第19話  夜間飛行

文字数 14,481文字

 部屋に戻ると、牧野はとりあえずテレビとラジオを低音量でつけ放し、ベッドへ仰向けに横たわった。暮れ掛かる空は、地平よりの三分の一ほどが 既に淡く夕陽の茜に染まっている。西向きの窓ながらも、白とウッディが基調の室内の光彩は ぼんやりとオレンジがかったセピアに褪せつつあった。
「 ・・・・・ 」
瞼を閉じ、二、三度ゆっくり深呼吸をしてみた。瞑想を試みるといった習慣は持たないが、一先ずは、何も起こらずに外出から戻った状態へ意識をリセットする事に決めた。かの'イムギ'とスタイルは凡そ異なるものの、ごく明快に五体で認識し得ぬ類いの不明瞭な感情などは迷わず排除するのが常の思考法である。彼の心情の水面へ唐突に舞い降り、魅惑的な翼を休めた女が おそらくは演技でなくその生来の無邪気さで波立たせた風紋とはー
無論、猥雑な情欲でも無ければ、軽薄な行き摩りの遊び心でもない。二度とは埋めがたい絶望的な喪失感、決して充たされる事の無い無限の孤独とでも呼ぶべき稀有なる感覚が、たやすく共鳴してしまいそうな予感への謂わば慄きであったに違いない。何れにせよ、この男の生き様に於いては 警戒せざるを得ない想定外である。
努めて思考を反転させるべく、部屋の照明を明るく照らしテレビの音量を増やして手の付きやすい食品を口へ運んだ。週末で好天の宵ごろ、都心からの帰宅者らの立ち寄りも多いであろう駅前のことだ。あの容姿で連れの姿が見えなければ、つい うかうかと誘いを掛けてしまう男の一人や二人は降るまいー
他の男をあしらっている間に、この部屋の番号を思い出せなくなるかも知れない。
滑稽なほど楽観的な展開のみを予測する事にして、牧野は翌朝の出発時間を再確認し、早々と起床のアラームをセットした。その後バスタブに湯を溜めながら、入浴の準備をした。6割がた入った頃合いに、彼は湯の中へ浸かって身体を伸ばした。思いの外、身体が奥まで冷えていたのに気付いた。テレビとラジオは、付けたままにしてある。蛇口から注ぎ続ける熱めの湯を両手で掬って顔を擦って、頭髪を湿らせ始める湯気越しに ふと 先の男が見せ付けた写真の中の風馨が浮かんだ。
( ・・・・。)
ほぼ条件反射で思考を停止し、全身の洗浄を始めようと石鹸へ手を伸ばした時、密やかに部屋のチャイムが鳴った。続いて、やはり存外と注意深げにノックする音が聞こえた。
「 ・・・・・・ 」
牧野はよほど、気付かぬ振りで遣り過ごせぬものかとバスタブの中で真剣に思い巡らした。あえて湯を止めないまま、暫し聞き耳を立てて廊下の様子を伺うと ドアの向こう側でも此方を伺っているらしい。沈黙を挟んだ後で、来訪者の手は再び、幾らか強めに はっきりと二度目のノックを鳴らしてみせた。
「 ー ・・・。」
観念した牧野がバスローブを羽織ってドアを開くと、照明の落とされた廊下左手で女のフレグランスが温かく香った。見遣った視界を、深々と情を宿す女の大きな瞳が とたんに潤して埋めた。
「 ハイ、ミスタ。 ・・ごめんなさい、バスを使ってらしたのね。」
「 ・・・・。」
従来の自らの住処ででもあるかの自然さで、女は すたすた足早に中へ入ると、壁沿いのドレッサー前へ大きめのトートを無造作に置いた。テレビの画面へ眼を遣りつつ、ジャケットのベルトを外し掛けてから、バスローブのポケットへ両手を突っ込んだままの牧野に気付いた風で 彼女は振り返った。
「 ー俺はミスターでも、`セレム' でも、クズですら無い。」
「 ??じゃあ・・ 何と呼べば好い?? 」
此処でも、彼女の思考回路はいたく明快で 微塵の屈託も無かった。無性に敗北感を覚えて、牧野は常らしからぬ刺々しい口調で低く呟いた。
「 マキノ、・・ 」
「 マキノ。風邪を引くといけないわ。ゆっくり入ってらして。」
「 ・・・・ 」
已む無く、手荷物から着替えの部屋着を取り出し 彼は浴室へ戻る事にした。
通常よりも必要以上に時間をかけてバスを使い、着慣れたシャツとジャージで部屋へ戻ると、女は窓辺に居た。
「 ・・・・・ 」
窓に面したデスク用の硬い椅子に小柄な身体を載せて、両腕で膝を抱いている。上着ばかりかスカートとハイネックのチュニックなども脱ぎ棄てて、ローズゴールドのキャミソールだけを纏った素足であった。デスクの上に置いた携帯に繋いだイヤフォンで、なにか音楽でも聴いているらしい。牧野の視線を逸らし難くさせたのは、女の表情と、露わになった細い肩から肩甲骨へ掛けての大きな傷跡だった。
( ・・・・・ )
客を待つ間の時間潰しにしては、ひどく思い詰めた 先程までとはまるで別人の深い憂いを、減り張りのはっきりした横顔に湛えている。牧野の視点から患部の詳細は判別できないが、おそらくは重度の火傷によって背中の皮膚が爛れている様であった。備え付けの浴衣を広げながらリモコンでテレビを消し、背後へ歩み寄った牧野に彼女は気付かない。艶やかに照明を映す裸の肩へ そっと浴衣を掛けようとして、女の円やかな頬を 大きな涙の粒が伝って落ちた。
「 ??あら、? ー ごめんなさい。ありがとう。」
肩を覆った浴衣を両手で引き寄せ、牧野を振り仰いだ女は 悪びれる風もなく、笑顔を取り戻してみせた。窓の外の眼下では、帰宅時の交通渋滞も一通り終わり、家路を急ぐ者 あるいは週末前の宵を満喫するため駅前で足を留める者などの雑踏で、平穏な活況が呈されている事だろう。
「 哀しくなるなら・・ 聴かなきゃいいのに。」
ドレッサーのスツールへ腰を下ろして、彼は やや前のめりに膝の上で両手を組んだ。心持ち首を傾げてイヤフォンを外した女は、牧野の呟いた言葉へ 素直に頷いて返した。
「 ほんと・・ 仰るとおりね。」
安物だけど、少しいかが?? と、牧野が入浴中に準備したらしいウイスキーの水割りのグラスを二つ、冷蔵庫から取り出した。
先ずグラスの両方へ唇の先を浸し、悪戯げに瞳を丸くして微笑んでから 彼女は牧野へ手渡した。
「 ヘンな物とか入れてないわ、安心して。」
「 ・・・・・ 」
受け取ったグラスを持って彼は浴室へ赴き、次に女が使えるようタブへ溜め掛けていた湯の蛇口を止めた。畳まれたままの未使用のバスタオルを女の傍らへ置くと、窓辺のカーテンを閉じた。
「 飯は? ー済ませたか。」
「 済んでる。大丈夫。」
ドレッサーへもたれてグラスを啜り、対峙させた眼差しを鋭くして牧野は問い掛けた。
「 眼鏡の日本人からー 俺の、何を聞いて来た?」
「 なにも。」
「 何もー??」
グラスを傾けて少し瞳を大きくしたが、女は何の気もなしに首を横へ振った。
「 貴方の写真で、顔を見た。名前は 'セレム' で 身長は6フィートと少し、口数の少ない日本人。聞いたのは、それだけ。ほんとよ?? 私、お利口じゃないけど嘘つきじゃないわ。」
「 ・・・・・。」
ずるずる 背を摺り下がって、彼は床の上で胡座を掻いた。どうやら、言っている事に嘘も偽りも 当の女自身に裏腹は何ら無いようである。とは言え、この折を見計らい 敢えてこの女を選んで自分の元へ寄越した存在が、嘲笑とともに興味深げな注目を注いでいるであろう事は 容易に想像できた。牧野は今更に、全身を満たしつつある 遣り場の無い憤りの騒めきを体内に冷たく感じている。ひと息にグラスを空けて飲み干し、彼は椅子の上の女を上目がちに見据えた。
「 ーなあ。もう、止せよ。こんな危ない真似は 」
「 じゃ、マキノと一緒に居ても好い??」
「 ??? 」
椅子の上から俄かに笑顔を輝かせた女に束の間 口を噤んでから、牧野は表情を険しくして見せた。
「 駄目だ!」
「 ?? んー・・。」
納得のいかぬ様子で降り立ち、牧野の二杯目のグラスを整えると 女は並んで床へ腰を下ろした。膨よかな胸元の美しい湾曲が透かせて、羽織った浴衣から覗く鎖骨が細くしなやかだった。
「 手遅れになる前に、適当な奴をつかまえて幸せにしてもらえ。」
近くへ寄った女から極力 眼を逸らしつつ、牧野は頭髪の乾きが遅い部分を辿っては指先で擦った。
「 貴方じゃないと、厭ー。」
「 !?ー !! 」
酔いが廻った訳でもなかったが、次の刹那 前代未聞の憤怒の怒涛が彼を烈しく突き動かした。乱暴に床へ倒して女の身体の自由を制圧し、その喉元へ利き手を添えると 鎖骨中央の窪みへ親指を強く圧し充てた。
「 終いにはー 摘み出すぞ!? 俺が出て行っても構わん!」
「 ・・・・・ 」
女は暴れなかった。固定された手首に力も入れず、ただ綺麗な 寂しい表情を浮かべて牧野を素直に見上げた。
「 独りにしないでー。どうしても行くなら、その前に いま殺して。」
「 !?ー ???」
牧野が負荷を与えている皮膚の下で、女の華奢な若々しい脈動が乱れる素振りもなく 健気な循環を粛々と継続している。牧野の指先を、彼女は動かせる方の手で丁寧に撫でた。
「 貴方になら、私 殺されたいわ。 ・・ね、お願い。」
「 ・・・・?? 」
女の身体をゆっくり起こして壁へもたれさせると、彼は一層 容赦のない眼差しを浴びせた。
「 ーなにを企んでる。 何を仕込まれて来た??」
唐突な身動ぎで乱れた艶やかな長い巻毛を ふんわり肩へ解いて、女はその瞳を透明に潤ませた。
「 貴方を写真で見た時、特別な何かを感じたのー 上手くは言えないけれど。」
「 ・・・・・」
喉の渇きをウイスキーで湿らせてから、彼女は やや目線を落とし、淡々と言葉を繋いだ。
「 お金をもらう人たちには何の気持ちも持たないー 嫌な気持ちになって死んでしまいたくなるのは、しょっちゅうだけど。本物の貴方が写真より ずっと素敵だったから、嬉しくて・・ 心を救ってもらえた。それだけよ。」
「 ・・・・・ 」
「 目障りだったら床の隅に居るから・・・ 朝まで、貴方の側に居させて。お願いー。」
女の前で屈んだ牧野は、徐々に俯いて やがて両手で額を深く抱えた。居たたまれぬ自らへの嫌悪と、果てしも無く纏わって支配を解かない 絶望への虚無と憤怒が、高らかに嘲笑って彼を打ちのめしていた。
「 ーマキノ??」
「 なにを勘違いしてるのか知らんがー !」
女の小さな肩を掴むなり、牧野は真正面から琥珀に透ける瞳を見つめて 偽らざる心情を吐露した。
「 俺は誇れるものなど何一つ持っていない。帰る故郷も無い。大切なものを護る力すら無いー
ただ むやみと生かされて、無意味な人生を終わらせる場所を探して彷徨っているだけの『亡霊』なんだ!」
女は はらはらと煌めく涙を拭いもせず、躊躇いがちに伸ばした細い指先で、牧野の黒髪に触れた。そして、柔らかく微笑んだまま ゆっくりと頷いてみせた。
「 そうよ、・・ それは、丸ごと私も同じだもの。 私には、貴方のことが判るのよ、マキノー。」
「 ???・・ 」
「 本当よ。信じて。」
彼の額へ、女は優しく唇を押し当てた。彼女の真実が、甘やかな奥深い香を纏って牧野を包んだ。
「 ーっっ・・ !!!」
声にならない嗚咽とともに、牧野は理性も分別も分たぬ嬰児のごとく、女の柔らかな胸の膨らみへ縋り付いた。おそらくは、この男が他人の目へ顕わに晒した初めてで唯一の醜態であったろう。
「 苦しいのね。ー哀しいのね・・ 」
壁へ背を預けて牧野を受け止め、慟哭に震える大きな肩を 女は精一杯の力で抱き締めた。女の身体がひどく冷たいのに気付いた牧野は、苛立たしげに呟いた。
「 ーすっかり、冷え切ってるじゃないか。」
「 貴方は とても大きくて、温かいー 」
「 ・・・・・ 」
顔を埋めたまま、彼は女へ問うた。
「 名前はー ??」
「 リンゼイ 」
「 ?? 違うだろう。 ・・ほんとの名前は??」
頬に乱れた波打つ髪を耳の後ろへ搔き上げ、女は少しく恥じらうように無垢な微笑を浮かべた。
「 ー 'ネスリーネ'。」
「 'ネスリーネ' ・・ 意味は??」
「 国の言葉で ' 白い野バラ ' のことよ。」
「 ー故郷(くに)は??」
「 アゼルバイジャン 」
「 ・・・ 遠いな。」
女の華奢な顎へと、なぜ手を伸べたのかは牧野自身にも判らない。最後の最期まで、彼の生来沈着な理性は しかし十分過ぎる制御と抵抗を、試みはしたのであった。生まれて初めて女に触れるほどの躊躇いを以て、彼は そっと 繰り返し 互いの唇の先を触れ合わせた。
「 ・・・・・・ 」
無心に受け止め続ける女の唇の甘美な弾力が、彼の脳内で 不可思議にして鮮明過ぎるカレイドスコープを、次第に投影させはじめた。
抱き上げた ずぶ濡れの仔猫から伝わった、小さな心音と命の温もり。
幾度となく肩を寄せ合った、幼い弟の肌の優しい感触。
そして、風馨を愛した記憶のすべてー 。
疲弊し切った精神を軋ませて交錯する記憶に眩暈すら覚えながら、いつしか 女の唇を夢中で貪り求めている自分に気付いた。が、遂に牧野は 自らを突き動かそうとする衝動へ我が身を任せた。少なくとも この瞬間、彼を自らたらしめて来た全てを棄てた。

「 ・・ ちょうちょは・・ 持ったらだめなんだ 」
「 翅の粉が取れたら飛べないから、可哀そうでしょ 」
「『ヒロ』、わかった?」

女が身に纏った全てを脱がせると、胸に抱き上げて浴室へ向かった。未だ暖かな湯気の漂うバスタブへ女を浸からせ、自らも再び 着衣を脱ぎ棄てた。そして 湯の中で足を開かせると、乱暴ではなかったが 唐突に、女の最も奥深い処まで入り込んだ。
「 マキノ・・・」
女は抵抗しなかった。重力を解いた湯の中で、牧野の求める全てを受け入れるべく しなやかな肢体を優しく開いてみせた。
「 ーネスリーネ、 ・・ネスリーネ・・ 」
覚えたての女の名を、あたかも其れが 焦がれ続けた恋人の唯ひとつの名であるごとく、牧野は優しい囁きで 繰り返し大切に呼び続けた。

女の身体が一通り温まったのを確かめて抱き上げ、牧野はベッドへ運んだ。部屋の照明を落としてタオルで身体を拭いながらシーツに包むと、刻を忘れて抱いた。
「 ・・ リーネ、 ー 'リーネ' と・・ 呼んでも可いか?」
「 うれしい・・。」
最愛の恋人を愛でるごとく、つま先から睫毛の一筋にいたるまで 女の素肌のすべてを、彼は丁寧に辿った。そして、小柄な胎内が秘めている膨大な感応機能の発火点を探し求めて、真摯な愛撫を繰り返した。しだいに薄っすらと汗ばむ皮膚が、淡い間接照明の元で美しく輝きはじめた。女の背後から髪を肩の上へ避けると、火傷の痕らしい大きな傷痕へ 牧野は そっと唇を這わせた。粘膜で触れてみると、皮膚の爛れ具合には予想以上の惨さを感じた。
「 ー 今でも、傷むだろう。」
「 時々は・・ 。 引き攣れると形が変わるって ・・ 面白がる人もいるー 。」
「 ・・こんな事は辞めろ。 ーもう辞めるんだ、いいな。」
「 マキノ・・・・ 」

昏倒に近い、深過ぎる仮眠から ふと目覚めると 自らの右半身へ ぴったり素肌を寄せた あどけない呼吸が、牧野の五感へ伝わって来た。枕元の時計を確認すると、タイマーをセットした時間までは未だ猶予があった。
「 ー・・・ 。」
牧野の右腕を枕に背を向けて眠りに着いている女が、聞き取れないほどの微かな声で何事かを発した。英語では無いようだった。起こさぬよう覗き込むと、まるで乳飲み児がおしゃぶりを咥えた寝姿の状に 自らの左手の人差し指を唇に含んで 無心に吸っている。
「 ・・・・・・ 」
途端に胸の奥深くが鋭く締め付けられて、牧野は溢れそうになる涙を堪えた。幼かった弟の泰弘が ちょうどこんな風に指を咥えないと眠りに着けず、養護施設に預けられて以降も 口喧しく指導されたものであった。
薄明かりに透かして見ると、咥えた人差し指の皮膚が付け根まで やや変色して被れている。ゆっくり自分の方へ身体を向かせて外させようとすると、女は反射的に 一層つよく指先を咥え直した。
「 ーー ・・シャイ? ア ・・クシャイ??ー 」
牧野の測り知る事の叶わぬ、遥かなる何処かの夢の世界で 彼女はおそらく誰かの名を呼び続けている。苦悩に満ちた表情の下で 呼吸の速さが不自然に加速するのを見兼ね、牧野は懐深くへ女を抱き寄せた。そして無理に指を外させて、奪われた縋り先を懸命に求める唇を 口づけで優しく塞いだ。永く探し続けていた生母の乳房を探り当てた乳児のように、女は愛らしく安らかな吐息とともに、夢中で牧野の唇を求めた。
「 ・・・・ ー??」
得も云い得ず心地好い、女の唇の柔らかな弾力を 同様に夢中で貪って 彼は自身の深淵部で 音立てず小さく、何かが唐突に 爆ぜ飛び 何かが発芽する気配を確かに感じた。図らずも 烈しい衝動の畝りを伴って不意に襲った 堪えがたい愛惜と憐憫の激情に打ち拉がれ、乱れた髪を撫でながら 牧野は茫然と女の名を呼び続けた。
「ー リーネ。 リーネ・・・」
「・・・ マキノー??」
暗黒の山岳地を踏み分け入った彼方に、月明かりを宿して出現する湖の水面のごとく、ネスリーネの琥珀の瞳が 牧野の視界を現つの夢で埋めた。互いの睫毛が絡み合うほど間近で 牧野の眼差しを見つけて、彼女は さながら幸せな夢に辿り着くことが叶った乙女の微笑を浮かべた。
「 ー 私ね、また悲しい夢を見たの・・ 」
唇を離せないままで、牧野は優しく囁いた。
「 指を咥える癖は ・・良くないぞ。 ー治せよ。」
「 マキノと居られたら、治せるかも知れないー 」
「 ・・・・・・ 」
仰向いた自らの上へ女の身体を そっと抱き上げると、額に掛かる髪を掻き上げて牧野は見つめた。
「 居場所が決まったら、どうか必ず電話してー お願い。」
「 それで・・ どうする??」
牧野の指先に唇を押し当てながら、ネスリーネは大きな瞳で見上げた。
「 貴方のところへ行って、絶対に離れない。」 
「 ・・・・・・。」
無様なことに 牧野は咄嗟に涙に咽んで嗚咽を漏らした。女は懸命に、柔らかな頬を寄せて縋った。
「 俺なんかに関わると、ろくな事にならんー 」
「 良いの! ・・私に遺ってるのは、どうせ悪い夢だけなんだもの。」
「 ・・・・・ 」
膝の上へ抱き上げて毛布で包んだ身体のなだらかに美しい湾曲を、牧野は掌で繰り返し辿った。
「 なぜ、・・なぜ来た?? なぜ断らなかったー 」
「 貴方に捧げるわ。 ・・遺された私の総てをー 。」
涙を拭う繕いも棄てた牧野の骨太な頬へ、ネスリーネは 自身が現在この刻に感じ得る想いの丈の総てを籠め、頬を摺り寄せた。そして彼の唇が乾き切っているのに気付くと、飲み物を持って来る と、ベッドを離れた。浴衣を羽織り、新しい水割りとミネラルウオーターを準備して戻った掌の中に、彼女は小さな何かを握っていた。
「 ・・ 護り給え。 護り給えー ・・護り給え。」
「 ???・・ 」
真剣な様で瞼を閉じ、握り締めた自らの拳へ念じてから掌を開いて、女は ごく素朴な装身具を手に取ってみせた。
「 お祖父ちゃんの形見で、御守りのコインなの。とても尊い経文が彫られてあるんですってー 」
「 ・・・・・ 」
なめした革で創られた二重の古びた紐を牧野の首へ掛け、彼女は色褪せた金色のコインの位置を顎の下部あたりへ定めた。
「 可いのかー?? そんな大切な物を、俺なんかに 」
「 私が辿り着けるまで、必ず貴方に生きていて欲しいから・・ 」
艶やかに畝るネスリーネの髪を優しく撫でつけ、牧野は やや上目遣いに瞳を覗き込んで訊ねた。
「 本当に身に付けさせたい奴が、他に居るんじゃないのかー?」
牧野の左手を両手で頂き、彼女は その指先へ口づけて美しい微笑を浮かべた。
「 優しい方ね・・ 」

幼馴染で、私の生命だった勇敢なアクシャイはー
戦闘の爆撃を受けて消えてしまったの。 ・・死骸すら遺らなかった。
その砲撃を、避難していた山の上から私は見たの。

「 ・・・・・。」
「 生き続ける意味が解らないまま、無駄に時を過ごして来たけどー 貴方には 生きて欲しい。」
口へ含んだウイスキーの水割りを 腕の中で口移しに ゆっくり飲ませながら、牧野は問い掛けた。
「 ・・ どうして? 」
「 分からないー 」
細い指先を添えて、彼女は牧野の引き締まった唇を丁寧になぞった。
「 こんな私を まるでお伽話の姫君みたいに、貴方は優しく抱いて下さった・・ 」
「 ・・・・ 」
「 マキノのことを何も知らない。でも・・ 貴方の身体とその声が 私には貴方のすべてー 」
彼の鼻筋から瞼、頬骨から こめかみ、額へと顔立ちの細部を唇の先で触れて辿り、ネスリーネは確かめ続けた。
「 失くしたくない・・ そう願える人と巡り逢うなんてー 」
「 ・・・・・。」
女の細い骨格が軋むほど、牧野は靭く抱き寄せて その髪へ頬を埋めた。暫し沈思して後、彼はネスリーネの身体を包んだ毛布ごと横抱きにして 浴室へと赴いた。女は ただ無垢に、身体を預けた男の首へ両腕を素直に縋っている。
このまま共に地獄の業火へ堕ちて灼かれようと、牧野の腕力が自らの生に終止符を打とうと、腕の中に抱かれては 彼女に微塵の未練も躊躇いも無かったであろう。
シャワーの蛇口を温るめに開けて仕切りのカーテンを曳くと、牧野はバスタブを背にもたれて坐した。膝に乗せた女の首筋から顎へと丁寧に口づけながら、牧野は慎重な物言いを始めた。
「 ネスリーネ ・・ よく聴くんだ。」
「 ?? なに?? ーマキノ 」
両手で なだらかな頬を優しく包むと、彼は黒眼がちの瞳を鋭くして覗き込んだ。
「 この部屋も盗聴されているかも知れないー。」
「 ??? 」
タブへ腕を伸ばし、湯量をやや減らしてから 牧野は そっと唇を重ねて囁いた。
「 ーいいか?? 俺の手が届くところへ辿り着くまで ・・誰も信用するな。」
「 ・・・ わかったわ。」
さながら、闇夜の暗雲から覗く真白な月の面影に にっこり 晴れやかな微笑を浮かべた頬を伝う涙を指で拭い、牧野は厳重な注意事項を端的に告げた。

俺は、ウラジオストクへ行く。その先は判らん。
いまから後、近づいて来る奴は すべて敵だ。男でも女でもだ。絶対に油断するな。
奴らは善良な面(つら)を被って、どこにでも潜んでいる。
もし俺のことを訊かれたら、一回切りの最低な客だったと云え。
俺と関わっている事を、誰にも、絶対に勘付かれるなー リーネの安全のためだ。

煌めく瞳で懸命に仰ぎ見つめながら、彼女は牧野の告げる言葉を一つ一つ 自らの脳裏と心へ深く刻んでいる。
「 俺が連絡する時はー 」
ふと 首に掛けられたコインを見遣り、彼は片手の掌に握ってみせた。
「 リーネの祖父さんの名前を使う。 ・・可いか??」
「 'アフィク' ー 'アフィク'よ。」
ネスリーネは頷いて告げた。
「 その名前で必ず、直接連絡する。他の誰かに託すことは絶対にしない、 ー騙されるなよ。」
無事を託した守護たるべき硬貨と牧野の指先へ形の良い唇を押し充て、ネスリーネは幾度も頷いてみせた。
「 万が一・・・ 何かあったら、とにかく直ぐに連絡しろ。」
シャワーを止め、牧野は再び彼女を抱いて立ち上がった。浴室に立ち込めた湯気が、女の睫毛と髪をより柔らかく湿らせはじめている。自らの眼差し近くへと琥珀の瞳を引き寄せ、彼は繰り返し 念を押した。
「 俺はどうなろうと構わんがー リーネは無事で居るんだ。 ・・必ず、無事で居ろ。」


 牧野の異変に最初に気付いたのは、里中だった。10月最後の金曜日、午後の診察時間を過ぎても牧野はクリニックへ出勤せず 連絡も入らない。この日は 都内 富士見大学の講師として教壇に立っているはずの悠介からも、綾嶺大学病院臨床の澤村からも、連絡が無かった。比較的 診察が混み合っていたため、無性に気に掛かりながらも 里中は一先ず診療に専念して、当日の夕刻を迎えた。先ず悠介の携帯へ電話すると一旦 留守電になったので、要件を吹き込んだ。ほども無く、折り返しの呼び出し音が鳴った。
「 ー なに?? トモ君が そっち行ってないって??」
「 そう。・・なんか聞いてるかな、と思って 」
「 ???・・ 」
悠介の沈黙の背後で、ちょうど渋滞のピークであろう道路の種々のノイズと、週末の雑踏の活気が伝わって来る。取り分け、牧野の身上については過敏になりがちな悠介本人についても案ぜられた里中は、先に声を掛けた。
「 地下鉄だろ?? とにかく、俺んとこ来いや。合流してから、様子見に行こう。 ーな??」
「 ー 判った。 こっからだと・・ だいたい40分くらいだ。」
通話を終え、里中は念のため澤村の携帯へも連絡を試みてみた。すぐさま通話に応じた澤村へ状況を伝えると、暫し電話の向こうで 彼は重く沈黙した。
「 ?? 澤村君? ーえ、何かあった??」
「 今日の昼過ぎ・・ 兄と遭いました。」
「 えっっ??ー 」
その折の様子を 電話越しに ざっと里中は確かめたが、澤村が見聞きした状況の辻褄がまったく合わない。今朝から一度も牧野はクリニックへ現れていないし、ましてや、事前に大学研究室の向井へ何かを届ける用事を頼んだ覚えも無かった。
「 ー兄は肩掛けのバッグ一つで、普段着の軽装でした・・ 」
その後に続く言葉を途絶えさせた澤村から伝わる急激な緊張を感じ、里中は努めて朗らかな声で、話題の方向性を違えてみせた。
「 未だ携帯持ててないから、何かと不便なとこあるよねー。」
「 ・・自分、 今夜は この後 当直に当たっていましてー 」
悠介が到着しだい、二人で牧野の部屋を訪れるつもりである旨を 里中は明るく告げた。
「 熱でも出して寝込んでるかもな、ひょっこり長年の疲れが出てさ 」

悠介がクリニックへ到着しだい、里中の車で二人は促進住宅へ向かった。秋の夕べは早々と暮れて、住宅の多いこの界隈では 電飾の彩りは さほど見当たらず、主に街灯と各家庭の窓明りが落ち着いた週末の雰囲気を醸している。出発して程もなく、二棟の団地の箱型が右手前方に ぼんやり浮かび上がって来た。牧野の部屋は手前の棟だが、ベランダ側が反対方向であるため 各部屋の灯りを走行しながら確認する事はできない。
敷地内の駐車場から、二人は足早に部屋を目指した。頬に感じる夜の大気は すでに冷ややかな閑けさを秘め、団地周辺の緑地から響く虫の集きも幽かである。牧野の部屋の前で、悠介はチャイムを鳴らした。玄関ドア横に設けられた台所の小窓は暗く、室内の照明は届いていない。二度鳴らしたが反応が無く、悠介はドアをノックしながら声を掛けてみた。
「 トモ君ー???」
「 ・・・居ない??」
里中と顔を見合わせ、悲観的に過ぎる様々な想像が脳内に沸き起こり掛かる衝動を制御すべく、悠介は一つ深呼吸を試みた。それから、ゆっくりとドアのノブを回してみた。施錠は解かれてあり、彼の掌の中でノブは容易に回り切った。
「 ー 居るか?? トモ君??」
重く錆び付いた金属音を軋ませてドアを開き、悠介は玄関から室内の様子を窺った。人の気配は無く、室内は真っ暗だった。空気の循環していた気配が感ぜられない。厳重に戸締りを施されて部屋が空になってから、幾ばくかの時間が経過しているらしい状況が察せられた。
「 暗いね、スイッチどこだっけー ??」
ひとまず玄関上の灯りを点けようと、手探りで壁面のスイッチを里中が押した。しかし灯りは点かない。
「 ーあれ?? 点かねえな。」
パチパチ 数回試してみて、里中は徐ろに携帯を取り出すとライトを灯して頭上を仰ぎ見た。
「 佐野、これー 。 ブレーカーONにして。」
振り向いた悠介が 白く照らされたドア上の壁面を見上げると、細やかなアンペアブレーカーのレバーがすべてOFFに下ろされている。メインのレバーをONにリセットしたと同時に、玄関部分の照明が薄明るく点灯した。
「 ・・・・・ 」
無論、室内には誰の姿も見当たらない。和室を仕切った障子は開かれてあった。ベランダに面したサッシに掛けられたページュのカーテン越しに、中庭を照らす数本の照明が透かせて見えた。里中に促される形で靴を脱ぎ、悠介はすべての照明を点けて周りながら、室内の状況を確認した。
「 ・・ なんかー きれいに洗ってあるけど 」
水周りの設備全般を見回って、里中が ぽつんと呟いた。単身者向けの冷蔵庫の電源は外されて残留物はなく、庫内は清潔に拭き上げられてあった。押入れは開かれてあり、上段に寝具が整然と畳んで仕舞われている。
「 里中ー 」
サッシ横の壁面に置かれた、澤村が調えたコンパクトなローテーブルの前で 悠介は唯一の遺留物を見つけた。
「 んっっ??」
傍らへ並んだ里中を顧みることもせず、悠介は机上に固定した視線で その発見を伝えた。正方形の木目天板の中央に、見覚えのある古びた小さな布袋と半分折りの紙片が置かれ、その上に この部屋の鍵が載せられてあった。
「 ・・・・。」
畳に膝を屈め、紙片を手に取ったのは里中だった。裏面すらも色褪せ くったりと劣化した質感の紙片を丁寧にひろげると、それは牧野が かつて救急搬送された折に唯一所持していた、一片の絵画であった。
「 ートモ君??? ・・・」
悠介は乱心した如くにカーテンへ縋り付くと、閉じられたサッシの施錠を解いてベランダへ転がり出た。備え付けのエアコンの室外機が置かれたのみで、剥き出しのコンクリートが照明灯の長い影を無機的に宿している。
錆び付いた鉄製の柵を頼りに跪いて、悠介は烈しく込み上げる嗚咽に体を揺らせた。

なぜー!? 何があった!?
昨日会った時に、なぜ相談してくれなかったー!?
俺は結局、何の役にも立てなかったのか・・ !!!

「 とにかくー 澤村君へ連絡・・ 」
やや強引にでも室内へ誘うべく 背後から手を添えて悠介を立ち上がらせながら里中は声を掛けた。しかし言い終えるより先に、まったく違和を感じさせない異様に自然な身動ぎで、悠介は意識を失った。
「 !? 佐野っっ ???」
咄嗟の反応で、伸ばした里中の左腕が 顔面からの転倒をかろうじて回避させた。実際の体重以上の唐突な負荷を支えきれず、バランスを崩した里中はサッシの溝の上へ ともに倒れ込んだ。
「 おいっっ!? 佐野、って!!!」
そのままの体勢で上着から携帯を取り出し、里中は救急通報した。

搬送先の綾嶺大学病院の救急処置室へ到着しだい、バイタルサインの確認と確保に伴う緊急の応急処置が慌ただしく施された。悠介の意識障害は回復しないままで、集中治療室へ搬送しての緊急治療が開始された。救急担当の当直内科医は昏倒時の詳しい状況や、悠介の健康面に関して里中が知り得る限りの情報を聴取し 家族への連絡を依頼した。
すでに帰宅していた成未が 里中から連絡を受けて病院へ駆け付けたのは、30分ほど後であった。
おそらく未だ着替えていなかったのか、出勤用の濃紺のスーツにアイボリーのトレンチを羽織って パンプスの踵を慌ただしく響かせた脚取りは、歩幅がまばらに大きく乱れている。治療室付近の通路に辿り着いて ようやく里中の姿を見つけると、飛ぶように駆け寄った。
「 里中さんー!!」
小さく手招きして、里中は幾度か頷いてみせた。壁面のくぼみに設けられた長椅子へ誘い、先ずは成未を座らせた。
「 びっくりさせちゃって・・・ すまんかったね。」
首を横に振りながら見上げた目元が、朱みを帯びて浮腫みがかっている。急変の報らせを聞き、タクシーで移動する間 絶えず涙ぐんでいたに違いない。
「 ーこちらこそ 」
言い掛けて、成未は握り締めていたハンドタオルを いったん顔に強く押し当てた。ひとつ大きく息を吸い込んでから、里中を再び見遣った。
「 すみません、本当に・・ 」
悠介の実家の和郎叔父と大阪の母方の叔父夫妻への連絡は済ませた と、成未は報告した。
「 里中さんが気に掛けてくださってたのに・・ すみません。私が ちゃんと父を看れてなかったんです。」
「 そんなんじゃ無いって。偶々(たまたま)なんだってー 。」
何らかの、已むに已まれぬ理由があっての事だろう。桜の開花が心待ちにされた時候に、彼らの日常へ忽然と 何処かの空間より出現した 牧野 和智という名の寡黙な男が、いま再び 忽然と消えた。さながら、自在に異次元への移動を可能にする透明なゲートの向こう側へと、戻し召喚されたかのごとくに。
「 トモ君が・・ 牧野君の方が、佐野を支えてくれてたからな。実のとこは 」
「 ・・・・・ 」
治療室のドアが開いた。中背の壮年らしい医師が、二人を見とめて足早に歩み寄った。片手にはA4の書面らしい紙片を数枚携えている。
「 佐野さんのご家族の方でしょうか?」
「 はい、ー娘です。」
通路の中央に立ったままで、医師は悠介の容態と治療方法等の判断について 端的に説明を始めた。

致死的不整脈に因る突発的な意識障害であり、現状、意識の回復が見られない。
心電図・超音波検査からの所見に基づいて、発作が「心室細動」か「トルサード・ド・ポワンツ」の何れに起因しているかを断定する事は、現時点では難しい。
極めて危険で重篤な状態であり、冠動脈造影において 左冠動脈主幹部に60%以上の有意狭窄が認められたため 緊急手術を要する。

「 以上の説明に同意して頂けるようであれば、こちらへ署名をお願いします。」
医師がかざして見せた造影結果の画像や、素人目にも異常過ぎる心電図の乱雑極まりない波形の画像が物語る真実を、成未の中の理性は瞬時に理解し得た。
「 はい。分かりましたー。」
白衣の胸ポケットから取り出して医師が添えたボールペンで、指先が震えるのを懸命に堪えつつ、成未は同意書への署名を済ませた。
「 どうかー よろしくお願いいたします。」
書類を受け取りざまに会釈を返し、医師は治療室へと駆け戻って行った。
「 準備が出来しだい、手術を開始します。」
「 ・・・・・ 」
踵を揃え、直立の姿勢で深々と首を垂れて成未は医師を見送った。治療室のドアが閉じられる音を聞き遂げると、彼女はそのまま崩れ落ちた。小さく小さく体を折り曲げて、額を床に擦り付けた。
「 お母さん・・ お願い、助けてあげてー ! お願い!」
「 ・・・ 成未ちゃん 」
そおっと成未の背を撫でて、里中は立ち上がる事を促した。先ほどの長椅子へ座らせ、自らも並んで腰を下ろした。
「 ー里中さん、あたし・・ 好きな人が出来たんです。」
「 そう。ーそれは素敵なことだ。」
「 それで、今頃になってー 母が亡くなった後、父がどれだけ苦しかったか 少しだけ解るようになれた気がしてて・・・ 」
「 そうかー 。」
タオルで顔を覆った成未の傍らで、里中は この折にも温かみを失わない円(つぶ)らな瞳を、眼前の医療施設では無い 見えない遠くへ向けた。
「 成未ちゃんに そう言う相手が出来るんだもんな、 ー俺ら、年取る訳だわ。」
「 ーあたし本当にー 自分の事しか考えない、最低な娘でした・・ 」
「 んな事ないんだってー! あいつもさ、何かと不器用ー 」
慌ただしく医療室のドアが開かれ、数名の看護師らが酸素吸入器と点滴を伴い ストレッチャー上の悠介を搬送して現れた。
「 手術室へ移動します。一つ下の階になります。同行して下さい。」
後方へ現れた医師が告げた。


































































ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

水樹 史也( みずき ふみや)

広告制作会社勤務のイラストレーター。26才。心療内科カウンセラー 佐野 悠介との出逢いがきっかけとなり、かつて深刻であった精神状態から快方へ導かれて以来、悠介へ深い信頼を寄せている。

並外れて繊細な神経に恵まれた一方で、一般的な常識にとらわれない大胆な行動力をも兼ね備えている。

佐野家隣家の牡猫コタロウ( 水樹は一方的にヴァンプと呼ぶ )は親友である。

コタロウ

佐野親娘が暮らすマンションの隣人・黒田さんが飼っている去勢済の牡猫。

遠出はしないが、何故か佐野家へだけはベランダを器用に伝って頻繁に訪ねて来る。穏やかで人なつこい性格で、ツンデレのツン要素はあまり持ち併せていないらしい。

大柄な水樹 史也が繰り広げるスキンシップを実のところは迷惑に感じている、かどうかは不明である。

佐野 成未( さの なるみ )

大手通信販売会社に勤務する27才。きょうだいは無く、臨床心理士の父・悠介と二人暮らし。

十代で母を亡くしたせいもあってか、日常の生活者として揺るぎのない堅実さを備えたしっかり者である。

職場の同僚で後輩にあたる 中村 宏太 に異性として好意を感じているが、適当な距離から見守っていたいとひそかに願っている。

亡くなった母の実姉で、関西在住の叔母・川瀬 愛子 の無敵な明るさも好き。


佐野 悠介( さの  ゆうすけ )

臨床心理士を務める成未の父親。ある意味、純粋な少年時代のひたむきな向学心を持ち続けている。生来の気質としては朗らかで、性善説を信念とする。豪放と呼んでも可いマイペースと他人の反応をあまり意に介さない爽やかさが、弱点でもあり強みでもある。早世した妻の美穂をこよなく愛し、誰よりも傷みを背負っているが、忘れ形見の成未にも敢えて語った事はない。彼の血の通い合った心療の姿勢が、苦しむ者の拠り所となる。

中村 宏太( なかむら  こうた )

成未の後輩にあたる同僚の青年。人間関係に於ける周旋などに、ややもすれば誤解を招くほど不器用な誠実さと真面目さが長所とも謂える。その一本気さゆえ逆境に弱そうに見られがちであるが、外見とは裏腹の不屈な意志の勁さを秘めてもいる。誰にも明かさないが、片親の家庭に育ち自身の努力によって現職を掴んだ不遇な経歴こそが、未来を生きる糧となるという誇りと信念を強く抱く。

その一方、他人知れず成未に対する深い愛情を日々確かめてもいる。


記憶を持たない謎の男

事故なのか、傷害の被害者であるのか、瀕死の重傷を負って忽然と現れ、救急病院へ収容される。

怪我の後遺症によるものなのか、彼の「記憶」には深刻な混沌が生じていた。

唯一の所持品である色褪せた挿絵らしい紙の切れ端と、彼の脳内から無作為に出現するワードを手掛かりに、悠介と里中は心療にあたろうとする。

ところが正体不明者が次々と現れ、彼の身辺はしだいに不条理な危険に晒されてゆく。並外れた体力と身体能力を備えている事実に関しては、疑う余地がない。

里中 睦( さとなか  あつし )

悠介の同窓生で個人の臨床心理クリニックを経営する。佐野家とは美穂の在名中より親しい交流を持ち続けている。学生時代に培われた純粋な理念と悠介との信頼関係を自身の宝としており、悠介に臨床治療の片腕を託してもいる。成未にとっては、心の内を明かせる大切な存在である。

明朗な印象で独特の愛嬌の豊かさが魅力だが、外見とは裏腹のこまやかで緻密な神経を持ち合わせている。

澤村 泰弘( さわむら やすひろ )

悠介らの母校に附属する大学病院の心療内科で治療にあたる若手医師。緻密な頭脳と臨床医師としての適性から、周囲に将来を嘱望されている。公にはされていないが、不幸な幼年期に他家へ養子に迎えられた生い立ちを持つ。

心療を目指したきっかけは自らが幼い頃に負い、癒えることのない心の傷痕にある。少年時代に奏法を学んだヴァイオリンを愛し、多忙な中に於いても一人奏でて過ごす時間を大切にしている。

津久井 慎司( つくい  しんじ )

佐野親娘が居住する地域を所轄する警察の刑事で巡査長。謎の男の身元や負傷した経緯などが究明されないままの現状に違和感が拭えず、真相を突きとめようとする。微塵な情報を見逃さない、物的な手掛かりに基づく公正な分析を規範とすべく自らを律する一方、現場の人間に対する直感的な印象や気付きにも重きを置く。真摯な責任感と誇りが、職務に取り組む信条である。学生時代より精進している空手道の段位は黒帯で三段。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み