第6話  キリエ・エレイソン

文字数 11,472文字

 都内でも有数の歴史を誇る、とある高級ホテルの高層ラウンジでは、そろそろ22時を迎えて間接照明の彩度が更に落とされた。色彩豊かに、華やかな宝石を一面に散りばめた大都会の夜景が全ての座席から展望でき、違和感のない速度でラウンジフロアが回転を続ける趣向となっている。音量を抑えたジャズピアノのBGMと利用客らの閑静な会話、そして、接客にあたる従業員の耳障りでない受け答え。それらが絶妙なバランスを保ちながら、この空間に特有の緊張とくつろぎを醸し出していた。区部のみに限っても、約一千万人にも及ぶ膨大な数の人々の時間に、同じ夜が訪れている。赤色や白色に点滅を繰り返す航空障害灯の高さを見較べながら、深谷はグラスのブランデーを口にした。中空に下弦の月が白々と現れている。夜が更けて、空は晴れわたったらしい。
「 ああ、君 」
通りかかった従業員を呼び止めると、差し向かいに座った若い女を指し示した。
「 こちらのお嬢さんにお代わりを 」
「 かしこまりました。」
黒いスーツ姿の従業員は、正しい身のこなしでテーブル脇に片膝をついた。
「 彼女にお薦めのカクテルを何か 」
「 左様でございますねー 」
お口当たりの良いところですとフローズン・ダイキリ、サゼラック、辛口がお好みでしたらネグローニなどは如何でしょうか。
周囲の音声に紛れもしないが目立ち過ぎない、明瞭な滑舌と音量で、完璧なホテルマンはサジェスチョンした。女は、ネグローニで、とオーダーをした。
「 それで、シリンジ(注射器)が見つからない、と?」
従業員が立ち退くのを待って、隣の席の40代かと思しき男が低く重い口調で訊いた。
「 はい、そうです。」
馴れた手つきで、彼女は男のグラスに氷を加えてスコッチを注いだ。マドラーを回す、その手元越しに女を見遣ると、深谷は金属フレームの細い眼鏡を外してテーブルに置いた。
「 踏ん切りが付かずに、彼が持ってるんだろう。」
「 そうでしょうかー 」
男は、鋭い視線を差し向けたままグラスを手にした。
「 新城くん 」
「 はい?」
肘置きに右腕を乗せ、深谷はやや気怠げな動作で上半身を伸ばした。不本意ながら、そろそろ60の声を聞く年代を迎えて酒気のまわりが早くなっているのは否めない。
「 気を悪くしないでくれ給えよ。」
「 まあ、何ですの?」
女は、肩に下ろした髪を両手で耳の後ろへ流し、艶然と微笑み返してみせた。
「 彼は、誘いに乗って来ないかね?」
「 残念ながら、来ませんわ。」
「 まったく、かい?」
「 所長ー 女の機嫌を損ねると、厄介ですわよ。」
上目遣いで軽く睨んでみせるのに深谷は笑って返したが、彼の容貌の特徴である、大き過ぎる二重の瞳は笑っていない。
「 君に興味を示さんとはね。女を見る目がないな、あの澤村という医者は。」
左手にスカイツリーが見えて来た。今夜は紫のライトアップである。ほどなく、オーダーしたカクテルがもたらされた。
「 それにしても、だ。木内 」
「 は。」
「 なんだって別の医者が、奴の面倒をみるんだね?」
木内、と呼ばれた男は苛立たしげに答えた。
「 ・・・ 解りません。我々のリストには載っていない人物です。」
同様の質問を目配せで投げ掛けられ、看護師の新城はテーブルに頬杖をついた。
「 お年の割に、浮世離れした学生さんみたいな方ですからね。」
「 ほうー? 何だい、まんざらでも無い口ぶりじゃないか。」
カットオレンジをあしらった琥珀色のカクテルを淡い照明に透かしながら、彼女は冷ややかな笑みを浮かべた。
「 特に背景は無いんじゃないですか? 多分、ただの思い付きでしょう。」
グラスを口に運ぼうとした手首を、掴んで押し留めた深谷の身のこなしは、鮮やかなほどに敏捷であった。
「 ・・・・・ 」
「 ペースが少し早いようだね、お嬢ちゃん。」
傍らの木内も、瞬時に息をひそめた。右手の力は緩ませず、そのまま静かにグラスを置かせると、深谷は左手で眼鏡をかけ直した。
「 君が属しているのは、お茶ら化た婚活サイトでも何でもない、事は判っているな?」
「 ・・・はい。」
にわかに肩を落とし、彼女はうつむいた。ようやく掴んだ手を離し、彼は深々と、大柄な身体を椅子の背もたれに預けた。
「 宜しい。時間がないのでね、私が質問するまで無駄なお喋りは控えるように。」
木内という男は、緊張を感じると食べ物を口に運ぶ習性があるらしく、テーブル中央のシルバートレイに並べられたオードブルへ無造作に手を伸ばした。アボカドと帆立のカナッペを口へ放り込んだものの、咀嚼がぎこちなく、むせ込んでしまった。狼狽える彼を意に介さぬ様子で、深谷はよく冷えたサーバーの水を汲んでやった。
「 ・・・ も、申し訳ありません。頂戴します。」
「 木内よ、」
「 ・・・ はい。」
グラスに注がれた水を飲み干し、深呼吸をひとつして、ようやく彼は姿勢を正した。
「 お前、いくつになった?」
「 今年で、43です。」
頭上に大きく伸ばした両腕を胸の前で組みながら、深谷は珍しく破顔をみせた。
「 いくつになってもな、俺はお前がかわいいのさ。」
「 は・・ 恐縮です。」
ラウンジのざわめきには、外人客の英語の会話も含まれていたが、あまり耳慣れない語圏の来訪客も増えたようであった。ぱらぱら、と辞令的な拍手がカウンターの周囲で響いた。専属奏者によるピアノの生演奏が始まったらしい。
「 あの、牧野にしても、だ。」
ガラス越しに、大都会の夜景の方角へ向けられた彼の表情の機微は読み取れない。
「 何処からも手を差し伸べられん不遇な人間を、社会に役立てるいっぱしの漢に仕立ててやったと言うのに、だ。」
「 はい。」
やや語気を荒げかけて、深谷は腕時計の時刻を確認した。にわかに慌ただしく、傍に置いた上着からスマートフォンを取り出すと、チェックしつつ会話を速めた。
「 まあ可い。兄弟と医者は、まだ泳がせておけ。それよりも、目障りなのは所轄の刑事(デカ)だ。下っ端が。」
彼は、怒気を露わにしてグラスのブランデーを飲み干した。
「 安い正義を振りかざすような類いが、しょせんは最も役に立たん。」
木内、次の会食は赤坂だー
手際良く自らホテルマンを呼ぶと、深谷は至急の車の手配を指示した。


 綾嶺大学病院の入院病棟においては、患者の昼食後、午後の外来診察が始まるまでの時間帯に、各科の担当医が日ごとに交代で回診を行う。この日は澤村の担当で、入院治療中の患者を順次個別に訪れて、問診などを行う予定である。無論、件(くだん)の個室の男性患者について彼が個別に抱える諸問題は、複雑な錯綜を極めたままである。が、差し当たっては、格別な異変を周囲に感じ取られぬよう、自らを偽る努力が必須であった。この自傷的な神経の酷使は、時の経過を刻み続ける砂時計のごとくに、澤村の精神を克明に削り苛んでいる。しかしながら現実的には、悠介が申請した区役所の手続きが思いのほか順調な進捗をみせてもいた。翌6月の上旬中には、他の開放病棟への転院と新生活を開始できる目処が立ちつつあった。
正午を過ぎた頃から、雨音を立てぬほど細やかな霧雨が、院内緑地の新緑の梢をひときわ鮮やかに潤し続けている。その、不快とまでは重過ぎないしめやかな湿度が、男の個室の方角から漂い来る気配を感じながら、澤村は通路を進んだ。部屋の扉は開かれている。精いっぱい平静を装い、彼は静かなノックをして声を掛けた。
「 失礼しますー 。」
大きく空けた窓辺で、両腕をゆったりと開いて重心をやや前に、男は外を眺めていた。それが、広い肩は動かさず、彫りの深い顔だけを緩やかにこちらへ向けた。
( 泰弘さんの車が見えないか、探していたの )
こんな折ですら、寿々の儚い面影と温もりが脳裏を過ぎるのを、澤村は心底、自らのすべてに耐えがたい嫌悪を感じて立ちつくした。同時に、泪が我と知らず、 どっ と、あふれ落ちた。
( にいさん・・ ・ )
いま、手を伸ばして触れることの出来る場所に在る、名を忘れたという男の、その眼差しの懐かしさのみが、全ての事象を超越して、音声に響かぬ真実を澤村に語りかけていた。
「 ・・・・・・ 」
椅子に腰を掛け、なにごとか口を開こうとしたところへ、直近の経過報告の資料を携えた看護師の新城が入室して来た。
「 先生、ご確認願います。」
「 ー はい。」
ルーティンの体温・血圧・脈拍数を彼女が計測する間、澤村は手渡された資料に目を通した。記録上、彼の容態に著しい改善は見受けられていない。ごく定型的に、食事の摂取量や睡眠時間などについて看護師に確認し終えると、澤村は男の前に膝をついて彼を見つめた。
「 なにか、 ・・・心配なことはありますか?」
「 ・・・・・ 」
彼は、ひとつ大きく頷いてみせた。そして、大きな右掌で白衣の腕を握ると、澤村の耳元へやや顔を寄せ、伏し目がちに小さく告げた。
( ヒロ ー 。 二人で。)
「 ・・・・・・ ?」
やはり、血を分けた同士ならではの感応というべきであろう。神経が衰弱し切ってはいたが、その意図を適確に察すると、澤村は努めて常と変わらぬ表情で新城を見遣った。
「 対話が必要かも知れない。新城さんは、外来受診の準備へまわってください。」
「 承知しました。」
看護師が去ると、澤村は静かに扉を閉めて窓辺に戻った。傷ましく心優しい医師を、牧野は閑かに胸中深くへと抱き寄せた。
「 ヒロ・・・ 。」
およそこの地上に於いて、互いに心を通い合わせ得る二人きりの兄弟が生きて相まみえるまでに、二十有余年もの苛酷な歳月を要したのであった。
美しい白衣の肩が震えている。かつて、世界に唯一の安息地であった兄の大きな懐へ今もどり、澤村は幼な子になって泣いている。その髪を撫でてやりながら、成人しても面影の残る、なだらかな頸から肩に掛けての佇まいに、記憶の膨大な断片たちが牧野の脳裏に点滅を始めた。鮮烈な眩暈を感じるとともに、心身を突き動かされる情動に身を任せかけたが、このとき彼は堪えた。
「 ヒロ。」
「 ごめんなさい・・・ にいさん、ごめんなさい・・ 」
「 しっっ ー 」
穏やかな表情で顔を横に振ると、唇の前に指をかざし目配せをして見せた。牧野は椅子から降り、弟の腕を強く引いて寝台の蔭に並んで座らせた。はたして幾度こんな風に、遣り過ごせる場所を探し出しては小さな肩を寄せ合い、生命の危機すら感じる暴力や迫害から身を守った事だろう。
「 ヒロ、掌を。」
当惑する澤村の眼前へ、こう、と彼は腕を伸べて掌を開いて示した。
「 ?・・・・・ 」
弱々しく差し伸べた掌を自らの膝に乗せ、平仮名で一文字ずつ、牧野は言葉を指で描き始めた。
( と う ち ょ う さ れ て る )
「 !? 」
驚愕の眼差しを上げた澤村から目を逸らさずに、彼は繰り返し頷いてみせた。確かめたい事柄と語彙がいっせいに渦巻いて沸き起こり、つかの間、澤村は茫然と兄を見つめていたが
( お も い だ し た の ? )
と、並べられた牧野の掌に先ずは訊ねた。
( す こ し )
さほど時間の猶予は無かったが、牧野は優先順を追いながら、必ず伝えねばならない言葉を綴った。

とある、悪質な詐欺組織に澤村が脅迫を受けていること
看護師の新城が疑わしいこと
澤村は被害者であること
すべての出来事は、悪意にもとづき仕組まれたこと

さーっっっ と、やさしい響きを伴って、上空をよぎる雨雲が一群らのにわか雨を重ねてゆく。暗さを増した灰色の空に、新緑の輪郭が仄かににじみ出す様を、彼らはしばし眺めて過ごした。疲弊した心身を傍らへ投げ出している最愛の弟に、掛けてやりたい言葉は止め処がなく、牧野はその髪に頬を寄せた。そして、極く小さく囁いた。
( 俺が必ず守る。 だから、お前も闘え。)
( ・・・・うん。)
兄の肩にもたれたままで、澤村は頷いた。その掌に、牧野は重要なメッセージを書き加えた。
( け い さ つ に そ う だ ん し ろ ) ( つ く い ) ( い そ げ )
澤村は返事を綴った。
( わ か っ た ) ( こ ん や い く )


 日没頃には本降りとなった。19時を回り、津久井刑事は加藤の運転で現場へ向けて署を出た。現金輸送中の警備員が襲撃されて一名が負傷し、現金の一部が強奪された事件の容疑者自宅の張込みである。二名で24時間体制の時間割が編成されており、今夜彼らが担当するのは、20時から翌2時までであった。7、8分走ったあたりで無線連絡が入った。
「 はい。こちら3号。」
「 今どの辺だ?」
無線越しの元宮巡査部長の声の鋭さに、加藤は機敏に異変を感じ取った。
「 環七を北上中、そろそろ甲州街道と交差します。」
至急、津久井のみ署へ戻るように、と元宮は指示した。
「 現場は他に誰か行かせる。 津久井に代われ。」
「 ?・・・ 」
仏頂面で、手渡された無線に津久井は応答した。
「 はい。こちら津久井。」
「 お前、こそこそ何かやってんのか。」
「 は・・・?」
すでに巡査部長の形相が見えるようであった。立ち寄りやすそうなコンビニを見つけてウインカーを点灯させながら、彼一流の度胸の良さで、加藤は たまらん といった風に肩で笑った。その横顔にも何か言ってやりたかったが、津久井はひとまず無線に謝罪した。
「 すみませんー 」
「 とにかく急いで帰って来い。 ・・この、あほう!」
駐車場の隅にいったん車を停めると、
「 津久さん、ちょうどタクシーさん休憩してます。 ね?」
コンビニ正面に停車中のタクシーの車体を、加藤は笑顔で指し示した。そして、滑らかにハンドルを捌いて往路へ戻って行った。
何はともあれ、15分ほどで津久井は帰署し、階段を二階へ駆け上がった。勢いのまま、刑事課のデスクへ向かおうとした背後で、元宮が呼び止めた。
「 津久、こっちだ!」
反対方向の廊下の角に仁王立ちした元宮が、左手を掲げて指し示している。駆け付けた津久井の胸ぐらを、やおら掴むと
「 俺たちは、組織としてこそ機能してんだ。」
鋭い視線で見据えながら、彼は声を低く迫った。
「 ・・・はい。」
「 お前ひとりの命じゃない。署内の人数分の生命しょってんだろうが。」
悠に、二倍以上の現場捜査を経験して来ている彼の言葉は、圧倒的な説得力を伴って津久井を戒めた。
「『恐喝』の資料、まとめて小会議室へ持って来い。」
閲覧用の資料ファイル数冊を手に同階の会議室へ入室して、津久井はいったん足を停めた。中央に横長のテーブルをふたつ向かい合わせに設置した奥側に座っていたのは、澤村医師であった。
「 ・・・・・ 」
津久井の脳裏を、函館の濃い青の空と海と しん とした海岸の潮騒が鮮明によぎった。津久井に気付くと、医師は目を合わせて会釈をしてみせた。
届けられた資料の中から、関係者の顔写真が掲載されたページをテーブル上に開き
「 この中に、接触して来た人物がいるかどうかを、確認してください。」
澤村に閲覧させると同時に、津久井を視線のみで振り返り
「 警備課行って、誰か引っ張ってこい。」
元宮は小声で指示した。
「 はっ。」
四階へ駆け上り、長い通路の突き当たりを右に曲がって警察課の扉をノックした。
「 失礼しますー 。」
10名ほどの在勤者の中で、ちょうどデスクから見上げた巡査部長の久慈と正面から目が合い、津久井は. ずかずか と寄った。署内とはいえ、津久井がにわかに持ち込んだ只ならぬ空気に、捜査員たちは動きを止めた。
「 なんだ、津久。顔色悪いぞ?」
トレードマークの五分刈りの後頭部で大きく両手を組むと、久慈は上半身の伸びをしながら怪訝な顔をした。
「 いま恐喝の被害者が届けに来てまして、背景に極左がいる疑いがあります。」
「 なんだあ? 聞いてねえぞ ?」
たちまち室内はざわついたが
「 長橋っ。話聞いてこい!」
作業用のテーブルに広々と資料を展開していた課員を、久慈は即座に指名して指示を下した。
「 はっ。」
自分のデスクに置いたリムフレームの眼鏡を敏捷に装着すると、椅子に掛けた上着を手に、彼は先んじて部屋を出て津久井を促した。
「 お願いします。」

澤村が語った、この二ヶ月ほどの間に身辺に発生した異変のあらましは、以下の内容であった。
 三月下旬、沿線の市街地で倒れて救急搬送された男性患者が集中治療から回復した後、何らかの要因により、深刻な記憶障害および心神耗弱が見受けられたため、心理療法の担当医として治療にあたる事となった。
四月に入り、親戚を名乗る年配の婦人が澤村を訪ねて来院した。特別養子縁組により澤村姓に転籍される以前、養育されていた北海道の福祉施設の関係者であると名乗った。澤村の転籍後も施設で養育された兄が一人あったが、長らく消息不明であった。ところが、先ごろ搬送された男性患者こそが、兄の 牧野 和智であると、上京後の彼を親同然に世話してくれた人物から連絡を受けた。その人は、すべての事情を知っているらしい。牧野のためにも、その人に会って詳しい話を聞いてみてほしい、と、その人物の名刺を渡された。

元宮は、傍に着席した警備課の長橋巡査長に、澤村によりテーブル上へ提示された名刺を指で指し示した。
「 NPO法人 人権セイフティ・ユニティ 代表 辻 嘉吉 」
彼は、沈着な滑舌で記載された肩書きと氏名を音読して確認した。都内新宿区の住所と代表番号、携帯番号が記されている。
「 この代表番号に電話をされましたか?」
威圧感のない口調で、澤村を真正面に見つめながら長橋は尋ねた。非常に姿勢のよい男で、実際の身長よりも大柄な印象を与える。
「 はい。」
「 では、この住所へ実際に行かれましたか?」
「 いいえ。虎ノ門のホテルを指定されて会いました。」
澤村は、資料内の一枚の顔写真を選んだ。
「 確かもう少し年配でしたがー この人です。」
50代程で眼鏡をかけ、眼光の鋭さが印象的な男の顔があった。
「 ・・・・・・ 」
元宮と長橋は沈黙したままで、束の間、ともにその写真に見入った。自ら書き掛けた相談内容の記録を津久井に手渡して託し、元宮は聴き取りを続行した。
「 そこで、何を話しましたか?」

『 兄が、過去にいくつかの重大犯罪に関わり、警視庁の公安警察から調査されている事が今年になって判明した。10年ほど前、ホームレス同様の境遇にあった兄を縁あって救い、職員として面倒を見てきた。実の息子と同じに思っている。過去の罪状については聞かないが、検挙される前に自分から正直に罪を認めるよう、自首を勧めた。しかし、兄は拒否した。函館で生まれ育った過酷な境遇や、可愛がっていた弟である貴方のことも牧野からよく聞いて知っている、と、辻と名乗る男は語った。
( 貴方の勤務している病院を、牧野は必死に探してたんでしょう。 )
ようやく探し当てた彼は、決心を固めた。二次救急の搬送先である貴方の病院近くの沿線駅前を選んで、マンションの屋上から飛び降りたようです。まあ、病院にいた方が安全だとも考えたのか、とにかく、貴方に会いたかったんだろうと思いますよ。私の再三の忠告にも耳を貸さず、ひどく思い詰めていましたから。
( 私の自宅の二階で彼は生活していましたが、遺書が残されていました。 ) 』

   自分はかつて罪のない人の命を奪う手助けをしてしまいました。
   関わった仲間のことは話せません。
   せめて、自分が死んで償いをします。
   綾嶺大学病院の医師 澤村泰弘は、9才の時に生き別れた弟です。
   自分の骨は弟に拾わせてやって下さい。 牧野和智

上着の内ポケットから封筒を取り出すと、横書きの便箋に黒字で記された一枚の紙片を、澤村は刑事らの前に広げた。
「 ・・・・・・ 」
元宮が、やや体をテーブルに乗り出して言葉を挟んだ。
「 先に一点、確認しておきますが 」
「 はい。」
「 その、お兄さんの病室内で盗聴器を実際に見ましたか?」
疲弊して見えはするものの、澤村の返答は明晰であった。
「 はい。ふたつ見ました。サイドテーブルの引き出しの中と、ベッドの裏側です。」
「 形は?」
指でかたどって見せながら、彼は説明した。
「 黒い縦長のライターくらいの大きさで、ビニールテープで固定されていました。」
電池式ですかね と、長橋が小さく呟いた。

『 ー そして、辻はその会談における重要な骨子となる提案を切り出した。
( 彼を、貴方の病院から救い出してくれませんか? )
自分が懇意にしている診療所の医師が山梨の甲府にいる。名前は明かせないが、十年来の友人でもあり信頼しうる人物である。そこでしばらく牧野を療養させながら、いずれ警察へ出頭できるよう、私が責任を持って面倒を見ます。ここからは警察との時間比べになります。先に確保される前に、彼を連れ出してやりたい。
( 医師でいらっしゃる貴方に、こんなお願いをするのは以ての外であるのは承知の上なんですが )
男は、隣の座椅子に置いたセカンドバッグを開くと、二つ折りの茶封筒を取り出してテーブルに置いた。
( “ミダゾラム” を友人から預かってきました。 ご存知でしょうが、危険性はない鎮静剤です。 )
深夜の人目に付かない時間帯を選んで牧野に投与して頂いて、病院の駐車場まで連れて来てください。保護しやすい場所に車を待機させておきます。 』

「 ・・・・・・ 」
元宮が口を開きかけたのを会釈で制し、長橋はやや語気を鋭くして問うた。
「 それで、その男の提案を了承して、貴方は実行されたのでしょうか? 」
「 はい・・・ 。」
大きく肩を落とし、視線を落としながら澤村は頷いた。
「 ただ、ー 深夜でしたが、兄が薬剤を取り上げて未然に防いでくれました。」
その折、凶器を携えた暴漢が窓から侵入した件についても、彼は明らかにした。
「 その時点で、我々に通報しなかったのは何故ですか? 」
元宮の背後のデスクで口述を筆記していた津久井は手を止め、項垂れる澤村を見遣った。
( トモくんが一生懸命、弟のヒロくんの面倒を見て、守っていました。)
函館の養護施設の斎藤園長の言葉が、津久井の心の内に鮮明に蘇って来る。
「 来年を目処に、独立して個人開業する計画がありまして 」
彼は、両手をテーブルに乗せると、震える声で懸命に続けた。
「 自分の生い立ちからの様々な出来事を、明らかにする勇気が持てませんでした。」
自らの存在を一つの場所へ縋りつかせようとするごとく、彼の長い指は烈しく組み合わされている。
「 兄の記憶が回復するのを待って、確かめたいという気持ちもありました。」
胸の前で深く腕を組むと、元宮は椅子に背中を預けながら、澤村の目を覗き込んだ。
「 その後、注射器と凶器はどうしましたか?」
「 それが ・・・ 」
澤村は、充血して潤んだ眼差しを上げた。
「 兄が取り上げてくれた後に部屋を出てから、行方が分かりません。」
「 澤村さん ー? 真面目に答えてください。」
苛立ちを感じた際の癖なのか、眼鏡の位置を微妙に調整しながら
「 もう一度、お訊きます。」
疑問を投げかけた長橋の表情は、厳しかった。
「 お話の注射器と凶器は、その後どうしましたか?」
「 兄の部屋を出た後、どうなったか分かりません。」
「 本当に、ですか ?」
「 本当ですー 。」
「 ・・・・・・・ 」
傍の長橋と、背後で沈黙を守っている津久井を、見るともなく両目の視界に較べつつ、元宮にはふと無駄に個人的な感慨が沸いていた。
  同じくらいの年でも、
  津久井のアホと違って、こういう奴は出世しやがるんだろうな。
「 では、明日ー 」
内ポケットから手帳を取り出すと、長橋は迅速にページをめくった。
「 午前11時に、病室でお兄さんからお話を伺いたいと思いますが、よろしいですね?」
「 ー はい。」
「 その際、通信の担当技官が同行して、盗聴の現状を確認します。」
テーブル上の資料から澤村が選んで証言した男の顔写真を視線で示し、長橋は元宮だけに聞こえる発声で話しかけた。
「 深谷が噛んでいるとすれば、うちの管轄になります。」
「 前回の不起訴からは三年くらいになりますか。」
「 ほぼ、二年七ヶ月ですね。」
彼はいくぶん深く座り直して、澤村の方へ向き直った。
「 それとー ホテル内の何処で、辻と名乗る男と会いましたか?」
「 地下一階の和食店の個室で・・・ 『八坂』という店です。」
要件を記入し終えた手帳から切り取った小さな紙片を手渡すと、長橋は澤村に会釈をしてみせた。
「 今日の所は、これでお引き取りください。念のため、緊急用の連絡先をお渡ししておきます。」
ぎこちない動きで立ち上がり、澤村は長身の体を半分に折り曲げて、深々と礼をした。
「 申し訳ありませんー どうか、よろしくお願いします。」
「 ・・・・・・ 」
手にしていたペンを置き、元宮に対して心中にいたく詫びつつも、帰途につく澤村の後を追って津久井は会議室を出た。
( ・・ 向かねえな、あいつー 。 いっぺん、転職でも勧めてやるか。)
なかば溜息交じりに、口述の記録を確認する素振りで元宮は立ち上がった。
「 一応、うちの方でも、この写し取らせてもらいます。」

 一階出入り口近くの階段の途中で追い着き、津久井は澤村を呼び止めた。
「 澤村さん、これをー 」
色褪せた紙片が折り畳まれたビニール袋を、彼は目立たぬよう差し出した。
「 ?? ・・・・ 」
質問の言葉が出ぬままに受け取って、澤村は澄んだ瞳を上げた。
「 お兄さんが6年の時の作文だそうです。函館でお預かりして来ました。」
津久井は努めて抑揚のない口調で告げたが、途端に、澤村の両頬を涙が伝って落ちた。
「 す・・ すみません。 あの、津久井さん、お話したい事が ー 」
言い掛けて、正面駐車場に停めた車へと、彼は慌ただしく津久井を誘った。
「 人目に付くのでー すみませんが、少し移動して頂けますか。」
助手席のシートベルトを速やかに装着すると、津久井は車の発進を促した。
( まあー しょせん、始末書くらいじゃ収まるまい。)
一時停車のしやすい、直近の公園脇を澤村に指示しながら、この男にしては珍しく、捨て鉢な台詞を心中に吐き棄ててみた。震える手で街灯の灯りにかざし、紙片の文面を見透かすと、澤村は懸命に嗚咽を堪えながら礼を述べた。
「『敬愛の家』まで、行って下さったんですね・・・ ありがとうございます。」
この時、津久井は自分の精神の中で、何かが変容した奇妙な感覚を覚えた。思えば交番勤務を終え、刑事課に配属されてから今日までの間、問いかけ続けて来る自らの本心に耳を塞いでいたのかも知れない。
「 澤村さんとお兄さんは、詐欺の被害に遭われたんですよ。」
「 ・・・・・」
「 自分はおそらく外れますが、今後、警備課の方で調べますので 」
「 ・・・ 津久井さん 」
暗い車内でうずくまる姿に、かつて大学病院の診察室で出逢った気鋭の若手医師の面影は微塵もなかった。
「 僕には、義理の従姉妹にあたる婚約者がいます。」
澤村は、懊悩に満ちた表情を津久井へ向けた。
「 10才の時、不幸な事故で義理の姉が亡くなりまして 」
「 ええ。」
「 その際のショックが原因で精神を病むようになり、いま彼女は療養所に収容されています。」
「 そうでしたかー 」
「 本来、義父は、祖父が興した医院を継がせるために僕を迎えたんですが 」
ハンドルの上で組み合わせた自らの両手を、彼は鋭く見つめた。
「 大切なひとを救いたくて、僕は心療医学を選びました。」
だが、救えてはいないんですが・・・ 澤村は、自嘲の苦笑を口の端に浮かべた。
「 個人開業して彼女を引き取り、早く養親の戸籍から外れたくて、独立の計画を立てていました。」
  どうかー 彼女にだけは、精神的な負担を掛けないであげて下さい。
  どうか、お願いします。
髪を乱して頭を下げながら、彼は津久井に乞うた。
「 ・・・・ わかりました。」
自らの携帯電話の番号を紙片に書いて手渡して、津久井は彼独特の強い視線を澤村に注いだ。
「 困る事があったら、何時でもかけて下さい。」






































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登場人物紹介

水樹 史也( みずき ふみや)

広告制作会社勤務のイラストレーター。26才。心療内科カウンセラー 佐野 悠介との出逢いがきっかけとなり、かつて深刻であった精神状態から快方へ導かれて以来、悠介へ深い信頼を寄せている。

並外れて繊細な神経に恵まれた一方で、一般的な常識にとらわれない大胆な行動力をも兼ね備えている。

佐野家隣家の牡猫コタロウ( 水樹は一方的にヴァンプと呼ぶ )は親友である。

コタロウ

佐野親娘が暮らすマンションの隣人・黒田さんが飼っている去勢済の牡猫。

遠出はしないが、何故か佐野家へだけはベランダを器用に伝って頻繁に訪ねて来る。穏やかで人なつこい性格で、ツンデレのツン要素はあまり持ち併せていないらしい。

大柄な水樹 史也が繰り広げるスキンシップを実のところは迷惑に感じている、かどうかは不明である。

佐野 成未( さの なるみ )

大手通信販売会社に勤務する27才。きょうだいは無く、臨床心理士の父・悠介と二人暮らし。

十代で母を亡くしたせいもあってか、日常の生活者として揺るぎのない堅実さを備えたしっかり者である。

職場の同僚で後輩にあたる 中村 宏太 に異性として好意を感じているが、適当な距離から見守っていたいとひそかに願っている。

亡くなった母の実姉で、関西在住の叔母・川瀬 愛子 の無敵な明るさも好き。


佐野 悠介( さの  ゆうすけ )

臨床心理士を務める成未の父親。ある意味、純粋な少年時代のひたむきな向学心を持ち続けている。生来の気質としては朗らかで、性善説を信念とする。豪放と呼んでも可いマイペースと他人の反応をあまり意に介さない爽やかさが、弱点でもあり強みでもある。早世した妻の美穂をこよなく愛し、誰よりも傷みを背負っているが、忘れ形見の成未にも敢えて語った事はない。彼の血の通い合った心療の姿勢が、苦しむ者の拠り所となる。

中村 宏太( なかむら  こうた )

成未の後輩にあたる同僚の青年。人間関係に於ける周旋などに、ややもすれば誤解を招くほど不器用な誠実さと真面目さが長所とも謂える。その一本気さゆえ逆境に弱そうに見られがちであるが、外見とは裏腹の不屈な意志の勁さを秘めてもいる。誰にも明かさないが、片親の家庭に育ち自身の努力によって現職を掴んだ不遇な経歴こそが、未来を生きる糧となるという誇りと信念を強く抱く。

その一方、他人知れず成未に対する深い愛情を日々確かめてもいる。


記憶を持たない謎の男

事故なのか、傷害の被害者であるのか、瀕死の重傷を負って忽然と現れ、救急病院へ収容される。

怪我の後遺症によるものなのか、彼の「記憶」には深刻な混沌が生じていた。

唯一の所持品である色褪せた挿絵らしい紙の切れ端と、彼の脳内から無作為に出現するワードを手掛かりに、悠介と里中は心療にあたろうとする。

ところが正体不明者が次々と現れ、彼の身辺はしだいに不条理な危険に晒されてゆく。並外れた体力と身体能力を備えている事実に関しては、疑う余地がない。

里中 睦( さとなか  あつし )

悠介の同窓生で個人の臨床心理クリニックを経営する。佐野家とは美穂の在名中より親しい交流を持ち続けている。学生時代に培われた純粋な理念と悠介との信頼関係を自身の宝としており、悠介に臨床治療の片腕を託してもいる。成未にとっては、心の内を明かせる大切な存在である。

明朗な印象で独特の愛嬌の豊かさが魅力だが、外見とは裏腹のこまやかで緻密な神経を持ち合わせている。

澤村 泰弘( さわむら やすひろ )

悠介らの母校に附属する大学病院の心療内科で治療にあたる若手医師。緻密な頭脳と臨床医師としての適性から、周囲に将来を嘱望されている。公にはされていないが、不幸な幼年期に他家へ養子に迎えられた生い立ちを持つ。

心療を目指したきっかけは自らが幼い頃に負い、癒えることのない心の傷痕にある。少年時代に奏法を学んだヴァイオリンを愛し、多忙な中に於いても一人奏でて過ごす時間を大切にしている。

津久井 慎司( つくい  しんじ )

佐野親娘が居住する地域を所轄する警察の刑事で巡査長。謎の男の身元や負傷した経緯などが究明されないままの現状に違和感が拭えず、真相を突きとめようとする。微塵な情報を見逃さない、物的な手掛かりに基づく公正な分析を規範とすべく自らを律する一方、現場の人間に対する直感的な印象や気付きにも重きを置く。真摯な責任感と誇りが、職務に取り組む信条である。学生時代より精進している空手道の段位は黒帯で三段。

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