第11話  狂瀾(きょうらん)

文字数 12,048文字

 七月を迎えたものの、横浜の街に初夏の気配は未だ希薄であった。眼下では、世界に名だたるメガシティ有数の風光明媚な観光名所が、ホテル前に連なる銀杏並木と港湾公園沿いに、国際色豊かな弛まぬ賑わいをみせている。スウィートダブルのリビングを照らす陽射しは、17時を過ぎて、やや翳りはじめていた。無造作に開け放たれたソファ横の窓から、街の喧騒に混じり、はるかに遠く船舶の汽笛がレースのカーテンとともにそよぎ来る。
テーブル上のタブレットをひとわたり確認すると、男は飲み差しのグラスに氷を加え、透明な蒸留酒を注いだ。
「 ー おい。」
奥のベッドルームで起き上がった女が身繕いを始めようとする様を見咎めて、男は鋭い声を放った。英語ではない、おそらくは男の属する民族に固有の言語であるらしい。
「 誰が帰って可いと言ったね?」
「 ・・・・・ 」
ソファに悠然と腰を降ろすと、比較的度数の強いロックで彼は唇を潤した。一見した容貌や身体つきからは、東ヨーロッパ系の血統を主に有する人種の雰囲気が感ぜられる。40代の半ばほどか、バスローブを羽織っただけの胸元に、シャワーで濡れた亜麻色の長髪から雫が滴るのを拭いもせず、見遣った女に指し示して見せた。
「 何もまとわず、此処へ来なさい。」
「 ・・・・・・・ 」
身につけ掛けた衣服をベッドの上に脱ぎ捨てると、命ぜられた通り、女は彼の膝の上に座った。女の足を開かせ顔を向き合わせると、彼はグラスの酒を飲み干した。
「 よろしい。君の美しい身体に衣服は必要ない。 ただしー 」
照明を点けぬ黄昏の窓辺で、女のはかなげに真白な膚は、蒼ざめてさえ映った。その華奢な鎖骨へ思いの外ていねいに口づけると
「 これが抜け殻ではなく、心が宿っていれば、の話だが。」
女の顎に指先を添え、濃い鳶色の瞳で男は鋭く覗き込んだ。
「 出来の良いAIに相手をさせる時間を割くほど、私は暇では無いのでねー 風馨(ふうか)。いや。 “カルムン” と呼んでやろう。」
みぞおちから臍(へそ)、くびれた腰へと繋がるなだらかな曲線を、愛しげに両の親指でなぞりながら、男は シガーを と呟いた。
テーブルに置かれた革製ホルダーを手に取ると、彼女は慣れた手付きで、愛好の偏る濃厚な香りのタバコ葉を専用ペーパーで手際よく包み、一本に巻き上げた。その後、男が愛用しているオイルライターで自ら着火を済ませたものを細い指先で彼の唇へと運んだ。
「 ・・・ レディ。」
くわえた煙草の味わいを試してみて、男は濡れた前髪を掻き上げながら、ガラスの灰皿を受け取った。
「 偉大なるディレクター兼スポンサーに対して、感謝のキスの一つも無いのかね??」
「 ・・・・・・・ 」
「 新曲のチャート動向やウェブサイトの反応も、ごく順調のようじゃないか。」
左足首を不意に掴んで膝に寄せると、彼は煙草をくわえたまま頑丈そうな前歯を充て、風馨の小指の第一関節を 'きつめ' に噛んでみせた。
「 ぁっー・・ 」
「 プロモートの合間に、ちょくちょく行方を眩まされた と、マネージャーが溢していたぞ。」
芳醇なタバコ葉の香る唇を彼女の冷たい頬に這わせて、男は瞳を間近に、鋭く問い掛けた。
「 おおかた、死に損ないの居場所を捜してたんだろう?」
セレクトされたジャズナンバーが、マイルス・デイビスのトランペットを漂わせはじめた。かすかに潮の香を孕ませて、蠱惑的な港の夕風が、窓辺に置かれた大型のアレカヤシの葉を涼やかに揺らめかせている。
「 あの日本人がそれほど恋しいなら、君のもとへ連れて来てやるなど容易い事だが 」
厳かに整った彫りの深い眼差しに、彼はふと、残虐めいた輝きを冷ややかに浮かべた。
「 よかろう。」
幼な子の機嫌を取るかのごとく風馨の両手を握ってみせると、
「 ではひとつ、奴の眼の前で、厭と云うほど君を抱いてやろうじゃないか。」
「 ! ・・・・・・ 」
美しい唇を噛み締める彼女の芯の震えが小刻みに加速する様を、彼は心から愉しんでいる。
「 然る後、奴は手軽な所で沈めてやる。どうだ?? 清々するー 」
「 ソスリュコッッ !!」
男の手を振り解こうと、懸命にもがこうとする顎から首筋に掛けてを長い指で辿り、彼は不敵な冷笑を漏らした。
「 ー結構。 今日、はじめて人間らしい顔をしたな。実に美しい。」
やがて、その指を頸部の辺りで留めると、ソスリュコと呼ばれた男は、いささか握力を加えつつ慎重に圧してみせた。その握力や腕力からすれば、無抵抗の女など意のままであるに違いない。
「 ・・・・・・・ 」
殺意に慄くでもなく、命乞いの哀れみを乞うでもなく、女は長い睫毛を震わせもせず瞼を瞑らせている。見つめ続ける異国籍の男の瞳が、美しい琥珀の酒に濃いアッシュを溶かした様に、サアーーッッッ と彩度を落として、鎮痛な色合いに翳りを帯びた。
「 たとえ身は捧げ尽くしても、心は此処に在らず かっ!?」
彼女から手を離してグラスに二杯目のストレートを注ぐと、彼はやや苛立たしげな声を上げてみせた。
「 いま直ぐにでも奴を消してやりたいー が、 殺れんのだ!」
グラス越しに、鋭利な視線で風馨を捉えつつも
「舌でも噛み切って君に死なれては、なにかと不都合なのだから。」
自己の存在を意義付けて来た役割や使命とは次元をまったく異にする、遣り場の見つからぬ心中深い騒めきに、彼は人知れず気分を滅入らせている。
「 ・・・ 有能にしてイカレ野郎の君の兄上や、フカヤの組織にとっても、君が私の手中に在るという '鍵' こそが、絶妙に好ましい我々の共存を可能にさせているのだ。利発な君の事だ。改めて説かずとも、よく心得ている筈だろう。」
煙草を一服、深く燻らせると、腕時計の刻を確認して、ソスリュコは彼女を抱いて立ち上がった。
「 良い子にして、先ずはディナーと雑誌の取材だ。明日の昼までは私が同行すると、マネージャーには了承を取ってある。」
沈み切った風馨の白い横顔に、彼は、らしからぬ吐息混じりの苦笑を面長な頬に浮かべて見せた。
「 なぜ君は信じない?? これほど愛しているのにー 」
シャワールームまで運ぶと、クローゼットに準備してあるドレスで相応しく装うよう、彼は指示を行った。
「 プライベートは、二人きりでゆっくり楽しもう。」


 暦は、七月の中旬に入っている。
週末のこの夜、19時から午前0時まで、津久井は同期生の村山と組んで、里中クリニック周辺の張込みに就いていた。日没後も25度近い日中の余熱が感ぜられていたが、彼らが停車している市街地の行き止まりは、河川の川面より亘る自然風の通り道であるらしかった。エアコンを停止し全開した車窓越しに、間断なく過ぎる宵の涼風が、刑事たちの頭髪をそよがせていた。気象庁による都内の正式な梅雨明けの発表は、おそらく翌週のうちであろう。
「 ちょっと喰っとくかー 」
運転席から周囲を監視していた津久井は、出来合いの弁当が入ったビニール袋を引っ張りに、後部座席へ手を伸ばした。
「 ん。」
その袋を手渡してやると、村山もショルダーバッグを取って膝に乗せた。河川を挟んで対岸の町内に、神社か或いは公園か、小じんまりした夏祭りが催されている様子が見て取れる。空に星は無かったが、堤防と並行して連なる屋根々に囲まれた一画の上空が煌々と明るい。時折、乱調なマイクの音声や賑やかな音楽が、遠く途切れとぎれに響いて聴こえた。
「 ぼちぼち、祭りとかの頃合いだな。」
取り出したエコボトルで喉を潤すと、小さめの容器にかぶせた保冷剤と蓋を外して、握り飯に噛り付いた。
「 手弁当か。 愛されてんな、お前。」
「 ・・・ はは。」
何処で食べても手に取りやすいように、との細君の心遣いなのか、唐揚げや厚焼き卵など、口に放り込みやすい惣菜がたっぷり付け合わせてあった。照れ笑いを浮かべながら、村山は満足そうに頬張っている。
綾嶺大学病院に勤務していた准看護師の 新城 瑠美子が、先月、何者かに暴行を受けた後に絞殺され遺棄された事件に関しては ー
所轄署内で組織された捜査本部に於いて、警備課と刑事課が連携を取りつつ捜査が展開されている。同時に、遺体遺棄現場である静岡県伊豆市の所轄署にも共同捜査本部が立ち上げられ、現地での捜査に協力を行っていた。津久井と村山も既に五回、伊豆の遺棄現場と現地署に出向いている。
死亡推定日時の前後があいにくの土砂降りであった事情もあり、吊り橋から登山道周辺の第一現場に足痕跡及び指紋は発見できなかった。所持品はその後の捜査でも発見されていない。遺体からは唯一、頭髪に絡んだ、ごく微片の残留物が発見された。鑑識員による化学分析の結果、殺害に使用された凶器の麻製クライミングロープの残留組織であるとの鑑定が成された。しかし、凶器のロープは大量に生産され、ごく一般的に小売市場で販売されている商品であり、現状に於いては、購入ルートから犯人を断定する決め手には至っていない。さらに奇異な事は、新城の失踪後の足取りが、あらかじめ殺人の証拠隠滅を想定して周到に拭い去られた如く、明らかに不自然に途絶えている点であった。
「 ーお。 すまん。」
スマートフォンの反応に気付き、村山は白いシャツの胸ポケットから取り出した。非常に謹直な性質であって、休憩時以外に携帯を手にする事のない彼には珍しく、画面の確認をした。その後、やや憚かった面持ちで津久井の前に携帯を差し出すと、自宅から送られて来た短い動画を覗かせた。2才になるらしい村山の愛娘が、まあるく小さな額に、熱冷まし用の青い冷却シートを貼っている。しかし、体調は快方へ向かっているのか、天使の笑顔である。
「 パパね、ゆい(結衣)ね、・・ 」
はにかむ幼児に、携帯のこちら側から、細君が笑い掛けて優しく促すと
「 おねつ、もう下がったー うふっ 」
そこまでで、画は途切れた。発熱した娘の容態が気に掛かっていたらしい。
「 ー ・・・・ 」
引き続き周囲に神経を巡らせながら、津久井は最後の一口をミネラルウォーターとともに流し込んだ。
「 パパ似でその可愛さとは・・・ 意味がわからん。」
「 津久もさ、」
食事を終えて荷物を後ろに投げると、村山は四方の視界を確認して
「 そろぼち所帯持って、お袋さん安心させてやれや ー。」
この、清潔感を失わない男特有の、素直な感慨を物静かな口調で言葉にした。
「 本庁勤務だった親父さん殉職されて、もう二十年か?」
「 ー大体そうだな。来年、回忌だから。」
警視庁刑事部に勤務していた実父が殉職した個人的な件について、所轄の上層部関係者以外に津久井が伝えていたのは村山だけである。
「 お袋さんの実家、たしか金沢だったかー 」
ハンドルの上に両手を休ませると、津久井は頷いてみせた。
「 あそこは夏場は、けっこう暑い。盆地なんで・・ 」
「 ーあっ。」
言いかけた傍らで、不意に、何を思い出したのか、村山が堪え難そうに肩幅の広い背をふるわせた。
「 ?? ーなんだよ。惚気(のろけ)か?」
「 例の、佐野医師の聴取の時さ、お前やたらと懐かれてたな。でっかい猫に 」
「 ・・・・・・ 」
「 しっかり選んでたもんな。お前がタイプだった・・ 」
ふと対岸の祭り会場から、ひときわ音量をパワーアップした定番音頭の楽曲が高らかに響き渡って、彼らは耳を傾けた。行事のメインイベントである盆踊りの輪舞が始まったらしい。申し合わせたかのように、この折であった。
彼らの前方に連なる河川沿いの一本道を、縦に並んだ二台の自転車が前方を明るく点灯しつつ、速で走り過ぎようとした。が、ちょうど車の手前で先頭車が突然、堤防のなだらかな傾斜へ転倒して突っ込んだ。後方の走者は慌ただしくブレーキを掛けて自転車を停め、堤防を駆け下りた。どちらも二十代の若い男であるらしく、後を追った男が、聞き慣れぬ外国の言語を鋭く発している。
「 ・・・・・?」
車内で様子を窺っている二人の元へ、ツバが長めのキャップを被った男が、大きな身振り手振りとともに近づいて来た。転んだ方の男に、思いのほか急変でも起きて助けが必要なのかと、自らドアを開けて降りようとした村山を、津久井は注意深く制した。
「 ー待て。 俺が行く。」
後輩の加藤が失笑するあたりの '刑事の勘' とか云うやつで、何とは無し、よくない感じがした。一度、窓しめとけ と、堤防方向に視線を据えたまま指示をして津久井が降り立った瞬間、キャップの男は羽織った上着の内側より、握り締めた何かを取り出した。
「 伏せろっ!!!」
反射的に叫んで、前方フードパネル越しに津久井が男に飛び掛かったのと、 'パアァー ン' という乾いた銃声が響いたのが、ほぼ同時であった。その刹那は、どんな神経の作用であるのか、津久井の認識に於いては大まかなコマ送りのスローモーション映像で捉えられている。飛び付いた相手の腰に手が届いた時に頭上で銃声が響き、見遣った視界 ー 半分ほど開いた窓の向こうで、村山の白いワイシャツの左肩が鮮血で深紅に染まった。
「 !!! 」
深い草いきれを放つ草むらの中に男ともども倒れ込むなり、津久井の脳裏を、今しがた目にした幼児の笑顔が過ぎった。
「 きさまあっっー!!!」
かつて経験した事のない、暴力的に凶暴な憤怒が彼の全身を貫いた。先に転倒したと思われた別の男が、揉み合っている頭上で何ごとか鋭く罵ったとたん、津久井の後頭部から頸部にかけて強烈な衝撃と疼痛が走った。負傷箇所を抱えて蹲ると、津久井の両掌が、気味の悪い滑りを奇妙な感覚でぼんやり感知した。身体の平衡感覚が失われ、ぐらぐらと無軌道に回転を続ける視界の中で、目無し帽を被った男の両手が握った銃口が自分に向けられているのを、彼は目視した。
「 ・・・・・・・・ 」
殉職した父の遺影を掲げて出棺を見送る、高校の制服を着た16才の自分の姿が、鮮明に何処かに見えた。次の瞬間、二発目の銃声が響き、津久井は前のめりに倒れた。


「 ー っっっ・・・・ うううぅぅぅ。」
警察病院地下の慰安室に、当時まだ40代であった母の悲鳴とも呻きともつかぬ、余りにも沈痛な嗚咽が漏れ響いた時ー
高校一年の秋を迎えようとしていた津久井は、変わり果てた姿で横たわる父に縋る母の後ろで、眼前に起きている事実を受け止める事が出来ないまま、唯ただ、茫然と立ち尽くしていた。違法薬物の常用者による、通り魔的な複数の傷害事件の捜査中に起きた悲劇であった。警視庁の捜査本部は、この後、ほどなく容疑者を逮捕した。

( ボール、行ったぞ? )
若々しい父の良く通る声が、不意に頭上を通り過ぎた。
( ーえ ???)
青空を仰いだ自分の左手に、まだ真新しい野球のグローブが濃厚な革の匂いを漂わせている。父が多忙な中に時間を割いて初めてキャッチボールをしてくれたのは、小学校に上がった五月であった。子ども用のグローブよりも、未だ一回りほど小さな頭を廻らせて、少年の津久井は公園の外れにボールを見つけた。父の投げ方を真似て、精一杯の力で投げ返した白いボールは、少年と父か取った距離の真ん中あたりで、失速して転がった。明るい五月晴れの空に、雲は無かった。小さな頬や、上着を脱いだ半袖の腕に、少しジリジリするような陽射しの強さを感じた。
「 いいぞ。ナイスコントロール。」
背の高かった父がゆったりと歩を進めて、ボールを拾った。駆け寄った少年に笑顔で手渡し、
「 おぼえとけ、慎司。 男はな、」
彼は、穏やかながらも真剣な眼差しを、小さな息子に注いだ。
「 ものごとを、いつも寛く見れないとだめだ。」
「 ・・・ ひろく??」
幼いなりに、その言葉の指し示している意図を、少年はあれこれ脳裏に思い巡らせた。
「 慎司は野球、好きだろ。」
「 うん。」
その場で伸びやかに胡座を組むと、自らが装着したグローブに拳を軽くくれながら
「 9人で一つのチームだろ?」
「 うん。」
「 だから、自分だけじゃ勝てないんだ。 試合の相手も9人いる。 一人だけじゃない。」
「 ふううんー ??」
ちょっと難しかったかー 朗らかに笑って立ち上がると、 そろそろ昼飯だな と、父は津久井の手を引き帰路についた。

「 津久さん?? ー 津久さんっっ!!!」
突然、大きな声が騒々しく呼ばわる煩わしさを耳元に感じて、
「 えっ。なにー?? お父さん。」
津久井は、反射的に返して目を開いた。 その、思いのほか間近に、全体的に丸みのある青年の顔が怪訝そうに覗き込んでいる。
「 ・・・・ 津久さんの 'お父さん' じゃないです、けど。俺。」
「 加藤? ー??なにやってんだ。」
奇妙に日常的な声を発した津久井の目を見つたままで
「 俺、加藤 ーー 何でしたっけ?」
彼もまた、真剣な表情で在りながら珍妙な問いを投げ掛けた。
「 はあぁぁー ?!」
お尋ねの下の名を呼び、窘めてやろうと口を開いて、彼はふと違和感を感じた。
「 ?? ・・・・・・ 」
脳内に、得体の知れぬ虚無の裳裾を長く曳いた薄い靄(もや)が、茫漠と立ち込めている。ひととき立ち尽くした津久井の神経の何処かに、探していた二文字が浮かんで来た。
「 耕平 」
「 ビンゴです。 漢字は?」
「 ・・・ 平らに耕す。」
「 はあー ・・・・。」
深い溜息を吐くと、加藤は椅子の背もたれに体重を移して、頭部を大きく後ろへ反らした。
「 はあー って、お前、」
「 津久さん二日も目覚まさないんですもん。誰か知らん人になって帰って来ちゃったら、どうしようかなー って 」
「 !!!! 」
瞬時に、夜の河川脇の張込み現場にワープした津久井の意識が、銃撃を受けた村山の左肩が鮮血に染まる瞬間を再び目撃した。
「 村山はどうしたっ?!」
寝台から飛び起き掛かるのを、両手で強く押さえ込み
「 肩を遣られましたが、大丈夫ですから!」
「 なにっっ?!」
「 ここ病院なんで、静かにしましょう。」
日頃は目に付かせる事の少ない重々しい疲弊の色を、加藤は二十代後半の聡明な目元に滲ませた。津久井の安静を確認すると、被弾後、意識の昏倒は免れた村山が、車内の無線で襲撃の急報を報らせた事、現場に最も近い綾嶺大学病院に緊急搬送され、村山は別室で治療中である事。本庁指揮による捜査本部が立ち上げられ、捜査中である事などの概略を伝えた。
枕元のコールで意識が回復した旨を看護師に伝え、加藤は立ち上がった。
「 いま医師が来ますんでー 俺、署へ連絡入れて来ます。」

襲撃の折、津久井のとっさの警告で身を伏せた村山は、間一髪、左の肩甲骨上部に擦過射傷を受けたのみで免れ得た。津久井は、硬質な金属による広範囲の挫創を後頭部に負い、背後より右腹部へ銃弾を撃ち込まれた。脳内の挫傷は見受けられなかったものの、彼の生死を分けたのは、腹部の微妙な被弾位置であった。肩甲骨を砕いて射入した弾丸は、津久井の体内組織を挫滅させつつ前方へと進んだ。各消化器官のはざまを潜り、腹膜をなぞるように出口を探したが、やがて失速し腹膜内に留まった。脊髄や腸などに損傷がなかったのは、奇跡的と言って差し障りのない確率であったらしい。緊急開腹手術が施され、一命は取り留められた。
回収された二発の実弾は40口径で、発射時に刻印された其々のライフリング鑑定などから、銃身の分析特定が進められている。
慌ただしく来室した担当医と看護師らによる診察と容態の確認が一通り終わると、廊下で待機していた加藤が顔を覗かせた。
「 午後に本庁の人、聞きに来ますって。」
「 午後ー ?? いま何時だ? 」
内ポケットから取り出した携帯を確認すると
「 10時47分 」
デジタルで表示された画面を、彼は津久井の眼前に差し出してみせた。
「 ー 村山が軽くて良かった。」
津久井の口から、 ほろり と、最も大きな感慨が言葉になってこぼれ落ちた。しだいに身体のあちこちに治療用の管が繋がっている感覚が覚醒し始めるのに連れて、フリーズされていた鬱屈きわまる心情が、体内に もぞもぞ 這いずり出る感覚に彼は心付いた。
  容疑者を確保できなかった上に、弾まで喰らうとはー!
  俺は一体何をやってたんだ!?
「 頭の中からっぽにして 」
いつもの事ながら、津久井の心の声を感知できる特殊能力でも兼ね備えているのか、軽やかな口調で言い充てると
「 からだ治してください。 ね、津久さん。」
安堵したらしい人懐こい笑顔を見せて、加藤は帰署して行った。


 先週の梅雨明けを受け、神奈川県逗子の海岸には、平日にも関わらず多数の海水浴客やダイバーらが訪れて賑わいをみせていた。待ち兼ねた夏の訪れをともに手放しで謳歌するべく、一片の雲も嫌い、青空は朗らかに何処までもを晴れ渡らせた。
波濤穏やかな相模湾を見晴らす丘陵地帯の高みに、一棟の白亜のヴィラが、初夏の陽光に煌めきながら海を見下ろしている。エントランスにそよぐ月桂樹の濃い緑の葉蔭は、南欧避暑地の風情である。二階まで吹き抜けとなったフラットなリビングからは、白いデッキベランダ越しに、水平線が一望できた。
「 そう言えば 」
リビング中央のソファに体を沈めていた 深谷 學(まなぶ)が、口の端に苦笑を浮かべてみせた。
「 木内 」
「 ーは。」
傍らの木内が、いつもながら背筋の伸びたスーツの上半身を傾けた。
「 お前、泳ぎがまずかったなぁ。」
ふと繋がった記憶を脳裏にたどりつつ、深谷は機嫌の良い声を掛けた。
「 溺れかけて、俺が助けてやった事があったな。」
「 ー 恐縮です。」
直ぐに思い当たった記憶があるらしく、感慨深げな口調で彼が辞儀を返した時、階段上に人の気配がした。
「 ・・ 今日も、遅いお出ましだ。」
やや木内へ顔を寄せ、見遣りながら深谷は低く呟いた。白いアイアンステップを降りる大柄な部下2名の先導で、美麗なるヴィラのオーナーであるソスリュコが、風馨を伴って現れた。
ソスリュコは夏服ながらアッシュグレイの三つ揃えで、女の方は、彼の好みによる演出なのか、明治時代の古写真さながらに古風な和装の出で立ちである。長身のソスリュコが手を伸べ、彼女の足元に注意を払いながら優雅に導く様は、さながら、零落した貴妃を誇り高く護る騎士の趣きであった。
「 ほおー。」
深谷は頬杖を突くと、感嘆の声を漏らした。辛酸を嘗め尽くして来たはずの魂の深部に、研ぎ澄まされた錐先を突き立てられる鋭い妬ましさを、この時何故か、烈しく感じた。

『 ご息災で何よりです。 深谷会長。』
***このシーンに於いては、特有な言語を風馨が翻訳して伝える場合『』で括り表現いたします***

立ち上がって会釈をみせた深谷と木内、ソファの両側を固めた頑強なスーツの男2名を見渡して、ソスリュコは着座を勧めた。対面して腰を降ろした彼の傍らのフロアにクッションを敷き、和服と揃えて美しく結い上げた黒髪で、風馨は正座して収まった。品よく小紋を散らした紺藤の紗の薄物で、正絹の襦袢の地模様がそこはかとなく透けるのは、さながら、清風のそよぐ水際で桔梗の花が雫を宿す様である。欧州の男とても、この比類なき和装の女性美が理解できるのだな、と目下に控えた重要な会談には無用の認識を、深谷は新たにした。
「 今日の通訳はまた、格別の装いで。」
「 着慣れないものでー お恥ずかしいです。」
そつのない愛想を添え、彼女は伏し目がちな微笑を浮かべてみせた。
「 君は、いくつの言葉に通じていたね? 風馨。」
「 4つだけです・・ 2つは母国の言葉ですし。」
彼女の言葉を遮る形に、ソスリュコは背後の部下に指示を行った。2名は中央のテーブル脇に跪くと、各々が提げていた金属製トランクを開き、内容物を深谷らに確認させた。厳重に内包された日本の札束と、日本側からのオーダーに応えて諸国を経由し誂えられた希少な違法物の照合作業を、木内が極めて慎重に、黙々と進めた。
「 宜しいです。」
やがて彼は顔を上げ、すべての内容に不備が無い事を深谷へ報告した。
「 ーそれを。」
深谷に指示された背後の男は、テーブル上の2つのケースの並びに、己れが提げていたトランクを開いて見せた。中には、とある欧州通貨の札束が内包されている。続いては、ソスリュコの部下らが内容の確認に取り掛かった。その作業が終わるまでの間、内ポケットから取り出した琥珀のコームで、ソスリュコは風馨の後れ毛を細やかに梳かして過ごしている。やがて、不備なしとの報告がされるや、3つのトランクは同時に閉じて厳重に施錠され、各搬送の任務にあたる担当者たちへ別途、引き渡された。テーブルの上で、深谷とソスリュコは形式的に、契約成立の握手を交わした。
サイドテーブルに準備されたカンパリとシャブリのスパークリングで、手軽にブレンドしたスプリッツにオレンジのスライスを添えて、風馨が深谷と木内にグラスを勧めた。
「 喉がお乾きでしょう。」
袂を抑えながら置くカットガラスの、アペリティフの鮮やかなオレンジ色が、華奢な指先の白を染めるかに思われた。続いて来客用とは異なる、主人の愛用品と思しきグラスに注いだスプリッツに唇の先を潜らせると、彼女はブレンドの加減を確かめた。やや辛みを欠くのか、スパークリングをいくぶん増量して完成させ、折り畳んだ袂に乗せてソスリュコに手渡した。そのひと続きの所作が、伝統的な日舞の名人による振る舞いを彷彿とさせて、滑らかに美しかった。
「 ・・・・・ 」
一口、喉を潤すと、彼はソファに深く座り直し膝を開いてみせた。
『 風馨。 此処に座っておいで。』
『 ーはい。』
促されるまま、彼女は空けられたスペースに細やかな腰を落ち着けた。その白い耳元を、柑橘系のカクテルの芳香と、ソスリュコが愛飲している巻き煙草のシャグの残り香が包み込んでいる。
彼らが関わるビジネスの概況と向こう5ヶ月間のアジェンダについて、お互いに音声を録音しながら、会話が持たれた。概ね確認を済ませたところで、ソスリュコは音声の記録を終わらせる指示をした。
『 詳細や変更については、つど毎に担当者の対応に任せる。』
手短かに殺風景な要件を切り上げたそうな顔色に、苦笑を浮かべつつ深谷は同意してみせた。
『 結構です。』
風馨の涼やかな襟足越しに頬杖を突きながら、ソスリュコは、ふと
『 貴方がたはー』
高度経済成長の時代に感受性の鋭い十代を過ごした、深谷の目を覗き込んで訊いた。
『 かつてこの国が復興しようとした頃、真に理想とする社会の実現を目指して闘ったのですか?』
( ー?? ) 表情は変えず顔を上げた木内が、自分と同年代にあたる国籍の異なる男の眼を、深谷の傍らから見返した。
( ー ほう? ) 意外そうな反応で、深谷は茶化して返答した。
『 さすがに、我々の近代史にも精通しておいでのようですな。 勇猛なる '義勇軍司令官' どの。』
その、かつてのソスリュコの軍事名について、賢い風馨は伝えなかった。
『 あの頃も、現在も、我々の真摯な闘いは弛んだ事など有りません。この国が、真に有意義で豊かに成り得るまで、我々は闘い続けます。』
『 ・・・ それは結構。』
グラスを傾けると、ソスリュコは異なる話題を切り出した。
『 ところで 』
ひときわ明るく差し込んだ陽光が、彼の柔らかな亜麻色の髪をブロンドに近い色調に美しく照らし出している。
『 舞い戻った 'マキノ' を襲撃する指示を出したのは、 貴方では無いですね。』
『 ・・ どう言う意味です ??』
深谷は上目がちに、眼鏡のレンズから鋭い視線を投げ掛けた。
『 ご自慢の、NPO活動の力強い後ろ盾で、貴方の古いご友人でもある、ハイランキング・オフィシャルー 』
発言を制しようと立ち上がり掛けた木内を、深谷は腕を伸べ留めてみせた。
『 閣下ー。いささか発想が飛躍し過ぎでしょう。それとも、なにか具体的な根拠が??』
呑み差しのグラスをテーブルに置くと、ソスリュコは胸の前で、長い両の指を優雅に組み合わせた。
『 無論。諜報活動の質の向上も、日進月歩ですからな。そちらでも良くご存知の通り。』
『 死に損ないの一人や二人ー さしたる価値も在りますまい? 』
牧野の件が取り沙汰になったのを気に掛けてか、上体を起こして風馨に背後から寄り添うと、ソスリュコは彼女の左手に自らの指を絡ませた。
『 とは言えど、貴方が育て、特別な密命とともに各地の紛争や諜報活動へ送り込んで来た男だ。』
( ・・・・・・・ )
そろそろ、木内の堪忍袋の暴発が限界に達する気配を察して、深谷は愉快そうに失笑した。冷静を装いながら、存外、短気な弱点を克服できない辺りが、深谷にとっては愛着の飽かぬ所以である。バブル崩壊の折ー 空前の大企業倒産の直撃を受け、大きく人生設計を歪められた果てに路上生活寸前へ追い詰められた木内に、起死回生の機会を授けたのが深谷との出会いであった。
「 おお。そう言えばー 」
思い出したという口ぶりで、深谷は風馨に問い掛けた。
「 牧野に遭ったかね?」
彼女は、かすかな微笑を湛えてみせた。
「 いいえ。・・・それよりも、会長。」
「 なんだね?」
たじろがぬ眼差しを深谷へ真っ直ぐに向けると
「 私、音楽活動をもう終わりにしますわ。」
不意を突き、風馨は静かな口調で自らの決心を述べた。絡めた指を引いて通訳を促すソスリュコに小声で伝えると、 どうか詳しいお話しは後で と、丁寧に付け加えた。
『 風馨ー ??』
俄かに、深い翳りを帯びた彼の沈痛な眼差しを見つめて、彼女は囁いた。
『 ソスリュコ。 ー 貴方を愛させて頂きたいの。』














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登場人物紹介

水樹 史也( みずき ふみや)

広告制作会社勤務のイラストレーター。26才。心療内科カウンセラー 佐野 悠介との出逢いがきっかけとなり、かつて深刻であった精神状態から快方へ導かれて以来、悠介へ深い信頼を寄せている。

並外れて繊細な神経に恵まれた一方で、一般的な常識にとらわれない大胆な行動力をも兼ね備えている。

佐野家隣家の牡猫コタロウ( 水樹は一方的にヴァンプと呼ぶ )は親友である。

コタロウ

佐野親娘が暮らすマンションの隣人・黒田さんが飼っている去勢済の牡猫。

遠出はしないが、何故か佐野家へだけはベランダを器用に伝って頻繁に訪ねて来る。穏やかで人なつこい性格で、ツンデレのツン要素はあまり持ち併せていないらしい。

大柄な水樹 史也が繰り広げるスキンシップを実のところは迷惑に感じている、かどうかは不明である。

佐野 成未( さの なるみ )

大手通信販売会社に勤務する27才。きょうだいは無く、臨床心理士の父・悠介と二人暮らし。

十代で母を亡くしたせいもあってか、日常の生活者として揺るぎのない堅実さを備えたしっかり者である。

職場の同僚で後輩にあたる 中村 宏太 に異性として好意を感じているが、適当な距離から見守っていたいとひそかに願っている。

亡くなった母の実姉で、関西在住の叔母・川瀬 愛子 の無敵な明るさも好き。


佐野 悠介( さの  ゆうすけ )

臨床心理士を務める成未の父親。ある意味、純粋な少年時代のひたむきな向学心を持ち続けている。生来の気質としては朗らかで、性善説を信念とする。豪放と呼んでも可いマイペースと他人の反応をあまり意に介さない爽やかさが、弱点でもあり強みでもある。早世した妻の美穂をこよなく愛し、誰よりも傷みを背負っているが、忘れ形見の成未にも敢えて語った事はない。彼の血の通い合った心療の姿勢が、苦しむ者の拠り所となる。

中村 宏太( なかむら  こうた )

成未の後輩にあたる同僚の青年。人間関係に於ける周旋などに、ややもすれば誤解を招くほど不器用な誠実さと真面目さが長所とも謂える。その一本気さゆえ逆境に弱そうに見られがちであるが、外見とは裏腹の不屈な意志の勁さを秘めてもいる。誰にも明かさないが、片親の家庭に育ち自身の努力によって現職を掴んだ不遇な経歴こそが、未来を生きる糧となるという誇りと信念を強く抱く。

その一方、他人知れず成未に対する深い愛情を日々確かめてもいる。


記憶を持たない謎の男

事故なのか、傷害の被害者であるのか、瀕死の重傷を負って忽然と現れ、救急病院へ収容される。

怪我の後遺症によるものなのか、彼の「記憶」には深刻な混沌が生じていた。

唯一の所持品である色褪せた挿絵らしい紙の切れ端と、彼の脳内から無作為に出現するワードを手掛かりに、悠介と里中は心療にあたろうとする。

ところが正体不明者が次々と現れ、彼の身辺はしだいに不条理な危険に晒されてゆく。並外れた体力と身体能力を備えている事実に関しては、疑う余地がない。

里中 睦( さとなか  あつし )

悠介の同窓生で個人の臨床心理クリニックを経営する。佐野家とは美穂の在名中より親しい交流を持ち続けている。学生時代に培われた純粋な理念と悠介との信頼関係を自身の宝としており、悠介に臨床治療の片腕を託してもいる。成未にとっては、心の内を明かせる大切な存在である。

明朗な印象で独特の愛嬌の豊かさが魅力だが、外見とは裏腹のこまやかで緻密な神経を持ち合わせている。

澤村 泰弘( さわむら やすひろ )

悠介らの母校に附属する大学病院の心療内科で治療にあたる若手医師。緻密な頭脳と臨床医師としての適性から、周囲に将来を嘱望されている。公にはされていないが、不幸な幼年期に他家へ養子に迎えられた生い立ちを持つ。

心療を目指したきっかけは自らが幼い頃に負い、癒えることのない心の傷痕にある。少年時代に奏法を学んだヴァイオリンを愛し、多忙な中に於いても一人奏でて過ごす時間を大切にしている。

津久井 慎司( つくい  しんじ )

佐野親娘が居住する地域を所轄する警察の刑事で巡査長。謎の男の身元や負傷した経緯などが究明されないままの現状に違和感が拭えず、真相を突きとめようとする。微塵な情報を見逃さない、物的な手掛かりに基づく公正な分析を規範とすべく自らを律する一方、現場の人間に対する直感的な印象や気付きにも重きを置く。真摯な責任感と誇りが、職務に取り組む信条である。学生時代より精進している空手道の段位は黒帯で三段。

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