第20話   reflexion

文字数 15,756文字

 手術室の扉を通路突き当たりに臨む、種々の検査室が並ぶフロアの一画に設けられた簡素な休憩コーナーに 里中と成未は腰を下ろした。小さなテーブルと四脚ずつの椅子が、低めのパーテーションで区切られ3スペース並んでいる。この時間、他の利用者は見当たらなかった。
「 コーヒー、ブラックじゃ無くて良かったっけ?」
通路を挟んだ向かい側の自動販売機でドリンクを選ぶ里中の背後で遠く、エレベーターの着階を報らせる電子音が響いた。二つの缶コーヒーと細かい釣り銭を手に、気配を感じた方を見遣ると 別館との連絡通路から およそ医師らしからぬ速度でこちらへ駆けて来る澤村の姿が見えた。
「 ・・・・ 」
テーブルの方角を指差すと、里中は目配せを送った。ホットコーヒーのプルタブを開いて成未へ手渡した処へ、澤村が現れた。
「 里中さんー! 佐野先生は・・ 」
只ならぬ口調を引き取って、里中は自らの両掌を胸の前に広げてみせた。手術始まったばっかりだからー とにかく落ち着け と宥めてから、奥の席に居る成未を紹介した。
「 佐野の娘さんのー 成未さん。」
「 ・・・・・! 」
悠介の人懐こく 不思議にあどけなさが宿る目元が、やや怪訝そうに会釈をみせた成未の面影の上へ浮かび、何らの違和感なく重なった。途端に 澤村は白衣の白を惜しみもせず、成未の足元へ膝を着き、床に額を擦り付けた。
「 申し訳ありませんー!! 兄のことで犯罪の被害に遭わせてしまい・・ 佐野先生にまでー !」
「 ?? えっっー いえ、そんな・・・ 」
傍らに屈んだ里中は、ともかくも椅子へ座らせようと 澤村の腕を引いて声を掛けた。
「 誰のせいでもー 誰が悪い訳でも無いんだ、な。澤村君 」
かなりの腕力を添えた里中の手を断固として拒み、澤村は顔を上げようとしなかった。
「 申し訳ありません・・! 兄の異変に気付けなかったー 目の行き届かなかった、自分の責任です。」
この時ー 成未は、里中の内部より 出会った事のない別人が出現するのを目の当たりにした。
「 ーおいっっ?! しっかりせんかっ!!」
大きな両手で白衣の襟元を乱暴に掴むなり、里中は満面に怒気を漲らせて澤村を正面から見据えた。茫然と口をつぐむ顔面へ厳しい拳を浴びせるほどの鋭さで、里中は諭して聞かせた。

君も医者ならー 分別をわきまえんかっ!
トモ君の身元引受人を佐野が受けた肚を、君は ほんとに解ってたのか??
クライエントじゃ無く身内として、佐野は一生のつもりでトモ君の身柄を引き受けたんだ!

「 ・・・・・・ 」
涙が溢れるのを禁じ得ない澤村の体を幾度も揺さぶりつつ、里中は置き処の見つけられぬ 堪え難い想いをぶつけた。

トモ君にしたってだ! ーあれだけ真面目で律儀な男がさ?? そりゃあ、よくよくの事だろうー
彼はきっと何度も、命掛けで君を護り抜いてくれたんだろうが?! 君が揺らいで どうすんだよ!

テーブルに置かれた里中の携帯が、振動で着信を伝えた。
「 里中さんー お電話が 」
躊躇いがちに掛けた成未の声に呼応して、里中は慌ただしく立ち戻ると通話に応じた。
「 ーはい、そうです。 冠動脈の緊急バイパス術で・・ 本館3階の西奥に居ます。」
ようやく立ち上がった澤村へ、 いま 向井先生来てくれるって と再び携帯を置き、里中は告げた。
「 ・・・・・・。」
居住まいを正しながら真摯に頷いてみせた医師の横顔をテーブル越しに見上げ、
気立ての優しそうな人だなー と、成未は感じた。知的で上品な佇まいの内に秘めた、繊細な傷ましさとでも云った漠然とした印象を 異性ならではの直感なのか、成未は受け止めている。事件の以前にも後にも、牧野という人物について 悠介は殆んど成未に語らなかった。ただ、長期的な心療が必要な重篤なクライエントであり、複雑な生い立ちの中で生き別れになっていた弟が 大学病院の澤村医師である とだけ聞いていた。
程もなく、澤村が現れたのとは反対側から向井が急ぎ足でやって来る姿が見えた。緊急用の階段を駆け上って来たらしく、相変わらず すらりと伸びた長身の肩を やや揺らし気味に呼吸を整えている。
「 ーよ、」
教え子にあたる里中と澤村の姿を突き当たりに見つけ、彼は軽く右手を掲げた。その後、パーテーションの奥から控えめに顔を覗かせた成未と目が逢うと、向井は思慮深い眼差しへ暖かみを浮かべ、幾度か頷いてみせた。
「 ーせん・・ せい。」
無意識に歩み出て迎えてしまった向井の左腕へ縋るまでに身を寄せ、成未は懸命に涙を堪えて見上げた。
「 なあ・・よし、ーよし。 一人娘に心配ばっかり掛けて・・ 困った親父だ。」
口元を優しく綻ばせ、向井は成未の肩を しっかりと抱え寄せてやり 呟いた。昏倒時の状況や救急治療の経緯などの概略を里中から聞き終えると、向井は澤村を見遣った。
「 澤村君、此処はいいぞ。君は戻れ。何かあったら連絡する。」
「 ーはい。 では・・ 失礼します。」
居合わせた全員へ深い辞儀をみせ、澤村は白衣の背を向けて当直の現場へと戻って行った。
「 ・・・・・??」
さながら澤村の背を追うかの合致した間合いで、本館中央エスカレーターの運行速度を完全に無視した乱雑な足音が騒々しく昇って来る。何とは無し、休憩コーナーに残された3名は そちらを見遣った。
「 ーああ。」
合点のついたらしい里中が、そちらへ少し歩み寄って 手を振ってみせた。
「 ?!・・ !!」
最後の三段分ほどを跳躍して昇り切ったのは、水樹である。オフィスの帰途から直行して来たらしく、グレーのモッズジャケットに斜め掛けした大判のショルダーを背負い 呼吸は激しく乱れていた。
「 ー 里中さん、 ・・何ー なんですって??」
「 いま悠介の手術やってるー 心臓の 」
「 はああー???」
最寄りの地下鉄から走り続けて来たのかも知れない。エスカレーターの乗降位置前で、やにわに水樹は膝から崩れ落ち、そのまま床へ座り込んだ。人の往来が ほぼ途絶えた広大な医療施設の一画に坐して、両膝の上へ所在なく腕を預けた青年の姿は やはり大柄であった。ようやく整いはじめた呼吸とともに、水樹は鋭い憤懣を 傍らへ屈んだ里中へ向かって吐き出してみせた。
「 先生はー あの人は・・ いったい何やってんですか!? あの、ほらー 医者の・・ なんだっけ!」
「 不養生 」
「 そうです、それ! てか、あなたも一緒に居たんでしょうに!?」
「 すまん。・・俺も迂闊だった。」
搬送後の状況の経緯と手術の内容について簡潔に説明して
成未ちゃんと、俺らの恩師の向井先生も あそこに居るからー と水樹を促しつつ、里中は立ち上がった。
「 ・・・・・・。」
二息ほど置いてから、水樹は長身の体躯を さも重苦し気に引き摺って腰を上げた。それなりの重量を備えているらしいバッグを肩から外すと、左脇に抱え直して 乱れた前髪をひとつ搔き上げた。視線の先に、私服よりも水樹にとって なお好ましいスーツ姿で、瞳を潤ませている成未が立ち尽くしている。
( ーあああ。)
奇怪なほどに複雑に交錯する心情が 過重な疲労を認識し始めていた彼の心身の中核で、堰を切った鮮血のごとく 止め処なく奔しり出るのを感じた。
( このひとにも・・ 困る、ー在り得ん。さすがに限界なんだー )
このままエスカレーターを駆け降りて帰ってしまおうか 水樹は束の間、真剣な衝動に駆られた。が、ひとつ大きな溜息を吐き 休憩コーナーへ向かって歩き出した。成未が自宅へ戻り 社会復帰を試みるようになってから、会えていなかった。
事件を通じて悠介との間に生じた埋めがたい距離感に為す術も見当たらず、以前のように佐野家を訪れる機会が途絶えている。無論、悠介に対する 実の親兄弟以上の親しみと恩義を、水樹が忘却する訳は無かった。掛け替えがないからこそ、せめて一連の事件に関する捜査の進捗が明らかとなるまで、沈黙のうちに時を稼ぎたかった。成未に関しては、'言わずもがな' である。
相変わらず朗らかに気丈を装ってみせていても、事件の爪痕が彼女の深層へ遺した恐怖の残像の執拗さを 水樹は或いは、成未本人よりも正確に認識しているつもりで居る。9月から自宅と職場へ戻ることを彼女が決めた時、彼は反対も賛成もしなかった。ただ、成未自身の気が済むように決めるのが一番いいから と、頷いてみせた。

もしも必要に感じたら、此処へ何時でも来てください。成未さん用に、ロフトのスペースは空けとくんで。

比較的、遮蔽感や圧迫感を軽減する配慮に基づいて設計されているはずが、夜間の施設内を満たす空気は重々しく 水樹は呼吸の し辛さを覚えつつ歩いた。
( ー少し痩せたんだろうか??)
はじめに成未から受けた印象は 其れだった。気に掛かりながらテーブルへ近付いて、先に自販機へ寄ると 彼は2種類のコーヒー缶を購入した。右手に その2本を握って立ったまま、初対面の向井へ辞儀を済ませて 水樹は最寄りの椅子にバッグを降ろした。
「 どうもー 水樹と言います。」
「 向井です。 せっかくの週末に、申し訳なかったね。」
親しみやすい微笑を穏やかに浮かべて迎え、 まあ、座ろうか と、向井は全員へ着席を促した。
奥の椅子に座った成未の眼前で2缶を示し、水樹は何時ものように呟いた。
「 どっち?? ー好い方 取って。」
「 ・・・・・・。」
暫くぶりで眼にする長い指先と缶コーヒーから、ジャケットの腕を辿って前髪越しの水樹の眼差しを言葉もなく見上げ、成未は ほろほろ 涙を溢した。
( ー ああ。いかん。 また泣いてる、このひとが・・ )
直ぐさま抱き寄せて、事件当日の夜に施したのと同じ優しさの力加減で 唇を重ねたかったー
已む無く一缶を選んで成未の手に持たせると
「 ーさ、ほらほら・・・ 」
取り出したポケットティッシュで 水樹は そっと彼女の頬を拭ってから、腰を下ろした。
やや苛立たし気に缶のプルタブを開け、ホットの温感も確かめずに二口ほど喉を潤した若い横顔へ、向井は温厚な声を掛けた。
「 佐野が日頃から、何かと世話を焼かせてるようで・・ ほんとに済まんね。 人間は悪くないんだが 」
缶を握ったまま、水樹はしばし通路へ落とした視線を ゆっくりテーブルへと戻した。
「 ・・・よく判ってるんです、先生の事はー とにかく、恩人なので。」
左手で軽く頬杖を突くと、向井は感慨深げに 空っぽの広大な空間を宛てもなく眺めた。
「 ちょうどー この教え子らが、君くらいの年頃から関わってる。」
「 ー?? あ?俺も含まれてました??」
いささか口先を尖らせて、携帯内の連絡をチェックしていた里中が顔を上げた。
「 良く言えばー まあ、こいつらは幾つになっても可愛い気があるというか、 永遠の少年 とでも言うかな。いまの二十代を生きてる君たちの方が、よほど大人びて感じるよ。」
「 何すか、それー?? 強く否定し切れん感じが、なんか悔しいけど・・ 」
「 ー?? はあぁ・・・。」
明らさまに過ぎる無気力な声で返して、水樹はコーヒーを飲み干した。
「 その、手術っていうのはー 難易度高いやつなんです?? やっぱり 」
「 ・・・・・。」
不意に、ど真ん中へ投ぜられた硬球の重いストライクを さすがのキャリアで、向井は自らの上着の裏地を半身開いて留めた形に 足元へ無難に落としてみせた。
「 俺たちも専門が違うんでなー なんとも言いようが無いよ。先ず、この手術が成功したとしても、だ。 それだけで佐野の生命維持が約束される とも・・ 現状は言い難いのが事実だろう。」
「 ・・・・・ 」
認めざるを得ぬ現実の逼迫した厳しさを、詳らかに説いた向井の言葉を受け止めて 各々3名は心の内に対面し合った。 
「 ー成未さん、」
ふと 椅子の上で体の向きを大きく変え、傍らの向井の肩越しに 正面から成未を見遣ると、水樹は毅然たる口調で言い放った。
「 直ぐに俺と結婚しましょう。・・て言うより、しないと駄目だ。」
「 ー!?」
「 ・・・ ???」
小じんまりしたブース内の空気が、少なくとも数十秒フリーズした。いかに悠介本人と旧知の間柄であるとは言え、である。父親が生死の境に直面している一人娘に向かって、同席した他人の面前で臆面もなくプロポーズする自体、不謹慎どころの騒ぎでは無いだろう。しかも、あくまで求婚に対する相手の同意は求めてはいない。確認する余地などを要しない大前提なのであり、その時期がいまこの瞬間『直ぐに』に決まり、『しないと駄目』である と、彼に於いて結論付けられた模様であった。
「 え、っっと・・・ ???」
とりあえず、里中は成未の傍らで 円らな瞳を二倍近くも大きく丸めてみた。
概して、かかる非常時に限って 想定外の出来事が追い討ちを掛けがちであったりするのは、あながち珍しく無いかも知れない。とは言え、この奇抜な展開は ほぼ珍事と呼んで良い衝撃度であった。つい先ほど「好きになった異性」と 成未が口に出した相手が、水樹を指してはいないらしい事を 里中は察せざるを得ない。
「 来年までは待つつもりで居たけど 」
「 ・・・・・・・ 」
白く硬直して さながらマネキンと化してゆく成未を視界の端に見ながら、終いには失神してしまうのでは無いか と、里中は真剣に息を凝らしている。成未の膝元へ寄って身体を小さく屈み込むと、水樹は何らの衒(てら)いなく、缶コーヒーを握らされたままで居る成未の右手を両手で包んだ。そして自らの頬まで引き寄せた。
「 何が起きても、もう俺が付いていますから。ーね??」
缶の温度を残す成未の掌が充てられた水樹の頬は、外気の冷たさを未だ宿している。強引でいて、ひどく繊細な配慮を怠らずに触れる指先の感覚が、事件当夜の抱擁の瞬間へと 成未を忽ち連れ戻してみせた。
「 あっ、あたしー あの、・・ 」
黙して見守っていた向井は、テーブル越しに目を見合わせた里中の表情が示す微妙な機微を 巧みに読み取った。静かに身じろいで成未を振り返ると、やはり危険な領域の緊張が彼の目にも感ぜられた。
「 大丈夫か?? 成未ちゃん。だいぶ疲れて来たろう。ー何処か横になれるところ、聞いてみるか。」
向井が身軽に立ち上がった時、手術室の扉が開かれた。
酸素吸入器をはじめ、幾つもの投薬品や機器とともに悠介を乗せたストレッチャーが、数名の看護師の手により退室して来た。
「 ICUへお連れしますね。」
最後方を押して行く若い看護師が、立ち尽くしている4名へ声を掛けて通った。ーややあって、姿を見せた執刀担当医が 施術内容の概略について報告を行った。
「 左冠動脈主幹部の狭窄と閉塞病変は2ヶ所、動脈瘤が1ヶ所ありました。前胸部左右の内胸動脈と前腕橈骨動脈を使用し動脈グラフトは4カ所適用しました。動脈瘤は切除しました。」
「 ・・・・・。」
具体的な施術治療のイメージを実感でき兼ねつつ、4名は半ば茫然と 悠介の病状の深刻さの度合いを眼前へと突き付けられるのみであった。
別館方向から小走りに駆け寄って来た異なるユニフォームの看護師が、成未たちへ声を掛けた。
「 ICU併設の、ご家族用の控え室へご案内しますねー 」

治療室と通路を挟んだフロアの突き当たりに、家族用控え室の扉があった。看護師の案内で足を踏み入れると、存外にゆとりのあるスペースが設けられている。簡素な多人数掛けの長椅子とローテーブルが置かれた奥は、カーテンで間仕切られて 六畳ほどの畳を敷いた和室である。ナースセンターの位置と、扉の横に設置された緊急用の内線電話について説明を済ませ 看護師は退室して行った。
「 ・・・・ 」
床から さして高さはない段差で敷かれた畳に片膝を突き、水樹は和室の有り様を見渡した。小振りな長方形の座卓と 5、6枚の座布団が部屋の隅に寄せて積まれてある。
「 よし。成未さん、少し横におなり。」
呟きながら、彼はショートブーツを脱いで畳に上がった。奥まった処へ座布団を縦に並べ直してから、未だ腰を下ろせずに居る成未の肩へ長い腕を伸べた。
「 ・・・・・・ 」
「 ん。ーここ、おいで。」
促されるまま靴を脱いで和室へ上がった成未の背に手を添えて座らせ、水樹は自らも部屋の隅で胡座を掻いた。そうして 脱いだジャケットを、並べた座布団の上へ広げてみせた。
「 左を上にしてごらん。」
枕替わりに適当そうな位置を膝の上で指し示すと、水樹は 身体を横たえるよう成未を誘った。
「 ーありがとう、水樹くん 」
傍らへ寄りながら、せめて僅かでも微笑を浮かべてみせようと成未は試みた。だが自分の表情も、発声すらも思うに任すことが適わない。
( 本当は、腕の中へ抱いて憩わせてあげたいですけどー )
前髪越しに交わす水樹の視線が、物憂げに無言で呟いてみせた。この瞬間、もはや成未には 成す術がないどころか、論理立てて思考を巡らせる能力すら残されていない。さながら血を分けたほどに親身な感覚で 頼もしい対応をみせる若者の姿を、彼女は唯ただ 込み上げ来る涙とともに見つめて立ち尽くしている。
「 ・・ もう泣かなくて可いから、ほら。」
( ?? 可い訳なんか無いー !!!)
ひたむきに イヤイヤして訴える幼子のごとく、成未は小刻みに首を横へ振った。そして ふと、体幹の平衡感覚が 緩やかに大きく傾ぐ感覚を覚えた。
「 !?ー !」
四肢が虚ろに崩れ、重力の負荷を体現して真っ直ぐに畳へ落ちかかる成未の身体を、咄嗟の身動ぎで水樹が抱き留めた。
「 な、ー成未さんっっ!!」
「 ・・・・・ ???」
微かに柑橘系を纏った水樹の肌の温もりと体躯の感触が、頑なに封印した記憶を伴い成未の意識を呼び戻した。あきらかに、精神内の認識能力に混濁と混乱が生じてしまっている。
「 ?? ーね、お父さんに・・ 」
「 ーうん?? なに??」
腕の中で成未の前髪をそっと搔き上げ、優しく額に口づけて水樹は囁き返した。
「 ・・・・・・。」
畳の上り口へ体を乗り出した向井と里中は、固唾を呑んで経緯を見守っている。
「 ??あっっー? 水樹くん・・ 」
「 ーはい、俺ですよ。」
まるで唐突に、水樹の面差しをたった今 眼前へ見出したかの反応で 成未は大きく瞳を見開いた。その瞳が、他からは目視できぬ戦慄と畏怖に 束の間 異常な揺らぎ方を見せた途端、彼女は水樹の首へ烈しく縋り付いた。全身が細かく震え始めるのを確認し、里中は緊急用の電話口へ走った。
「 怖いー 怖いの、水樹くん、怖いの・・ 」
繰り返しつつ、実に奇妙なことには、成未は夢中で水樹の唇を求めて重ね続けた。優しく応えてやりながら、水樹は冷静に成未の表情の変化を看ている。
「 ほんとに可哀想に・・ やたら怖い目に遭わされてー 」
「 ・・・・・ 」
( 外見と違って、ずいぶん情の濃そうな子だー 佐野に似てるな。)
和室と入口の中間に立って 慎重に介抱を施す青年の横顔を見守る向井の背後へ慌ただしい気配が近付いた。一名の男性看護師が、回診用のカートを伴い入室して来た。
「 失礼しますー 」
横開きの重い扉を開いて迎えた里中の脇を通り抜け、看護師は両膝を畳の縁へ突いて成未の状態を確認した。両腕で縋った水樹の肩の上で、制御することが出来ず震える口元を必死に結ぼうとしている。
「 佐野さんー?? 深呼吸してみましょうか。」
「 ・・・・!」
人見知りのひどい幼児のごとく、視線を合わせようと覗き込む看護師から成未は顔を俯けた。已む無く 脈拍を診ようと左手首へ伸ばした看護師の手先に過剰な拒絶反応を示して、彼女は水樹の腕の中に体を小さく縮めた。
「 ?! 嫌がってるじゃないですかー!」
峻烈な眼差しを水樹が投げ付けた時、報らせを受けた澤村が控え室に到着した。疾走して駆け付けたらしく、柔らかな髪に乱れが見える。里中と向井に視線を向けながら和室へ歩み寄ると、澤村は靴を脱いで畳へ上がった。そして、看護師の状況報告に耳を傾けつつ 片膝を突いて水樹を見遣った。
「 ーお嬢さんの緊張を、緊急に緩める必要があります。腕へ注射をしたいので、手を貸して頂けますか?」
「 ・・・?? 」
独特の上目遣いで 医師を鋭く捉えてから、水樹は一たび 成未の髪を丁寧に撫で付けてみせた。悠介の一人娘を襲った急変である重大さに加え、医師としての責務以外の 何らかの強い情動に自らが揺さぶられるのを、澤村は感じている。
「 ー解りました。」
医師らの方へ成未が背を向けられるべく坐り直し、成未の髪に頬を寄り添わせて 彼は優しく囁いた。
「 ちょっとだけー お手当てしましょう。」
拒絶を見せない様子を確かめると、水樹は ゆっくりジャケットのボタンを外し、左腕のみを袖から抜いてシャツをたくし上げた。
「 ミダゾラムを 」
指示した鎮静薬のシリンジと消毒綿を看護師から受け取り、水樹が掌を添えた成未の上腕外側に 澤村は注入位置を定めた。
「 直ぐおわるから、ーね。」
顔を背けさせた頭部を 水樹がしっかりと抱き締めるのに合わせ、澤村は速やかに投薬を済ませた。
「 ・・・・。」
袖を戻し、上着は脱がせて自分の大きなアウターで成未を包むと、水樹は 和室の奥まった隅へ共に収まった。
「 10分程度で鎮静効果が現れるはずですが・・ 異変が感じられたら、直ぐに呼んで下さい。」
「 ーわかりました。」
片耳のみを澤村の注意へ傾け、この地上に於ける至高の宝を慈しむが如く 愛するひとを腕に懐く姿に、澤村は自らを重ねていた。殊に この青年ほどの年頃、彼は医師として未だ社会的な実績が伴わず 精神状態が悪化する寿々に逢える機会すら阻まれがちな、鬱々たる日々を過ごしていた。掛け替えのない その人を護り抜くためには、他のすべての人間と敵対する事も厭わないー 狂おしいまで純粋な恋慕に身を灼かれる苦悩に 澤村は誰よりも共感する事が出来た。
「 え・・ と、'なに'?先生 ですっけー ??」
ふと思い付いたのか顔を上げ、水樹は澤村の眼を正面から見遣った。
「 澤村 です。」
「 澤村先生、ー お願いしたいことがあるんですけど 」
「 どうぞ。仰って下さい。」
背後で待機したままの看護師を退室させ、澤村は対峙する位置で真っ直ぐに正座して 背を伸ばした。
「 成未さんの勤め先へ連絡して、説明してあげて下さい。とにかく もう勤めを続けるのは無理だって、お医者さんの立場で。 俺は未だ、言える立場に無いんで・・ 」
「 ー承知しました。約束します。」
眼差しを逸らさず頷いてみせた医師の表情を しばし見まもって後、水樹は ひとつ大きく、長髪が美しい頭部を深々と下げて念を押した。
「 よろしく・・ ーお願いします。」

院内に設けられたコンビニで里中が揃えた簡易な食品で食事を済ませ、彼らは各々の場所を定めて休憩を取った。危険な興奮は抑えられたものの、投薬に伴う影響もあってか 成未は むしろ情動の反応に些かの鈍さを見せた。しかしながら、頑なに手放そうとしない水樹の腕に保護されたまま 痛々しいほどに聞き分け良く、大人しく振舞った。ICU内には差し当たり 特段の変化はなく、術後の治療が淡々と施されている模様である。23時を廻り、できる限り仮眠を取っておくべく 向井は控え室内の照明を絞った。澤村の配慮もあり、貸し出された枕と毛布で里中が長椅子に、水樹は成未を抱いて件(くだん)の和室の隅に、向井は 座卓の傍らへと体を伸ばした。
「 ・・・・・・・ 」
しばらくの間、若い二人が しめやかに囁き合い 水樹が姿勢を気遣って工夫する気配が、薄明かりのもと繰り返された。やがて、沈黙が訪れた。就寝する際の習慣で、右半身を下に 軽く腕組みをしながら、向井は瞼を閉じてみた。

( 佐野 )
( ー はい。)
( 足元には気を付けとけよ。)

悠介と亡き美穂が就学中の7月ー 向井の郷里の名所に当たる滝壺を 彼らが訪れた折の光景が、信じ難い鮮明さで脳裏をかすめた。力強く晴れ渡った夏空と 降りしきる蟬時雨、そして 清冽な滝水の落下音が間近で聴こえた。
( ーあれから もう30年ちかくか・・ 早いもんだな。 人生なんぞ、束の間に過ぎちまう。)
卒業後から近日までの歴史を網羅する膨大な記憶が点り始める予感を閉じて、向井は睡眠を誘うため呼吸を鎮かに整えた。
ー 思いの外 深く眠ってしまっていたのか、次に覚醒を覚えた瞬間 向井は若干の意識の混乱を覚えた。
「 ?!・・・ 」
自らが横たわっている場所に違和感を感じて、彼は視界に目を凝らした。里中の寝息らしい、太く陽性の息遣いを耳で確かめるうち、日付けを跨いだ昨夜からの経緯が 向井の脳内で繋がった。
「 ???ー 」
おそらくは、室内に発生した何らかの気配に反応して目覚めたのであった。ゆっくり起き上がって見廻した先、開かれた扉の傍らに シルエットで浮かび上がった人物の姿が確認できた。澤村か看護師が 緊急を報らせに駆けつけたものかと、瞬時 向井は鋭い緊張に捉われた。人物が入室して来ない様子を見て 彼は俊敏な動きで和室を降り立ち、扉へと歩み寄った。
「 ああ、ーお兄さん。」
室内の三名を起こさぬ配慮で、向井は ごく声を小さく、人物へ話し掛けた。
「 どうもー いっつもご厄介になりまして 」
悠介の実兄の和郎が、大柄な体を ぎこち無い動きで半分に折り曲げて辞儀を見せた。
「 栃木から 早かったですねー 驚かれたでしょう。」
一先ずは、最寄りの椅子を通路上に探して着座するべく 向井は和郎を誘った。深夜帯を迎え フロアは ほぼ、足元のみの照明に切り替えられている。念のため向井が目視した範囲では、悠介が収容されている治療室と 対角線上角に設けられたナースセンターに、新たな動きは起きていないようであった。
容態を報告すると 従来の悠介の持病と直近の様子、そして彼の関わって来た 特異な背景を持つクライエントの存在について、向井は出来るだけ要点を選んで説明した。聞き終えた和郎は深い溜息混じりに 再び深々と頭を下げてみせた。
「 ーまず、ほんとに・・ 皆さんにお手間を取らせちまって、申し訳の無いことです。」
とんでも無いですよ、 と 向井は柔和な眼差しで和郎を宥めた。
「 お互い いつまでも若くは居られんですからー 明日は我が身ですよ。」
「 ・・たしかに。」
膝の上に突いた両掌で大造りな顔全体を ごしごし 擦ると、和郎は感慨深げに傍らの向井を見遣った。
「 気持ちだけは変わらんつもりでいるもんだからな ー無理が来ますわな、どうしたって 」
控え室に居合わせている水樹について簡単に触れながら、向井は胸の前で ゆっくりと両手の指を組み合わせた。
「 私も初対面でしたが・・ 」
そろそろ黎明の近付く頃合いで、ふと視線を預けたナースセンター周辺を照らす白い常夜灯の明るさが、目に辛く沁みた。
「 佐野君から話はよく聞いてましてー 彼の診て来た青年が 縁あって、娘さんを大事に思ってくれるようになると云う ね・・ 」
「 ほんとに、ほんとに 」
からきし心を打たれやすい性質なのか、和郎は しみじみ繰り返し頷いては相槌を打った。
「 真剣に成未ちゃんを支えてくれていますよ。 人と人の繋がりっていうのは・・ 本当に不思議なもんですね。」

 後々 歴史を紐解けば 「昭和」という過重な重量を孕んだ時代の終焉が しめやかに近付いていたその頃ー
大学院課程2年の初冬、風邪をこじらせた悠介が 珍しく週の半ばから続けて病欠した折があった。週末の早い日暮れ時、在学中 彼が下宿していた学生用アパートの一室を訪ね来た誰かが、チャイムを鳴らした。
「 ・・??? ー。」
奥の六畳の壁際に置いた簡素なローベッドで毛布に包まっていた悠介は、微熱の籠った神経で ぼんやり状況を認識した。それから 気怠く寝返りを打って、床に置いた洗面器へ手を伸ばした。氷を浮かべた冷水に さらしてある替えのタオルを掬い上げると 緩めに絞り、生温く体温を帯びてしまった額の上のタオルを洗面器へ落とした。
トントントンー
在宅を見込んで 飽かず呼出しの手法を切り替えたか、小刻みなノックが繰り返し続いた。
「 ・・・・・ 」
何かとセールスや勧誘の来訪も有りがちなので、憂鬱な気分も相まって 悠介は無視したまま遣り過ごそうと すっぽり毛布を被った。ドアの外が沈黙した気配を受けてから 麦茶を入れた枕元のクーラーポットへ伸べた手を、悠介は ふと停めた。幻聴とも思えるほど幽かに、彼の聴覚が最も鋭敏な反応を示す異性の声が 何事かを発しているように感ぜられた。
( ?? えっっ ー??? )
俄かに敏捷な身動ぎを取り戻して玄関へ寄り、慌ただしく開いたドアの後ろに 美穂が立っていた。
「 え、・・・ 」
部屋は階段を昇り切った二階の隅で、この日はじめて外気に触れた悠介には 吹き抜ける風が存外に強く感ぜられた。薄暮の住宅街や街路樹が 其々の色彩を既におおよそ失い、頭上に広がる東京の空と地平の狭間へと 暗く紛れ掛かっている。
「 向井先生から資料のプリント預かってー 」
傾斜のせわしい階段を吹き上げた冷ややかな風に とっさに反応し、美穂はフレアスカートの裾を抑えながら身体を屈めた。
「 ・・ごめん。」
我に返ったかのように、ぎこちなく壁面へ身を退けると 彼は入室を促してみせた。丁寧にドアを閉め、重そうなショルダーバッグを玄関の上り口に置くなり、美穂は悠介のTシャツの胸に縋り付いた。
「 んっっー???」
散らかっている室内や 食器を放置したままの台所やー そもそも、静養中とは云え 乱雑に過ぎる自分の身なりに一気に気後れを覚えた彼の懐へ、 ぽうん と柔らかく 美穂が飛び込んで来た。
「 ・・・・ 。」
著しく、悠介は混乱を来した。呆然と動かない青年の背を優しく撫でながら、美穂は心音の響きに耳を澄ませた。
「 悠ちゃん、もうー。 ・・・心配だったんだから 」
「 ーすまん。」
ようやく躊躇いがちに伸ばした手で 美穂の髪と頬を辿ると、微熱を含んだ指先には心地よいほど 冷たくなっている。接触を避けなくてはならない と示す理性の指示に耳を傾け、縋った両手を解こうと ゆっくり身じろいだ腕の中で、彼女は首を小刻みに横に振り いやいや をしてみせた。
「 ー 風邪がさ、な・・ 感染ると駄目だからさ 」 
「 いいの。」
「 ーよかぁないって。」
靴を脱がせ、キッチンの片隅に置いた一人用のテーブルセットの折り畳み椅子に、とにかくも美穂を座らせようと悠介は誘った。
「 寒かったのに、ごめんなー コーヒーとか飲む・・ 」
しかし美穂は、頑なに離れなかった。再会を待ち侘びていた愛犬のごとく、湯を沸かそうとケトルを手にした悠介の傍らへ擦り寄り続けた。体内に轟くばかり 烈しくときめく恋しさとは裏腹の、やや 邪険な物言いで、座って待つよう 彼は美穂へ繰り返した。見遣った視界の中で、ひどく愛らしい 彼女の丸みのある瞳から 同じくらいの大きさの涙の粒が一斉にこぼれ始めた。
「 ??ーえっっ・・ いや、あの、 ー美穂が冷たくなっちゃってるからさ・・ 」
ケトルを投げ出し、テーブルの上のティッシュを分厚く捥ぎ取って美穂の頬を覆うと、早くも万策尽きた感に彼は床へ跪いた。
「 だったら、ちょうどー 善いじゃん!」
言われて唐突に、何事かが合点出来たものらしい。頬を濡らしたままで座り込んだ美穂は、慌ただし気にベージュのハーフ丈のダッフルコートを脱ぎ捨てた。続いて、彼女の雰囲気に似合った 薄手の淡いラベンダーのモヘアニットを脱ぎに掛かった。
「 ーえっっ???」
ひたすらに狼狽えて見守るのみの悠介を余所に、髪が乱れるのも意に介さず 美穂は大らかに両腕を伸ばして頭からニットを抜いた。さらに、光沢のある白いブラウスの襟元のリボンを解こうと引いた手を、悠介は さすがに強く押し留めた。
「 ーだから!寒いから!」
「 ・・・ えいっっ。」
フロアの上で胡座を掻いた悠介の懐ろへ、彼女は再び 丸みを帯びたリズム感を伴って飛び込んだ。
「 ・・・・・。」
「 ひんやりでしょ、ほら 」
躊躇なく 滑らかな肌で頬剃りしながら、彼の首筋や手首などへ冷えた手の甲をあて始めた 美穂のフローラル系のコロンが、微熱の少し遠くで淡くそよいだ。しばし されるがままに身を委ねていた悠介が、次第に力なく首を項垂れた。
「 ん?? 悠ちゃん?」
自らの前髪をふんわり避けて額どうしを合わせると、美穂は間近に彼の瞳を覗き込んだ。彫りの深い眼差しを正面へ上げもやらず、伏し目がちに視線を泳がせる悠介の表情に険しさが増した。
「 どこか苦しい??」
「 ・・・うん。」
頷いてみせた 癖のない素直な髪を、彼女は そっと撫で付けた。「愛」と「憎」は互いに紙一重を挟んで背を合わせている裏腹である との通りで、恋人が あまりに度を越して愛らしいと云うのも、時には過分な負荷となり得るものである。
「 ーあの、さ。」
「 うん??」
「 美穂はー どうして、そんなに可愛いわけ??」
胸中に ぐるぐる渦巻いている苦悶の心情を どうにか言語化して発した声が、上擦って無様に調子を外した。もはや涙混じりで、悠介は肩を落とした。
「 俺、この頃 駄目なんだよー お前のことばっか考えてて、集中できなくて 」
「 ・・なんか、ごめんね?? 迷惑かけて 」
骨太な厚みのある肩を撫でようと触れた手を やや苛立たしく掴むなり、悠介は思わず声を荒げた。
「 違うんだって、ーば!! 」
「 えー・・ ??」
刺々しい反応を嫌悪する欠片も見せぬ無垢な眼差しに、美穂は少しく怪訝な色合いを浮かべた。
「 ドジって単位落としたりしてー 一緒に卒業できなくなったりしたらさ、」
「 うんうん??」
いたって長閑に、ここでも妙に愛らしい相槌を打つ姿を敢えて視界の外へ置いて、悠介は偽らざる心情をぶちまけた。
「 俺が出遅れてるうちに、美穂のこと誰かに持ってかれたら・・ どうしよう、って 」
「 んんー?? 誰かって、"だれ" ??」
「 だから、それはー 」
つい むきに上げてしまった眼前で、化粧気の無い つぶらな瞳と 艶やかに瞬く濃い睫毛が、待ち受けていた。反射的なー 悠介の内側から不意に湧き起こった鋭い衝動が、美穂を胸深くへと抱き締めさせた。
「 ・・・・・・ 」
あちこちが軋むほどに強く、小柄な骨格の感触を辿りながら悠介は呻いた。
「 お前が、他所の奴と話してるの見掛けただけでー 駄目なんだ。気になって・・ 」
彼の懐ろにすっぽり収まって、相変わらず器用でない力加減に抗いもせず 耳を澄ませていたが、やがて美穂は 心地よさげに顔の向きを変えた。台所に設けられたガラス窓の外では、既に 黄昏の薄明は失われて、群青の宵が滲みはじめている。灯りをともし損ねたままの室内を、ガラス越しに差し込む通路の白い常夜灯のみが ぼんやり照らしていた。
「 抱っこ して、悠ちゃん。」
唐突に、美穂が呟いた。
「 ー ???」
いったん平静を取り戻そうと、部屋の灯りを点けるため立ち上がり掛けた悠介から 美穂は離れようとしなかった。
「 いっそ、もう・・ 悠ちゃんと離れられなくなっちゃいたい。」

若い二人が初めて素肌を重ね合った、この日が 初めての記念日となったー

 ー 気付くと、悠介は見覚えのある施設の薄暗い廊下の椅子に一人 腰掛けていた。窓がなく、昼か夜かの区別がつかない。遙かに見渡すと、周囲に他の人影は途絶えているようであった。特有の重々しい圧迫感と密度の濃い薬品臭から、病院なのだと 彼は合点がいった。成未が生まれた日の、夜明け前であった。
( この分娩時間は、 ー掛かり過ぎてるのか???)
午前0時を廻ってから陣痛の間隔が俄かに狭まり、掛かりつけの総合病院へ 悠介の運転で駆け付けた。当直の産婦人科看護師が担当医と連絡を取って指示を仰ぎ、緊急の対応に当たった。一時間ほどして医師が到着した。
「比較的狭骨盤」である可能性が高いが、可能な限り 自然分娩を試みる。已むを得ず 自然分娩が困難であると判断された場合には、緊急帝王切開へ切り替える 試験分娩の方法を採用する。
医師から慌ただしく説明を受け、悠介は取りも直さず同意書へ署名した。
( 美穂・・ 美穂ー ! ぶじに帰って来てくれ!!)
本来、粘着気質の対極に在って 豪放なまで楽観的で およそ物事への執着心が稀薄な彼が、美穂に関してだけは まるで違った。常時、際どいほど過敏な神経の反応を見せては、いつしか"習性"とも呼べる悲観癖(ぐせ)を抱えてすらいた。
そこへ初産の上、難産になる可能性を示唆されてもいる。この同じ時 分娩室に於いて、生来の謹直さをして産みの苦しみと奮闘しているであろう美穂本人よりも、根拠のないダメージに 悠介は早々と完膚なく粉砕されてしまっていた。
「 ・・・・??」
俄かに、エレベーターのある方角から忙しない靴音が近付くのを感じ 悠介は呆けたように顔を向けた。程もなく、通路の角を曲がって姿を見せたのは 里中であった。当時は未だクリニック開業前で、現在の澤村と同様に綾嶺大学病院で悠介とともに臨床に従事していた。彩度の落とされた通路の壁際に蹲っている悠介を見出すと、こちらは現在と ほぼ差異のない丸みを帯びた大きな体躯で駆け寄った。
「 おっ! ーどう?? どんな具合??」
「 ーどう、って・・ お前 」
何処となし愛嬌のある里中の瞳と出会って 張り詰め過ぎた緊張が 微妙に撓んだか、悠介は膝の上で頭を深く抱えた。
「 えっっー ?? なに、良くないの!? なにか 」
傍らに腰を下ろすなり、里中は彼の表情を覗き込んだ。散らばった文脈で、医師からの注意事項や分娩室へ入ってからの時間経過について悠介は伝えた。
「 こればっかはな、・・なんせ野郎はお産の時、役に立たんて云うもんな、昔っからー 」
「 里中 」
「 ーお??」
「 済まん。」
「 ーは?? なに、が??」
両手の指を厳重に組み合わせ、見上げた悠介の眼差しが奇妙な輝きを帯びている。里中は とっさの勘で、悠介に於ける平常心のキャパシティが 既に限界に達している事を悟った。
「 ー美穂に・・ 万が一の事があったら 」
「 ・・・・・ 」
この場は、曲がりなりにも 心療に携わる者の立場として、里中は努めて 穏やかな気配を醸して耳を傾けた。
「 俺も直ぐ、後を追うからなー。 骨は必ず、おんなじ墓に入れてくれ。」
「 ・・・・・ 」


































































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登場人物紹介

水樹 史也( みずき ふみや)

広告制作会社勤務のイラストレーター。26才。心療内科カウンセラー 佐野 悠介との出逢いがきっかけとなり、かつて深刻であった精神状態から快方へ導かれて以来、悠介へ深い信頼を寄せている。

並外れて繊細な神経に恵まれた一方で、一般的な常識にとらわれない大胆な行動力をも兼ね備えている。

佐野家隣家の牡猫コタロウ( 水樹は一方的にヴァンプと呼ぶ )は親友である。

コタロウ

佐野親娘が暮らすマンションの隣人・黒田さんが飼っている去勢済の牡猫。

遠出はしないが、何故か佐野家へだけはベランダを器用に伝って頻繁に訪ねて来る。穏やかで人なつこい性格で、ツンデレのツン要素はあまり持ち併せていないらしい。

大柄な水樹 史也が繰り広げるスキンシップを実のところは迷惑に感じている、かどうかは不明である。

佐野 成未( さの なるみ )

大手通信販売会社に勤務する27才。きょうだいは無く、臨床心理士の父・悠介と二人暮らし。

十代で母を亡くしたせいもあってか、日常の生活者として揺るぎのない堅実さを備えたしっかり者である。

職場の同僚で後輩にあたる 中村 宏太 に異性として好意を感じているが、適当な距離から見守っていたいとひそかに願っている。

亡くなった母の実姉で、関西在住の叔母・川瀬 愛子 の無敵な明るさも好き。


佐野 悠介( さの  ゆうすけ )

臨床心理士を務める成未の父親。ある意味、純粋な少年時代のひたむきな向学心を持ち続けている。生来の気質としては朗らかで、性善説を信念とする。豪放と呼んでも可いマイペースと他人の反応をあまり意に介さない爽やかさが、弱点でもあり強みでもある。早世した妻の美穂をこよなく愛し、誰よりも傷みを背負っているが、忘れ形見の成未にも敢えて語った事はない。彼の血の通い合った心療の姿勢が、苦しむ者の拠り所となる。

中村 宏太( なかむら  こうた )

成未の後輩にあたる同僚の青年。人間関係に於ける周旋などに、ややもすれば誤解を招くほど不器用な誠実さと真面目さが長所とも謂える。その一本気さゆえ逆境に弱そうに見られがちであるが、外見とは裏腹の不屈な意志の勁さを秘めてもいる。誰にも明かさないが、片親の家庭に育ち自身の努力によって現職を掴んだ不遇な経歴こそが、未来を生きる糧となるという誇りと信念を強く抱く。

その一方、他人知れず成未に対する深い愛情を日々確かめてもいる。


記憶を持たない謎の男

事故なのか、傷害の被害者であるのか、瀕死の重傷を負って忽然と現れ、救急病院へ収容される。

怪我の後遺症によるものなのか、彼の「記憶」には深刻な混沌が生じていた。

唯一の所持品である色褪せた挿絵らしい紙の切れ端と、彼の脳内から無作為に出現するワードを手掛かりに、悠介と里中は心療にあたろうとする。

ところが正体不明者が次々と現れ、彼の身辺はしだいに不条理な危険に晒されてゆく。並外れた体力と身体能力を備えている事実に関しては、疑う余地がない。

里中 睦( さとなか  あつし )

悠介の同窓生で個人の臨床心理クリニックを経営する。佐野家とは美穂の在名中より親しい交流を持ち続けている。学生時代に培われた純粋な理念と悠介との信頼関係を自身の宝としており、悠介に臨床治療の片腕を託してもいる。成未にとっては、心の内を明かせる大切な存在である。

明朗な印象で独特の愛嬌の豊かさが魅力だが、外見とは裏腹のこまやかで緻密な神経を持ち合わせている。

澤村 泰弘( さわむら やすひろ )

悠介らの母校に附属する大学病院の心療内科で治療にあたる若手医師。緻密な頭脳と臨床医師としての適性から、周囲に将来を嘱望されている。公にはされていないが、不幸な幼年期に他家へ養子に迎えられた生い立ちを持つ。

心療を目指したきっかけは自らが幼い頃に負い、癒えることのない心の傷痕にある。少年時代に奏法を学んだヴァイオリンを愛し、多忙な中に於いても一人奏でて過ごす時間を大切にしている。

津久井 慎司( つくい  しんじ )

佐野親娘が居住する地域を所轄する警察の刑事で巡査長。謎の男の身元や負傷した経緯などが究明されないままの現状に違和感が拭えず、真相を突きとめようとする。微塵な情報を見逃さない、物的な手掛かりに基づく公正な分析を規範とすべく自らを律する一方、現場の人間に対する直感的な印象や気付きにも重きを置く。真摯な責任感と誇りが、職務に取り組む信条である。学生時代より精進している空手道の段位は黒帯で三段。

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