第3話  連祷(れんとう)

文字数 8,281文字

 心療のグループ・セッションが行われている部屋は、天井が高く、三面が大きなガラス窓で採光が施されるなど、圧迫感の少ない構造が工夫されていた。11名のクライエント男女が広々と円を描いてフロアに腰をおろし、中央に座った心理士を中心に対話が行われている。その輪から離れた、室内でも最も明るく感じる窓辺に、車椅子に掛けた男性があり、傍らに一名の女性看護師が寄り添っている。素性が不明なままの、彼であった。
30代の後半くらいか、腰掛けたままであっても逞しい筋骨を備えた大柄な体軀であろうことが見て取れた。彫りの深い鋭角的な目鼻立ちの中でも、とりわけて瞳の大きな眼元が印象深い。入室して来た澤村に気付いて寄ろうと動いた看護師を、彼は声を発せずに視線のやり取りで制した。
「 きょうは ー 」
治療に当たる心理士は笑顔と共に、色取り取りの花の写真をA 4サイズに揃えたカードの束を頭上に掲げてみせた。
「 お花を観てもらおうと思って持って来ました。」
大まかに二束に分けてクライエントたちに渡し、回覧しながら各自が選んだ一枚を手に持つように伝えた。
「 みなさんどれか一枚、選んでみて下さーい。」
未だ陽光の明るさが注ぐ室内に、静かなざわめきが響いた。悠介たち三名は、扉近くに配置されたベンチに腰を掛けて見守っている。付き添いの看護師が耳元で声をかけたが、車椅子の男は何ら反応を見せない様子であった。彼の眼差は、全開された窓の外に拡がる青天の方角へ向けられている。おそらく、今日という一日に我々が感ずることが許された太陽光の、最後の温もりであろう。この折である。
鮮明な花々の画像に惹かれた訳でもあるまいが、室内を吹き渡る風に乗じて、蝶が一羽ひらひらと舞い込んで来た。黒みがかった翅が不規則に羽ばたくたび、濃紺や藍色にと極彩色の鮮やかな煌めきを見せる。
「 虫 !!!」
苦手なクライエントがいたらしく、見る間に人の輪が ばらばら と崩れた。
「 お、珍しいな。 」
何気なしに歩を進めたのは、なぜか里中であった。彼は数十枚の花のカードからおもむろに一枚を選び出すと、 お借りしますね、と心理士へ微笑んで会釈をした。ちょっとしたイベント擬きで、人々は彼の動きを注視している。窓の下に選んだ花のカードを置き、里中は愉しげな表情で蝶の行方を目で追った。
彷徨っているのか、どこか着地点を探しているのか、しばらくの間、蝶はあちらこちら不安定に舞い続けた。そして不思議なことにはー 里中が置いたカードの上を選んで止まったのである。息を潜め、大きな両掌を被せて蝶を捕獲すると、窓の外に拡がる本来の世界へ蝶を戻すことに彼は成功した。
「 あっ、どうも 」
手渡して返された写真を見て、心理士が目を輝かせて尋ねた。里中が選んだのは、春の盛りの菜の花畑が映された、黄色がひときわ鮮やかな写真であった。
「 お見事でした! でも、どうしてこの写真が?」
里中は朗らかに笑った。
「 蝶はね、 黄色が好きみたいなんでー 」
「 あ、そうか。そうなんですね。」
「 ・・というか、僕汗っかきなんで。単に体臭につられただけかも 」
和やかな微笑とざわめきが室内に広がった。
「 カラスアゲハだったねえ 」
「 なに・・ !? くわしいの?」
ベンチに戻って来た里中を、悠介は呆れた様子で迎えた。
「 俺、虫採り少年だったからさー 」
「 ??? どうしました?」
やや緊迫した看護師の声に、三名は神経を緊張させて男を見遣った。
「 ・・・・ 」
「 疲れた? お部屋に戻りましょうか 」
「 ・・・・ 」
にわかに彼の呼吸が乱れはじめ、表情が硬ってゆく。
「 新城さん、セデーション。 振戦の可能性が考えられる 」
澤村が速やかな指示を看護師へ告げると
「 はいっ!」
処置の準備をすべく、彼女は部屋を駆け出して行った。
「 みなさんの誘導をお願いします。」
居合わせているクライエントたちの安全な退室を心理士へ依頼すると、悠介は上着とバッグを床に投げ出して男の前に座った。
「 なにか、思い出した?」
真正面から覗き込む悠介の目を、彼は瞬きもせずに見つめ返した。額に大量の汗が浮かび、硬く閉じられた口元は小刻みに震えて歪んでいる。彼の意識が頑なに封印せんとしているであろう、何らかの記憶に起因した膨大な嘆きと悲しみが、眼前の悠介にも傷みをともない伝わって来る。
「 ・・・ 。」
シャツの胸ポケットからガーゼのハンカチを取り出して、彼は男の顔に浮かんだ汗を丁寧に拭き始めた。
「 哀しいんだね。」
「 ・・・・ 」
「 でも、もうね、 可いんだ。」
通路に慌ただしい足音が響いた。薬剤などの用具を載せたカートを押した一名を伴い、新城と呼ばれた看護師が戻って来たのであるが、澤村は閑かに右手を掲げ、彼女らを留めた。
「 ・・・・ 」
男の口が躊躇いがちに開き、やがてかすかな声を発した。
「 ー ちょう、ちょ 」
「 うん。」
悠介は大きく胡座を描いて座り直すと、親しく笑みを浮かべた。
「 ・・ ちょうちょは・・ 持ったらだめなんだ 」
「 どうして?」
「 翅の粉が取れたら飛べないから、可哀そうでしょ 」
付着した蝶の鱗粉を気にかける所作なのか、彼は自らの指先を擦り合わせる仕草をみせた。
「『ヒロ』、わかった?」
「 ん?? だれ??」
澤村と里中も耳をそば立てた。
「 おとうと。ぼくの 」
「 そうか。」
悠介は、膝の上で頬杖をついた。
「 ヒロくんはお兄ちゃんのこと、何て言う??」
「 にい。 」
ここまで、男は抑揚のない声で淡々と返していたが
「. ・・・『ともにい』。」
「 そうか。」
『ヒロ』・・ その名をもう一度呟いたとたん、彼は両手で頭を抱えて俯くと、込み上げる傷ましい嗚咽を懸命に堪えた。精神の深層より堰を切って噴出を始めた慟哭の膨大さと深淵さを我が身のみで支えることは、到底耐えがたいに違いない。
「 そうか。」
男の震える手に両手を添えて強く握ると、その頭髪に悠介は額を押し当てた。彼とともに、悠介は哭いた。
「 でも、もう可いんだ。」

 
 十日ほどの後、里中と悠介は二度目の来院をした。昼食後の午後2時頃で、澤村は外来患者の診察にあたっている。この間、入院中のクライエントに目立った変化は見受けられない旨の報告を聞いていた。
彼が入室している個室は、別館2号棟三階の東南の突き当たりであった。扉は開かれている。軽くノックして、悠介は躊躇なく笑顔で覗き込んだ。
「 やあ。」
「 ・・・ 」
開け放した三階の窓越しに外を眺めていた彼が、ゆっくり顔を向けた。削げていた頬が、幾分なだらかになった印象を受ける。
「すまん。もっと早く来たかったんだが」
「 ・・・ 」
しばし、同じ方角に視線を投げた後で、悠介は話しかけた。
「 ちょっと歩くか。」
男の瞳の奥で、ごく微かに情感が動いたように感ぜられた。
「 外へ出よう。」
彼は廊下を通りかかった看護師に事情を説明し、車椅子の準備を頼んだ。
大型連休を終え、眼に映る樹木の緑は日を追って濃くなりつつある。深呼吸をして体内に摂取しうる大気中の酸素濃度も濃密であるかと錯覚された。平らかに均された緑地は来院者用の駐車場へつながっている。その先には、高層建築のあまり含まれない住宅街の屋根が並び、一級河川の土手へと続いてゆく。車椅子を押していた里中が、空を見上げてふと足を止めた。
「 すげぇウロコ雲出てるな、今日 」
悠介も頭上を仰いだ。たしかに、点描にこだわる洋画家が創出したかの壮大なる雲の群れが、美しい紺碧の空一面に散らばっている。
「 あー・・ あの柄、 サバ? いや、アジか。」
「 いや。なんで青魚限定なわけ?」
「 別に。青魚の方が好きだからさ、俺 」
「 あ、そうなんだ。」
車椅子のストッパーを掛けると、悠介は無造作に男へ促した。
「 歩こう。」
「 ・・・ 」
不思議なほどに、彼は抵抗なく自然な動きで立ち上がった。並んでみると、やはりこの男が最も長身で大柄であった。彼らはしばらくの間、無言のままで緩やかな歩を進めた。堅固なV字編成で中空を渡る中型の鳥群をはじめ、孤高に滑空する大型のサギの類いなど、種々の生態系が、生命をまっとうする営みをこの時にも繰り広げている。
「 ・・・ 」
男が歩を止めたので、悠介らも立ち止まった。彼は何言かを、低く呟いた。
「 うん ??」
右の肩越しに、悠介は体を寄せて耳を傾けた。
「 ここから・・ 出たい 」
「 そうか。」
男の肩に掌を添えて促すと、彼は芝生の上へ腰をおろした。男も、並んで座った。里中はやや所在なく、そのまま二人の傍に立っている。
「 どこかへ行くの?」
問われて、男は一度だけ、ゆっくり左右に頭を動かしてみせた。
「 ・・・ 」
彼は、悠介の目を見つめた。何とは無し察して、悠介は微笑した。
「 俺なら、ゆうすけ、で良いから。」
視線を足元へ落としたままで、彼は言葉を発した。
「 ・・ そばに、 いてほしい。」
「 んっっ、 俺 ??」
今度は、まっすぐ縦に頭を一回動かして彼は頷いた。入院患者用の踵のないサンダルからのぞく頑丈そうな足指を、悠介はぼんやり眺めた。実はこの瞬間、彼の体内において、大き過ぎる感動と情動が自らの心拍数を急激に乱調させていた。このあたりの、情の濃すぎる佐野という男の怪しからんとも言える魅力を、里中は誰より理解している。
「 そうか。 」
伸び過ぎた前髪を邪魔気に掻き上げて、 悠介は ぽうん と結論を出した。
「 じゃ、そうするか。」
「 へっっ ??」
反射的に、里中の声が出た。
「 里中のとこの二階、入れる部屋あるよな 」
「 ま・・ あるけど 」
悠介は上半身を倒すと、右腕を枕に仰臥してみた。眼に映る世界には調和が保たれており、時間の進行はおだやかに感じられた。頭上の雲はすでに形を変え、散らばっていた鱗が幾筋かの線状にまとまりつつある。
座っている男の背筋は伸びて、姿勢が良いようであった。
( この男の記憶に、心理の深層に、 どれほどの懊悩が烙印されてるのか )
そんな感慨が、悠介の脳裏を巡っている。
「 な、ともさん。」
だしぬけに悠介が個称で話しかけたので、男は不思議な表情を浮かべた。
「 ・・・ ?」
「俺がなんとかする。待っててくれ。」
「 ・・・・ 」
瞼に注がれる力強い陽射しを受け止めながら、悠介は大きく息を吸い込んだ。
「 君はまだ若い。時間ならある。ゆっくりやっていこう。」
便宜上 『 トモ 』 と呼ぶことを決めた男の方へ半身をねじって起こすと、悠介は真正面から彼の目を見て付け加えた。
「 君のことは、俺が引き受ける。 弟がいるのなら、君が助けてやれ。」
今、なにか無限的な負荷のかかることを口走ったなー と、里中は内心に戦慄に近い予感を覚えた。
「 ・・・・ 」
「 人ってのはさ、手を差し伸べることでしか救われんのさ。」


 西南地区を所轄する捜査第三課の 津久井巡査長は、かじり掛けたハンバーガーの、やたらと積み重なった肉と野菜とバンズの断面を見つめて大きなため息を漏らした。
「 食欲無いんすか?」
「 ・・・ ある。」
公園のベンチの傍らで嬉々としてチキン系のバーガーを頬張りながら、後輩の加藤が呑気な声を掛けた。
「 五月晴れが少ないって、ほんとですねえ。」
Lサイズのアイスティーのストローをくわえた横顔に、津久井は無性になにか言ってやりたかったが、次の瞬間には著しく脱力感に見舞われた。
昼食時のせいもあるのか、私鉄沿線の線路沿いに設けられたささやかな児童公園に人気は少ない。加藤が呟いた言葉に偽りはなく、この 四、五日は天候が安定せず曇りがちで、気の早い梅雨のはしりが予感された。まだ汗ばむ程ではないにせよ、風の止んだ昼下がりの大気は、肩に比重を感じさせる濃度の高い湿度をはらんでいる。
「 三月に、次の駅前で倒れた男がいただろ 」
彼はややネクタイの結び目を緩めながら、昼食を食べ終えた。
「 三月ー ??」
軽く首をひねってからフライドポテトを口へ運んで、思い当たったらしい。
「 ああ。あの、身元不明の 」
ひととおり咀嚼し終えると、加藤は頷いてみせた。
「 でも、交通部も生活安全部も、組の関係の方も全部洗ったんですよね?」
津久井は、食べ終えたバーガーのペーパーを紙袋の中へ憎々しげに投げ入れた。
「 お前さ、」
「 はあ?」
「 なんにも、引っかからんわけ?」
「 いわゆる、刑事の勘、的なあれですかー 」
おそらくは休憩時のルーティンなのであろう作業のベースを加藤は崩さない。ショルダーバッグからウェットティッシュを取り出して入念に両手を拭いた後、スマートフォンのチェックを始めた。
「 ・・・・ 」
経口補給したアミノ酸系ドリンクが体内に浸透するのを確かめつつ、津久井は言葉を継ぐことに決めた。職務上、加藤を指導する立場ではあるし、問い掛けに対する手応えがないのを、今日この時点の彼の感情に於いてはスルー出来かねた。要は、悔しかったわけである。
「 おかしいだろう、あれだけの手負いで何にも挙がって来ないってのは 」
続いて加藤はクリアファイルを取り出すと、蛍光ペン片手に捜査資料の確認を始めた。
「 津久さん 」
妙に愛嬌のある丸い目元に不似合いな深刻そうなシワを、彼は眉間に寄せてみせた。
「 オレオレの聴き込みのリスト、こんだけ今日中ですよ。きついす 」
手際よく出発の準備を整え、加藤は改めて津久井の顔を覗き込んだ。
「 事件性の根拠が現状見当たらず、ていう署長の判断でしたよね 」
「 そういうことは言って ー 」
両の掌を掲げてブロックする体勢を取った加藤の足元に、小さなおもちゃのボールが転がって来た。同じくして、何事か未だ言語になりきらない声を辿々しく発しながら、幼い女児が現れた。
「 走ると危ないですよ〜 」
ひざまずいてボールを優しく手渡すと、彼女は天使の笑みを満面に浮かべた。
どうもすみませんでした と、年若い母親が会釈をして保護して行く様を、二人の捜査員はしばし無言で見送っている。よほどお気に入りなのか、小さな右腕にピンク色のボールをしっかりと抱え、女児は二度ほどニコニコとこちらを振り向いた。やはり満面の笑みで手を振って答え終えて、加藤は機敏に立ち上がった。
「 ぼちぼち行きますか。」
ベンチに座ったままの津久井を気に留めず、手持ちの資料と方角を確かめながら彼は歩き出している。
「 ・・・・ 」
強面の面構えをいっそう嶮しく曇らせて、津久井は腰を上げた。


綾嶺大学病院の入院病棟は、午後十時に消灯を迎える。
各階各科ごと一斉に看護師たちによる病棟の巡回が開始される。個別に患者と対面して、検温や血圧の測定など就寝前の体調を確認すると共に照明を消していくのが日課である。以降は、2時間ごとに夜勤の看護師たちが交替で病棟内の巡回を繰り返しながら、翌朝七時の起床時間まで見守りを続ける。入院治療中の患者を担当する各科の医師も月間のローテーションに則っり、十日に一回ほどの頻度で夜勤の当直勤務にあたる。この日、五月中旬の夜、深夜の三時を廻っていた。当直である澤村医師は、勾配が厳しい非常用階段を昇っていた。三階の重い扉を押し開いて彼がたどり着いたのは、別館二号棟の病棟通路の中央あたりである。右方を見遥かすと、エレベーターホールの手前に設けられたフロアステーションの灯りが白々と輝いて見えた。深夜の時間帯においても、緊急事態等に備えてカウンター周辺の照明は日中と変わらず灯され続けている。
そちらの方向へ背を向けると、彼は足早に歩を進めた。幅3メートルほどの通路を挟んで、4名が入室できる病棟が並ぶ。規則的に配置された非常灯とフットライトのみが、就寝中の院内を照らしている。やがて正面に、通路の終わりを告げるガラス窓が見えて来た。元来、地肌が白い性質である澤村が長身の白衣で薄暗がりを粛々と歩く様は、蒼ざめた幻めいてガラスに浮かび上がった。左方へ折れて続く通路をたどると、個室のエリアとなる。6部屋が並んだ際奥の扉の前で、彼は歩を止めた。
「・・・・・」
一たび、自らの足元を見降ろして俯いたが、呼吸を整えて彼は静かに扉を開いた。部屋に入ると、後手で再び閉じながら、室内を凝視した。寝台横の照明も灯されておらず、完全に消灯されている。正面に施設された窓辺のカーテンは開いたままであった。通常、消灯時に看護師がカーテンを引いてゆくはずであるが・・・ 澤村は違和感を禁じ得なかった。
曇天なのであろう。ガラス越しに月や星は見えなかった。
「 くっっ ・・・ 」
声を出さぬことも、寝台へ歩み寄ることも、およそ不可能に思えて彼は奥歯を強く噛み合わせた。ひどい量の汗に湿ったシャツが、上半身を冷たく冷やしている。心拍数の急激な上昇が襲って来る。震える手でトイレの取っ手を探り当て、縋ろうとしたものの足に力が入らなかった。
「 !! 」
前のめりに転倒したのだが、幸いなことに物にはぶつからなかった。息を潜めて寝台を見遣ると、就寝中の患者に動く気配は感ぜられない。立ち上れぬままで這って進み、ようやく寝台の傍らへ辿り着いた。仰臥して眠っている患者の顔面の輪郭に、彼は目を凝らした。悠介らが訪れた際、窓から紛れ込んだ美しい蝶を目にして反応を示した、男が静かに眠っている。
「 ・・・・・・ 」
しばし顔を近く寄せて、見えるとも無いその寝顔を見守った。が、澤村は理性をかなぐり捨てた無機的な所作で、白衣のポケットから何かを取り出した。同時に、寝台の男の大きな手が澤村の腕を掴み、その何かを奪い取った。
「 ? !」
「 ・・・・ 」
男は微塵の動揺もみせぬ風で、寝台用の小さな灯りのスイッチを無言で押した。澤村の腕を掴んでいる握力は過分に暴力的ではなかったが、動きを制しておくには適確な強さであった。彼が獲りあげた物は、何らかの薬液が注入された一本の細い注射器だった。サイドテーブルの上に、男は静かに置いた。
上体を起こし、男は大きく眼を見開いて医師を見つめた。眼前にうずくまっているのは、背負い難い絶望と良心の呵責に苛まれて、放心するしか術を持たぬ傷ましい男の姿でしかなかった。
「 あ・・・ 」
澤村の瞳が畏怖と苦悶に揺らぎ、声が出そうになるのを察した男は、自分の胸に彼を強く抱き留めた。そして、震えているその髪を撫でてやりながら、耳打ちをした。
「 いいか、もう大丈夫だ。 すべて忘れろ。」
混濁する澤村の脳裏を、忘れ得ぬ、忌まわしい幼児期の膨大な記憶が鮮明に蘇っては駆け巡った。
「 何も無かったんだ。 俺はここを出て行く。」
この時、窓が外側から開いたと思うと何者かが室内に浸入した。
「 !! 」
澤村をかばう形で降り立ち、部屋の隅で動かぬように男は命じた。
黒い覆面を装着しており、侵入者の表情などは読み取れない。大柄な男であることは違いなかった。その右手元が、閃ときらめいた。ナイフである。寝台を挟み、侵入者と男は対峙の位置に立った。室内はあくまで無音であった。しだいに相手との距離を縮めて、男は窓辺に近づいてゆく。種々の角度より急所めがけて踏み込まれるナイフを三度リズミカルにかわし、侵入者の次の攻撃の右腕を男は確保した。後ろ手に背中へねじり上げて膝の裏側を蹴って跪かせると、奪い取ったナイフを背後から首筋に突き付けた。ここまでの経過は、おそらく3分ほどである。
「 これきりにしろ。」
頸動脈にナイフを押し当てた男の殺気は、唯ならなかった。むしろ次の瞬間、必殺に及ぶのではという緊張に澤村は凍り付いている。体勢を維持したまま侵入者を立ち上がらせると、戸外へ放逐して窓を閉め、男は振り返った。
「 看護師が来る。 急いで戻れ。」
「 ・・・・ 」
灯りを消して扉の隙間から辺りの様子を窺い、彼は澤村の腕を強引に掴んで退室を促した。

僕、どこに行くの?! にいと一緒じゃなきゃ厭だー!
にいー!! にいー !!!!

「 行けっっ 」
見つめ続ける澤村の背を押して通路へ追いやり、男は静かに扉を閉じた。
窓を開けると、ごく薄くではあるが空の彩度が明らむ兆しを見せつつある。注射器とナイフをそれぞれ異なる方角へ向け、窓下に広がる常緑樹の植込みへと満身の力を込めて投げ棄てた。すると膝をついて崩れ落ち、その大きな両手を懸命に組み合わせて震えながら、彼は慟哭の激しい畝りに耐え続けた。





















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登場人物紹介

水樹 史也( みずき ふみや)

広告制作会社勤務のイラストレーター。26才。心療内科カウンセラー 佐野 悠介との出逢いがきっかけとなり、かつて深刻であった精神状態から快方へ導かれて以来、悠介へ深い信頼を寄せている。

並外れて繊細な神経に恵まれた一方で、一般的な常識にとらわれない大胆な行動力をも兼ね備えている。

佐野家隣家の牡猫コタロウ( 水樹は一方的にヴァンプと呼ぶ )は親友である。

コタロウ

佐野親娘が暮らすマンションの隣人・黒田さんが飼っている去勢済の牡猫。

遠出はしないが、何故か佐野家へだけはベランダを器用に伝って頻繁に訪ねて来る。穏やかで人なつこい性格で、ツンデレのツン要素はあまり持ち併せていないらしい。

大柄な水樹 史也が繰り広げるスキンシップを実のところは迷惑に感じている、かどうかは不明である。

佐野 成未( さの なるみ )

大手通信販売会社に勤務する27才。きょうだいは無く、臨床心理士の父・悠介と二人暮らし。

十代で母を亡くしたせいもあってか、日常の生活者として揺るぎのない堅実さを備えたしっかり者である。

職場の同僚で後輩にあたる 中村 宏太 に異性として好意を感じているが、適当な距離から見守っていたいとひそかに願っている。

亡くなった母の実姉で、関西在住の叔母・川瀬 愛子 の無敵な明るさも好き。


佐野 悠介( さの  ゆうすけ )

臨床心理士を務める成未の父親。ある意味、純粋な少年時代のひたむきな向学心を持ち続けている。生来の気質としては朗らかで、性善説を信念とする。豪放と呼んでも可いマイペースと他人の反応をあまり意に介さない爽やかさが、弱点でもあり強みでもある。早世した妻の美穂をこよなく愛し、誰よりも傷みを背負っているが、忘れ形見の成未にも敢えて語った事はない。彼の血の通い合った心療の姿勢が、苦しむ者の拠り所となる。

中村 宏太( なかむら  こうた )

成未の後輩にあたる同僚の青年。人間関係に於ける周旋などに、ややもすれば誤解を招くほど不器用な誠実さと真面目さが長所とも謂える。その一本気さゆえ逆境に弱そうに見られがちであるが、外見とは裏腹の不屈な意志の勁さを秘めてもいる。誰にも明かさないが、片親の家庭に育ち自身の努力によって現職を掴んだ不遇な経歴こそが、未来を生きる糧となるという誇りと信念を強く抱く。

その一方、他人知れず成未に対する深い愛情を日々確かめてもいる。


記憶を持たない謎の男

事故なのか、傷害の被害者であるのか、瀕死の重傷を負って忽然と現れ、救急病院へ収容される。

怪我の後遺症によるものなのか、彼の「記憶」には深刻な混沌が生じていた。

唯一の所持品である色褪せた挿絵らしい紙の切れ端と、彼の脳内から無作為に出現するワードを手掛かりに、悠介と里中は心療にあたろうとする。

ところが正体不明者が次々と現れ、彼の身辺はしだいに不条理な危険に晒されてゆく。並外れた体力と身体能力を備えている事実に関しては、疑う余地がない。

里中 睦( さとなか  あつし )

悠介の同窓生で個人の臨床心理クリニックを経営する。佐野家とは美穂の在名中より親しい交流を持ち続けている。学生時代に培われた純粋な理念と悠介との信頼関係を自身の宝としており、悠介に臨床治療の片腕を託してもいる。成未にとっては、心の内を明かせる大切な存在である。

明朗な印象で独特の愛嬌の豊かさが魅力だが、外見とは裏腹のこまやかで緻密な神経を持ち合わせている。

澤村 泰弘( さわむら やすひろ )

悠介らの母校に附属する大学病院の心療内科で治療にあたる若手医師。緻密な頭脳と臨床医師としての適性から、周囲に将来を嘱望されている。公にはされていないが、不幸な幼年期に他家へ養子に迎えられた生い立ちを持つ。

心療を目指したきっかけは自らが幼い頃に負い、癒えることのない心の傷痕にある。少年時代に奏法を学んだヴァイオリンを愛し、多忙な中に於いても一人奏でて過ごす時間を大切にしている。

津久井 慎司( つくい  しんじ )

佐野親娘が居住する地域を所轄する警察の刑事で巡査長。謎の男の身元や負傷した経緯などが究明されないままの現状に違和感が拭えず、真相を突きとめようとする。微塵な情報を見逃さない、物的な手掛かりに基づく公正な分析を規範とすべく自らを律する一方、現場の人間に対する直感的な印象や気付きにも重きを置く。真摯な責任感と誇りが、職務に取り組む信条である。学生時代より精進している空手道の段位は黒帯で三段。

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