Days without You
文字数 2,204文字
嘘だ。そう否定することすらできなかった。
夢だ。そう切り替える余裕もなかった。
頭が思考すること自体を拒絶した。理性が動揺に呑まれた証拠だった。
*
待ちに待ったその日。始業時間を過ぎても君の姿は見えなかった。遅刻の報告も受けておらず、行方を探ろうとした瞬間、社用携帯が震えた。知らない番号だった。
「はい、企画部の一色です」
『総務の高橋です。突然失礼します。一色さん、落ち着いて聞いてください。あの、そちらに所属の、晴海璃子さんですが……』
どうして。
そんなこと聞いても誰も答えてくれやしない。そんなこと分かってる。
どうして。
後悔しても遅いこと分かりきってる。ただ割り切れない。
どうして。
君の笑顔を見つめたかった。変わらずそこに居てくれると思ってた。君の幸せを見守りたかった。君を、守りたかった。
「……嘘だ……」
*
お焼香の香りが好きじゃない。悼む気持ちを無性に煽られている心地がする。現実を受け止めろと、急かされているようで嫌気が差す。祖父母も両親も元気だし、次に触れるのは当分先だと高を括っていたのだが。
君の顔には傷一つ無く、不自然なくらい、君のままだった。
立ち上る煙を見上げながら、君は天使になったと、信じることにした。
君らしい藤色の羽で秋空を昇り、天国に迎えられたと、言い聞かせた。
もし良かったら、たまに降りてきて、俺のそばで、郎笑を奏でて。
***
もうすぐ君の三回忌。綺麗な夢を見た。偶然だろうか。君がいた。
穏やかな秋空の雲の上に、君と二人きり。柔らかい雲に腰掛け、先に口を開いたのは君だった。
「主任。一つだけ、質問していいですか?」
「何?」
「主任は今、幸せですか?」
「七割方、かな」
「ふふふ。主任らしい」
「そうかな」
「はい。主任は自己採点厳しいので、満点は来ないだろうなって」
「そんなことないよ」
能力を過信せぬよう自分を節制している訳ではない。残りの三割は、俺の弱さに起因している。前に進むことを、愛を未来に託すことを、尻込みしているだけだ。
「主任」
「うん?」
「学生時代の私って、そこそこ優秀だと自認してたんですけどね」
「え、意外」
「若気の至りってことで大目に見てくださいっ」
「ハハハッ。話の腰折ってごめん。それで?」
「はい。この会社に入って、全然そんなことなかったって、ようやく現実を目の当たりにできたんです」
「できた? 嫌じゃなかったの?」
「はい。むしろ気づけて良かったです。一度学舎の外に出たら、公式や手法を正しく説くよりも、いかにそれらを活用して理解し解決していくか、その姿勢が大事だと分かりましたから。そう教えてくれたのは、主任でした」
「俺?」
「はい。俺です、ふふふ」
彼女が新卒の時を知ってはいるが、教育担当者ではなかったと記憶している。どういうことか尋ねると、嬉しそうに緩む口元。
「私のミスを、経験値ゲットおめでとうって、許してくれたの」
「俺のお粗末な語彙力はともかく、君のためになれていたのなら本望だよ」
「はい! 間違えることにも意味があると思えた時、私、変われたんです。失敗を恐れてやらずに後悔するより、立ち向かって経験値もらった方が良いって考えるようになって。だからあの日、伝えたかったんです」
「あの日?」
「約束の月曜日です」
その言葉はまるでカウントダウンの開始。君は今ここにいるのに、もうじき消えてしまう。月の光のように、夜明けと共に不可視になる存在。
彼女は続けた。
「今の私があるのは主任のおかげですって、お礼を言いたかったんです。ずっと憧れてましたって、言うのを、そばで聞いて欲しかったんです」
憧れの言葉の中身がその通りでないことは、火照った頬を見れば一目瞭然。きっと俺も同じ顔をしているだろう。だって。
「俺も、聞きたかった」
逸らされる視線、遠のく横顔。照れ隠しかと思ったけれど、俺の名を呼ぶ声が、微かに震えていた。
「一つだけ、お願い聞いてくれますか?」
「百個まで聞いてあげる。何?」
「名前を呼んでくれませんか?」
ずるいよ。俺をときめかせて、どうするの。
「おいで。璃子」
この時をずっと待ってた。
腕の中に君がいる。
この時をずっと待ってた。
互いの顔が見えないことをいいことに、泣いて泣いて、泣いた。
意図せず次第に鈍りだす思考、忍び寄る覚醒。こちらの様子に気付いたのか、より一層力のこもる華奢な腕。
「いつかこちらに来たとき、また呼んでくださいね。でも、焦って来る必要はないですから。ちゃんと十割の幸せを掴んで、もっともっと楽しんで、たくさんの人に愛されて、愛して、満足してからでいいですからね」
「わかった。ありがとう」
「はい。約束です。とびきり幸せになってください。十割と言わず、千パーセント幸せになってくれなきゃ」
僅かに緩んだ腕の中で、笑顔の花が咲いた。
「怒っちゃうんだから」
そして惹き合う唇、止まる時間。月の光は朧になり、今度こそ永遠のさよなら。去り際、君にちゃんと届いただろうか。
「璃子。愛してる」
***
君との時間は俺の一部。消却されることはない。
だけど君との約束を果たすため、そして何より誇れる自分であるために、俺は前を向く。
嘘だ。そう思ったことを否定しない。
夢だ。そうやって逃げたことも許す。
踏ん切りのつけられない弱々しい部分も、思い出に浸り続けようとした事実も、大切にする。それは経験値ゲットの道程であったのだから。
「さあ。行こうか」
いざ。未来に託そうとしたものを、今叶えるために。
夢だ。そう切り替える余裕もなかった。
頭が思考すること自体を拒絶した。理性が動揺に呑まれた証拠だった。
*
待ちに待ったその日。始業時間を過ぎても君の姿は見えなかった。遅刻の報告も受けておらず、行方を探ろうとした瞬間、社用携帯が震えた。知らない番号だった。
「はい、企画部の一色です」
『総務の高橋です。突然失礼します。一色さん、落ち着いて聞いてください。あの、そちらに所属の、晴海璃子さんですが……』
どうして。
そんなこと聞いても誰も答えてくれやしない。そんなこと分かってる。
どうして。
後悔しても遅いこと分かりきってる。ただ割り切れない。
どうして。
君の笑顔を見つめたかった。変わらずそこに居てくれると思ってた。君の幸せを見守りたかった。君を、守りたかった。
「……嘘だ……」
*
お焼香の香りが好きじゃない。悼む気持ちを無性に煽られている心地がする。現実を受け止めろと、急かされているようで嫌気が差す。祖父母も両親も元気だし、次に触れるのは当分先だと高を括っていたのだが。
君の顔には傷一つ無く、不自然なくらい、君のままだった。
立ち上る煙を見上げながら、君は天使になったと、信じることにした。
君らしい藤色の羽で秋空を昇り、天国に迎えられたと、言い聞かせた。
もし良かったら、たまに降りてきて、俺のそばで、郎笑を奏でて。
***
もうすぐ君の三回忌。綺麗な夢を見た。偶然だろうか。君がいた。
穏やかな秋空の雲の上に、君と二人きり。柔らかい雲に腰掛け、先に口を開いたのは君だった。
「主任。一つだけ、質問していいですか?」
「何?」
「主任は今、幸せですか?」
「七割方、かな」
「ふふふ。主任らしい」
「そうかな」
「はい。主任は自己採点厳しいので、満点は来ないだろうなって」
「そんなことないよ」
能力を過信せぬよう自分を節制している訳ではない。残りの三割は、俺の弱さに起因している。前に進むことを、愛を未来に託すことを、尻込みしているだけだ。
「主任」
「うん?」
「学生時代の私って、そこそこ優秀だと自認してたんですけどね」
「え、意外」
「若気の至りってことで大目に見てくださいっ」
「ハハハッ。話の腰折ってごめん。それで?」
「はい。この会社に入って、全然そんなことなかったって、ようやく現実を目の当たりにできたんです」
「できた? 嫌じゃなかったの?」
「はい。むしろ気づけて良かったです。一度学舎の外に出たら、公式や手法を正しく説くよりも、いかにそれらを活用して理解し解決していくか、その姿勢が大事だと分かりましたから。そう教えてくれたのは、主任でした」
「俺?」
「はい。俺です、ふふふ」
彼女が新卒の時を知ってはいるが、教育担当者ではなかったと記憶している。どういうことか尋ねると、嬉しそうに緩む口元。
「私のミスを、経験値ゲットおめでとうって、許してくれたの」
「俺のお粗末な語彙力はともかく、君のためになれていたのなら本望だよ」
「はい! 間違えることにも意味があると思えた時、私、変われたんです。失敗を恐れてやらずに後悔するより、立ち向かって経験値もらった方が良いって考えるようになって。だからあの日、伝えたかったんです」
「あの日?」
「約束の月曜日です」
その言葉はまるでカウントダウンの開始。君は今ここにいるのに、もうじき消えてしまう。月の光のように、夜明けと共に不可視になる存在。
彼女は続けた。
「今の私があるのは主任のおかげですって、お礼を言いたかったんです。ずっと憧れてましたって、言うのを、そばで聞いて欲しかったんです」
憧れの言葉の中身がその通りでないことは、火照った頬を見れば一目瞭然。きっと俺も同じ顔をしているだろう。だって。
「俺も、聞きたかった」
逸らされる視線、遠のく横顔。照れ隠しかと思ったけれど、俺の名を呼ぶ声が、微かに震えていた。
「一つだけ、お願い聞いてくれますか?」
「百個まで聞いてあげる。何?」
「名前を呼んでくれませんか?」
ずるいよ。俺をときめかせて、どうするの。
「おいで。璃子」
この時をずっと待ってた。
腕の中に君がいる。
この時をずっと待ってた。
互いの顔が見えないことをいいことに、泣いて泣いて、泣いた。
意図せず次第に鈍りだす思考、忍び寄る覚醒。こちらの様子に気付いたのか、より一層力のこもる華奢な腕。
「いつかこちらに来たとき、また呼んでくださいね。でも、焦って来る必要はないですから。ちゃんと十割の幸せを掴んで、もっともっと楽しんで、たくさんの人に愛されて、愛して、満足してからでいいですからね」
「わかった。ありがとう」
「はい。約束です。とびきり幸せになってください。十割と言わず、千パーセント幸せになってくれなきゃ」
僅かに緩んだ腕の中で、笑顔の花が咲いた。
「怒っちゃうんだから」
そして惹き合う唇、止まる時間。月の光は朧になり、今度こそ永遠のさよなら。去り際、君にちゃんと届いただろうか。
「璃子。愛してる」
***
君との時間は俺の一部。消却されることはない。
だけど君との約束を果たすため、そして何より誇れる自分であるために、俺は前を向く。
嘘だ。そう思ったことを否定しない。
夢だ。そうやって逃げたことも許す。
踏ん切りのつけられない弱々しい部分も、思い出に浸り続けようとした事実も、大切にする。それは経験値ゲットの道程であったのだから。
「さあ。行こうか」
いざ。未来に託そうとしたものを、今叶えるために。