第22話 『魂の行方』

文字数 7,646文字

 この同じ週末、津久井は休暇を取得して実母の故郷である 石川県金沢市を訪れている。
母の実家は江戸時代より続く古書と骨董品を取り扱う商店で、現在は 祖父の跡を叔父が継いで商っていた。店内はごくごく庶民的な生活雑貨の類いから 緻密な鑑定を要する芸術作品に至るまでの多岐に及ぶ古物たちで、常に埋められているのが謂わば 伝統である。JRの駅前から程近い繁華な商店街の一画に、旧的な表現で呼ぶところの 三間ちかい広やかな間口を構える店舗には 観光客の来店も頻繁であった。
店舗の突き当たりから繋がって 奥側が住居スペースとなっている。母の弥生が 浅野川河畔を臨める単身者向けの公団住宅へ入居を決めたのを機に東京を離れて、4年近くになる。気晴らし程度に実家を訪れては、慣れ親しんだ細々とした雑用を手伝うなどして過ごしていた。
津久井が店舗に着いたのは午前10時を回った頃で、母の引越しを手伝って以来の当地への訪問であった。不思議なほど刻の経過を感じさせない 平穏な店頭の佇まいが、穏やかな印象で彼を迎えた。
「 慎ちゃん、早かったねえ。」
甲斐甲斐しく陳列物の清掃や配置の工夫に勤しんでいた 叔母の芙由子が先ず気付いて、上品な口調で声を掛けた。母の実弟である店主の雅之とは見合結婚で、樫井家へ嫁いで30年以上となる。夫妻には二人の娘があって、其れぞれが既婚で 市内で家庭を持って暮らしていた。小学校の中学年くらいまでは、母の弥生が骨休めを兼ね 津久井を伴って夏休み毎に二、三泊で帰郷するのが、家庭の行事となっていた。裕一郎が計画を立て、弥生をむしろ思い切らせて 帰らせていたのである。
男子がなかったせいもあり、叔父の雅之は津久井を非常に可愛がった。津久井にしても、この口数の少ない 常に穏やかな静寂を湛えて迎えてくれる叔父に、強く心を惹かれる所があった。刑事事件の最前線に身を置くという職種柄の必然もあろうが、彼にとって父の裕一郎は 誇らしい指標であると同時に、実感としては遠過ぎる存在だったのかも知れない。
「 どうも・・ すっかりご無沙汰しまして 」
少年時代と変わらぬ愛称で衒いも無く迎えられ、彼は いささか気恥ずかしげに、しかし 勤務中には決して見せない打ち解けた破顔を ほんのりと浮かべた。色白の手に備えていた諸々の物を放るように手離して駆け寄ると、芙由子は さながら腕の裡へと抱き締めんばかり情愛の濃さを滲ませて甥を見上げた。
「 なんのー おあんさん。息災かえ、息災かえ?? ほんに気の毒な、見舞いにも行ってやれんで・・・ 」
雅之と同様、我が子同然に愛しんで成長を見守り続けた頼もしい甥っ子の身を この街の空の元で永らく案じてくれていた経緯については、母から詳しく聞いていた。
「 ご心配かけて すみませんでした。今月から職場復帰しましたので 」
「 おっ?? おいでたか?? ー慎司。」
気配を聞き付けた雅之が、奥との仕切りから顔を見せながら 慌ただしい様で呼ばわった。数年振りに見遣った叔父の印象に、著しい経年は感ぜられなかった。しかしながら、かねて出会った記憶のない 年齢に相応であろう彩度の枯淡とでも言った ごく微細な違和感を、津久井の情動は機敏に反応して内心に捉えた。
「 叔父さんー どうも 」
大柄な背を常通り 真っ直ぐなまま折り曲げて辞儀をみせた姿の無事を一見し、雅之は 年季の入った濃紺の暖簾を半折りに掲げて津久井を誘ってみせた。
「 ーま、先ずは奥へ入らっし! 早よ、早よ。」
灯り採りの高い窓から午前の陽光が差し込む 重厚な気配の土間で靴を脱ぎ、中庭を廻る形(なり)の廊下を辿って進む。盛りを迎えている木犀の、甘く 神経の中枢を やんわりと携え何ごとかを滲ませるが如き切ない芳香が、ふと 少年時代の郷愁を誘った。
奥まった八畳に誂えられた仏壇に向かい 線香を灯して帰郷の挨拶を終えると、津久井は 膝を崩さぬまま叔父の方へと向き直った。その上で やや改まった辞儀を深々と見せた。
「 ーご無沙汰の上、色々とご心配おかけしました。」
歴史を経て受け継がれて来た和室の静謐な佇まいと 凡そ不似合いかと思えば、存外と違和感のない甥の逞しげな肩を、雅之は暖かく見つめた。
「 なぁもー 良いがいね。お前が堅いのは、よう知っとるさけ。のう??」
続きの客間へ立ち、雅之は 卓上に準備された湯沸器の温度を確かめながら 津久井を手招きした。
「 弥生はさ・・ 歯医者の予約済ましてかって来るらしいがや。昼前には来れるやろ。」
津久井がショルダーから取り出した幾つかの土産物を 両の掌で丁寧に受け取り、雅之は 仏壇を見遣って恭しく掲げてみせた。
「 慎司が持って来てくれましたさけぇ、後ほど調えてー 」
再度 勧められて後、雅之と卓を挟んだ向かいの席で 津久井は物静かに膝を崩して胡座を掻いた。
背後で開け放たれた障子の向こうに、細やかな箱型の中庭を眺める事ができる。建て込んだ隣家と敷地を隔てた昔ながらの木製塀越しに、やはり変わらぬ 栃の木の高い枝が鮮やかに彩られた黄葉を覗かせている。北陸の麗しき古都の空は、この朝 幸いにも晴天に恵まれて 街並みへ注がれる陽射しの明るさは、小春日和の午後を予感させた。
もてなされた濃い目の緑茶を味わいながら、負傷以降の経過と捜査の凡その進捗について 津久井は報告をした。
「 まぁー なにせ、体をな・・ 大事にしまっし。な、慎司よ。」
手にした湯飲みから穏やかに顔を上げてみせた雅之の声が、秋の繊細に研がれた空気の中に ことり と重く、しかし 慈しみ深く響いて落ちた。
「 ほんまに・・ 此処らで思い切って、わしらの処へ来てみんか??」
「 ・・・・・。」
実娘らが嫁いで家を出る 遥か以前より、雅之は 津久井に商店の跡を継がせたかった経緯がある。
そもそも、裕一郎が亡き後に津久井が警察官を志す進路を選んだ折から 雅之は懐疑的であった。ひとえに、裕一郎の死因が余りにも悲劇的な結末の結果であり、また 津久井の生来の性質を良く理解していたためである。まして 姉の弥生にとっては、ただ一人の掛け替えのない忘れ形見である。
「 この歳の内で、いっぺん全部きれいにケリ付けて見ましゃせんか?」
「 ・・・・・ 」
いささか猫背な姿勢に背をくつろげ、手にした湯呑みの艶やかな陶器を満たす 緑茶の深い色合いへと 津久井は視線を落とした。いったん他の職に就いて社会生活を営んだ後、先の将来に於いては 後継者として迎えたいとの雅之の意向は、津久井が中学生へ上がった頃より裕一郎へ度々 伝えられていた。その度に 裕一郎は拒絶する事なく 雅之の好意を真摯な態度で受け止めて耳を傾けた。裕一郎自身の心中にも、一人息子の将来の展望に寄せる 格別な想いが秘められていたに違いない。
( 慎司さん、ーそろそろお昼になさいって・・ 叔母様が )
店舗奥の暖簾の片方をしめやかに折り上げ、普段着の細かな縦縞で和服姿の紫乃が 白い襟足を美しく微笑み掛けるー その視線の先に在る スーツを脱いだ己の姿を、津久井は ふと脳裏に思い浮かべてみた。
「 ありがとうございますー。」
その件も含めて、折り入って相談事があり お邪魔しました ー
其れまで言って、彼は湯呑みを茶托へ戻すと 黒目がちな眼差しを雅之へと向けた。
「 結婚を考えている女性が在りましてー お袋に、連絡だけはしたんですが 」
「 なにぃー! ほんながけ!?」
手に取り得るほどの嬉々たる朗らかな反応を 丸みのある顔立ちに浮かべ、雅之は体を乗り出した。
「 新美 紫乃さんという、自分にとって掛け替えのない 素晴らしい女性なんですが 」
寛いでいた姿勢を正し、正座した背筋を常通り真っ直ぐ伸ばして改めた様に、雅之は 何かしらの抜き差しならぬ背景を即座に察して相槌をみせた。
「 おお。ほうかねー。」
「 服役中の 新美 宏之被告の実の妹にあたります。」
「 ・・そうかー そうなんがいねぇ。」
妹さんが在ると云うのは聞いていた と、卓の上で 雅之は憂える少年のごとくに頰杖を突いた。津久井が少年の頃より同じ位置に掛けられてある、年代を経て艶を増した振り子時計の針が 揺るぎの無い時を刻んでいる。
「 他のご家族は??」
頬杖のまま、雅之は人懐こい眼(まなこ)を くるり と向けた。
「 ー蒸発中の父親は行方が掴めず、 ・・母親は既に亡くなっています。」
「 ああー。 ほらぁ、女ごさんの身で・・ 何とも愛っしゃあことやわい。」
見る間に ゆらゆらと潤ませた眼差しを憚ることもせず、彼は深い溜息とともに呟いた。人生の節目ごとに真心を砕き続けてくれた 叔父の存在の稀有な有り難みを、津久井は震えるほどの感動をもって心中に噛み締めた。
「 ・・・・母親を亡くしてから、体もずいぶん弱って来ているようなのでー 」
言い掛けて 不意に込み上げた堪え難い嗚咽に当惑しながら、津久井は言葉を堅く噤んだ。大きな肩が懸命に情動を堪える様から 敢えて視線を逸らして、雅之は冷めた緑茶を啜った。
「 ほんでー あれか。姉さんが、ちょっこ難しいか。」
眼を伏せたままで、津久井は小さく頷いてみせた。
「 それとー 刑事課の現職として在る問題も難しいです。」
津久井の肩越しに中庭へと顔を上げると、雅之は とおく遥かを仰ぐ眼差しを見せた。
「 ー お義兄さんやったとしたら、何も邪魔ない て云うがいね、きっと。」
「 ・・・・・。」
ぶらり と立ち上がり、黙するのみの津久井の傍らを過ぎって 雅之は陽溜りの縁側に腰を下ろした。切り取られた晴天の空を 暫し仰いだのち、彼は棘のない半顔を 客間の津久井へと向けた。
「 その、新美いう人の刑期はさー 何時まで在るがん??」
「 ・・・・ 」
やや体を開いて雅之を見遣ると、逆光の中で薄らかな翳りを帯びた表情へ 滲み入るような慈しみを湛えている。
「 求刑通りであれば、あと十年ほどですー 」
「 十年か。 ・・・ 長いやねぇ。」
「 ・・・・・。」
ふと思い付き、津久井は 向かい側の壁面に掛けられた時計の針が進んで示した時刻を確かめた。予定に変更が生じていなければ、紫乃の乗車した新幹線が東京駅を出発して 20分ほど経過した頃合いのはずであった。駅近くのビジネスホテルに二人用の部屋を予約してある。実家での要件を終えた後に落ち合って、母方の菩提寺へ分骨されて在る裕一郎の墓参を行おうと 二人で決めていた。
日没までに間があれば、この類い稀なる美意識に彩られた 趣深い古都の街並みを些かなりとも案内するつもりであった。いずれかの未来に於いて 人生の伴侶としての紫乃にとっても所縁ある土地と為り得るという、かつて思いも依らなかった予感が 未だ曖昧な輪郭ながらも 津久井の意識の深部で 確かに生じていた。
「 ー慎司よ、」
「 はい。」
開け放たれたサッシの縁に背を持たせると、雅之は 明るい陽の載った両膝の上で 緩やかに腕を組んだ。
「 ほんなら 差し当たってはー ちょっこし、時の過ぎるのを待ってみるがいね??」
あと十年、とは わしは能う言わんが・・ 雅之は 選んだ言葉を噛みしめるように言葉を紡いだ。
「 ・・・・・。」
丁寧に磨き上げられた廊下の上へ座を移し、津久井は 叔父の少し小さくなった円やかな背の傍らに身を置いた。上着を脱いだノータイのシャツ越しに、逝く秋の儚い温感を二の腕の皮膚に感じた時 不意に点火された紫乃への狂おしい思慕が、彼の存在の中枢を貫いた。戸惑いを悟られまいと 一旦 息を留めてから、津久井は そよぎ来る木犀の芳醇な馨を ゆっくり吸い込んでみた。しかしながら、その甘やかさが一層甘美に 彼女の纏うフレグランスを 彼の嗅覚の深部で鮮やかに甦らせた。
「 吾りゃくさんが決めた お人やさけ、なあ? ・・時間なぞは関係なかろうて 」
膝の上で軽く握った掌の内で、しめやかに乱れる 紫乃の美しい黒髪の感触を辿りながら 彼は頷いてみせた。
「 はい。 ー自分の気持ちは 生涯変わらんです。」
「 うん。 ・・ほやさけ、」
澱みなく返した最愛の甥の言葉を受けて納める形に、雅之は 庭内の草木へ視線を揺蕩わせた横顔に幽かな微笑を浮かべた。
「 なぁんもな、むやみと がっぱに成らんかても 良い、良い。」


 昼前に実家を訪った母の弥生を交えて簡素な昼食と談義を済ませた後、津久井が 宿泊先のホテルのエントランスへ足を踏み入れたのは 15時に近い時刻であった。想定したよりも時間が押したせいもあり、些か慌ただしい足取りで捜査中さながらにロビーへ飛び込むと、彼は唯一人の その女(ひと)を探した。連絡を取り合った携帯で、チェックイン済みの部屋から降って ロビーで待つよう 紫乃へ伝えてあった。と、云うのはー 先にプライベートな空間で紫乃を間近にした時、墓参へ向けて外出すべき主たる目的を 己れの理性が遂行出来るものかどうか、自信を持ち得なかった為である。
「 ー・・・??」
好天に恵まれた週末の午後とあって、紘やかなフロアに憩う顧客の数は多い。全面に丈高のガラスが施されたラウンジの一画へと、彼は歩を進めた。如何なる場所に在っても 際立って美麗な佇まいを醸す紫乃の姿を、どうした訳なのか 容易に見出す事ができない。通常の勤務であれば 想定外の事象が続くほどに冷静さを増す津久井が、初恋の相手と逸れた少年の如き胸騒ぎを覚えて 心を乱した。頭上を流麗に過ぎりゆくグランドピアノの自動演奏の響きも 彼の聴覚を潤しはしない。
( 紫乃ー??)
詳しい居場所を確認すべく 内ポケットの携帯へと手を伸ばした時、背後で微かな芳香が揺らいだ。
「 ー慎司さん?」
振り向いた肩の下で、柔らかな長い髪越しの眼差しが 慎ましやかに津久井を仰ぎ見た。思いのほか間近で、十日ほどぶりに出逢った紫乃の涼しげな瞳を 彼は引き寄せられるが如くに対面して見つめた。
「 ご苦労様でした。ーお疲れになったでしょう。」
「 ・・・・・ 」
さながら 優しく街並みを濡らして そぼ降る、心地好い雨音を感じさせるかの 紫乃の細い声色が切なくてならぬ。人目を憚らず、忽ちに抱き寄せたい衝動が 勁く沸き起こるのを、津久井は息を整えつつ懸命に堪えた。過敏になり過ぎているのか、先に逢った折よりも 少し痩せたように感ぜられた。
「 ー待たせてしまって、すみません。」
いいえ、少しも待ちませんわ と、幸せそうな微笑を 彼女は色白な頬へ綻ばせてみせた。黒の礼装で身を包んだ薄い肩へ、ようやく躊躇いがちに手を添えると、津久井は出発を誘った。
「 タクシーに少し乗りますがー 行きましょう。」
「 はい。」

 その 古く永き歴史の繁栄のもと育まれた、稀有にして この上なく美麗なる鮮やかな文化に彩られし古都は、小春日和の遅い午後に微睡んでいた。
河畔の佇まい一つを切り取ってみてすらも、刻まれ来た時の重みと 洗練された情趣の細やかさに満つる河川を眺めて タクシーは やや上流へと遡った。降車後、なだらかな勾配の坂を辿りゆく路の中ほどに 二人が参じた墓所が 細やかなれど平らかに、ゆかしい街並みを見遥かしていた。
裕一郎の墓前に生花と線香を供え終えると、紫乃は 礼服の膝を薄く折り畳み 額を地面に深く擦り寄せて平伏した。
「 申し訳ー 申し訳・・ございませんー !!!」
「 ・・・・・・ 」
身体を震わせる深い嗚咽に耐えつつ 故人へ捧げんとする、傷まし過ぎる謝罪と祈りを 津久井は その傍らで瞬ぐ事なく見守った。晩秋の足早な斜陽が 他に人気のない周囲を そろそろ芳醇な黄金で満たし始めている。華奢な身を小さく 伏したまま地の底までも沈み込んで果ててしまいそうな肩を、津久井は堪え切れず抱き起こすと 腕(かいな)深くへ強く抱き締めた。
「 紫乃ー !!!」
「 申し訳・・ ありませんー 」
震える唇を 彼は思わず己れの唇で塞いだ。閉じた瞼の深淵部ー 津久井の精神を掌る魂魄の中枢が激烈に揺さぶられるかの感覚を、彼は覚えた。同時に 留め難い涙が、津久井の引き締まった頬を伝った。遥かに遠く寺院の鐘の音が、何処かより微かな響きを伝えて 二人の頭上を訪った。
「 お兄さんが刑期を終えられたら・・ この街で 一緒に暮らしましょう。」
「 ??? ・・慎司さんー 」
細い顎を静かに仰向かせ、間近に紫乃の潤んだ瞳を見つめて 津久井は言葉を続けた。
「 それまでー どうか、必ず 俺の側に居てください。 お願いします。」
「 慎司さん・・ 。」
「 可いですね??」
「 ・・・・・・ 」
儚い指先で、紫乃は 愛しい男の頬を濡らせた涙を、妙なる優しさで拭った。その体温の冷たさに驚き、咄嗟に握り締めた力強い手の甲へ口づけを捧げると 彼女は津久井へ頷いてみせた。
「 ー ありがとうございます ー 」
互いの存在の温もりのみを 抱擁のうちに確かめ合って立ち尽くす恋人たちの頬を、すでに黄昏の忍び寄る予感を秘めた晩秋の微風が 無言で過ぎった。
穏やかな表情で、麗しき北の古都は この年も変わらぬ初冬の訪れを見守っていた。  (完)



      ー『筆者のあとがき』ー
この作品を想起しましたのは、未曾有のpandemicが世を席巻した春の初めのことでした。忘れる事なく薄紅色の蕾を綻ばせ始めてくれる桜の美しさに、改めて深い感慨を覚えた瞬間こそが すべての想起点となりました。飽かず地上に於いて営まれる人の世と、生命を誕生させ育み続ける この唯一無二の美しい惑星との関わりについて。或いは、揺るぎない幸福を求め続ける人の飽く無き欲求と、あらゆる物質を超越した次元に 孤高として在り続けるのであろう「恒久」なるものの 混在について。一つの植物についてすら かほどに深い愛着を持ち得る民族が 今日までに辿って来た歴史の指し示す意義についても、改めて向かい合ってみたいと云う衝動を強く感じました。
結局のところー
此処までの執筆では、到底 考察を終え得ぬ事実を ようやく自認いたし、謂わば『第一巻』として、一先ずは此処にて 一旦の区切りとさせて頂きます。引き続きまして『 続 幻影の翅(つばさ)』なるタイトルにて、以降の物語を綴らせて頂きます。是非 この後に展開されゆく登場人物たちの生き様を、新たな視点とともに見守って頂けましたら幸いと存じます。
最後となりましたが、拙作の進行を暖かく長い目で見守って下さいました皆様へ 心より深く感謝申し上げます。活動を通じ様々な表現の可能性に挑戦させて頂けました事と、最高に素晴らしい出逢いを頂けました事に 永遠の感謝を捧げます。ありがとうございました。 Toramutsu



































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登場人物紹介

水樹 史也( みずき ふみや)

広告制作会社勤務のイラストレーター。26才。心療内科カウンセラー 佐野 悠介との出逢いがきっかけとなり、かつて深刻であった精神状態から快方へ導かれて以来、悠介へ深い信頼を寄せている。

並外れて繊細な神経に恵まれた一方で、一般的な常識にとらわれない大胆な行動力をも兼ね備えている。

佐野家隣家の牡猫コタロウ( 水樹は一方的にヴァンプと呼ぶ )は親友である。

コタロウ

佐野親娘が暮らすマンションの隣人・黒田さんが飼っている去勢済の牡猫。

遠出はしないが、何故か佐野家へだけはベランダを器用に伝って頻繁に訪ねて来る。穏やかで人なつこい性格で、ツンデレのツン要素はあまり持ち併せていないらしい。

大柄な水樹 史也が繰り広げるスキンシップを実のところは迷惑に感じている、かどうかは不明である。

佐野 成未( さの なるみ )

大手通信販売会社に勤務する27才。きょうだいは無く、臨床心理士の父・悠介と二人暮らし。

十代で母を亡くしたせいもあってか、日常の生活者として揺るぎのない堅実さを備えたしっかり者である。

職場の同僚で後輩にあたる 中村 宏太 に異性として好意を感じているが、適当な距離から見守っていたいとひそかに願っている。

亡くなった母の実姉で、関西在住の叔母・川瀬 愛子 の無敵な明るさも好き。


佐野 悠介( さの  ゆうすけ )

臨床心理士を務める成未の父親。ある意味、純粋な少年時代のひたむきな向学心を持ち続けている。生来の気質としては朗らかで、性善説を信念とする。豪放と呼んでも可いマイペースと他人の反応をあまり意に介さない爽やかさが、弱点でもあり強みでもある。早世した妻の美穂をこよなく愛し、誰よりも傷みを背負っているが、忘れ形見の成未にも敢えて語った事はない。彼の血の通い合った心療の姿勢が、苦しむ者の拠り所となる。

中村 宏太( なかむら  こうた )

成未の後輩にあたる同僚の青年。人間関係に於ける周旋などに、ややもすれば誤解を招くほど不器用な誠実さと真面目さが長所とも謂える。その一本気さゆえ逆境に弱そうに見られがちであるが、外見とは裏腹の不屈な意志の勁さを秘めてもいる。誰にも明かさないが、片親の家庭に育ち自身の努力によって現職を掴んだ不遇な経歴こそが、未来を生きる糧となるという誇りと信念を強く抱く。

その一方、他人知れず成未に対する深い愛情を日々確かめてもいる。


記憶を持たない謎の男

事故なのか、傷害の被害者であるのか、瀕死の重傷を負って忽然と現れ、救急病院へ収容される。

怪我の後遺症によるものなのか、彼の「記憶」には深刻な混沌が生じていた。

唯一の所持品である色褪せた挿絵らしい紙の切れ端と、彼の脳内から無作為に出現するワードを手掛かりに、悠介と里中は心療にあたろうとする。

ところが正体不明者が次々と現れ、彼の身辺はしだいに不条理な危険に晒されてゆく。並外れた体力と身体能力を備えている事実に関しては、疑う余地がない。

里中 睦( さとなか  あつし )

悠介の同窓生で個人の臨床心理クリニックを経営する。佐野家とは美穂の在名中より親しい交流を持ち続けている。学生時代に培われた純粋な理念と悠介との信頼関係を自身の宝としており、悠介に臨床治療の片腕を託してもいる。成未にとっては、心の内を明かせる大切な存在である。

明朗な印象で独特の愛嬌の豊かさが魅力だが、外見とは裏腹のこまやかで緻密な神経を持ち合わせている。

澤村 泰弘( さわむら やすひろ )

悠介らの母校に附属する大学病院の心療内科で治療にあたる若手医師。緻密な頭脳と臨床医師としての適性から、周囲に将来を嘱望されている。公にはされていないが、不幸な幼年期に他家へ養子に迎えられた生い立ちを持つ。

心療を目指したきっかけは自らが幼い頃に負い、癒えることのない心の傷痕にある。少年時代に奏法を学んだヴァイオリンを愛し、多忙な中に於いても一人奏でて過ごす時間を大切にしている。

津久井 慎司( つくい  しんじ )

佐野親娘が居住する地域を所轄する警察の刑事で巡査長。謎の男の身元や負傷した経緯などが究明されないままの現状に違和感が拭えず、真相を突きとめようとする。微塵な情報を見逃さない、物的な手掛かりに基づく公正な分析を規範とすべく自らを律する一方、現場の人間に対する直感的な印象や気付きにも重きを置く。真摯な責任感と誇りが、職務に取り組む信条である。学生時代より精進している空手道の段位は黒帯で三段。

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