第13話:不景気、バブル崩壊と円高進行

文字数 1,542文字

 これは日本の景気動向指数でみる景気循環における第11循環の拡大期に当たった。指標の取り方にもよるが、おおむね、1986年12月から1991年2月までの4年3か月「51か月」間を指す。この好景気は1965年11月~1970年7月の4年9か月の57か月続いたいざなぎ景気に次いで第二次大戦後3番目に長い好況期間となった。

 バブル以前の1985年、プラザ合意直後の日本は円高不況と称された深刻な不況で特に急激に国際競争力を失った輸出産業は大打撃を受けた。そのため、東京や大阪の町工場の倒産が続出。当時の日本のGDPに占める製造業比率は高かった。現在ではその比率が18%程度で円高が輸出産業、日本経済に与えたダメージは現在では考えられない程、大きかった。そのため、製造業の日本国外への流出もこの時期に本格化した。

 その後、内需拡大の掛け声と共に平成元年に所得税の国税地方税を合計した最高税率が88%から75%に引き下げられた。富裕層の手取り収入が最大2倍に増えバブル景気を後押しした。円高不況が消え多くの一般の人がいわゆるバブル景気の雰囲気を感じたのは1988年頃~1991年2月のバブル崩壊以降であった。日本のバブル崩壊による深刻な経済問題が表面化するまでには数年の時間を要し、当初は一時的な景気後退として楽観論が大勢を占めていた。

 1992年には政治的に宮沢喜一などが公的資金投入による早期の不良債権処理に言及しているが、官庁、マスコミ、経済団体、金融機関などからの強い反対にあい実行に至らなかった。バブル崩壊と同時に1973年から続いてきた安定成長期は終焉を迎えた。そして、失われた10年の引き金となった。「バブル経済」という言葉が広く一般に実感を伴って認知されたのは、むしろバブル崩壊後であった。

 バブル崩壊後には平成不況が到来し、後の不況期は「失われた10年」さらに不況が長期化するにつれ「失われた20年」「失われた30年」と呼ばれた。振り返ると安定成長とバブル期を分けたのは1985年9月のプラザ合意だった。その後のルーブル合意まで百円以上の急速な円高が進行した。フリードマンは「日本の『バブル経済』は1987年のルーブル合意がもたらしたものである」と指摘した。

 バブル以前の1985年のプラザ合意直後の日本は円高不況と称された深刻な不況であり急激に国際競争力を失った輸出産業は大打撃を受け、東京や大阪などの町工場には倒産が続出した。当時の日本のGDPに占める製造業比率は高く、円高が輸出産業、ひいては日本経済に与えたダメージは現在と比較にならないほど大きかった。

 そのため、製造業の日本国外への流出もこの時期に本格化した。当時、米ドル高による貿易赤字に悩むアメリカ合衆国はG5諸国と協調介入する旨の共同声明を発表した。これにより急激な円高が進行し、1米ドル240円前後だった為替相場が1年後に150円台まで急伸。日本と西ドイツがアメリカのドル安政策の標的にされた。

 このショックを和らげるため日本政府は、内需主導型の経済成長を促すため公共投資拡大などの積極財政をとった。一方で日銀は段階的に公定歩合を引き下げ「最終的には2.5%」、長期的に金融緩和を続けた。この結果、長期景気拡大をもたらした一方で株式・土地などへの投機を許しバブル発生を引き起こしたと言われている。

 1990年が明け1月13日に大学入試センター第1回試験が実施された。2月中旬、友原真弓は横浜市立大学商学部を受験した。その翌週、母と横浜市立大学へ行き、掲示板を見て自分の受験番号を見つけ合格を確認。その後、入学手続きをとり自宅に帰った。6月29日天皇の次男、礼宮文仁親王と川嶋紀子が結婚、秋篠宮家を創設した。
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