第14話 『ラ・カンパネラ』

文字数 16,893文字

 人智の限りのスケールに比してあまりに広大に過ぎる、北の大陸の極東の果ての片隅で、ハヤトが絶望と疲弊の渦中、束の間の微睡み(まどろみ)に抱かれている同じ時ー
2500マイル程の距離を隔てた大陸のほぼ中央部、『シベリアの真珠』と称される、雄大なる蒼き湖の南西の畔りに栄える古都においても、日常の営みが行われていた。国際貿易や政治的な要衝の拠点として、人間社会の興亡の歴史を刻み続けて来た街並みを、八月の名残りの陽射しが煌びやかに照らしている。
湖より端を発する一筋の河川が街の中央を悠然とたどり、やがて遥かに内陸部を目指し蛇行してゆく。河畔に起伏した小高い丘の一画に建つ瀟洒な二階建ての古い館が、ゆたかに流れゆく水面を見降ろしていた。18世紀頃の建築を改築した住居で、小じんまりした中庭の外れに、ローマ風のドームを備えた離れのスペースが設けられている。母屋に通ずる石畳の小径の傍らで、カスミ草の群れと並ぶ満開のデルフィニウムが、紫紺の可憐な花びらを誇らし気に揺らしていた。
吹き抜ける風に柔らかな髪を遊ばせて、ソスリュコは長い両足をリクライニングチェアに伸ばした。日照を避けた石造りの空間は、涼やかさの内に ごく微かな河川の湿り気を感じさせた。ほぼ十日ぶりにこの街へ戻り、遅めの昼食を終えたばかりであった。内陸の数カ所を廻った今回の要件は、いずれも油断の為らぬ緊張度の密なもので、現在に至って初めて、神経の奥に蓄積していた疲労を彼は感じた。
「 ・・・・・・ 」
気配を感じて見遣った先に、風馨の姿があった。シフォンのワンピースの白い裾が、白日夢の名残りであるかの儚さでそよいでいる。カルヴァドスとグラスを載せたトレイを運んで来る面差しを見つめながら、彼はネクタイと襟元を緩めた。
「 ーナザルヴァ。お疲れになったでしょう。」
彼の希望に従い、ソスリュコではなく本名で呼ぶようになっている。トレイをテーブルに置いて見上げた風馨へ、彼は腕を差し伸べた。
「 おいでー 風馨。私の可愛い小鳥。」
華奢な小鳥は艶やかな黒髪を揺らして、帰宅を待ち侘びた主人(あるじ)の胸に翼を憩わせた。チェアに預けた身体の上に風馨を受け止めた彼の頬に額を寄せ、潤んだ眼差しで見上げた。
「 ご無事で良かった・・・ 」
「 予定が押してしまい遅くなった。済まなかったね。」
彼女の感触をゆっくりと確かめながら、ソスリュコは優しい眼で見つめ返した。祖国の民族独立紛争が武力制圧された後、旧体制政府との折衷策を模索する方向で、暫定的な和平協定が締結された。イムギと風馨の兄妹はいったん日本へ帰国したが、待ち受けていたのは深谷であった。
そも、高名な慈善家の肩書きを世に謳うボランティア法人組織とは、暗に荷う実験的な目的を秘めていたのである。例えば牧野のように、幼児期に親の虐待を受けてネグレストされ、一般社会の中に生きる行き場を見出せず路頭に迷い出る者を言葉巧みに保護する。マインドコントロール下に統べた後、彼の組織の潤沢な資金源に有益な闇市場の展開されている紛争地域へ彼らを送り込む。実際の最前線を経験させる中で、戦闘員や諜報員として利用できる素質のある者を選抜し、育成してゆく。そして、このプログラムの背景には、ソスリュコが探知済みである通り、とある国家機関とトップキャリアらが巨大なる機密の暗黒の裳裾を曳いていた。
風馨に関しては、団体の広告塔としての芸能活動を行わせた。 '不幸な生い立ちから、活動を通じて救われた美貌のヒロイン' というコンセプトで、プロデュースが為された。但し、深谷の執拗な風馨への執着を嫌ったイムギが、ほぼ脅迫に近い形で条件を付けた。彼が唯一、闘いの相手になり得る男として認めていたソスリュコに、契約上の風馨のマネジメントをさせるという内容であった。抵抗活動を続けるための手段として闇に潜り、再編成されつつあった組織の結束に欠かせぬ「イコン」として、ソスリュコがトップに置かれる形となっていた。極東方面の市場は深谷らにとっても重要なルートの一つであって、二つの組織に於いて利害の一致を見るに至ったのであった。
「 ーナザルヴァ・・ 」
慎ましやかに唇を重ねるのが目眩いて愛おしく、彼は風馨を強く、軋むほどに抱き締めた。
彼女の、深谷の組織との関わりを、ソスリュコは正式な話し合いを設けて断たせた。そして、比較的気候の穏やかなこの街を選んで、彼らの拠点である館を二人の住まいと定めた。
白く透ける頬にこぼれた涙を指で拭ってやりながら、彼はいささか眼差しを曇らせた。
「 悲しくなったのかー ??」
「 いいえー お留守のあいだ、とても寂しかったの。 ・・弱虫でごめんなさい。」
彼の掌を頬へ押し当て、切なげに微笑んでみせた風馨を抱き上げ、母屋へ戻ろうと上体を起こした時である。胸ポケットの中で、携帯が着信をマナーで報らせた。
「 ・・・・・ 」
気の進まぬ手付きで取り出し画面を確認したソスリュコの表情が、俄かに翳った。
「 ー?? 君の兄上からだ。」
「 !? 」
気遣わしく見つめた彼女に寄り添い、右手の指をしっかりと絡み合わせると、彼は通話を受けた。
「 暫くだったな。イムギー 。」
絡めた彼の長い指が、会話の内容に反応して やや力を籠めたのを風馨は敏感に感じ取った。
「 ・・・ 風馨なら、いま此処に居る。」
「 ?? ・・・ 」
ソスリュコの瞳を怪訝に覗き込むのを、かすかに頷いてみせて眼で諭し、彼は言葉を継いだ。
「 良い機会なので報告しておくー 
彼女の希望で、深谷の組織との関わりは総て清算させた。風馨の安全は、私が生涯保証する。君に了承してもらいたい。」
自分という小っぽけな存在を、俄か雨の滴の一粒にも濡れさせまいと、外套を大きく拡げて護り続けてくれて来た・・・ この、崇高なまでの情愛を湛えた勇士の懐の深さに、風馨は遣る瀬なく、改めて心の内に限りない感触を捧げた。
「 ・・ では、彼女と代わろう。」
眼差しで合図をすると、彼は携帯を風馨の手に握らせた。
「 兄さんー ??」
「 風馨。」
一言を耳にして、兄の身に何かしら只ならぬ事態が起きている事を、地上にたった二人きり生きて来た妹は察した。
「 大丈夫?? 怪我はしていない??」
「 ・・・・・・ 」
「 兄さん!?」
返答が戻らないのに、つい身を乗り出した彼女の髪に、ソスリュコは優しく頬を寄せて口付けた。
「 ・・・ 俺じゃないんだ。」
「 ー??? 」
電話の向こうでようやく呟いた兄の、啜り泣く声が確かに聞こえた。風馨は息の詰まりそうな思いで、耳を研ぎ澄ませた。物心が付いてから今日に至るまで、兄が泣く姿を見た事がない。無論、妹の前では決して涙を見せなかっただけかも知れない。何れにせよ、いま電話機越しに伝わって来る、憔悴し切って途方に暮れているらしい気配は、ついぞ垣間見た事のないものであった。
「 俺の『プレシャス』がー エレーナが、俺を庇ってナイフで刺されて・・・ 」
「 !? ー『エレーナ』って仰る方なのね??」
「 手術した医者は、今日までに意識が戻らなかったら諦めろって・・ 」
「まあ・・!!!」
涙が はらはら と彼女の頬を伝った。
「 ・・・・・・ 」
腕に伝わる風馨の心臓の鼓動が心許なく乱れるのを感じ、ソスリュコは絡めた指に力を籠めた。
「 俺には祈る事なんて出来ないー。頼む。代わりに祈ってくれー !」
祈れないー と呟いた兄の心情の奥底にある真実を、ただ一人、彼女だけは判っている。
「 ええ。祈るわ。絶対に諦めてはだめよ、兄さんー 」
「 風馨・・・ 頼む。」
ー 通話が途切れた。 携帯を手渡しながら、彼女は兄との会話のあらましをソスリュコへ伝えた。
テーブルへ手を伸ばしてロックのグラスにカルヴァドスを注ぐと、彼は自ら味わいを確かめ、口移しに芳醇なリンゴ酒を風馨へ飲ませた。
「 痛ましい事だー。 何れにせよ、君の心に大きな負担を持たらしたな。困った兄上だ。」
背後から彼女の肩を両腕で包んだソスリュコは、幾分 憂鬱気な声を漏らした。彼の腕に頬を擦り寄せて瞼を閉じた風馨の脳裏を、牧野の緊迫した声が刹那、過ぎった。
( 逃げろっっっ!!! )
戦闘の最中に於いて、自らの生命を投げ打って盾となり、かつて牧野が自分を守り抜いてくれたー 兄を守ってくれたと言うその女性も、やはり自らの命以上に兄を愛してくれているのに違いない。
ソスリュコの大きな腕の中に翼を憩わせて護られながらも、なおも追憶として色褪せぬ記憶と共に在る耐えがたい罪深さに、彼女は息を詰まらせた。
「 風馨。 ・・・君は知るまい。」
彼女の左耳に頬を寄せ、ソスリュコは そっと口づけた。瞳を上げて問い掛ける風馨に、穏やかな眼差しを注ぐと
「 私は生涯、女性を愛するつもりは無かったー。」
艶やかな黒髪を優しく撫でながら、彼は静かな口調で続けた。
「 兄上の強引な周旋が君と関わるきっかけだったが・・・ あくまでも、ビジネスライクのみの関係で在るべきだったのだ。個人的な恋情を君に無理強いしたのは、私の咎だー 済まない。」
膝の上に乗せた風馨を正面から見つめた、その端正な口元に、彼は自嘲的な微笑を苦々しく浮かべた。
「 おそらく故郷の街に滞在していた君を見知った時から、心はすでに君を愛し始めていたのだろう。」
「 ナザルヴァ・・ !!」
「 あの折ー あの男(牧野)は、重傷を負い意識を失い掛けながら、君を庇って頑なに離さなかった。」
風馨の心の内側を克明に読解し得るかの如く、彼は牧野の記憶をあえて紐解いてみせた。
「 君を救出した時、心の中で蠢めく違和感を私は自ら黙殺したがー つまりは、醜い嫉妬心だったのだ。」
突き動かされる心の揺らめきを言葉に置き換えようと開いた、風馨の清楚な唇に人差し指を縦に押し充てて、ソスリュコは遮ってみせた。
「 君に対してと言うよりも、牧野に対する・・・ 自分ならば、あれ程までに君を守り抜けたかー 」
「 どうぞ、もうお止しになってー 」
彼の右手を両手で強く握り締めると、彼女はソスリュコを見上げた。陽射しを避けた円屋根の下で、鳶色の瞳は建築物の石材を微妙に映して仄かなアッシュに翳っている。左眼の斜め下に印された彼の美しい褐色のほくろを、風馨は愛おしく唇でなぞった。
「 人の生きる世というものはー 」
柔らかな温もりに頬を預けながら、彼は瞼を重く、深く閉じた。
「 不思議なまでに、儘ならぬものだ。君を知って、ただ一人の女を愛する悦びと苦しみを私は知らされた・・ おそらくは、兄上もいま、打ちのめされているに違いない。」
彼女の手を取った指先に、ソスリュコは力を籠めた。そして裏返すと、白く滑らかな風馨の掌の皮膚の感触を確かめ、ゆっくりと口づけた。
「 ・・・ 所詮は与えられた、限り在る生命に過ぎんのだ。罪の深さに灼き苛まれようと構わん。私は君を愛したい。」
「 ナザルヴァ ー。」
「 君の美しい素膚を、一秒も長く、この腕の中に抱いていたい。私の『傲慢』を、赦してはくれまいかー 」
掌越しに見詰める眼差しの切なさに惹き寄せられて、風馨は彼の懐深くへと、しなやかに身体を委ねた。
「 あなたのお帰りを・・ 待ち侘びていました。ナザルヴァ・・ 。」


 ハヤトが集中治療室の前に座り続けて、おそらくは3回目となる消灯の時間帯を迎えていた。
廊下からガラス窓越しに見渡す、幾つもの医療機器に取り囲まれた寝台の上のエレーナが、しだいに体温を失い、風景の単なる一部として取り込まれて行く気がする。時折、ほぼ無意識のうちに休憩者用の長椅子の上へ転がっては、ぼろ布のように仮眠を取った。ごく久しぶりに耳にした妹の透き通って美しい声も、彼の心には寄り添わなかった。
自らの実在を認識する感覚から遠く隔てられた彼の聴覚と視覚が、いつしか深夜が訪れていたらしい事を、ようやく鈍く察知した。
「 ・・・・・・・ 」
ふたたび森閑と鎮まった、冷ややかな湿り気と薬品の臭いが支配する空間の暗さを、ハヤトは今更ながらに見廻した。治療室へ目を戻すと、やや照明の彩度が絞られた寝台の真ん中に、王子の救済を待ち続けて眠るお伽話の姫君さながらの優しい寝顔だけが、白く眺められた。
( いつまで、そこで寝てるつもりなんだ!? あんたはー!!! ちくしょうめっっ!!!)
喚き出したい衝動の遣り場に困り果て、虚ろな両手で栓なく窓枠に縋り付くと、彼は額を激しく打ち付け始めた。曖昧な傷みが神経の遠くを伝い、不意に視界が遮られたのは、裂けた皮膚から血液が滴ったのであった。
「 ・・・・・。」
ふと、狂人の振る舞いのごとく、彼は唐突に身じろぎを停めた。混濁し切った脳裏の何処かで、エレーナに唄うのをせがんで幾度も聴いた、古い子守唄のメロディーの欠片が甦ったのだった。柔らかな膝に身体を預け、優しい歌声に耳を傾けて過ごした時間は、彼がこの世で初めて赦された『夢見る』時間であったに違いない。
「 ・・シュキ、バイョ。 モ・・イ、アンギルー・・・ 」
眉間を伝う血液も拭わず、眼じろぎもせずに、ハヤトは懸命に記憶を辿りながら、拙いメロディーを口ずさみ始めた。この男が自ら歌唱を試みた経験は、ついぞ無い。
「 ー スコーロ パドゥェッツ・・ シィヴァ ミ ・・ ?? 」
その先の歌詞が思い出せず、冷え切った深夜の廊下の上でたった一人、彼は背を丸くして俯いた。そして、胡座を掻いた膝頭を握り締めると、ついに堪え切れず、声を震わせて慟哭を漏らした。
「 ー 俺に、唄える訳ねえだろう!? エレーナ! ・・・ エレーナッッ!!!」

( そんなこと無いわ。素敵な声よ、ハヤト。)

エレーナの優しいアルトと柔らかなブロンドが、項垂れる彼の髪を ふんわりと包んだ感触がした。何気なしに反応して縋った掌が、彼女の暖かな温もりに確かに触れた。
「 ー ??? 」
顔を上げて見遣った窓の向こうで、エレーナの体が微少ながら動いた瞬間を、彼の視界が捉えた。
ハヤトは大声で彼女の名を呼んだ。
「 エレーナーッッッ !!!」
医療機器の反応を感知した数名の看護師らが慌ただしく入室し、駆け付けた医師と共に処置に当たるのを、ハヤトは茫然と見守り続けた。
はたして彼女は意識を取り戻し、生命維持が危ぶまれた機能不全の危機は去って、エレーナの各臓器は徐々に、安定値を示し始めたのであったー


 最初の面会がハヤトに許されたのは、翌日の夕刻頃であった。専用の感染防止用サンダル、キャップ、ガウン、マスクの装着と、入念な手指の手洗い消毒が看護師によって指導され、面会時間は15分間に限定された。準備を整えた彼は、更衣所と治療室を間仕切る重々しい扉を開いた。一歩足を踏み入れて、密閉された室内を充たしている気圧に、体を押し戻されるような違和感を覚えた。寝台の上で治療用の管をいくつも繋がれたエレーナが、未だ解け切らぬ魔法の封印の向こうから、かすかに微笑み掛けた。
「 ・・・エレーナ。」
崩れ落ちるごとく、傍らへ跪いて覗き込んだハヤトの面影を眼にするなり、彼女は瞳を潤ませた。再び見つめ合うことの許された、この地上に二粒きりの、水色の宝石であった。
「 可哀想に・・ やつれて。私のミーリュイ。」
「 ー!! ・・・・・ 」
伝え得る言葉が見付からないまま、寝台に縋って肩を震わせるのみの彼の髪を、エレーナは常と変わらぬ優しい掌でキャップ越しに撫でた。
「 お食事を摂っていらしてー ね?」
「 ・・・・。」
「 お願い。」
瞳を閉じて彼女の存在を深く確かめながら、ハヤトは首を横に繰り返し振ってみせた。
「 いい。・・・エレーナのそばに居る。」
彼女の掌から伝わる体温は、依然としてマネキンのパーツのように冷ややかであった。
「 生きててくれ。 頼むー !!」
見開いたハヤトの眼元に白い指先で そっと触れると、エレーナは切なげな微笑を浮かべた。
「 愛しいひとねー 。 愛しているわ。心から。」

 容態の推移を慎重に観察した後、3日後の朝を迎えて、エレーナのための個室が用意される事となった。病室は五階フロアの中央、レセプション・カウンターの真正面の部屋に決められた。酸素吸入器や各種の点滴薬とともにストレッチャーで運ばれて行く彼女の傍らに、ハヤトは付き添って移動した。大きなガラス窓が設けられた、採光の申し分ない、広くはないが清潔な病室であった。3名の看護師たちがエレーナを寝台へ移し終えて、医療機器の稼働状態を確認しているところに担当医師が訪れ、寝台周りの白いカーテンを引いて診察を始めた。
この間、ハヤトは窓辺に置かれた木製の折り畳み椅子に腰掛けて、惚けたように ぼんやりと景色を眺めて待ち続けていた。晴れ渡った極東の空に、この朝、雲はほとんど浮かんでいない。港湾に繋留中の幾艘もの船舶越しに見遥かせる対岸地域の街並が、今日の新しい陽射しを浴びて明るく煌めいている。短い夏を謳歌する落葉樹たちが、古くより人の世の足跡を留めて来た趣き深い都市の佇まいを、鮮やかな緑の濃淡で彩っていた。
「 ・・・・・。」
振り返ってみれば、眼にするのが数日振りとなる外界の風景に、ふと目の奥が痺れるほどの眩しさを感じ、彼は両手で瞼を擦った。ほのかに潮の湿り気を帯びた微風が、湾岸から昇る なだらかな傾斜を辿ってそよいで来る。しばし眼を閉じたまま、皮膚に触れる風の感触と陽射しの温もりをハヤトは感じてみた。
「 ー ・・・ 」
静かにカーテンが開かれた。慌ただしく立ち去ろうとした医師が、ハヤトを見遣ると声を掛けた。
「 朝食から流動食を始めます。介添えをしてあげて下さい。体は、なるだけ動かさないように。」
「 ・・・・・・ 」
無言のまま、彼は頷いてみせた。
程なくして、朝食のトレーが運ばれて来た。備え付けのクッションをエレーナの枕元に添えると、安全に摂食できる角度まで上体を起こさせて、看護師が尋ねた。
「 気分が悪くはないですか?」
「 ー 大丈夫。」
自ら心身の状態をゆっくりと確かめながら、彼女は微笑んでみせた。看護師は、どこかに未だ少女の面影が残る笑顔を浮かべて、エレーナの両手を そっと握った。
「 少しずつ、時間を掛けて食べてみて下さい。 何かあったら、直ぐに呼んで下さいね。」
「 ご親切に、どうもありがとう。」
看護師が退室して扉を閉めるのを見送って、エレーナは窓辺のハヤトに瞳を向けた。久し振りに、明るい陽射しを映して透ける彼女の瞳の薄水色と出逢い、彼は身じろぎも出来ぬまま見つめた。
「 ハヤト・・ 」
切なく指先を伸べ、口を開き掛けた彼女の言葉は、ハヤトには必要なかった。
「 ・・・ !!!」
椅子から転げ落ちて寝台へ寄ると、抱き寄せようと伸ばした両腕を、彼は懸命に留めた。そして枕に顔を近づけて、痛ましいほど躊躇いがちに唇を重ねた。可憐で優しい、彼の宝物の唇だった。
「 ・・・ミーリュイ ・・ 」
思うままに求められない歯痒さに震えながら、ハヤトは幾度も唇を重ねて、エレーナの温もりを繰り返し確かめた。


 手術後の最初の流動食は、ジャガイモとほうれん草の煮込みをすり潰したペーストと、コンソメスープとりんごジュースだった。 食べてみる、とエレーナが幾らか薄くなった手に取ったスプーンを、ハヤトは自分の手に掴み取った。
「 俺が食べさせてやる!」
「 ・・・ ??」
愛らしい口元をポカンと丸く開けたまま、彼女はハヤトの真剣な表情をしばらく見守った。トレーに添えられたナフキンで、エレーナの襟元を意外な器用さで手際よくカバーすると
「 食べたいやつを指差してみろ。」
やや冷めかけたペーストに大きな粒が混じっていないか、几帳面に確かめ始めた。
「 ー ・・ だめ・・ 」
有り難いにも関わらず、であるが、つい堪え切れず 背中の傷痕が痛いわ と、エレーナは愉し気な笑い声を漏らして両手で頬を支えた。
「 こら!? ー笑うなって。 怒るぞ。」
「 ごめんなさいー あまり手際が良くて・・・ 」
一口目のスープを口元へ運ぶと、タイミングを測りながら、ハヤトは微量ずつを適確に彼女に飲み込ませた。
「 妹が赤ん坊のころ、ケツの世話まで俺がしてやったんだ。食べさせるくらい、どうって事ない。」
「 まあ・・・ 。」
俄かに胸を締め付けられる想いに瞳を潤ませると、彼は伸び放題に放置した無精髭で埋もれた面差しを嶮しくしてみせた。
「 傷に障るから泣くなって。ーほんとに怒るぞ!?」
「 怒ってはいや・・ ??? 」
前髪の下に、額の裂けた未だ真新しい傷口をふと見出して、エレーナは指先を伸ばした。その手を留めさせ、ハヤトは次のペーストのスプーンを口元へ運んだ。スープより粘度の高い食品を、慎重に摂取させながら
「 何ともない。ーまだ俺に触るな。 後で風呂に入って来るから。」
彼女の容態を、スプーンを手にしたままで しばし見守った。口の中へ運ばれた食品をゆっくりと飲み込んでから、エレーナは大きな瞳で彼の眼を覗き込んだ。
「 お風呂が済んだら、触っても可い??」
「 ・・・・ ほれ。 とにかく食べろ。」
もう一口、ペーストを口に運びながら、ハヤトは口を丸く開いて、赤ん坊に摂食を促すかの仕草をしてみせた。
「 触っても大丈夫なように、念入りに洗ってくる。」

 襲撃以来、初めてエレーナの部屋に戻ると、扉の前には市警の立入禁止を示すロープが廻らされたままになっていた。合鍵を使って中に入ると、あの瞬間の状況が克明に維持されている。
「 ・・・・・・ 」
全ての窓が締め切られているのに気付くと、ハヤトはリビングの窓を開けた。馴染みのある港湾沿いの公園から晴れやかな潮風がわたり、室内にわだかまったままの重い空気をそよがせた。ごく久々に空腹の感覚を覚えて、彼は冷蔵庫を開けてみた。 色とりどりの野菜や豊富な食材が、秩序を保ち整然と保管されている。冷凍庫の方を開くと、こちらにも肉や海産物が蓄えられてあり、スペースの半分ほどは保存容器が占めていた。幾つか手に取ってみると、どれもハヤトの気に入った手料理で、調理した日付が几帳面に記されてある。必要があった時に待たせず提供できるよう、多めに作って常に準備してあるのだろう。
「 ・・・・。」
打ちのめされる想いに襲われて、彼は束の間 冷蔵庫の前で立ち尽くした。が、為すべき事が順次あるのを自らに言い聞かせて簡単に食べれそうな種類を選び、バスタブの湯の蛇口を解放した。湯が溜まるのを待つあいだ、温め直した惣菜をキッチンのテーブルで口に運びながら、ハヤトは理由も判らず止め処なく泣いた。嬉しくて、切なくて、悔しくて、心の底からの悲しみに身体が震えた。この世に産まれ落とされて以来、行方も判らぬ彷徨を生き抜くより他に意味を持ち得なかった自分という存在を待ち続けてくれる居場所が、紛れもなく、ここに暖かく実在しているのである。
「 ・・・あんたの作る料理は美味い。
でもー 独りで食うのは気に入らん!」
傍らに座って在るべきエレーナに向かって、彼は涙を拭いながら、精一杯の文句を呟いてみせたー 。

入浴して丁寧に髭を落とし、全身を念入りに洗い上げると、エレーナの指示通りに寝室のチェストの上から二段目の引き出しを開けた。
「 ・・・ ??」
ハヤト用のアンダーウエアが一式、綺麗に折りたたまれて引き出しを埋めていた。並びのクローゼットを開くと、エレーナの衣類よりも豊富に、彼用のシャツやボトムス、ジャケットなどが多様に揃えられてあった。彼が消息不明となるごとに、時候に合わせて集めてあったらしい。いずれもがハヤトの好みに適うデザインで、ジャストなサイズだった。差し当たって、彼は薄いカーキのカーゴパンツとインディゴのシャツを選んで身に纏った。
「 ー エレーナ・・・ 」
清々しくなった両腕で、彼女を深く抱き締める思いがした。だがむしろ、この場には居合わせない優しい腕に抱かれたのは、彼の方だっただろう。心地の好さに つい、数日振りで仰向けに身体をベッドへ投げ出して横たわった。自分の腕に抱かれている時の、エレーナの可憐な愛らしさが脳裏を過ぎるのが堪らなく切なく、うつ伏せてシーツに顔を埋めた時 猛烈な睡魔が彼を襲った。
「 ー くそっっ・・ 」
起き上がろうと もがいたものの、術もなく意識が遠のいて、ハヤトは眠りの底深くへと崩落した。


 この日、午後2時を廻った時分に、リヴィンスキーはエレーナの病室を訪れた。
容態の経過については担当医師から随時、報告を受けて把握していた。個室で面会が可能となったと聞き、急遽 時間を捻出して駆け付けたのであった。レセプションのカウンターで確認すると、担当らしい若い看護師が機敏に察して彼の対応に名乗り出て案内に立った。
「 さっき2回目のお食事を半分くらい召し上がって、お休みになっています。お変わりは無いですよ。」
静かにノックして扉を開くと、彼女はリヴィンスキーを室内へ導き入れた。仮眠しているエレーナの身辺機器の表示や接続状況を細かくチェックし終えると、頷いてみせながら会釈をし、看護師は退室して行った。
「 ・・・・・ 。」
備え付けの椅子を寝台の傍らへ寄せて腰を下ろし、彼はエレーナの寝顔を見つめた。開放された窓からそよぐ微風が、彼女の輪郭を柔らかく縁取っている金髪を揺らして過ぎる。長い髪を左耳の下で三つ編みに束ねられているせいもあってか、本来よりも幼なげに、心許無い印象を受けた。彼が初めてエレーナと言葉を交わしてから、もはや9年近い歳月が過ぎようとしていた。
( ー なぜ、貴女はいつも そんな風に・・・ )
ようやく粘膜らしい色合いを取り戻し始めた可憐な唇に、悠遠たる想いの丈を籠めて、彼は自分の唇を そっと重ねた。初めて触れる、彼女の唇だった。
「 ・・・・ 」
深い情の込められた愛撫を神経の何処かで感知したエレーナの唇が、心地好さげな微睡みの内に、彼の唇を求める微かな反応を示した。その、あまりの愛おしさと遣る瀬の無さに懸命に堪えつつ
ー 彼女の眠りを妨げぬよう、リヴィンスキーは震える唇を丁寧に離した。

 当時、すでに組織のビッグネームであったセルゲイ・クラシコフの挙動をマークし続ける中に、エレーナという一般女性の存在が浮上して来た。彼女を見知った時期と、彼がこの街を訪れる頻度が俄かに密になり始めた変容とが符合していた。エレーナはその時分、市街の目抜き通りを一筋隔てた通りの角に建つ、画廊に勤めていた。石畳みの古い舗道と調和した瀟洒な石造りの二階建てで、入り口横のウインドウには様々な絵画作品が飾られ、行き交う人々の目を楽しませていた。
彼女はレセプション兼、画廊オーナーの事務アシスタントであった。この雇い主に当る人物がセルゲイとは旧知の知古であった事が二人を出逢わせた発端となり、彼女を気に入ったセルゲイは頻繁に画廊を訪れていた。もっともセルゲイ以外にも、絵心の有る無しに関わらず、エレーナと話す口実を工夫しては飽きず通って来る男性客が少なくなかったのである。
あえて一般客を装い、情報の収集を試みるべく、リヴィンスキーが初めて画廊を訪れた日ー
初夏の訪れがそろそろ心待ちとなる、五月の半ばであった。趣き深い街並みに注ぐ陽射しは、いま少し、完全な雪解けを待つよう人々に悟す忍従の陰りを纏っていた。
重厚な扉を開くと、フラットな屋内の中央は屋根裏にまで吹き抜けて、外観以上の空間の広さを感じさせた。落ち着いた統一感のある間接照明で演出されたフロアの奥に、カウンターが控え目に設けられている。先客が3名、其々に鑑賞していた。絵心は元より、芸術の類いにおよそ親しみが無い。無性に場違いな居辛さを感じて、足を踏み入れてしまった事をリヴィンスキーは些か後悔した。やむなく努めて平静を装い、人物や風景の写実ではない、不可思議な構図が試みられていると思しき絵画の前で、ぼんやりと足を停めた。
( ・・ '抽象絵画' ?というやつかー )
背後で、ふとヒールの足音が軽やかに近付くのを耳にしたリヴィンスキーは、そちらを見遣った。ギャラリーの案内者らしい、二十代の女、と云うよりは女学生とでも云うべき純真な風情である。恵まれたプラチナブロンドを無造作に後ろでまとめ、白の開襟ブラウスと濃いグレーのタイトスーツで、化粧はごく淡かった。
「 ようこそー はじめてお越しでしょうか??」
「 ?・・・ええ。 はじめて。」
長身の彼を見上げた、人懐こい瞳の清らかな透明さに完全に不意を突かれ、リヴィンスキーは覚束ない言葉をエレーナへ返した。高めのヒールでも、ようやく彼の顎の高さ辺りから、彼女は薄水色の瞳で仰ぎ見た。
( 小柄だが・・ たしかに好い女だー。)
客観的な印象について言語へ変換し、彼は わざわざ 心の内の自分に呟いて聞かせた。
「 シュールレアリズムに興味をお持ちでして??」
「 ?? ・・ええ。 まあ。」
「 私も、デルヴォーにはとても興味がありますの。」
同じ嗜好の価値観を確かめ合う趣味の同好会員のごとく親しげに表情を煌めかせて、彼女は眼前に飾られた一幅の絵画を真剣に見つめた。
「 ・・・・・ 。」
絵画や作家に関する知識は皆無であって会話の継ぎようがなく、彼女と同様に絵画へと視線を移してみた。古代の神殿を思わせる暗い建築物の中で、白いドレスを纏った一人の金髪の女性が不思議なポーズで佇んでいる。その横顔の眼差しは、建物越しに見遙かす外の世界や上空へと注がれているように見受けられた。
「 ー これは、何という作品ですか ??」
絵画が意図しているテーマについて ふと純粋な興味が沸き、リヴィンスキーは彼女に訊ねた。
「 題名は『夜明け』です。1944年、世界大戦が終結する前年の作品ですね・・ 。」
「 あの女性は、貴女に少し似ていますね。」
「 ー ??」
何の気なし率直な印象を伝えた後で、彼は ばつの悪さに気付いて狼狽えた。まるで女を口説くかの台詞ではないか。
「 ー いや。 貴女の方が、ずっと綺麗なんだが・・・ 」
誤解を招かぬよう補足したにも関わらず、なぜか一層まじめに口説き文句となってしまった。エレーナは、困惑を隠せないでいる大柄な男の様子を傍らで見守った。そして、さながら 青空の高みより陽溜まりの小枝へと翼を憩わせた小鳥のごとき愛らしさで、 にっこり微笑んでみせた。
「 私なんて、とんでも在りません。」
言葉をつぐんだリヴィンスキーの瞳を覗き込むと、彼女は温かみの滲む声で応対をした。
「 でも、お世辞でも嬉しいですわ。 ー 誠実な方でいらっしゃるのね。」
「 ・・・ 貴女は、」
的外れな文言しか浮かばないにせよ、何かしらを返そうと決意して彼が口を開いた時、入口の扉が開いた。五月の切なげな微風が、俄かにフロア内へそよいだ。扉を開いた40代前半ほどの男はしばし、開いた手を留めたまま立ちはだかった。仕立ての良さそうな三つ揃えの濃紺のスーツを、堅苦しくもなく着こなした重厚な容姿は、申し分のない紳士振りであるー
セルゲイであった。
「 やあ、お嬢さん。」
エレーナが出迎えるのを待って扉から手を離すと、癖のない漆黒の前髪越しに、黒眼がちの大きな瞳で彼女の全身を不躾けに見渡した。
「 相変わらず仕事熱心で、化粧気が無いな。・・・しかし、充分に美しい。」
傍らへと歩み寄ったエレーナの ほっそりした腰に親密な所作で手を回すと、彼は緩やかな足取りで歩を進めた。
「 オーナーが二階でお待ちです。」
案内には応えずエレーナの左耳に顔を寄せ 一言二言、彼は何事かを小さく囁いてみせた。その瞬間、彼女の長い睫毛が騒ついて震えたように思えた。
「 ー少し、失礼します。どうぞ、ゆっくりご覧になっていて下さいね。」
レセプショニストの顔へ戻ろうと努めて微笑んでみせて、彼女は丁寧にリヴィンスキーへ会釈した。
「 ・・・・・ 」
面識はなくとも、独特の鋭利な嗅覚によってセルゲイは捜査官らしい体臭を嗅ぎ分けている。挨拶を交わすでもなく、印象的な眼差しを 冷厳とゆっくり投げ掛けながら、彼はリヴィンスキーの傍らを通り過ぎた。

ー 此処は、お前のようなペーペーが来るべき所では無いのだ。
俺の女に色目を使うな、クソ若造が! とっとと失せろ。

すれ違い様、セルゲイは僅かに歪めた口の端へ冷ややかな嘲笑を醸して、言語以上に鮮烈な杭をリヴィンスキーに撃ち込んでみせた。相手の心の在り処を容赦なく暴いて曝け出させ、掌握した後に意のままに操るー 謂わば、悪魔的な絶対性をこの男は天性に備えている。らせん階段を並んで昇りながら、彼は階下を顎で指し示し、エレーナに目配せをした。
「 あの男は、君に気があるようだ。」
「 ?? まさかー。今日はじめてお越しの方ですもの。」
「 ・・・・・ 」
腰に回した掌に力を込めて立ち止まらせると、逃れようのない黒曜石の瞳で彼女の視界を埋めた。
「 ほう?ー まんざらでも無いらしい。気に入らんな。」
白くふくよかな彼女の耳朶に口づけて、セルゲイは掠れがちに低く囁いた。
「 解っているね ・・私以外の男は、許さん。」

二人を見送るリヴィンスキーの眼には、天界より贄として貶められたエレーナが、あたかも魔王の座す暗黒の天幕の裡へと召喚されてゆく様に映った・・・

「 ー ちがうの・・ 」
夢の中で、エレーナが儚く何事かを訴えた。瞑った瞼が、切なげに震えている。無碍に覚醒させるのも憚られて、リヴィンスキーは そっと彼女の手を取って両手で包んだ。
「 ごめんなさいー 」
心拍が俄かに激しく乱れ始めたのを見兼ねて、彼はエレーナの名を穏やかな声で呼び掛けた。
「 エレーナ・・ 判りますか。 エレーナ? 」
「 ・・ あっっ。」
途端に呼吸を詰めて、彼女はリヴィンスキーの大きな掌を強く握り締めた。不意に大きく見開いた瞳は、耐え難い苦悩と緊張に潤んでいる。ゆっくりと彼女の手を握って、彼は再び呼んだ。
「 エレーナ 」
「 ?? ・・・ 」
しばし夢と現(うつつ)の狭間にたゆたい、エレーナは深い森を独り彷徨う少女の怯え切った瞳で彼を見上げた。
「 ・・・・ 。」
彼は決心をした。この瞬間、自ら忍耐を放棄して理性の箍(たが)を何処か遠くへ かなぐり棄てた。
「 可哀想に・・ 辛い思いばかりして 」
涙で濡れた白い頬を指先で拭いながら唇を重ねると、
「 ?? リヴィンー 」
握ったエレーナの手を離さずに、優しく、深く、求め続けた。
「 ・・私のギブンネームは?」
「 ー・・ ミハイル。」
「 ー必ず、幸せにします。妻になって下さい。」
彼の掌を握り返してみせると、エレーナは瞼を閉じた。その頬を、新たな涙が濡らして伝った。
「 どうぞ、もうー ・・・ どうか、思い切りになって。」
「 エレーナ・・」
引き締まった唇を震える指でたどり、彼女は続く言葉を遮った。
「 私は汚れた女です。 ・・いつか召されても、私の前では天の扉は開かないでしょう。
貴方はお名前の通り、本当に清らかで誠実な方ですもの。 相応しい方が必ずー 」
「 貴女以外など無いんだー エレーナ!」
もはや言葉が見つからず、腕の中へ抱き寄せる事の出来ぬもどかしさに堪え兼ねて、リヴィンスキーは再び、彼女の唇を激しく奪った。
「 ・・・・・・ 」
真摯な男の激情を拒まずに受け止めつつ手を延べて、彼女はリヴィンスキーの頬を優しく撫でた。その手を掴むと、彼はやや強引に自分の首へ縋らせた。
「 何も知らない娘の頃に、貴方とお逢い出来ていたら・・・ 」
エレーナの頬を唇で辿りながら、彼女の眼をリヴィンスキーは蒼過ぎる瞳で間近に見つめた。 
「 ー 何もなかったんです。 過去はすべて忘れれば良い。」 
手に取った彼女の指先に唇を押し当てようとした時、である。慌ただしい気配で、部屋の扉が無造作に開かれた。
「 ?! ーな・・ ??? 」
階段を駆け上って来たのか、息を切らし気味のハヤトが、扉の前で呆然と立ち尽くしている。
「 ーその手を・・ 離せっ!!」
全身を貫いて紅蓮に炎上する憎悪の衝動の只中で、どうにか声を発するよりも、ホルダーから取り出した銃口の照準をリヴィンスキーの額へ合わせる方が、よほど早かった。
「 ハヤトー!!」
咄嗟にエレーナは、懸命に首を横へ振って諌めようとした。彼女の仕草に反応したハヤトの瞳孔が、目に見えて過剰な収縮を見せた。
「 エレーナ。 ーまさか、こいつと!?」
「 彼女を疑うな!」
丁寧にエレーナの手を寝台へ戻し、リヴィンスキーは立ち上がった。早足に歩み寄ると、ハヤトの襟元を乱暴に掴んで扉を閉めるなり、正面から厳しい拳骨を喰らわせた。
「 ーっっ !!」
不意を突かれて体勢を崩した右腕を背後へ捻じ上げ、彼は銃を奪い取り、床へ靴先で蹴って滑らせた。後ろ手でハヤトを跪かせると、リヴィンスキーは強引に正面を向かせ、その眼に喰い入った。
「 お前はー 一度でも真剣に、彼女を愛した事があるのか!? 言ってみろっっ!!」
「 ・・・ 自分はどうなんだ!」
まんじりとも退かずに鋭く睨み返す眼差しを凝視したリヴィンスキーの横顔に、もはや極限に近いゲージの怒気が蒼白く燃えさかった。
「 何だと!? 俺は・・ !!!」
ここで、エレーナの容態を気遣うべき理性が手を差し伸べ、幸いにも、彼の顔面へ氷の礫を擦り付けて窘めてみせた。精神崩壊の水際で、リヴィンスキーは際どく、本来の職責たる公序の秩序の保安を纏い直した。
「 ・・・・・・ 」
掴んでいた手を離すと、努めて静かに無機的な口調でハヤトに告げた。
「 お前との関係に限らず、だ。 この10年近くも、彼女にやましい事は唯のひとつも無い。」
微動だに出来ずにいるエレーナの傍らへ戻ると、サイドテーブルの水差しから少量をグラスに注いだ。
「 負担を掛けさせてしまいましたねー 許して下さい。」
口元へグラスを運び微量ずつを飲ませながら、リヴィンスキーは彼女の美しいブロンドを優しく撫でた。
「 いつまででも、私は待ちます。 ・・どうか、くれぐれも身体を労わって下さい。」
立ち去り際、床に胡座を掻いたままのハヤトに、彼は警察官の顔で冷厳と念を押した。
「 もう一度言っておく。エレーナを傷つける事は、決して許さん。今後、軽はずみに動いて我々の捜査の邪魔をするなよー!!」
「 ・・・・・・ 」
彼が退室して行くと、エレーナはハヤトの名を呼んだ。
「 ハヤト。 ・・・驚かせてごめんなさい。」
「 ・・・・・・ 」
寝台へは背を向け、じっと座っているハヤトのインディゴシャツの背中からは、何ら反応が返って来ない。少し無理をして上体を起こしてみようとエレーナが身じろいだ時、診察用のカートを押した看護師2名が、定時の回診のため部屋の扉を開けた。
「 少しお休みになれました? 気分はいかがです?」
「 どうもありがとう。変わりないですわ。」
傷口のガーゼや点滴薬の補充と交換、心身機能と各測定値のチェックなど、細々とした手厚いルーティンが手際よく施されてゆく間にも、ハヤトの背中は動かない。
異変のない事を確認し終えると、看護師らは安堵で表情を明るくし、静かに退室して行った。
「 ・・・お顔が見たいわ。 ハヤト。ここへ来て、お願い。」
切ない声で、エレーナはハヤトの背中に話し掛けた。
「 ・・・・・ 」
ぐらり と揺れて立ち上がった彼は、エレーナが出逢った事のない面差しを浮かべていた。
ようやく寝台の枕元へ縋るように腰を下ろすと、彼は声を絞り出してエレーナを見上げた。
「 エレーナ・・ あいつが、 ー好きなのか??」
大好きな母親へ悲しい報告をし切れず、途中から泣きべそを掻き出す少年のように、ハヤトは見る間に顔を歪めて、涙を ぽろぽろ こぼした。
「 ハヤトー!!」
身体を起こして治療服の前をはだけると、エレーナは胸の中深くへ彼の頬を懸命に抱き寄せた。
「 あいつと一緒になった方が、幸せなんだろうか・・ 」
「 いいえ。いいえ。ハヤトー 」
首を横に振りながら、彼女はようやく触れ得たマホガニーの愛おしい髪に口づけた。
「 貴方を失くすくらいなら、その前に死ぬわ。」
「 ・・・・・・ 」
息の停まるほどに懐かしい素肌の温もりと柔らかさに埋もれて、彼は深い溜息を漏らした。
「 あんたが眼を覚さなくて、 ・・・妹に祈ってくれるように頼んだ。
どうしても、あんたを失くしたくなかったのに、俺にはそんな事しか出来なかったんだー 」
「 いいえ。 ずっと、ずっとー あの暗い廊下で、一緒に居てくれたわ。」
「 ・・??? 」
涙で煌めく瞳で、ハヤトは見つめた。その頬を優しい指先で拭って、エレーナは微笑んでみせた。
「 素敵な声で、子守唄を歌ってくれたでしょう?? とても上手だったもの。」
「 ー聴こえてたのか??」

ハヤト。
二つの魂が繋がれる事を、私は信じるわ。貴方が、私をもう一度生かしてくれたのよ。
魂も、身体も、離れる事はできない。貴方が居てくれなければ、私は生きられないの。

「 エレーナ・・ 好きだ。
あんたじゃないと駄目なんだ。 エレーナ・・・ 」

この惑星に許された美しき地上に時を同じくして、様々な国境と民族の営みの裡に、幾多の恋人たちが彼らと同様、抱擁の悦びと儚さに胸を傷めている事であろう。
ほぼ同じ容量の憎悪や憤りも、人の中に渦巻き続ける活力を失速させる事はなく、連綿たるか、それとも終わりを持つかー
奇跡の大気圏に護られ、青きガイアは今日の日も、その自転を躊躇う事はない。








































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登場人物紹介

水樹 史也( みずき ふみや)

広告制作会社勤務のイラストレーター。26才。心療内科カウンセラー 佐野 悠介との出逢いがきっかけとなり、かつて深刻であった精神状態から快方へ導かれて以来、悠介へ深い信頼を寄せている。

並外れて繊細な神経に恵まれた一方で、一般的な常識にとらわれない大胆な行動力をも兼ね備えている。

佐野家隣家の牡猫コタロウ( 水樹は一方的にヴァンプと呼ぶ )は親友である。

コタロウ

佐野親娘が暮らすマンションの隣人・黒田さんが飼っている去勢済の牡猫。

遠出はしないが、何故か佐野家へだけはベランダを器用に伝って頻繁に訪ねて来る。穏やかで人なつこい性格で、ツンデレのツン要素はあまり持ち併せていないらしい。

大柄な水樹 史也が繰り広げるスキンシップを実のところは迷惑に感じている、かどうかは不明である。

佐野 成未( さの なるみ )

大手通信販売会社に勤務する27才。きょうだいは無く、臨床心理士の父・悠介と二人暮らし。

十代で母を亡くしたせいもあってか、日常の生活者として揺るぎのない堅実さを備えたしっかり者である。

職場の同僚で後輩にあたる 中村 宏太 に異性として好意を感じているが、適当な距離から見守っていたいとひそかに願っている。

亡くなった母の実姉で、関西在住の叔母・川瀬 愛子 の無敵な明るさも好き。


佐野 悠介( さの  ゆうすけ )

臨床心理士を務める成未の父親。ある意味、純粋な少年時代のひたむきな向学心を持ち続けている。生来の気質としては朗らかで、性善説を信念とする。豪放と呼んでも可いマイペースと他人の反応をあまり意に介さない爽やかさが、弱点でもあり強みでもある。早世した妻の美穂をこよなく愛し、誰よりも傷みを背負っているが、忘れ形見の成未にも敢えて語った事はない。彼の血の通い合った心療の姿勢が、苦しむ者の拠り所となる。

中村 宏太( なかむら  こうた )

成未の後輩にあたる同僚の青年。人間関係に於ける周旋などに、ややもすれば誤解を招くほど不器用な誠実さと真面目さが長所とも謂える。その一本気さゆえ逆境に弱そうに見られがちであるが、外見とは裏腹の不屈な意志の勁さを秘めてもいる。誰にも明かさないが、片親の家庭に育ち自身の努力によって現職を掴んだ不遇な経歴こそが、未来を生きる糧となるという誇りと信念を強く抱く。

その一方、他人知れず成未に対する深い愛情を日々確かめてもいる。


記憶を持たない謎の男

事故なのか、傷害の被害者であるのか、瀕死の重傷を負って忽然と現れ、救急病院へ収容される。

怪我の後遺症によるものなのか、彼の「記憶」には深刻な混沌が生じていた。

唯一の所持品である色褪せた挿絵らしい紙の切れ端と、彼の脳内から無作為に出現するワードを手掛かりに、悠介と里中は心療にあたろうとする。

ところが正体不明者が次々と現れ、彼の身辺はしだいに不条理な危険に晒されてゆく。並外れた体力と身体能力を備えている事実に関しては、疑う余地がない。

里中 睦( さとなか  あつし )

悠介の同窓生で個人の臨床心理クリニックを経営する。佐野家とは美穂の在名中より親しい交流を持ち続けている。学生時代に培われた純粋な理念と悠介との信頼関係を自身の宝としており、悠介に臨床治療の片腕を託してもいる。成未にとっては、心の内を明かせる大切な存在である。

明朗な印象で独特の愛嬌の豊かさが魅力だが、外見とは裏腹のこまやかで緻密な神経を持ち合わせている。

澤村 泰弘( さわむら やすひろ )

悠介らの母校に附属する大学病院の心療内科で治療にあたる若手医師。緻密な頭脳と臨床医師としての適性から、周囲に将来を嘱望されている。公にはされていないが、不幸な幼年期に他家へ養子に迎えられた生い立ちを持つ。

心療を目指したきっかけは自らが幼い頃に負い、癒えることのない心の傷痕にある。少年時代に奏法を学んだヴァイオリンを愛し、多忙な中に於いても一人奏でて過ごす時間を大切にしている。

津久井 慎司( つくい  しんじ )

佐野親娘が居住する地域を所轄する警察の刑事で巡査長。謎の男の身元や負傷した経緯などが究明されないままの現状に違和感が拭えず、真相を突きとめようとする。微塵な情報を見逃さない、物的な手掛かりに基づく公正な分析を規範とすべく自らを律する一方、現場の人間に対する直感的な印象や気付きにも重きを置く。真摯な責任感と誇りが、職務に取り組む信条である。学生時代より精進している空手道の段位は黒帯で三段。

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