第1話  アインザッツ・ゲーベン

文字数 11,410文字

  
      誰の心にも十字架がある。
      そして誰もが、縋れる幻影を捜し続けている。


 古今東西、人の世の歴史に於いておよそ類い稀であると言っても憚られまい。静謐にして壮麗この上なき二十一世紀最先端の首都、東京のあちこちで、今年も春の巡り来る気配を身近に感ずる人が多くなって来た。
この、ごく華奢な島国に生り業う人々にとって「桜」は独特な深い感情移入を伴う薔薇科の落葉樹であり続けている。「桜」との関わりについて民族的な関わりをひもとくならば、有史に記された国家の成り立ちの更に以前にまで、おそらくは遡るに違いない。いずれにせよ、いにしえ何れかの世、大陸より稲作の技術が渡来びと達によって持たらされた。以来、人々は効率の良い耕作を模索し続け、年毎の豊穣を願って人智の及ばぬ神霊を祀った。天変地異や疫病、獣害、虫害など不可抗力による凶作を防ぐため水田を守護する神霊の宿る住処として、「桜」の木が崇められたと言う起源説もあるらしい。今世紀、例えば人々が掌のスマートフォンを覗き込むといった新しい時間が生活の中で増えたにせよ、である。各自が馴染み深い、身近な公園や舗道に枝を拡げた「桜」の横を歩く折には、蕾の膨らみ具合を反射的に確認したりしてしまう。もちろん万人が当てはまる、とは言わない。が、一年の中でも殊にこの時分の「桜」に対する反応の細やかさは、やはり他の国民の遺伝子には受け継がれていない事由が関連していそうである。よく晴れわたった日中などは、未だ冷たい風の凪ぐひと時、皮膚に注がれる日光の明るさに驚いて空を見上げてみたりする。青空は已然としてなお、乾いて淡いままである。この天と地のはざま「桜」の枝々では、無数の蕾が開花の準備をただ黙々とすすめている。
 
 数日ぶりに真冬の冷え込みが戻った三月中旬の夕刻、18時を廻った頃である。
都心南東部をまっすぐ横断する沿線を敷く、とある私鉄沿線の乗降に於いても、平日のごく平穏な帰宅時間を迎えはじめていた。沿線のシンボル駅として利用客に知られた、大きな三角屋根を被せた駅舎の改札では、家路につく人々の和やかな温もりが気温に活気を与えていた。沿線の施設以来、先ごろ5年ほど前のリニューアルを含めて三度の改築がなされて来たが、平屋に赤い大屋根というレトロなコンセプトは代々受け継がれている。駅をはさんで北と南に住宅街が広がっており、歴史的には北の方が戦後に人口密度が高くなった地域にあたる。南口の改札に面して駅前商店街が南北に300メートルほど長閑に続くが、その真ん中を沿線の踏切が分断する体となっている。南口を出て徒歩10分ほどの線路沿いに公立高校があり、都心の割には広々とした校庭を、通過する電車の窓からも眺める事が出来た。駅周辺にコンビニは3店舗あり、南口改札に近く通学路の途中に位置するN店が、生徒たちの定番店となっている。が、年度末を控えたこの時期、生徒たちの姿はまばらであった。
 夜間の時間帯で出勤して来たN店の二十代女子店員が、入口横ダストボックスのルーティン清掃のため、店の外へ出た。ほぼ5メートル間隔の街灯は点されているが、帰宅者たちを待たずにシャッターを閉めかけた店も混じって、商店街の舗道は慎ましい明るさである。空には、薄暮の色彩が未だ微かに残っている。休憩時間までにすすめる業務のフローチャートを脳裏に展開しつつ、彼女は先ず新しいゴミ袋を広げた。
ザザザザーーーッッ
「ーーー?」
ほぼ同時に、不可思議な騒音が耳に飛び込んだので彼女は手を止めた。見遣った視界の右隅、街灯の下に連ねて植えられたサツキの茂みと共に何かが大きくうごめいた。
(散歩中の犬が逃げた???)
犬が苦手な彼女は、反射的に身構えて目を凝らした。しかし、大型犬にしても大き過ぎる。
(・・なんだ!酔っ払いの親父か)
うずくまった人間の後ろ姿である事が確認できると、心中に軽い憤りを感じながらも彼女は作業を続けた。そして、改めて違和感を覚えた。まだ花見客が出るシーズンでもないのにー??
この時、鋪道を通りかかった帰宅途中のサラリーマンや女性など5、6名が、申し合わせた如くにゆっくりと足を留めた。彼女は作業の手を止め、彼らが同時に見つめた視線の先を目で追った。
(えっーー??)
大きな人影は、突如、植え込みから勢いよくごろごろ転がり出ると舗道の真ん中をふさいだ。この状況よりさらに異様な事は、街灯が照らし出した、男の有り様であった。頭頂部から左半身へかけてが、浴びせたように赤く濡れている。鮮血にしか見えなかった。居合わせた人々は息を飲んで沈黙したが
「きゅ、救急車っっ!」
誰かが叫んだ瞬間、コンビニ店員の彼女が通報するために店へ駆け込んだ。
店のレジには壮年の男性客と二十代の同僚男性がいたが、彼女は店奥の事務室へ直行した。震える手を懸命に抑えつつ119番通報を終えて戻ると、店内には異様な緊張感が漂っていた。来店者を告げるチャイムが不規則に鳴り続けている。自動ドアを開閉させているのは、舗道に転がり出た血まみれの男であった。ドアで体を支えて、よろめき、倒れるかと思えたが再び立ち直って顔を上げた。どういう均衡で倒れずにいるのかが信じられないほど不思議だった。両目はしっかりと開いているが、顔面はほぼ血塗られて表情が判らない。喚いたり叫び出す気配もなく、物腰は現況に比してまったく不自然に沈着に感ぜられた。その場に居合わせることの耐えがたい恐怖が、体内の酸素循環機能を急激に低下させてゆく。やがて男は左足から、一歩一歩、前へ歩き始めた。
店内の緊張は頂点に達した。レジで釣り銭を受け取る最中だった客は、小銭をつかむと男の横をすり抜けて店を出ようと飛び出した。
「あっー これ!品物っ!」
とっさにレジから体を乗り出して袋を渡したのは、店員の見事なお手柄であった。雑誌コーナーで立ち読みしていた男性客二名は、未だ動けずその場にいる。無言で接近して来る男と対峙する形で、それでも青年店員がレジドロワーを離れずに居たのは讃えられるべき勇気であった。ちなみにこの時間帯、店のオーナーは深夜出勤に備え自宅待機中で不在だった。
女子店員は脱兎のごとくにレジへ駆け込むと、救急通報した旨を同僚に耳打ちした。
「・・・」
レジに並んで立ちすくむ二名に向かって、男が何ごとか口を開こうとした。しかし声を発するには至らず、何らか凄まじい意志を象った両眼で見据えてくる。女子店員は、すでに声を押し殺して泣きじゃくっていた。
「きゅ・・救急車が来るので」
青年が言いかけると、男は前へよろめいてレジに倒れ込むかと思えた。店員二名は反射的に後ろへ避けた。突然、男の均衡が大きく崩れると、レジ前の菓子の陳列棚を壊しながら仰向けに倒れ込んだ。意識を失ったのか、男はそのまま動かなくなった。

 警察へ通報したのは、店の外にいた誰かだったらしい。付近をパトロール中だった車輌が駆けつけ、店の周囲には一気に人だかりが増した。警官二名が男の傍らで状況の確認を始めたところへ救急車が到着した。ストレッチャーのセッティングを手際良く施しながら隊員らが呼び掛けると、膝が曲がったままだった男の左足が無造作に前方へ投げ出された。何らかの反応があったらしい。
佐野 成未が通常通りの帰路をたどってコンビニの前を通りかかった、ちょうどその時であった。男が救急車輌へ担ぎ込まれた。
「んっ??」
救急車、とパトカー って・・・?
見物の人波を分けて出発する救急車を見送りながら舗道の反対側へ避け、成未は店周辺の状況を遠巻きに眺めてみた。警官は店外と店内で状況の確認を続けている。
(南口のコンビニで何かあったみたい)
おそらく一時間ほど後に同じ帰路で帰宅して来るであろう父の悠介へ、とりあえずスマートフォンでメッセージを送った。
「帰ろ。」
父からの返信は比較的時間を要するのが常なので、気をつけてね、ともう一言送信すると、彼女はいくぶん帰途の足を早めた。
心理学者の父と二人暮らしになって、そろそろ十三年になる。学者と言えば聞こえは良いが、実態的には私立 富士見大学・人間社会学部で心理学の講義を担当する非常勤講師であり、友人の里中 睦氏が運営する「 里中こころクリニック 」の非常勤臨床心理士である。
成未は14歳の時に母を亡くした。くも膜下出血による突然死と診断されたが、彼女の意識に於いては答えが未だ出ていない。その後、都立の商業高校を卒業して、インターネット総合通信販売業の株式会社ネオ ソルヴィング 流通統括部・第3管理課に就職し、芝浦にある本社へ勤務している。兄弟姉妹は無い。
親娘の住まいは総戸数54戸 六階建てのこじんまりした公団集合住宅の2DKで、成未が高校へ入学した年に移り住んだ。反転させたL字よろしく、正面から見て1号室から5号室までの棟と6号室から9号室までの棟が、120°程度の角度に開いて連なっている。二つの棟の境い目にエントランスとエスカレーターがあるが、彼らの部屋は二階の9号室なので、建物の右端に外付けされている階段を使っていた。駅から帰って来ると、角地の児童公園内の樹木越しに先ずベランダ側が見える。各階で半数ほどの部屋に灯りが点されていたが、一瞬、彼女は立ち止まった。まだ誰も戻っていないはずの自宅のサッシに灯りが差している。念のため携帯を確認してみたが、父から返信は来ていない。
ゲートを潜り、階段を登って部屋の前に立つと、成未は音を立てないようゆっくりドアのノブを回した。予想した通り、鍵が空いている。隙間のみ開いて様子を窺うと、ほんのりとした室内の暖気に淹れたてらしいレギュラーコーヒーの香りが立った。玄関の照明は点いていない。不意に疲労を感じて瞼を閉じて香りを嗅いだ時、ふんわりしてチクチクしたものが額に押し付けられた。
「・・・・」
彼女が無言のままで照明のスイッチを探そうと左手を伸ばすと、 パチン と誰かが先に押した。
押したのは、丸みのあるネコの手だった。と言うより、ボリューム豊かな猫を前向きに抱えた長身の何者か、だった。先ほどの感触は、猫の長毛とヒゲだったらしい。但し、佐野家の飼い猫ではない。
「こちらは、万年講師の佐野せんせいのお宅で間違いなかったでしょうかぁ??」
一足下がってドアに張り付くと、成未は真顔をこしらえてその人物に問い質してみた。
「万年はひどいにゃあー」
彼は低めの声色でネコのふりをしてみせた。見ると、猫の頭部に見慣れない被り物まで乗っている。やや怒気を帯びた成未の気配を適確に察したのか、長身の青年は抱いた猫ごと、いとも優美な辞儀をして成未を迎えた。
「おかえりなさい。コーヒーをどうぞ。」

成未が着替えを済ませ、リビングの華奢な仏壇に飾られているフレームの中の母へ挨拶を済ませると、水樹 史也が丁寧にコーヒーをカップへ注いだ。音量が控え目だったせいか、ダイニングテーブルの定位置に座ってカップを受け取るまでテレビがついている事に気付かなかった。夜7時台のニュース前半が終わりスポーツの話題へ切り替わったところで、彼女はしばらくの間 ふうふうー と温度を調整しながらコーヒーをすすっていた。で、ようやくこの状況について物申さない事の方の不自然さを思い出し、顔を上げた。
「みずきくん」
「にゃあ?」
「・・・彼、いつ頃来た?お隣へ声かけてくれてある?」
彼、とは隣人の黒田さんが長年飼っている大柄で毛足の長い三毛猫の事を指している。ちなみに、思春期以前に虚勢なされている。
「俺5時過ぎに来たんですけど、すでにヴァンプがベランダで待ってて」
「いんや。ーー彼の名前、小太郎(コタロウ)だから」
「しかしなあ」
ローソファーに腰を下ろすと、こちらも椅子のサイズにマッチしない大柄な青年は、差し向かいに膝へ乗せた猫に話しかけた。
「俺たちの間では、やっぱヴァンプだもんなあ?」
水樹は、父の悠介が五年前にクリニックで心療治療を担当した元クライエントである。
治療中から、休日などに悠介が自宅へ招いて食事を共にする事があり、成未の都合等は一切かまわれないうちに彼の存在は成し崩し的に既成事実と化していった。
一年間ほどの治療後も、折に触れては家族同然の面持ちでふらりと帰って来る、いや、訪ねて来る。何故かと言えば、ひとつには悠介がわざわざ合鍵を作って彼に渡してあるからだが、成未としては(まったく意味がわからない)まま、現在に至っている。
 夕食の準備をしていると、隣室の黒田 孝一氏が猫のお迎えに現れた。
黒田さんは七十の手前くらいか、彫りの深い目鼻にメガネが映える物腰の沈着な人物である。ご両親から受け継いだ喫茶店の革新的な経営に秀れた手腕を見せつつ、別にもう一店舗を立ち上げた。こちらのベーカリーカフェも、定番の人気店として駅前商店街にすっかり定着して親しまれている。三年前、妻の真智子さんを病気で亡くされた。コタロウは真智子さんが我が子同然に可愛がっていた猫で、彼女が入院する際、佐野家で預かったりもした。ベランダ伝いに器用に越境して訪れる不思議な猫が現れたのは、真智子さんが体調を崩された前年の秋の初めであった。無類の猫好きという点のみは、この親娘に不思議なほど共通した特性であり、思いがけない猫の登場を彼らはごくごく無邪気に歓迎した。サプライズ訪問を心待ちにするようになった。ほぼ半年にわたりお隣の飼い猫である事に気付かず、帰宅しない小太郎を捜しあぐねた真智子さんから尋ねられて、ようやく知る処となった。

決してどこにでも出歩くという訳では無いんです、コタロウは佐野家がよほど気に入ったらしく、しきりとそちらへお邪魔しに行きたがるんですー
(ご迷惑をおかけして申し訳ありません)
真智子さんは色白で、いつもとても暖かな笑顔を見せくれる婦人だった。

「またコタロウが御厄介かけまして・・」
「これ、俺が描いたキャラクターで”まろちゃん”て言うの、可愛いでしょ?」
「ははははは」
茶色いザリガニっぽい何か、の丸くて大きな黒い目が、おでこの上でいかにも鬱陶しそうな小太郎を水樹から受け取りながら、黒田さんは爽やかに笑ってくれた。
「すみませんー」
成未が慌てて被り物を回収したところへ、悠介が帰宅した。
「あっ、こんばんは!」
ちょうど良いー 左手に提げた手土産らしい紙袋を持ち上げてみせると
「史くんが来るって言うからさ、焼いてもらって来た」
嬉々として、彼はそのやや地黒な頬にご自慢の少年めいた満面の笑みを浮かべた。
「焼鳥で、一杯いかがです?」

 水樹は長野県中西部、日本アルプスの麓に広がる安曇野の出身である。
彼自身は故郷の話をあまりしないのだが、成未は松本市の周辺をJR大糸線の沿線に沿って訪ねた事があり、断片的なイメージは持っている。彼女が訪れたのは八月で、十年ほど前の事となる。鮮やかに連なる盛夏の山脈に懐かれた盆地の風景は力強く、測り知れない厳しさと険しさを誇って輝くかのごとく感ぜられた。
殊に印象が鮮烈であったのは、穂高神社に祀られた「御船」である。等身大の木造船を舞台に、神社や当地の歴史にまつわる重要事件の名場面が極彩色の人形たちの姿を借りて臨場感ゆたかに表現されている。四方を山脈に囲まれ、日本海・太平洋いずれの海洋とも遠く距離をへだてた其の地において、由緒ゆかしい神域の奥院に足を踏み入れた時・・・
間もなく海浜より漕ぎ出だすのを待つばかりか、と錯覚を覚えるほど現実的なディティールを備えた木船と出逢う驚きと強烈な違和感は、成未にとって忘れがたく、貴重な旅の経験として深く心に刻まれている。
にわかに男子会(年齢に幅があり過ぎるが)の様相を呈して楽しげな悠介たちと、テレビ画面の左右両方に観るともない視線を向け、作業的に夕飯を口に運ぶ成未の脳裏には脈絡のない記憶が浮かんでは消えてゆく。悠介が初めて水樹をここへ伴って来た日、あれは4年以上も前になるのか、ちょうど梅雨時で終日雨が降り続いた夜の事だった。

「 ・・すまん!成未ー、成未 」
帰宅してドアを開けた悠介が、聞き覚えたことのない不思議な声色で呼んだ。入浴後、髪を乾かしていた彼女はタオルを肩に掛けたまま玄関へ出た。
「 えっ???」
悠介の左側に、レインコートを頭から被せられた男が俯いて立っている。父より少なくとも頭ひとつ背が高く、長髪のせいもあるのか、成未は強烈な威圧感を覚えた。左手を男の肩に置いている父の表情も、尋常ならぬ緊張で強張って見える。
「 ちょうど良いな。風呂、入れるか? 」
「 う、うん 」
「 わるい。バスタオル持ってきて 」
傘を持っているにも関わらず、悠介も傍らの男も頭から滝を浴びたようにずぶ濡れである。慌ただしく成未が両手に携えてきたタオルを受け取ると、父は初めて顔をほころばせた。
「 濡れちゃってさ・・ 」
彼はコートをはがしてタオルを手に持たせ、部屋へ入るよう男に促した。男は一向に気の進まない様子であったが、悠介はお構いなしに連れ込んで、そのまま浴室へ放り込んでしまった。成未にとっておよそ得体の知れないこの男が、すなわち水樹であった訳だが、現実的に考えて甚だ迷惑この上ない事には違いない。 火曜か水曜の夜の事で週間の勤務は未だ折り返しであったし、ましてや数日来の雨天続きにより、出勤時に加わる湿気が神経の疲労感をひと回りほど重く膨らませていた矢先である。矢継ぎ早やに湧き上がる疑問や質問と、想定外の現象を真っ向から拒もうとする異なる神経の交錯に混乱しつつ、とにかくも成未は父の指示に沿って着替えの衣服や夜食の準備に当たらざるを得なかった。
「 彼、里中のとこで俺が診てるんだけど 」
悠介がキッチンに来て、珍しく小声で呟いた。
「 すまん。いずれ詳しく話すよ。先に休んでくれ」
「 ・・・・ 」
布団に入ってから、窓の外の雨脚がいっそう強くなった。重く降り続く雨の音に時折、父の発する低い声が絡んで響いてきたが言葉までは聞き取れない。いずれかの神経が、父と見知らぬ男との関係性について過敏な反応を諦めずにいたが、やがて成未は睡眠へと誘導されていった。
翌日。悠介がクリニックの勤務日でもあったため、水樹を伴って出勤したらしい。後に成未が父から聞いたのは、結局のところ断片的な情報に限られていた。男の名は水樹と言い、三ヶ月ほど前から院長の里中に任されて心療治療を担当している二十代の患者であること。職業は自由業でイラストレーターであること。雨の日に悠介を訪ねて来てみたものの迷い、面倒になって近辺の公園で濡れていたこと。同じ私鉄沿線の四つほど離れた駅の近くに一人暮らしをしていること、等であった。彼の詳細な精神状態について、成未は関与するところでは無論なかったが、諸般において注意を要するのであろうと察する事はできた。むしろ否応なく、憂慮せざるを得なかった。と言うのも、それ以降、およそ週に一回のペースで悠介が彼を伴って帰宅するようになったからである。
当初の半年ほどは、実は水樹の顔立ちや声質などについて、おおよそのイメージでしか捉える事が出来ないままでいた。とりあえず長身で、長髪で猫背気味なのは判る。しかし両眼は常に長い前髪で隠されていたし
「 ・・はい」「・・・いえ 」
など、発せられる言葉が限られ過ぎていた。痩せ型なのだが、彼が抱え込んでいた苦悩の重量のせいなのか
( なんか、でっかいなあ・・・ )
成未の眼には、この摑みどころの無い青年が途方もなく大きな威圧感を伴って映っていた。当時、東京に在住であった水樹の5歳年上の姉が彼の面倒を見かねてクリニックを探したのが発端だったらしい。弟の住まいからの通院距離とネットの口コミから情報を絞り、電話を直接かけて問い合わせる中で里中を選んだ。選択の是非はともかくも、彼女の仲立ちがあって、現在にいたるまでの現実生活が成立している。ちなみに成未は彼女と面識はなく、三年ほど前に帰郷したと聞いている。

 里中と父の悠介の親交は、同じ学部に学んでいた昭和50年代の大学時代からに遡る。亡くなった母の美穂も同窓で、両親は卒業以前から付き合っていた。らしい。三名の青春に生々しい恋愛も絡んでいたのか、どうなのか、成未は耳にした事はない。何にせよ、両親が結婚したのは卒業して六年ほども経た後の事である。美穂は卒業後、私立中学校のスクール・カウンセラーを職業とした。産後三年間を育児に専従して以降、家庭と仕事のいずれとも真剣に向き合う母の日常の姿を見て成未は育った。母が大好きだった。
成未が、続いてゆく日常としてぼんやり感受していた世界が突然に潰え去ったのは、中学二年になった5月の終わりであった。それは、当時の彼女が認識し得た世界からは全く異なる次元より厳然ともたらされた。母が急死したのだ。
底を抜いたように晴れわたった青空、という喩えがある。この日が、ちょうどそうであった。前日までの様々な天候は、夜明け前に大気圏まぎわまでスワイプで完璧に一掃されていた。地上の生物が呼吸を行うにあたり、この上なく快適で最適な割合に湿度を伴った大気が世界に満ち、やや気恥ずかしくなる高揚感を醸していた。
「 なんか、無駄に良い天気だねー 」
「 なんかねー 」
給食前の地学の授業が始まるのを待って、成未は教室にいた。窓辺に席のある友人の机のまわりに3、4人で何とは無しに集まって外を眺めていた。校舎は比較的住宅の多い地域のなだらかな丘陵を登る中腹あたりに建っており、教室は三階で見晴らしが良かった。近くの住宅で干した布団を叩く音が意外なほどはっきり聞こえたり、坂を登りきった丘の上の小学校から、運動場のざわめきが遠く響いては引いてを繰り返している。一点の翳りもなく青く晴れた空を見上げた時、爽快な視界とは異なる感受性が、心を寂寥で充すのは何故なのだろう。そんなあやふやな感情を言葉に置き換える努力を諦めながら、少女たちは時々、互いに目を見合わせて少し笑ってみせた。
「 ーあれ?イーダ 」
一人が呟いた。その声を聞いて、成未らは一度に同じ方向へ目を向けた。今日は授業がないはずの音楽担当の飯田教諭が入って来たかと思うと、自分たちの方へ足早に歩いて来る。いや、足音を立てない小走りであった。彼女は学年の生活指導担当でもある。少女たちは一斉に、陰鬱な胸騒ぎに襲われた。
「 佐野さん 」
「 はっ??? 」
細めの金属フレームの中で、ふだん見慣れている教諭では無い、緊迫した彼女の瞳が大きく見開かれて成未を捉えた。
「 お母様が倒れたって。病院へ行きましょう。」
それから病院へ着くまで、おそらく一時間弱ほどの間の記憶はごく断片的な切れ端しか残されていない。
突然、自分一人だけがプールの水底に重く沈んで、意識の周囲で進行する現実世界とは重力が変異した。級友たちが慌ただしく成未の教科書やノートなど持ち物をまとめて飯田教諭の車まで付き添い、口々に掛けてくれた言葉は何らかの音としてしか届いていない。運転しながら、教諭が話しかけた気がする度に身体の反応として「 はい 」と「 いいえ 」を何度か、成未は後部座席で抑揚なく繰り返した。両足がひどく痺れて爪先が冷え切り、とても動かせない気がした。脚がすくむ。生まれて初めての感覚だった。へその裏側辺りから小刻みな震えが湧き起こっては、体内を烈しく駆け巡り続けた。転げ回ったり叫び出しそうになるのを堪えるために、ただひたすらに奥歯を噛み合わせて両手を組んでいた。
地域の総合医療センター エントランスの受付で飯田教諭が確認すると、体格のしっかりした女性の看護師が迅速に現れ、病室まで案内した。緊急用だったのか、エレベーター内で他者と乗り合わなかった。何階だったのかは憶えていない。幅の狭い廊下を数度まがって、そのフロアの突き当たりに近い個室だった。ドアは開いていて、付近でカルテらしいボードを携えた看護師が気付くと無言で会釈して中へ誘った。室内に音は無かった。中にいた別の看護師が、閑かに寝台の周りのカーテンを開いた。枕元の椅子に腰掛けていた父の悠介が振り向いた。その眼差しと、仰臥している母の不自然に揃った両脚が視界へ飛び込んだ瞬間、成未の存在の全ての細胞が劇烈に拒否反応を起こした。母の傍らへ行きたい、行かなければならない ー だが、その有り様を自分の目で見てはいけない。ぜったいに。
しかし、悠介は立ち上がり、母の足元でゆっくり立ち直ると成未を見遣った。
寝台に横たわっていたのは、母の頭髪や皮膚だったものを纏った、遭遇したことの無い異質な何らかの物体でしかなかった。
「 あっ・ああああああああ!!! 」
呼吸ができず、制御が及ばぬ神経の反応で絶叫すると同時に意識が途絶えたーー

 母の美穂は、この一年ほど前から食欲減退や不眠に悩まされていた。美穂が親密にカウンセリングしていた女子学生が失踪し、一週間後に近隣県の河川で遺体で発見されるという不幸な事件が発生して以来の不調であった。成未はふと、義務的に白米と惣菜を交互に口に運んで咀嚼する作業を止めた。
母の遺影と対面したい気も少し沸いたが、ささやかな仏壇の周囲は男子会の面々による謎の賑わいを見せている。視線のやり場に行き詰まり、テレビの画面に目をやると謂わゆるゴールデンタイム枠の当たり障りの無いタレント満載番組が爆笑している。何故だか、涙がどおっと溢れそうに感じた。その成未の膝に、ふんわり加わった体重があった。コタロウだった。
「 んっっ? ?」
反射的に微笑を浮かべてみせると、成未は穏やかな猫へ意識を反転させることに努めた。
「 コタロウのご先祖はさあ 」
そのお腹のあたりから、常と変わらない速度で厄介な長毛の毛繕いを入念に始めた彼に話しかけてみる。
「・・やっぱり、宇宙の何処かから地球へ来させられたわけか 」
眉間、とおぼしき両眼の間にシリアスな縦皺を寄せて猫はいっそう真剣である。
「 んで、哀れで身勝手なニンゲンを癒してやんなさい、ってか??」
マニアな人々の一部では、ネコは地球上の進化論からは異なる次元より持たらされた特異な種であるとか、生命力が弱っている人間を察知できるごく特殊な能力を秘めているなど、真しやかな諸説が楽しげに流布しているらしい。
「 メイワクだよねー まじ、とんでもないよね。」
結局は大きな涙が二粒こぼれてしまったのを諦めて、成未は食事を終わらせた。
食器の後片付けを終え、コーヒーを入れてテーブルに戻ると
( ・・ あれ?)
携帯にメッセージの受信を見つけて、成未は軽く首をひねった。三年後輩で同僚の中村 宏太からだった。
( コンビニの件、大丈夫でしたか?)
コンビニー ??
今日という日の時系列の流れに再び着地するのに、一呼吸を要した。ニュースを検索してみると、駅近のコンビニ前で搬送された身元不明の男性について報道が速報されていた。情報を見た中村が、成未の乗降する駅の周辺である事に気付いたものらしい。ちょうど帰りに通り掛かったが関わらなかった経緯を簡潔に返信した。
( 了解。よかったです。)
( まだ残業してた?)
( あがりました。いま帰る途中です。)
おつかれー。どうもありがとう。また明日ね。 笑顔なにゃんこの絵文字で終えたタイミングに、悠介が唐突な声を掛けた。
「 コンビニでなんかあったって? 」
それってさ、帰りにあたしが伝えたまんまじゃん ⁉︎
取るに足らない割に、妙に勘に触ったのだが、この父との会話に於いてしばしば発生する不思議な齟齬(そご)現象については、いやと言うほど経験して来ている。
「 ネットで速報してる。男の人が救急車で運ばれてた。まだ何にもわかってないみたいだけど 」
この辺りで珍しいな、と面々の話題は社会的な諸事情へシフトしたようであった。
生温くなったコーヒーをすすりながら、 そう言えば何があったんだろう ??
救急車の後部ハッチが閉められる前、ストレッチャーから突き出した頑丈そうな靴底が見えたのが、鮮明に思い出された。救急、搬送、病院・・・  あれ?? なんなの、このトートロジーは。
苛立ちついでにテレビを消し、成未は入浴の準備に立ち上がった。













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登場人物紹介

水樹 史也( みずき ふみや)

広告制作会社勤務のイラストレーター。26才。心療内科カウンセラー 佐野 悠介との出逢いがきっかけとなり、かつて深刻であった精神状態から快方へ導かれて以来、悠介へ深い信頼を寄せている。

並外れて繊細な神経に恵まれた一方で、一般的な常識にとらわれない大胆な行動力をも兼ね備えている。

佐野家隣家の牡猫コタロウ( 水樹は一方的にヴァンプと呼ぶ )は親友である。

コタロウ

佐野親娘が暮らすマンションの隣人・黒田さんが飼っている去勢済の牡猫。

遠出はしないが、何故か佐野家へだけはベランダを器用に伝って頻繁に訪ねて来る。穏やかで人なつこい性格で、ツンデレのツン要素はあまり持ち併せていないらしい。

大柄な水樹 史也が繰り広げるスキンシップを実のところは迷惑に感じている、かどうかは不明である。

佐野 成未( さの なるみ )

大手通信販売会社に勤務する27才。きょうだいは無く、臨床心理士の父・悠介と二人暮らし。

十代で母を亡くしたせいもあってか、日常の生活者として揺るぎのない堅実さを備えたしっかり者である。

職場の同僚で後輩にあたる 中村 宏太 に異性として好意を感じているが、適当な距離から見守っていたいとひそかに願っている。

亡くなった母の実姉で、関西在住の叔母・川瀬 愛子 の無敵な明るさも好き。


佐野 悠介( さの  ゆうすけ )

臨床心理士を務める成未の父親。ある意味、純粋な少年時代のひたむきな向学心を持ち続けている。生来の気質としては朗らかで、性善説を信念とする。豪放と呼んでも可いマイペースと他人の反応をあまり意に介さない爽やかさが、弱点でもあり強みでもある。早世した妻の美穂をこよなく愛し、誰よりも傷みを背負っているが、忘れ形見の成未にも敢えて語った事はない。彼の血の通い合った心療の姿勢が、苦しむ者の拠り所となる。

中村 宏太( なかむら  こうた )

成未の後輩にあたる同僚の青年。人間関係に於ける周旋などに、ややもすれば誤解を招くほど不器用な誠実さと真面目さが長所とも謂える。その一本気さゆえ逆境に弱そうに見られがちであるが、外見とは裏腹の不屈な意志の勁さを秘めてもいる。誰にも明かさないが、片親の家庭に育ち自身の努力によって現職を掴んだ不遇な経歴こそが、未来を生きる糧となるという誇りと信念を強く抱く。

その一方、他人知れず成未に対する深い愛情を日々確かめてもいる。


記憶を持たない謎の男

事故なのか、傷害の被害者であるのか、瀕死の重傷を負って忽然と現れ、救急病院へ収容される。

怪我の後遺症によるものなのか、彼の「記憶」には深刻な混沌が生じていた。

唯一の所持品である色褪せた挿絵らしい紙の切れ端と、彼の脳内から無作為に出現するワードを手掛かりに、悠介と里中は心療にあたろうとする。

ところが正体不明者が次々と現れ、彼の身辺はしだいに不条理な危険に晒されてゆく。並外れた体力と身体能力を備えている事実に関しては、疑う余地がない。

里中 睦( さとなか  あつし )

悠介の同窓生で個人の臨床心理クリニックを経営する。佐野家とは美穂の在名中より親しい交流を持ち続けている。学生時代に培われた純粋な理念と悠介との信頼関係を自身の宝としており、悠介に臨床治療の片腕を託してもいる。成未にとっては、心の内を明かせる大切な存在である。

明朗な印象で独特の愛嬌の豊かさが魅力だが、外見とは裏腹のこまやかで緻密な神経を持ち合わせている。

澤村 泰弘( さわむら やすひろ )

悠介らの母校に附属する大学病院の心療内科で治療にあたる若手医師。緻密な頭脳と臨床医師としての適性から、周囲に将来を嘱望されている。公にはされていないが、不幸な幼年期に他家へ養子に迎えられた生い立ちを持つ。

心療を目指したきっかけは自らが幼い頃に負い、癒えることのない心の傷痕にある。少年時代に奏法を学んだヴァイオリンを愛し、多忙な中に於いても一人奏でて過ごす時間を大切にしている。

津久井 慎司( つくい  しんじ )

佐野親娘が居住する地域を所轄する警察の刑事で巡査長。謎の男の身元や負傷した経緯などが究明されないままの現状に違和感が拭えず、真相を突きとめようとする。微塵な情報を見逃さない、物的な手掛かりに基づく公正な分析を規範とすべく自らを律する一方、現場の人間に対する直感的な印象や気付きにも重きを置く。真摯な責任感と誇りが、職務に取り組む信条である。学生時代より精進している空手道の段位は黒帯で三段。

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