第8話:キーナン判事と朝鮮戦争

文字数 1,527文字

 この答弁からウェブ裁判長は回答の持つ重要性を指摘した。ソビエト連邦代表検察官であるゴルンスキーも天皇の訴追についてキーナンに進言した。キーナンは早急に田中隆吉・元大日本帝国陸軍少将を通して松平康昌式部長官→木戸→東條のルートで極秘に前述の証言を否定するよう東條説得工作を行い。この工作は功を奏した。

 1948年1月6日の法廷で東條は、キーナンの「その戦争を行わなければならない、行えというのは、裕仁天皇の意思でありましたか?」という質問に対し、太平洋戦争開始の詔勅の中にある「豈朕カ志ナラムヤ『誠にやむを得ざるものであり、朕の意思にあらず』」という言葉を例に、天皇は東條の進言で開戦に「しぶしぶご同意になった」と再証言した。

 この証言により、天皇の戦争責任に関する問題は決着が付けられ、再び論議が法廷で交わされることはなかった。東京裁判の判決に対してキーナンは、『なんというバカげた判決か。シゲミツは、平和主義者だ。無罪が当然だ。マツイ、ヒロタが死刑などとは、まったく考えられない。マツイの罪は、部下の罪だから、終身刑がふさわしい。ヒロタも絞首刑は不当だ。どんなに重い刑罰を考えても、終身刑までではないか。』と批判した。

 やがて1950年が明け、6月25日に勃発し、3年間に及んだ朝鮮戦争でのアメリカ軍を主体とした国連軍からの派兵は、最高時50万を超え、その使用した弾薬の量は、アメリカが太平洋戦争で日本軍に対して使用したそれをこえるという大規模な戦争であった。この朝鮮に出動した国連軍の軍事基地・補給基地となった日本に対し、アメリカ軍から多量の物資・サービスの需要が発生した。

 特需の内容は、約7割が物資調達で当初は土嚢用麻袋・軍用毛布と綿布・トラック・航空機用タンク・砲弾・有刺鉄線が多かったが、1951年7月10日の休戦会談開始以降は、鋼材・セメントなど韓国復興用資材の調達が増大した。サービスでは、トラック・戦車・艦艇の修理、基地の建設・整備、輸送通信などが過半を占めていた。それらの調達額は、3年間の累計で約10億ドルにのぼった。

 その他、在日国連軍将兵の消費や外国関係機関からの発注などの間接特需があり、これらを含めると特需の総額は停戦が実現した1953年までに24億ドル、1955年までの累計で36億ドルに達した。ちなみに1950年から1953年にかけての1年間の通常貿易による輸出額は10億ドル程度であったから、特需の規模がいかに大きかったかが解る。

 1954年11月を底に1957年6月まで31か月続いたされる神武景気は、朝鮮戦争により朝鮮半島に出兵した米軍への補給物資の支援、戦車や戦闘機の修理請負の特需で輸出や貿易外受取が増加し、商品市況が大幅に上昇し、もたらされた。この好景気により日本経済が第二次世界大戦前の水準を回復し1956年の経済白書には「もはや戦後ではない」と記された。

 また、好景気は家計の所得を増やし、耐久消費財ブームが発生、三種の神器「冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビ」が普及した。その後、1958年7月から、さらに強烈な好景気「岩戸景気」が起きた。これは、活発な技術革新により「投資が投資を呼ぶ」という設備投資主導の景気拡大が生まれた。それと同時に日本でも「三種の神器」が急速に普及した。

 1960年12月には国民所得倍増計画が発表され、本格的に高度経済成長の時代へ突入した。好景気の影響は個人の生活にも恩恵をもたらし、三種の神器と呼ばれ白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が普及した。一方、輸入が急増したことから外貨不足に陥り国際商品相場と海運運賃の下落もあり1957年後半から1958年にかけ、なべ底不況となった。
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