受けることになるからだった。海軍の作戦計画を担う軍令部のトップは、このまま石油がなくなれば艦隊を動かせなくなるとして「むしろこの際、打って出るのほかなし」と昭和天皇に伝えた。

 また、日中戦争では十数万の死者が出ていたことから、東條英機陸軍大臣「開戦時は総理大臣」は、「米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ」と、アメリカが求める中国からの撤兵に反対した。日本とアメリカは外交交渉を続けたが、1941年11月、アメリカからさらに厳しい要求が出されると日本側は交渉妥結の見込みはないと判断して最終的に開戦を決定した。

 マレー半島上陸と真珠湾攻撃により戦争を始めた日本軍は、石油を産出するオランダ領東インド「現在のインドネシア」を占領するなどして、「自給自足」の体制をつくりアメリカ・イギリスに対抗しようとした。日本は戦争の目的として「自存自衛」、ついで「大東亜共栄圏」の建設を掲げ、戦争を始めた日本だった。しかし、アメリカ・イギリスの二大大国と戦って勝てるという明確な見通しはなかった。

 昭和天皇に「絶対に勝てるか」と問われた海軍軍令部のトップは「絶対とは申しかねます」と返答した。多くの指導者たちは、日本軍が優勢を保っている間にドイツがイギリスに勝利すれば、有利な条件で講和できるだろうと考えていた。実際には、日本が戦端を開いたことによりアメリカが全面的にヨーロッパ戦線にも参戦した。

 しかし、1941年6月に始まっていたドイツとソビエト連邦の戦争でもソビエトが攻勢に転じるなど日本のもくろみは崩れていった。1943年にイタリア、ドイツが降伏しアメリカ軍は日本に攻撃を集中させた。1945年に連合国軍は日本に無条件降伏を求めたが、日本はこれに応じなかった。同年8月に広島と長崎に原子爆弾が投下された。また、ソ連軍は弱った日本軍を見て満州や朝鮮に侵攻した。

 その後、日本はポツダム宣言で降伏を決め1945年8月15日、昭和天皇がラジオ放送「玉音放送」で国民に向けて降伏を発表した。こうして、第二次世界大戦は連合国軍の勝利で終結した。最終的には日中戦争も含めて約310万人の死者を出し、1千万人以上もの人々が家を失ったと言われている。主要な都市はほとんど焦土と化し、町の至る所に焼け爛れた家の残骸が残った。

 急場しのぎのトタン板を使った急造のバラックが散見される様になった。1945年に連合国に降伏した。製造工業の生産指数も52%にまで低下し日本のGNPは米国の僅か4%程度にまで低落した。その結果、365万人の在外軍人を含み、総計643万人の海外からの引き揚げ者を収容できるような産業の状態ではなく街には戦災孤児や失業者が溢れていた。
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