第2話  開放弦

文字数 9,849文字

 五月の大型連休が次週に控えていた。古くより「武蔵の野」と呼び習わされて来た広大な平地や素朴な雑木林の、ごく片鱗を醸すのみではあるが、この大規模な公園が都会の一画に在って非常に貴重な空間を提供している事に変わりはない。隣接する大学キャンパスから、あたかも自宅裏庭へサンダル履きで降り立つ気軽さで公園の芝生が踏める距離なのであるが、講義の合い間に訪れることは珍しい。
向井 敬彦は穏やかな歩調を留めた。ワイシャツの胸ポケットに入れた携帯が着信を伝えている。
「 ああー わるいな。講堂の裏のとこにいる。」
痩せ型の胸を天空に向けると、彼は呼吸を意識して横隔膜を開閉させてみた。同年代の平均身長を少なくとも頭ひとつ程抜けた長身の頭髪に、紫外線の強さを感じた。「講堂」と言ったのは、向井が勤務する私立 綾嶺大学の正門脇に由緒めかしく建つ、同校の開校時を物語る象徴的な建造物を指していた。講堂裏に、学生や学校関係者しか知らない公園への非公認な抜け道が存在している。校内から公園へ行くためには本来、正門か数カ所の登校門を出てから公園に設けられている幾つかの入口まで公道を歩かねばならない。その些細な煩雑さを回避すべく、いつの世代に開通したのか誰も知らない「けもの道」と通称される近道が代々受け継がれて来たのであった。
伸びやかな枝に今年の新緑をまとい始めた美しいケヤキの木蔭を一つ選ぶと、向井は芝生の上で無造作に胡座をかいた。時間は午後1時を廻っていた。見上げると、まだ緑の薄い新緑の羽状脈が陽光に淡く透かせた。独特なカーブをなだらかに連ねる縁取りの鋸歯たちも幼げな面持ちである。
「 光合成がんばれよ 」
夏はそれほど長くないからな、と彼は心の中で独り言をつぶやいた。
ほどなく現れたのは里中 睦であった。頑丈者と思われがちな重量感ゆたかな体躯を心もち照れくさそうに屈めて会釈をしつつ、満面の笑顔である。
「 先生、どうも。ご無沙汰しまして 」
里中ら同期生の卒業年次に研究指導教員として携わったのが、当時に於ける臨床心理学部教授だった向井であり、共通の恩師にあたる人物である。公認資格審査規定の改正に伴い、現在は大学構内に設けられた臨床心理士指定大学院にて専修主任を務めている。
「 昼飯喰ったか?」
「 あ、済ませて来ました。 」
並んで胡座をかくと、里中は羽織っていたジャケットを脱ぎ捨てた。
「 新年会以来か。」
「 そうー そうですね 」
「 佐野も相変わらずだろうな。」
あいつはほんとに変わらんです、と彼は朗らかに笑った。その黒目がちで無邪気な瞳の見やる先を一閃、ツバメが鋭く横切った。ご自慢の燕尾を精一杯にまっすぐ伸ばすと、お手本さながらの美しい慣性飛行で青空高く舞い上がり、見えなくなった。彼女か、彼らの頭の中は、親の帰りと食物を健気に並んで待っている愛らしい雛たちで埋め尽くされている事だろう。
「 君と佐野に、折り入って心理査定を頼みたい件があってなー 」
「 はあ・・ ヒアリングですか 」
100%想定外の要件だったため、実直な性質の里中は心の内に生じたままの違和感を表情に浮かべた。その反応が、掌の上に載せられるほど解りやすかったので、向井はふと嬉しくなって愉しげに微笑んだ。二人が憩う緑地のはるか高みの頭上を飛行機が煌めきながら横切ってゆく。
「 卒業生の澤村が、いま附属病院で臨床やってんだが 」
「 ええ 」
「 先月、3次救急から転送された男性患者が曲者なんだと 」
「 へええ? 」
澤村医師について面識は無いながらも、向井の教え子の中でも抜きん出た逸材との風評は耳にしていた。里中らより二回りほど若年のはずである。
「 ざっとした所見は、記憶障害とせん妄らしい。あいつが泣きついて来るなんて、まず無いからな。」
自身が聞いている範囲の情報を口頭で伝え、里中が筆記し終えると 見せたい資料もあるし、と向井は先んじて立ち上がった。
「 俺の部屋、ちょっと寄ってってくれるか 」
二人は並んで、ごく自然な身体反応として「けもの道」の方向へ歩き始めた。
「 佐野んとこの娘さん、元気にやってんのか?」
「 あー・・」
問われて里中は記憶を確認した。十代の頃から直近まで、時系列を外れた成未のいくつかの有り様が瞬時に彼の脳裏を横切った。
「 二月だったかなー 佐野んとこで鍋やって呑んだ時があって 」
「 鍋ー?? 俺聞いてねえぞ、おい 」
冗談を言う時の癖で、向井は右の頬に深い笑窪を浮かべた。
いやあ、すみませんー と、里中は慌て気味に頭を掻いて苦笑してみせた。
「 まあ、相変わらずしっかりな様子でしたね 」
「 ・・ ああいう 」
踏み締めてゆく靴底を、心地よい反動で返してみせる芝生の力を確かめながら、向井は高い目線をやや落とした。
「 人を頼れずに口に出さん子は、気をつけてやらんとな。」
「 そうですね 」
大学構内のざわめきが徐々に近づきつつあった。


 大型連休前の月曜正午の休憩時、成未は勤務先最上階に設けられた社食で昼食を取っていた。同期入社で経理部に勤務する 岩﨑 真紀が、一足遅れて三階から昇って来て目ざとく成未を見つけた。
「 なる〜 おひさ。」
「 よっ 、まきりん。元気?」
比較的お気に入りの窓際のカウンターに座れたので、好きなバンドの唄でも聴きながら食べようかとバッグからイヤフォンを取り出したところだった。別に構いはしないのだが、おしゃべり大好きな真紀が傍らに座ったからは会話の心構えは備えるべきだろう。連休に予定している旅行の準備あたりから始まって、昨夜あたらしくしたネイルの出来映え、直属の女性上司と気が合わないが絶対に負けていないこと、ネットで見付けた会社近くにオープンしたてのカフェが気になることなど、楽しげな彼女の話題は見事なほどに取り止めがなく途切れなかった。
へええ、なんで? あー そうなんだ と、根気の良い相槌を打ちながら成未はランチをほぼ食べ終えた。
「 コーヒー入れて来るけど、いる? ーあ、わるい 」
サラダを口いっぱい頬ばった瞬間だったので、左手でオッケーの形を作ってみせた。ご自慢のコーラル系ピンクの爪先が彼女の朗らかなまあるい顔立ちにとても似合っていたので、なんだか成未も嬉しくなった。
「 ネイル良いわ。その色正解。超かわいい 」
真紀は懸命に咀嚼しつつ、心から嬉しげな笑顔を浮かべると長い睫毛を瞬かせ頷いてみせた。
コーヒーマシンの二台ともに二、三名が順番待ちだったので、成未は二つのどちらともなく列の進みかげんを見ながら並んでいた。
「 困るんだけどー! 余計な事されると 」
どこか聞き覚えのある男の声が、背後でいやに響いた。
( んんー ? )
目を遣った先の視界に、見知った二名が飛び込んできた。二人掛けのテーブルで昼食中であったらしい同僚の中村の傍らに、同期入社で営業統括部の 藤岡 祥二が立っている。
( なんだってまたー ?? )
前へ進みながら、成未はさりげなく耳をそば立てた。
「 メガネクストからの受注制限て、君さ、意味わかります?」
( その件か )
成未らの部署は大型受注のメインとなる企業顧客の受注管理を主たる業務として担っており(株)メガネクストという大手取引先が経営難に陥っているらしい極秘情報を入手していた。その対応も含む企画・営業・経理・財務の4部門がシェアする緊急ストラテジ・ミーティングが本日15時に予定されている。成未らは会議のプレゼンテーターを任されていた。
今月中旬以降、一時的な対応として当社の全部門における受注をストップする正式通達は既に為されている。これに納得できないと訴える発注担当者の不満がおさまらず、巡り巡って、顧客管理デスクの中村が時間つなぎのクレーム対応に充てられたという経緯がある。先週末、埒のあかない顧客とのやりとりを悲鳴に近い深刻さで上司に報告する中村の奮闘ぶりを成未は目にしていた。
「 だからさ、ちゃんと対応できる自信がないなら先ずうちに振れって 」
おそらくは、藤岡らのチームへクレームが飛び火したに違いない。
( ていうかさ )
順番が来て二人分のコーヒーをトレイに準備しながら、成未は呟いた。
( おまえ伊達メガネやめろって。無理だから )
中村のテーブルへ直行すると、 ほい、お待たせー とウエイトレスよろしく、コーヒーカップにフレッシュとスティックシュガーを添えた。
「 えっっ?」
質問を切り出すであろう中村に先んじて、成未は藤岡と対峙した。
「 なに、なに?? 営業部のエースが珍しいじゃん、こんなとこで 」
「 あれ??」
意識がスライドしたのか、藤岡の声の調子が変わった。
「 え? なんで佐野なわけ?」
「 えええ、信じらんない 」あたし3課だもん、知らなかった? と、相当なわざとらしさで驚いてみせた。
「 彼に言うの筋違うから。むしろさ、うちの課長に言ってやって 」
「 俺はさ 」
( あ。・・飲みやがった )
藤岡は根拠不明な余裕を漂わせつつ、微塵の疑いもなくコーヒーをすすった。
「 この何とかクンのために、わざわざ休憩割いて教えてあげてんだぜ?」
「 どういう意味ですか!?」
とっさに成未はトレイを乱暴に置くと、立ち上がりかかる中村の両肩を背後から両手で強く抑えつけた。
「 佐野さぁ 」
「 あんー?」
「 連休の予定なら、まだ増やせるからさ。」
「 はあ???」
成未は肩に置いた手を離さない。日夜、鏡の前でトレーニングに励んでいる事であろう 決め の笑顔で、藤岡は目配せを送って来た。やや腰を落としてファイティングを身構えると、成未はその伊達メガネを睨み返してみせた。
「 グーが良い? 平手でいく??」
「 俺ら同期だし、所属違うし、なんも問題ないから。な 」
背を向けて右手を軽く振ると、藤岡は何やら颯爽とその場を去って行った。
次の瞬間である。呆然と見送る成未の左頬を、まったく唐突に大きな拳がかすめて伸びた。
「なにっっ???」
「 まあ・・ ぱアーンてやられる方が 」
別次元の異世界に於いて聞き覚えのある重たい声がいま此処で頭上に響いたのは、悪夢としか思えなかった。
「 !?!?!? 」
とにかくも昼食を終えようと持ち直した箸とどんぶり飯を、中村は再び投げ出した。
「 後々引きずるって意味では破壊力ありますかね。 やっぱり 」
声の主は大きな掌を掲げたまま、ゆっくりグーパーグーパーしてみせた。
( 振り返ると、なんとか・・・ ってあったよな、確か )
背後から漂ってくる独特な存在感からして、成未の予想は外れようがなかった。意を決して振り向くと、居場所を違えようがお構いなしのでっかさで、水樹がごくごくいつも通りに立っている。
「 ーで。 どうゆう訳なの 」
「 え。 ん、なに ??」
成未と話す際よくやる癖で、右側へ頭を大きく傾いでみせた。彼の耳の高さからでは、160ちょいの成未の声が遠く感じる場合があるらしい。斜め掛けしていた大きめのショルダーをテーブルに置くと、ラフなシルエットのベージュのジャケットを脱いで無造作に引っ掛けた。
「 腹減っちゃったなあ。 」
薄いインディゴのボタンダウンのゆったりした両袖を引っ張りながら、成未のトレイからコーヒーを何気なしに口へ運んで水樹は呟いた。
( だから、勝手に飲むな・・ あっっ ! )
ため息を吐き終えない途中、ふと走った戦慄に成未は息を止めた。
持主の体格に見合ったサイズの、濃い生成りの縦長の帆布バッグを、周囲へ音が響く勢いで ばん ばん ばん 両手で抑えて確かめつつ、彼女は鋭く見上げた。
「 コタロウ、入ってないよね!?」
「 あ、今日は連れてないす 」
視界の良くなさそうな前髪越しにひと渡り見渡すと、彼は成未に質問した。
「 ゲストラウンジ、って 何処?」
「 ?? なにゆえに ??」
ひたすらに置いてけぼりの中村が、どうにかして口を挟もうと椅子に座り直した瞬間、成未の脳内でイレギュラーにフリーズしていたアラームが突然再起動した。午後のシェアミーティングの準備を、滞りなく進めなければならない。
「 中村くん、ごはんまだ残ってる!」
左腕を思い切り伸ばして指差すと、彼女は食堂内のとある方角へ水樹を促した。
「1時10分までに中会議室ね、7階の方だから。課長、時間にはうるさいから」
成未らとテーブル上の和定食を交互に見較べ、中村は神妙すぎる面持ちでアイコンタクトすると、小さく頷いてみせた。
案内すがら聞き出して理解できた範囲では、今年の年末商戦の一翼を担うクリスマス向けオリジナルグッズのコラボ企画書を提出しに来たものらしい。彼が所属する比較的アットホームな雰囲気の広告代理店で上司にあたるチーフプロデューサーが、正式な契約を既に取り付けているそうである。
「 ・・・・・ 」
腕時計に目をやり正確な時間を確認すると、行儀に気を配るこの青年には珍しく、食べかけのままで冷え切った焼魚や野菜の煮物を、乱暴に口へ放り込み始めた。


 かつて悠介らも学生時代に臨床研修で通った綾嶺大学附属総合病院へは、大学から西南の方角へ8キロほど下る。沿線の私鉄で3駅目、環状線で車が流れていれば約20分の距離である。
向井より依頼を受けた翌週の夕刻、一般外来が終了する時分を見計らい、悠介は里中の車の助手席に同乗して病院へ向かっていた。道路は未ださほど混雑していない。交差点の信号待ちでフロントガラス越しに注ぐ紫外線は、この時期存外力強い。悠介は切れの長い目元をまぶしく細めた。
「 A波だいぶ来てるな 」
「 うんー?」
青信号の点灯と共にゆったりと右へハンドルを切りながら、里中は悠介の言葉の意を咀嚼し終えた。
「 まあ向きもな、太陽追いかけてるからな、ちょうどいま 」
運転する彼の視界の先、四車線の道路前方に病院の本棟が小さく見えて来た。直近の信号を左方へ緩やかに湾曲して都道へ抜けると、両脇の舗道に銀杏の並木が遠近法で連なり始める。里中は、脳裏に浮かんだ記憶があるらしい。
「 チャリでさ 」
「 うん 」
シートベルトの下でやや居住まいを直すと、両腕を頭の後ろで交差して悠介は指を組んだ。
「 お前この道通って来てたよな、真冬とかもさ 」
「 ああー。 大学と附属病院の中間ぐらいだったからな、下宿が 」
そりゃ良く知ってるけどさ、と里中は愉しげに笑った。
「 佐野って知らなくても、チャリで来る奴 って言うと知られてる、みたいな 」
つられて、悠介の頬にも笑窪がほころんだ。
「 距離が微妙すぎてさ、バスとか電車とか面倒臭くてさ 」
ほどなく、職員用の駐車場入口に車は到着した。当院の敷地面積は約6万平方メートルで病床は400、5階建ての本棟と二つの三階建て別号棟に、悠介らの卒業後さらに新号棟が増設されている。本棟の大掛かりな全面改装工事も十年ほど前に実施された。エントランスから一階の総合受付・待合あたりの内装も一新され、当然ながら学生時代とは隔世の感がある。中央から伸びたエスカレーターのなだらかな傾斜に乗り、二階東エリアに設けられた心療内科の外来受付を目指して行く。各フロアの窓から太陽光の採光が増やされ、院内の空気感はかなりナチュラルに改善されつつある。
二階外来のうち、最もテラス寄りで窓越しの陽光に包まれた一画の受付を訪れると、向井教授の言伝で澤村医師とミーティングを行う予定である旨を伝えた。受けた看護師は急ぎ足で、受付後方の専用扉から澤村の診察室へ連絡に向かった。大まかな扇状形に並べられた椅子の最前列に、里中と悠介はなんとなく腰掛けた。
当日の外来治療を終えた待合のぼんやりした空間に、ささやかな安堵と拭いきれない緊張が慈悲にも似た閑けさを伴って漂っている。
ほどなく戻って来ると、内線電話で何事か至急らしい要件を彼女は抑制した声で伝えた。
「 あの、お待たせしてすみません。」
「 あ、? いいえー 」
詳細な状況を確認する手間を惜しまない神経を、残念ながらともに持ち合わせておらず、二名は並んで座ったままでいた。里中の体格からすれば椅子のサイズに若干の無理があり、右横の悠介の領分をあきらかに侵している。そこへ紺のカーディガンを着た、やや年長かと見える別の看護師が何処かより現れて受付へ声を掛けた。二、三度小さく頷くと、彼女は里中らの方へ歩み寄って折り目正しい辞儀をした。
「 すみません。大変お待たせしました、ご案内いたします。」
職員用のエレベーターで三階へ昇って以後、方向感覚に実感が保てたのは、主に検査室が並ぶ二号棟の北エリア通路あたりまでだった。その突き当たりを鋭角的に右へ折れると、新号棟への連絡路が直結して増設されている。新号棟のナースセンター前を通って一階へ降り、通路に立ってフロアを見遥かすと「キ」の形の中央線のちょうど真ん中あたりである。会議室やリハビリルーム、多目的ホールなど、広面積な施設がここにまとめられていることは聞いていた。先導する看護師はまっすぐ歩いて、左の角を曲がってさらに進んだ。
「 来た通り、戻れると思うか?」
里中が悠介を振り返って、声を低く訊いた。悠介はやや上目遣いに、苦笑を浮かべてみせた。
「 俺に聞くなって。」
彼らのたどる通路の行き止まりが見えて来た。20メートルほど手前に、リハビリ用のエレベーター乗降口が一般とは別建てに設置されている。看護師の後ろ姿が、ここで忽然と消えた。と錯覚したのは、南方へ拡がる意外な空間へと、ヴァリアフリーのスロープが緩やかに優しく導いていたのであった。棟の南面中央の一部が、キューブをくり抜いた形に吹き抜けており、テラスはそのまま院内の緑地へと繋がる構造となっている。
アトリウムを囲むガラスの壁越しにいくぶん弱まった陽射しを感じて見上げた時、思いがけない音声を認識して二人は立ち止まった。いわゆるクラシック音楽の弦の音、が旋律を奏でている。このエリア専用の館内BGMなのか、と思えなくもなかったが、それは紛れなく屋外に於いて発せられ、分厚いガラスにおおよそ遮断されながらも届いている音であった。通用扉の前で外を確認すると、厳重なロックを解除して看護師は親しみやすい笑顔を添えて促した。
「 澤村先生、あちらに 」
中庭へ足を踏み入れると、思いのほか風が吹いている。楽器はおそらくヴァイオリンなのだろう。
彼女が自らの視線で指し示した、緑地へ通じるスロープを少し降った辺りに、大柄な背中が印象的な白衣の後ろ姿があった。医師の時間を妨げぬ配慮で慎重に、看護師は無音で扉を閉めて立ち去って行った。
数歩前へ出たが、申し合わせる訳でもなく彼らは再び歩を留めた。奏法の技術的な巧拙など、音楽全般に造詣のごく浅い悠介らには判断のしようもない。しかしながら、初夏のたそがれを吹き渡る爽風と不思議に調和した沈痛な曲調は、心の深層を瞬時に捉えた。二人ともに初めて聴く曲であった。巧みに繰り返される旋律から伝わる深遠な主題は、美しいとか感動的であるという称賛だけでは足りないに違いない。もう一つ、なぜだか強く注意を引かれたのは、医師が左肩に顎で挟んでいる楽器の爪弾き方というか、扱い方であった。
" 単なる楽器という以上の何か、 特別な愛情を注ぐ対象を模っている何か " 
例えて言うなら、ただ一人の最愛の恋人を、想いの丈を籠めて腕の中に抱擁するー  そんな、密度の濃い感情の襞(ひだ)が波立つ緊迫した気配を、悠介は敏感に感知している。
( あれは・・ なんなんだろう )
「 なあ??」
自分と同様に感じている、という大前提のもとで悠介は里中の目を覗き込んだ。
「 うん??」
二名が見つめ合う形となった時、余韻を残して音色が止んだ。
「 どうも・・ 大変、失礼しました。」
澤村 泰弘が、会釈をしながら早足で歩み寄った。色白な頬にかすかな朱みが射して見える。楽器と弦を左脇に抱えているが、先ほどまでの独特な気配は微塵も感じられなかった。
こちらこそ、お邪魔してすみません、と彼らは不躾けを詫びた。シンプルな木製のパブリックベンチへ着席を促して
「 向井先生から、よくお二人のお話を伺っております。」
深々と身体を折り曲げ、澤村が丁寧な辞儀をしたので、悠介と里中も改めて立ち上がり辞儀を返した。
「 つい・・ 」
向かい合ったベンチへ腰を降した澤村に、里中が和やかな口調で語りかけた。
「 聴き込んでしまいました、素晴らしくて 」
「 ヘタの横好きというやつでー お恥ずかしい限りです。」
悠介はくつろいだ様子で足を組むと、ショルダーから手帳を取り出して聞いた。
「 良い曲でした。あれは何という曲ですか?」
膝に乗せた楽器の上で長い指を組み合わせながら、澤村は涼しげな眼差しを悠介へ向けた。
「 ラフマニノフというロシアの作曲家の、ヴォカリーズという曲です。」
手帳に書き留めると、悠介は無邪気な笑顔をみせた。
「 ありがとう。おかげで素敵な曲と出逢えました。」
腕時計に目を遣ると、澤村はしばし沈思してから呟いた。
「 いまー ちょうどセッション中ですね。」
来院の目的であるクライエントのことらしい。
「 当初、後頭部の損傷で搬送されたそうー 」
不意に、悠介が里中の言葉を遮って声を上げた。
「 ああ!そうだ。」
「 えっっ・・ なに 」
「 3月に、うちの近くのコンビニで倒れたんだよな 」
澤村を前にしてではあったが、今のいままで耳に入っていない意外な情報だったので、つい里中もつられた。
「 え、そうなの!?」
「 いま思い出した。」
ほどよい緊張感の上に清廉な穏やかさをまとった面持ちで、澤村は二人のやりとりを心地好げに見守っている。この印象こそが、通常の彼なのであろう。
「 脳画像に異常は無く、想定される種々の高次脳機能障害については脳神経科において検査済みですが 」
「 ええ 」
「 患者自身による意思表出が皆無で、失語に関しても同定が困難であると 」
3月の搬送以後、集中治療からハイケアを経て現在もなお、意思や感情の表現が行われず対話が困難である旨の状況については、向井教授経由で聞いていた。
「 三次救急の時点で、重篤な外科損傷の部位は頭蓋骨陥没とフレイルチェストによる血胸、上半身に複数の挫創など、危険な状態でした。」
さらに特異であるのは、所持品が無く、彼の素性を確認特定できる情報が皆無に等しいという点であった。
管轄する警察において負傷について関与の可能性が考えられる事件・事故の情報はなく、該当する家出人捜索の届出もないのだと言う。
「 興奮の頻度が高かったため、短期性の抗不安剤を当初の一週間、以後は SNRI ( 長期間の服用に適した穏やかな抗うつ効果薬 )をインフュージョンしています。」
「 これがー 」
悠介は一枚のクリアファイルを取り出した。
「 唯一の手掛かり、ですか 」
事前に向井より渡された、所持品であるという小さな紙片のコピーが挟んである。
「 ええ・・ 」
彼らはともに、手掛かりとなる一枚を見遣った。それは縦18センチ横12センチほどの、全体が色褪せた、淡い彩色の絵画であった。
四隅をはじめ所々が破れてもいて、所持してからの長い時間の経過は紛れもなく感ぜられた。おそらくは、昭和のいずれかの年代に刷られた大衆小説や娯楽雑誌の挿絵か、温泉観光地などに由縁したエピソードを図案化した土産用の絵葉書の類いであろうか。日本髪の儚げな風情の美人が、何事か思い詰めた表情の青年を、細い腕に抱きしめている。この紙片が反分に折られて、やはり古びた巾着の守り袋に入っていたそうである。
「 僕が最初に感じたのは 」
「 ええ 」
「 これは何だか・・ 『ピエタ』 なのかな、と 」
絵画から目を上げないままで、悠介が呟いた。
「 なるほど、」
興味深げに、澤村は目を瞠って絵画の趣きを再見した。
「 モチーフは日本的だが、確かにそんな雰囲気がありますね。」
「 聖母と受難者に擬えるとすると」
里中は深々と腕を組んで、もたらされている情報の意味合いについて提起した。
「 この絵が示しているのは 『慟哭』『慈悲』『慈愛』『母性 』・・ とかでしょうか。」
「 そうですね・・ 」
澤村は深く頷いた。
「 いま、彼がこのフロアのワークルームに?」
悠介が察して、澤村に促した。
「 はい。あえて多人数のチームセッションで、30分間の見学中です。」
彼らは順次立ち上がり、屋内へと向かった。








































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登場人物紹介

水樹 史也( みずき ふみや)

広告制作会社勤務のイラストレーター。26才。心療内科カウンセラー 佐野 悠介との出逢いがきっかけとなり、かつて深刻であった精神状態から快方へ導かれて以来、悠介へ深い信頼を寄せている。

並外れて繊細な神経に恵まれた一方で、一般的な常識にとらわれない大胆な行動力をも兼ね備えている。

佐野家隣家の牡猫コタロウ( 水樹は一方的にヴァンプと呼ぶ )は親友である。

コタロウ

佐野親娘が暮らすマンションの隣人・黒田さんが飼っている去勢済の牡猫。

遠出はしないが、何故か佐野家へだけはベランダを器用に伝って頻繁に訪ねて来る。穏やかで人なつこい性格で、ツンデレのツン要素はあまり持ち併せていないらしい。

大柄な水樹 史也が繰り広げるスキンシップを実のところは迷惑に感じている、かどうかは不明である。

佐野 成未( さの なるみ )

大手通信販売会社に勤務する27才。きょうだいは無く、臨床心理士の父・悠介と二人暮らし。

十代で母を亡くしたせいもあってか、日常の生活者として揺るぎのない堅実さを備えたしっかり者である。

職場の同僚で後輩にあたる 中村 宏太 に異性として好意を感じているが、適当な距離から見守っていたいとひそかに願っている。

亡くなった母の実姉で、関西在住の叔母・川瀬 愛子 の無敵な明るさも好き。


佐野 悠介( さの  ゆうすけ )

臨床心理士を務める成未の父親。ある意味、純粋な少年時代のひたむきな向学心を持ち続けている。生来の気質としては朗らかで、性善説を信念とする。豪放と呼んでも可いマイペースと他人の反応をあまり意に介さない爽やかさが、弱点でもあり強みでもある。早世した妻の美穂をこよなく愛し、誰よりも傷みを背負っているが、忘れ形見の成未にも敢えて語った事はない。彼の血の通い合った心療の姿勢が、苦しむ者の拠り所となる。

中村 宏太( なかむら  こうた )

成未の後輩にあたる同僚の青年。人間関係に於ける周旋などに、ややもすれば誤解を招くほど不器用な誠実さと真面目さが長所とも謂える。その一本気さゆえ逆境に弱そうに見られがちであるが、外見とは裏腹の不屈な意志の勁さを秘めてもいる。誰にも明かさないが、片親の家庭に育ち自身の努力によって現職を掴んだ不遇な経歴こそが、未来を生きる糧となるという誇りと信念を強く抱く。

その一方、他人知れず成未に対する深い愛情を日々確かめてもいる。


記憶を持たない謎の男

事故なのか、傷害の被害者であるのか、瀕死の重傷を負って忽然と現れ、救急病院へ収容される。

怪我の後遺症によるものなのか、彼の「記憶」には深刻な混沌が生じていた。

唯一の所持品である色褪せた挿絵らしい紙の切れ端と、彼の脳内から無作為に出現するワードを手掛かりに、悠介と里中は心療にあたろうとする。

ところが正体不明者が次々と現れ、彼の身辺はしだいに不条理な危険に晒されてゆく。並外れた体力と身体能力を備えている事実に関しては、疑う余地がない。

里中 睦( さとなか  あつし )

悠介の同窓生で個人の臨床心理クリニックを経営する。佐野家とは美穂の在名中より親しい交流を持ち続けている。学生時代に培われた純粋な理念と悠介との信頼関係を自身の宝としており、悠介に臨床治療の片腕を託してもいる。成未にとっては、心の内を明かせる大切な存在である。

明朗な印象で独特の愛嬌の豊かさが魅力だが、外見とは裏腹のこまやかで緻密な神経を持ち合わせている。

澤村 泰弘( さわむら やすひろ )

悠介らの母校に附属する大学病院の心療内科で治療にあたる若手医師。緻密な頭脳と臨床医師としての適性から、周囲に将来を嘱望されている。公にはされていないが、不幸な幼年期に他家へ養子に迎えられた生い立ちを持つ。

心療を目指したきっかけは自らが幼い頃に負い、癒えることのない心の傷痕にある。少年時代に奏法を学んだヴァイオリンを愛し、多忙な中に於いても一人奏でて過ごす時間を大切にしている。

津久井 慎司( つくい  しんじ )

佐野親娘が居住する地域を所轄する警察の刑事で巡査長。謎の男の身元や負傷した経緯などが究明されないままの現状に違和感が拭えず、真相を突きとめようとする。微塵な情報を見逃さない、物的な手掛かりに基づく公正な分析を規範とすべく自らを律する一方、現場の人間に対する直感的な印象や気付きにも重きを置く。真摯な責任感と誇りが、職務に取り組む信条である。学生時代より精進している空手道の段位は黒帯で三段。

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