第7話  平行調

文字数 11,946文字

 翌朝、綾嶺大学病院別館二号棟三階301号室内において、澤村の述べた内容と相違なく二つの盗聴器が発見され、担当署員によって回収された。個室病室内で一時間以内に限る、との条件で病院側の了解を取りつけ、所轄警備課巡査長の 長橋 将臣は 同僚の久保とともに牧野の聴き取りにあたった。
昨夜まで終日、断続的に雨を降らせ続けた低気圧が海上へ去り、頭上には数日ぶりの晴天が澄み渡っている。生け垣なのか、花壇が設えられてあるのか、花のほのかな香りが、開け放した窓から時折り微風にそよいだ。通信関係の専門技官二名が調査する間、窓際の椅子に腰掛けて、牧野はただぼんやりと外を眺めていた。美しく晴れ渡る空の下で、この日も変わらず、巨大都市の緻密な営みは刻々と繰り広げられつつある。
「 牧野 和智さん、ですね?」
対面して座ると、長橋は背筋を正しながら訊いた。
「 ・・・ はい。」
「 住所と生年月日を教えてください。」
逆光を背負う形で、やや翳った表情の内より牧野は強い視線を投げ掛けた。
「 ・・・思い出せません。」
「 しかし 」
長橋の方も、視線を逸らす気は毛頭も無いようである。
「 澤村さんが弟さんであることは、解る訳ですよね? 」
「 初めは解りませんでした。」
「 ほうー?」
長橋は、その引き締まった口元に微かながら苦笑をにじませた。
「 では、弟さんであると気付いたのは何時、どうしてですか?」
「 ・・・・・・・ 」
左腕を窓枠に預けて頬杖を突くと、牧野は外界へゆっくりと視線を戻した。機能的に言うならば、ほぼ壊滅的に破壊されたままである彼の精神の真ん中あたりで、この時に唯一、実感を伴い得た感覚は『 なにか膨大な虚無 』のみであった。仮に、この窓が充分な高さであるとしたなら、即座に飛び降りてすべてを終わらせれば、もっとも面倒がないに違いない ー 。
頭部外傷の後遺症から、折りに触れて痺れを感じる左手を、明るい五月の陽射しに透かしてみた。
( ヒロ・・・ )
幼い時分と変わらない、弟の素直で柔らかな頭髪の感触を、彼は指先に耐えがたく懐かしく感じた。
   何と引き換えてでも、護り抜いてやらねばならない
「 牧野さん? 」
あきらかに語気を鋭くした長橋と、窓際の牧野を、手元の手帳から目を上げて久保は見較べた。
「 佐野先生が初めて来た日に、蝶が飛んでいるのを見て 」
「 蝶ー ??」
「 急に弟の事を思い出して、澤村先生が泰弘だと解りました。」
「 ですから。 それは、何故なんですか?」
頬杖を突いたまま長橋を見遣ると、牧野は低く呟いた。
「 二人きりの・・・ 兄弟ですから。」
「 ・・・・・・・ 」
その視線は牧野を捉えたままに、長橋は上着の内ポケットから手帳とペンを取り出した。
「 では、質問の仕方を少し変えてみましょう。」
彼は立ち上がり、窓辺に近寄った。両面が白紙のページを開くと、
「 入院されてから思い出した事と、憶えている事を書いてみてください。」
ペンを添えて牧野の眼前に差し出した。
「 ・・・・ はい。」
受け取った手元を見て、長橋はいくぶん意外そうな声を発した。
「 利き手は左、ですかー 」
何気なく左にペンと右に手帳を持った自らの手を、牧野は改めて見遣った。
「 そうです。」

子どもの頃、親から暴力を受けていた。
弟と二人でいたが、途中で弟はどこかへ連れて行かれた。
海の近くで暮らしていた。
人がたくさん集まっている所にいた。
格闘のような訓練をしていた。
大きくて真っ暗な所に閉じ込められた。
暴力を受け、死んでしまうと感じた。

牧野が書き終えて戻した内容を黙読して、長橋は手帳をしまった。
「 わかりましたー ご協力ありがとうございます。」
着席はせず、窓枠を背に牧野と対面すると、彼は異なる質問を切り出した。
「 回収した盗聴器は小型で、比較的目立ちにくい物ですが、なぜ盗聴器であると思いましたか?」
「 わかりませんが・・・ なにか、危険に感じました。」
「 では、設置されている事にいつ気付きましたか?」
室内の方へ視線を投げ、しばし沈黙した後に牧野は答えた。
「 二十日くらい前、夜中に看護師が取り付けていくのを見ました。」
「 看護師がー ??」
久保が、鋭い声を上げた。
「 新城という看護師です。」
「 ・・・・・・・ 」
手帳に挟んであった茶封筒を、彼は腕を伸ばして長橋へ渡した。封筒に折り込まれていた一枚の紙片を丁寧に広げて牧野に持たせると、長橋は確認を依頼した。
「 この写真の男と名刺の名前で、何か思い出す事がないか、よく見てください。」
「 ・・・・・・・ 」
見つめる表情の機微を、二名の峻烈な警察官は瞬がずに見守っているが、牧野の心理は読み取れない。
「 ・・・・ 無いです。」
「 ー わかりました。」
紙片を封筒に戻し、そのまま長橋は久保へ手渡した。
「 澤村さんは、問題となる注射器と凶器のナイフを、この部屋から持ち出していないと説明されています。」
牧野の正面に椅子を引き寄せて深く腰を掛け、彼は質問を続けた。
「 貴方が知っている事を教えてください。」
「 ・・・・・・ 」
眼鏡のレンズ越しに、思いのほか黒目勝ちらしい長橋の目元を眺めながら、牧野は答えた。
「 泰弘が部屋を出た後、怖くなって窓から外へ投げて捨てました。」
「 それは、」
長橋は、指を伸ばして指し示してみせた。
「 この窓、の事ですか?」
「 そうです。」
窓に駆け寄った久保と並んで立ち、上体を大きく迫り出して階下を見下ろすと
「 どの方向へ投げました?」
彼は鋭く問い掛けた。やや気怠そうに立ち上がり、窓の外を見遥かすと
「 向こうへ注射器、反対側へ、ナイフを投げました。」
己の立ち位置を中心に置いて、牧野は左と右を順番に示した。長橋と久保が目で追う階下には、関係業者専用の駐車場と、外壁沿いに病院敷地の境界を敷く常緑樹の豊かな植込みが広がっている。
「 注射器とナイフの大きさは?」
「 注射器はー 10センチくらい、 ナイフは20センチくらいでした。」
記憶を手繰りながら指先を伸ばしてみて、推定される長さを彼は答えた。
「 ナイフの形状は?」
「 部屋が暗く・・・ すぐに棄てたので、解りません。」
窓下には歓談用のラウンジから続く奥行き約3メートルのバルコニーが設けられてある。取り囲むコンクリートの外壁は高さ1.3メートルほどで、ここを足場にして窓から侵入する方法は可能かと思われた。
「 侵入者の顔を見ましたか?」
「 いいえ。 ー 目しか見えない、黒いマスクを被っていた、と思います。」
「 背格好は?」
「 頭ひとつくらいは高い、自分より体格の大きな男でした。」
「 そのような相手に、よく立ち向かえましたね?」
席に戻ると、疲労を感じたのか、牧野は彫りの深い瞼を重げに閉じた。
「 ・・・・・ 夢中でした。 どう動いたのか、よく憶えていません。」

ひとまず初回の聴き取りを終え、牧野が証言した遺留品の収拾確認に向かいながら、長橋は問い掛けた。
「 久保さん 」
「 何だ。」
「 あの男は、どうです。」
作業用の手袋を上着のポケットから取り出し、久保は前方を見据えたまま苦々しい笑みを浮かべてみせた。
「 なかなかに ー 一筋縄では行きそうにない男だな。」
久保は、警察学校在学中より長橋の二年上にあたる。その沈着さや、秀でた判断能力は、常に長橋が尊んで指標とする拠り所であり、長橋は彼を慕って警備課への配属を希望した。
「 あくまで、俺の推測に過ぎんが 」
「 ええ。」
「 使い勝手の良い処で、深谷が長年飼い殺していやがった ー おそらくは其の辺りだろう。」
「 なるほど ー 。」
業者用の通用扉を開き、駐車場に足を踏み入れた二名の視界を、想定以上にまばゆい日照が照らしつけた。民間的には、久々の快晴のもと、そろそろ昼食時を迎えようとする頃合いである。
長橋と久保は二手に分かれると、植込みとその周囲を外塀沿いに探索し始めた。


 五月最後の土曜を迎えていた。開廟の歴史を江戸時代中期まで遡ることのできる、都内城南地域に根差したささやかな寺院に於いて、この日、佐野家の回忌法要が営まれた。
大学時代の恩師である向井教授と同窓の里中、故美穂の実姉 川瀬 愛子夫妻、悠介の長兄で実家の長である和郎が参列した。美穂が亡くなった折、納骨については意見がいくつか出された。大阪府箕面市にある美穂らの実家 白河家の墓、あるいは悠介の実家である栃木県内の佐野家の墓に、 ーなど。
しかし、日常的に墓参りに訪れやすい墓所であるという唯一の理由から、悠介は自宅マンションから最も近い寺院を選んで墓地の永代使用権を購入した。無論、実家で継承して来た仏教の宗派なども、選択の条件には入っていない。定刻の午前10時から住職による読経と講話、参列者による焼香など、行事は沈黙のうちに淡々と執り行われた。正午を迎える前に十三回忌の法要は滞りなく終了して、一同は礼服のまま、寺院近くの割烹料理店へ会食のために徒歩で移動した。寺院正面から市街地へつながる道は、ごくなだらかな勾配で降っており、参道と呼び準わせるほどの距離でもない。着付けない黒のワンピースの裾が長過ぎるように感じて、成未は徒歩の速度を意識して遅めた。
「 美ぃちゃんに良う似て来たなあ。」
傍を歩いていた叔母の愛子が、万感を込めた口調で優しく呟くと、成未の肩を抱いて頬を寄せた。
「 お母さんと一緒で、頑張り屋さんやもんな、成未ちゃんも 」
「 ・・・・ うん。」
自らも叔母の背に腕を交差させながら、成未は微笑んでみせたが、大粒の涙が頬を伝った。

 料理店二階の座敷に入ると、佐野親娘を中心に長方形の座卓を囲んで、参列者たちは適宜、位置を選んで対座し終えた。卓上には、あらかじめ懐石料理の一端と数種類の飲料が並べられている。
「 本日は・・・・ お忙しい中、故人の法要にご参列頂きまして 」
悠介は、不意に口ごもった。
( 悠ちゃん、 そんなに緊張すると心臓に良くないから ー )
気遣う美穂の声が、懐かしく耳元で囁いてくれた気がした。途端に、身体の中心から嗚咽が堰を切りそうになるのを、彼はうつむいて懸命に堪えた。
「 ・・・ す、すみません。」
「 無礼講でいきましょうや、 佐野さん 」
美穂の義兄にあたる 川瀬 博 が、努めて明るい声を掛けた。
「 内輪の席やさかい、そんななにも、なあ?」
妻の愛子にも促し、ともに身軽に席をまわって各自のグラスにビールを注ぎながら、彼は親しみ深い微笑を浮かべた。
「 ありがとうございます。」
改めて、深々と頭を垂れて礼を述べると、悠介は参加者たちへ会食を勧めた。
「 ・・・・・・ 」
なかば儀式的に、誂えられた料理を口へ運びながら、成未の脳裏には忘却しがたい記憶の断片が鮮明に浮かび上がっている。母が倒れた、との急報を受けて駆け付けたあの日、病室に足を踏み入れた際はじめに目に映った、悠介の後ろ姿であった。母の横たわった寝台脇の椅子にのみ辛うじて自らの存在を委ね、彼はうずくまっていた。その背中に、父の姿は無かった。成未の見知らぬ、40代前半の男性しか居なかった。
「 厄介かけて、済まねえなあ。 成未ちゃん 」
「 えっ ??」
傍らに座っている悠介の兄の和郎が、柔和な人懐こい眼差しで成未の顔を覗き込んだ。
「 こいつはよ。 まぁず気い利かねえ性質(たち)だから。」
兄とは言え一回り近く年上であって、二人の妹たちを挟んで末っ子の悠介は、彼に於いてはむしろ我が子に近い存在であるらしかった。
「 人間は悪くねぇんだがな 」
「 ・・・・・・・ 」
独酌で黙々と呑んでいる悠介のグラスを大きな手で留めると、
「 そんぐらいで止めとけ、このでれすけが。 悪酔いすっぞ?」
和郎は自ら一気に飲み干して、卓上に伏せて置いた。
「 うん・・・ 佐野はあんまり強い方じゃないからな。」
向井が、常と変わらぬ温厚な口調で言葉を添えた。
「 先生、こいつね 」
「 ええ。」
まず失礼して、と、正座していた膝を大きく崩して座りなれた胡座を組み直すと
「 故郷(くに)へ帰って、坊主になる つったんさ。 美穂ちゃん亡くなったとき。」
和郎は、向井と自らのグラスにビールを注ぎ足した。
「 そうなんですね。」
向井も左の膝を立てて背筋を伸ばし、和郎と対座し直した。
「 したっけ、成未ちゃんどうすんの って聞いたら、 大阪の川瀬さんに預ける とか言ってさ 」
よく日に焼けた大造りな顔を、彼は ごしごし と掌で擦りあげた。
「 ごしゃっぺ言ってんじゃねえ て、二つばっか、はっ倒してやったっけ。」
「 ・・・・・・ 」
うつむいたままの父の横顔を、つい成未は見遣った。叔父の口から初めて聞く、意外な話であった。思えば、美穂が急逝して以来、その死について親娘で深く話した機会が一度もなかった。
母の存在が決して甦らないという、逃れようのない絶望と、成未は未だに向き合えていない。
彼女はおそらく、美穂よりも悠介の気性を遺伝子により多く受け継いでいる。五感の無意識な反応であるとか、物事を考察する際の視点など、折りに触れて自分が父親似であると感じて来た。彼の思考経路がある程度、自らに置き換えて想像できるだけに、微妙な苛立ちや反発を感じてしまうのが、父との生活において常であった。
成未の精神の核を成す場所には、自分ですら認識できないままに、深淵なよどみが形成されている。応急措置のみでしのぎ続ける傷痕から、重い比重を持つ慟哭の乾留液が、音立てず一雫ずつ滴り落ちて、いつしか漆黒の水面を湛えた。その、きわめて複雑に化学変化を遂げた液体の正体は
  父はなぜ、職業人として、
  苦しんでいたお母さんの心を救ってあげられなかったのかー ??
と云う、真摯な疑問であり、憎しみの近くにある怒りの感情であった。無論、母の死因は様々な要因が影響し合って偶発された、最も不幸な結末に過ぎない。当時、母がカウンセリングを通じ心を痛めていた女子生徒が遺体で発見された件についても、自殺と他殺の両面から捜査が行われたものの、真相解明には至っていない。
「 こんど夏休みに、いっぺん二人で遊びに来いな。」
愛子が、佐野親娘へ朗らかな声を掛けた。美穂より4つ年上の生粋の関西人であり、楽天的で芯の強い性質は、この姉妹によく似通っている。悠介との結婚を妹から相談された際、東京に定住する事になるなら考え直してほしい、と難色を示したほど仲が良かった。
「 悠介さん、ほんまに色々・・ すんませんでしたな。」
少し改まって悠介に謝意を伝えようとして、彼女は涙ぐんで言葉に詰まった。
「 もう、止めときいや。 泣いたりせんとき、て。」
苦笑を浮かべてたしなめてみせると、傍らの博が引き取って続けた。
「 ほんまに、大事にしてくれてな。 美穂ちゃんは世界一、幸せやったと思うで。」
言いながら、自らも掌で頬をつたう涙を拭った。
「 いえ・・・ いいえ。」

 会食の後、配送されたタクシーでそれぞれが帰途に着いた。里中は親娘と同乗して、ともに佐野家へ向かった。予定していた訳ではなかったが、悠介の様子を気遣った向井の意向もあり、佐野家を訪れることにした。成未には心情を打ち明けない悠介の習性も把握しているだけに、このまま彼を一人にする気になれなかったのである。
マンションの外階段を登る途中から、 ぷうん とコーヒーの香ばしい香りが漂って来た。二階の共用通路にたどり着くと、案の定、帰宅を待っていた水樹が、部屋の前で3名を迎えた。ダメージジーンズに五分丈のプリントカットソー、素足にサンダル履きという、彼的普段着のマストスタイルである。大柄な背中を手摺りへ持て余し気味にもたせ掛け、両手をポケットに突っ込んで体の均衡をとっていたが
「 おかえりなさい。」
右手だけを引っ張り出して、胸元で ひらひら 掌を振ってみせた。相変わらずの前髪で表情の約半分は判読しづらいが、口元は微笑んでいる。
「 なに。 史くん、どうした?」
反射的に右手を振って返しながら、悠介の顔にもつい、つられて笑みが浮かんだ。
「 今日が、先生の奥さんの命日だって聞いてたので。」
「 えっー ? 俺、そんな事しゃべったっけ ?」
水樹をともに誘って、悠介は玄関に入った。
「 いや、呑んでる時たまたま聞いただけです。」
里中と水樹に寛ぐよう勧めて靴を脱ぐなり
「 すまんー。 先に、ちょっとシャワーさせてもらって来る。」
礼服の黒いネクタイを緩めながら、悠介は風呂場へ向かった。勝手知ったる、佐野家のリビングに腰を下ろして、里中と水樹はソファを背に、各自の定位置に落ち着いた。
「 お・・・? 今日は居ないね、でっかいネコちゃん。」
言われて室内を見回してみて、やはりダイニングテーブルの定位置におさまった成未は、微笑んでみせた。
「 ほんと、来てませんね。」
幼い頃より親交が頻繁であった経緯もあり、成未にとって里中の存在は掛け替えのない拠りどころであった。悠介においては、より一層、切実であるに違いない。
「 デザインの仕事、忙しいんだって?」
よっこらしょ、と胡座を掻きながら、里中は上体と両腕をゆっくり伸ばした。
「 あ。 俺、天才なんで。」
いつの頃からか、未許可のまま持ち込まれた彼専用のマグカップでコーヒーをすすりながら、水樹は何の気無しに言い捨てた。
「 成未ちゃん、 聞いた?」
いったん水樹の顔をしげしげと覗き込んでから、
「 なんて言うかー なかなか無敵な感じ、出してくるね。この青年は 」
ほんと面白いわ、と里中は快活に笑った。
ほどなくジャージにTシャツで、濡れた髪をタオルで拭き拭き戻ってくると
「 なんかー いつもの事だが、色々とすまん。」
ささやかな仏壇の傍ら、長方形のローテーブルの隅の、いつもの場所に悠介は腰を落ち着けた。
「 最近、近所にお惣菜屋さん見つけまして 」
ソファに置いたエコバッグから、幾種類ものパック詰めされた惣菜を次々と取り出して、水樹はテーブルの上に所狭しと並べて開蓋した。
「 じいちゃん、ばあちゃんやってて、めっちゃ美味いんす。」
恒例の男子会が始まれば用無しなので、成未はひとまず着替える事にした。自室の窓を開くと、密集した住宅街の果てに拡がる晴れわたった空が、既にほんの少し暮れかかる気配を覗かせている。
使い慣れない礼式用のバッグから中身を取り出して、ふと携帯を手に取った。総務部の三嶋主任の声を聞きたく感じて、発信してみた。
「 はぁい? 成ちゃんー ?」
いつも通りの、彼女の毅然とした声が応えてくれた。
「 お休みの日にすみません。 おかげ様で、母の法要終わりましたー。」
「 そうかー ご苦労様。疲れたでしょう。」
入社時の新人研修で指導を受けて以来、彼女には不思議と公私にわたって話がしやすく、社会人として憧れる存在でもあった。
「 これで一区切りになるのかな?」
「 そうですね・・ 」
「 成ちゃん立派に頑張ってるのは、きっと、お母様が一番ご存知だと思うよ。」
聡明な三嶋の眼差しが、視覚には見えないが、電話器の向こうから力強く伝わって来た。
「 ありがとうございますー 」

 白米と有り合わせのスープの用意だけして、おかずは冷蔵のストックと、男子会の惣菜から少し拝借して、早めに夕飯をすませる事にした。業務さながらに黙々と作業をすすめ、日没ごろには食事を終えた。コーヒーカップを両手で持ったまま、 そろそろ入浴しようかー 成未は、ぼんやり座っていた。
「 ・・・ ん?」
テーブルに置いた携帯に、着信が表示された。 同僚の 中村 宏太からであった。
( あれ、きょう休出だったっけー ??)
「 中村くん、なんかあった ?」
中村の、やや改まった声が返ってきた。
「 お邪魔してすみませんー いま、大丈夫でした?」
「 大丈夫だよ、ぜんぜん 」
「 今日、法要をされると聞いてて 」
「 うん、終わったよ。」
リビングからの話し声が被って聞き取り辛いので、成未はベランダへ移動してみた。見上げた正面に、昇り始めた銀白の月が澄みきって輝いている。 清らか という言葉を視覚化するなら、ちょうどこういう感じなんだ、と思えた。
「 いまベランダ出たらね 」
「 ええ。」
「 満月なのかなー お月様すごくきれいだよ。 中村くんの所からも見える?」
ほんとですか、見てみますー
素直に反応して、慌ただしく室内を移動する気配が伝わって来る。
ああ、良い人ー 日々の就業の中で折りに触れて感じる、心の芯を優しい両手で ほんわり 覆ってくれる、ちょうど良い心地よさを今も感じた。
「 本当ですね。きれいですね。」
別に用件があった訳じゃ無いんですが・・・ 極まりが悪そうに少しためらって
「 親父が9年前に交通事故で死んでるものですから 」
中村は初めて打ち明けた。
「 そうだったの・・ 」
応えた瞬間に、話題の脈絡なく涙が堰を切ってあふれ、成未は狼狽えた。
「 ? 大丈夫ですか??」
「 ご・・ ごめんね、中村くん。 知らなくてごめんね。」
「 疲れてるところへ、済みませんでしたー 。」
「 全然、そんなことないよ。 ・・・ 中村くん?」
「 はい?」
成未は瞳を閉じて、言葉に心を込めた。本当は、彼の目を見て伝えたかった。
「 いつも気を配ってくれて、本当に、どうもありがとう。」
「 えっ ー ・・・ 」
なにか言い淀んだのか、中村はひとつ息を吸い込んで言葉を区切った後に、改めて続けた。
「 明日また、電話させてもらっても可いですかー ?」
成未は、頷きながら答えた。
「 ありがとう。何時でもいいよ。」

 室内へ戻ると、男子たちの状況が変化していた。珍しく、悠介がソファで仮眠してしまったらしい。テーブルの上と周辺を、意外な手際の良さで水樹が片付けている。トレーにまとめたグラスと食器をシンクへ運びながら、里中が小さめに声をかけた。
「 成未ちゃん、ごめんね。布団掛けてやってもらえる?」
悠介の寝室から肌掛け布団を抱えて来ると、水樹が甲斐がいしく食器類を洗っている。帰り支度を終えた里中が玄関へ向かうのを、成未は追いかけた。
「 お世話かけて、すみませんでした。」
つぶらな眼差しを成未へ向けると、里中は、その眉間に不似合いな翳りを浮かべてみせた。
「 たぶん言ってないんだと思うけど 」
「 えっ? なんですかー ?」
「 あいつ、持病あるんだよ。不整脈の 」
彼の推察する通り、成未にとっては寝耳に水の情報である。
「 申し訳ないんだけど、気を付けといてもらえるかな?」
「 ー はい。」
「 ちょっと・・・ 落ち込み方がね。良くないんでね、いま 」
「 ・・・・・・ 」
「 なんかあったら、何時でも電話して。」
「 ありがとうございます。」
去り際には、彼ならではの明朗な笑顔を成未に温かく添えて、里中は帰宅して行った。

 思い掛けなく追加された荷重を引きずってダイニングへ戻ると、こちらも珍しく、その長い左足を右膝に組み乗せて、水樹が腰掛けていた。
「 成未さん 」
「 んっっ ?」
なにか一どきに、身体中に疲労を重く感じながら、成未は差し向かいに腰をおろした。
「 いつまで、先生のせいにしておくんです ?」
すっかり冷え切ったコーヒーを一口すすって、彼女はカップを置いた。
「 いったい何のこと??」
「 仕事にかまけて、先生がケアしてあげなかったから 」
鍵盤楽器の打鍵に似た、滑らかな動きをテーブル上の右手の指先に施しながら
「 お母さんが助からなかったって。ずっと先生のせいにして来たじゃないですか。」
その前髪越しに、彼は成未を見据えて言い放った。
「 な・・ なんで!?」
堪えがたい憤りに、彼女はほとんど、神経の中枢に眩暈を覚えた。
「 そんな事あなたに ー なにも判るわけが無いじゃない!」
くすり と、口の端を上げて微かに笑みを浮かべると、水樹は、胸の前で両手を組み合わせた。
「 いいえ。とっくのとうに知ってます。」
「 な ・・・??」
「 成未さんのことは詳しい。」
「 ・・・・・・ 」
多次元へ無軌道に飛躍しうる、この青年に特有の思考の飛躍癖に成未は免疫を持ってはいる。脳内の頂点まで駆け巡った血流が、反動で一気に下垂して行くのを感じると、今度は馬鹿ばかしさが込み上げてきた。自室へ行こう、自らをなだめて立ち上がろうとした時
「 ずっと愛してましたから。 貴方のことを、俺は 」
テーブルに両肘を突いて、水樹は上体を乗り出した。
「 ??? ・・・・・ 」
「 あの、くそ真面目ぽい若手サラリーマンくんのことも、解ってますとも。」
成未は、確実に気分が悪くなりそうに感じた。いずれにせよ確かに、常軌を逸した直感力の鋭利さにおいて、彼は類い稀な才能に恵まれているらしい。
「 どうってこと無い。そんなのは 」
成未の前まで歩き、しゃがみ込んで膝を抱えると、水樹は正面から顔を見上げた。
「 ー わかった。」
「 何がです。」
冗談めかして話を交わして自室へ避難しようー 成未は、疲れ切った自分を精いっぱい励ました。
「 飲み過ぎたんだ、水樹くんも。ムキになってごめん。忘れて。」
あからさまな舌打ちを飛ばすと、水樹はやや強引に成未の両手首をつかみ
「 えっー 」
自らの額の真ん中から、長い前髪を左右へ掻き上げさせた。顕れた切れの長い、涼しげな眼差しは、視線を逸らすことを許さない。
「 怒りますよー 終いには。そうやって、誤魔化すのを止めなさい って言ってる側から 」
返答する間もなく、成未は水樹の腕の中にいた。思いのほか弾力の強い筋肉の動きを感じたが、髪を撫でる指先は優しかった。柑橘系のヘアワックスの香りが、成未の五感を包んだ。
「 本当の貴方を愛せるのは、 俺だけです。」
成未の髪を後ろへ流して左耳を露わにさせると、水樹はそっと唇を押し当てた。
「 俺だって、あす生命を亡くすかも知れんじゃないですかー 」
しかし、次の瞬間、何らかの強烈な力が水樹の体躯を成未から引き剥がし、壁面へと追い遣った。
「 何なんだっ!? どういうつもりだー!!」
水樹の胸ぐらを掴んだままで、悠介は鋭く叫んだ。その、震えている悠介の両手に掌を添えると
「 先生も 」
状況に似つかわしくない、妙に落ち着いた口調で水樹は呟いた。
「 しっかりして下さい。」
「 ?? なんだって ー??」
壁伝いに、水樹が ずるずる擦り下がってフロアに腰を着いたので、体勢を維持したまま、悠介も膝を着いた。
「 先生は、奥さんを誰より愛してたんでしょう?」
「 俺の話は良いっ!」
「 だから、そこが一番大事なんでしょうが!?」
初めて聞く、水樹の大きな怒声というか怒号を耳にして、背筋を貫く戦慄に成未は息を潜めた。
「 誰だって、いつかは死んじゃうんですって!」
悠介の手を振り払うと、彼は苛立たし気に胡座を掻いた。
「 いったい何を言ってんだ、きみはー??」
差し向かいに自らも胡座を掻くと、悠介は頬杖を突いて水樹を覗き込んだ。
「 大事なのは、生きてる時にどれだけ愛したか、でしょう??」
「 ・・・・・・ 」
「 だったら胸はって、 俺もあの世に行くまで待っててな、お前だけを愛してるからな って、」
なぜか水樹は、少年の頃の姿を彷彿とさせる無防備さで、声をあげて泣き出した。
「 奥さんに言ってあげて下さいよ・・・・ 」
「 そんな事が出来るくらいならー 」
眼前に広げた両の掌に、悠介は深々と顔を埋めた。
「 医者なんか要らねえんだよ。」
完膚無いほどの理論崩壊を物ともしない、錯綜する父の姿を目の当たりにして、成未はひたすらに、心の内で母の守護を願い続けている。
「 ・・前の晩から、めずらしく頭が痛いって言ってたんだー 」
「 ・・・・??」
「 頭痛薬ないし、学校の医務室でもらうから大丈夫だよ って、あの朝、美穂が可愛く笑ったんだ。」
泣き止んだ水樹は、悠介を凝視している。
「 無理にでも、仕事を休ませれば良かったー 」
顔を上げた悠介は、のめるように床を這って、水樹の膝にすがって呻いた。
「 美穂が・・・ 美穂が、 俺の世界のすべてだったんだー !!」
「 ・・・ そうですか。」
わななく肩に長い腕を伸ばすと、彼は悠介の前髪に額を寄せた。
「 愛してるんですね。」
そのまましばし、彼らは動かなかったが、悠介は懸命に呼吸を整えて確かめるべき質問に立ち戻った。
「 ーで、だ。 なんだって、娘を口説いてたんだっけ? 君は 」
大きな溜息混じりに、彼は両腕を背後に突いて上体を支えた。
「 もう、ずっと愛してたから。」
「 そりゃ、 初耳だ。」
悠介は、いくぶん冗談めかした口調で言葉を継いだ。
「 お母さんに、誓ってたのでー 」
「 美穂に、ってこと?」
長い指で乱暴に顔をこすって、水樹は前髪を掻き上げると険しい眉間を露わにした。
「 そういう時が来たら、じゃなくて、今日のうちに伝えます、って。」
ふうんー と、ごく曖昧に返して、悠介は重そうに瞼を閉じた。
「 ー 先生のおかげなんです。」
「 うん? どういう意味??」
壁面に背中を預けて両膝を抱きかかえながら、彼は自嘲的な苦笑を浮かべた。
「 会った医者が先生じゃなかったら、俺、きっとうかつに死んでました。」
「 そうー ??」
「 そうです。」
降参の白旗を掲げたか、悠介は疲れ切った頬に、しみじみと笑窪を浮かべてみせた。
「 ー ありがとうな、史くん。」











































































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登場人物紹介

水樹 史也( みずき ふみや)

広告制作会社勤務のイラストレーター。26才。心療内科カウンセラー 佐野 悠介との出逢いがきっかけとなり、かつて深刻であった精神状態から快方へ導かれて以来、悠介へ深い信頼を寄せている。

並外れて繊細な神経に恵まれた一方で、一般的な常識にとらわれない大胆な行動力をも兼ね備えている。

佐野家隣家の牡猫コタロウ( 水樹は一方的にヴァンプと呼ぶ )は親友である。

コタロウ

佐野親娘が暮らすマンションの隣人・黒田さんが飼っている去勢済の牡猫。

遠出はしないが、何故か佐野家へだけはベランダを器用に伝って頻繁に訪ねて来る。穏やかで人なつこい性格で、ツンデレのツン要素はあまり持ち併せていないらしい。

大柄な水樹 史也が繰り広げるスキンシップを実のところは迷惑に感じている、かどうかは不明である。

佐野 成未( さの なるみ )

大手通信販売会社に勤務する27才。きょうだいは無く、臨床心理士の父・悠介と二人暮らし。

十代で母を亡くしたせいもあってか、日常の生活者として揺るぎのない堅実さを備えたしっかり者である。

職場の同僚で後輩にあたる 中村 宏太 に異性として好意を感じているが、適当な距離から見守っていたいとひそかに願っている。

亡くなった母の実姉で、関西在住の叔母・川瀬 愛子 の無敵な明るさも好き。


佐野 悠介( さの  ゆうすけ )

臨床心理士を務める成未の父親。ある意味、純粋な少年時代のひたむきな向学心を持ち続けている。生来の気質としては朗らかで、性善説を信念とする。豪放と呼んでも可いマイペースと他人の反応をあまり意に介さない爽やかさが、弱点でもあり強みでもある。早世した妻の美穂をこよなく愛し、誰よりも傷みを背負っているが、忘れ形見の成未にも敢えて語った事はない。彼の血の通い合った心療の姿勢が、苦しむ者の拠り所となる。

中村 宏太( なかむら  こうた )

成未の後輩にあたる同僚の青年。人間関係に於ける周旋などに、ややもすれば誤解を招くほど不器用な誠実さと真面目さが長所とも謂える。その一本気さゆえ逆境に弱そうに見られがちであるが、外見とは裏腹の不屈な意志の勁さを秘めてもいる。誰にも明かさないが、片親の家庭に育ち自身の努力によって現職を掴んだ不遇な経歴こそが、未来を生きる糧となるという誇りと信念を強く抱く。

その一方、他人知れず成未に対する深い愛情を日々確かめてもいる。


記憶を持たない謎の男

事故なのか、傷害の被害者であるのか、瀕死の重傷を負って忽然と現れ、救急病院へ収容される。

怪我の後遺症によるものなのか、彼の「記憶」には深刻な混沌が生じていた。

唯一の所持品である色褪せた挿絵らしい紙の切れ端と、彼の脳内から無作為に出現するワードを手掛かりに、悠介と里中は心療にあたろうとする。

ところが正体不明者が次々と現れ、彼の身辺はしだいに不条理な危険に晒されてゆく。並外れた体力と身体能力を備えている事実に関しては、疑う余地がない。

里中 睦( さとなか  あつし )

悠介の同窓生で個人の臨床心理クリニックを経営する。佐野家とは美穂の在名中より親しい交流を持ち続けている。学生時代に培われた純粋な理念と悠介との信頼関係を自身の宝としており、悠介に臨床治療の片腕を託してもいる。成未にとっては、心の内を明かせる大切な存在である。

明朗な印象で独特の愛嬌の豊かさが魅力だが、外見とは裏腹のこまやかで緻密な神経を持ち合わせている。

澤村 泰弘( さわむら やすひろ )

悠介らの母校に附属する大学病院の心療内科で治療にあたる若手医師。緻密な頭脳と臨床医師としての適性から、周囲に将来を嘱望されている。公にはされていないが、不幸な幼年期に他家へ養子に迎えられた生い立ちを持つ。

心療を目指したきっかけは自らが幼い頃に負い、癒えることのない心の傷痕にある。少年時代に奏法を学んだヴァイオリンを愛し、多忙な中に於いても一人奏でて過ごす時間を大切にしている。

津久井 慎司( つくい  しんじ )

佐野親娘が居住する地域を所轄する警察の刑事で巡査長。謎の男の身元や負傷した経緯などが究明されないままの現状に違和感が拭えず、真相を突きとめようとする。微塵な情報を見逃さない、物的な手掛かりに基づく公正な分析を規範とすべく自らを律する一方、現場の人間に対する直感的な印象や気付きにも重きを置く。真摯な責任感と誇りが、職務に取り組む信条である。学生時代より精進している空手道の段位は黒帯で三段。

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