第5話  極  夜

文字数 9,811文字

 この同じ日、同じ時間、津久井刑事は北海道の函館市を訪れていた。
親族の法事があるため、と性に合わない作り事で初めて有給休暇を取った。今朝7時台の国内線フライトで、9時過ぎの到着であった。北海道の地に降り立ち、彼はひとまず空を仰ぎ見た。東京を発つ際すでに小雨が降り出していたが、函館の上空には群青の空が広がっている。路線バスターミナルのカウンターを訪ねると、持参した地図と目的地の情報を広げて該当する路線を訊いた。鑑識官の松原がもたらしてくれた情報に基づき、函館市内のとある児童福祉施設を訪ねるため、彼は来道したのであった。
「 ああ、こちらは今ちょうど発車待ちしてると思いますよ。」
30代とおぼしき女子職員が、観光案内に手馴れた笑顔で、路線名と降車すべきバス停を指示してくれた。案内された番号の乗場を探し当てると、たしかに乗車扉を開いて待機しているバスがある。運転士席上に表示された行先を確認して、津久井は乗り込んだ。前方の窓際に座り、窓を少し開いた。頬をよぎる風は、実に爽やかである。ほどなく定刻を迎え、バスはJR函館駅前方面をめざして出発した。平日の午前中で混み合うと言うまでではないが、ビジネスマンや観光客らしい老若男女らの乗客率は6割ほどであった。
函館平野の東南をなだらかな蛇行を見せて津軽海峡へ注ぐ松倉川を右手に南下し、バスはやがて、駅前へ直結する海岸沿いの国道に突き当たって大きく右折した。その、次の停車場で津久井は降車した。地図と照らし合わせつつ、さらに海岸の方角へ直進して住宅の並ぶ道を左に曲がった。目視した前方、月極めの駐車場と私道をはさんだ角地に、彼は目的地を確認した。
「 ・・・・・・ 」
ごく久しぶりに海洋の香りと湿り気を感じ、津久井は遥かに響いてくる潮騒に耳をすませてみた。身元不明の男が義務教育の期間中、保護されていたとされる養護施設は、海峡を臨む海岸線に思いのほか近い場所であるらしい。
情報によれば、 男の名は 牧野 和智( まきの かずとも ) 1983年生まれ、出生地は函館市内。中学卒業後、同市内に駐屯地がある陸上自衛隊第28普通科連隊に入隊。2年後に退職して上京。翌年、関与した傷害・暴行事件に対する少年審判にて少年院送致が言い渡され、東京矯正管区内の少年院へ入院。そして、一年後に退院している。その後、都内病院へ救急搬入されるまでの十五年以上にわたる間の経歴については、不自然なほどに情報がなく、その不可解さは謎と呼ぶべきであろう。両親による恒常的で悪質な虐待と育児放棄が、養護施設に保護されることとなった背景らしい。
施設の入口には「敬愛の家」と縦書きされた、1メートルほどの表札が掲げられてある。角がすり減った木札の状態や、色褪せた大きな黒字が、歴史の長さを物語っていた。登校中の時間帯であるため、児童らの姿は見受けられない。正面に設けられた運動場の左手に建つ細長い平屋へ、津久井はまず向かった。窓は多く設けられているが、入室する適当なドアが見つからず足を止めたところに、職員らしい年配の男性が通り掛かった。
「 あの、すみません。」
「 はあ。」
事前に連絡して東京から来道した旨を伝えると、彼は人懐こい笑顔で案内してくれた。裏側へ回り、前を歩く小柄な男性の歩幅に合わせて進む。通路と外塀の合間が、自家菜園として利用されているらしい。素朴な副え木や、張りめぐらされたネットに守られて、数々の夏野菜が瑞々しく生育中である。二つ目の扉を開けると、男性は大きな声で室内へ呼ばわった。そして笑顔のまま振り向くと、津久井を誘った。
「 じきに園長が来ますんでね、どうぞ、どうぞ 」
小じんまりした土間で靴を脱いで上がり、一般家庭のダイニングセットめいた木製の椅子に腰を下ろした。その部屋は、職員の事務スペースであるらしい。向かい合せに10ほどのデスクと、本棚と金属製のロッカーが過密に設置されている。運動場へ向けて大きく開かれた窓から注ぐ初夏の陽射しには、一片の翳りもなかった。
長い廊下を小走りして来る慌ただしい足音が近付いて、ドアが開いた。
「 お待たせをして、失礼いたしました。」
60才前後の痩せ型の女性が姿勢よく辞儀をすると、テーブルには着かず、その足でロッカー内の資料を探し始めた。手に取った数冊の分厚いファイルから選び終えて、彼女は津久井と対面して着座した。
「 園長をしております、斎藤です。」
改めて訪問の挨拶を済ませると、津久井は謝意を述べた。
「 ご協力ありがとうございます。 お忙しいところ、すみません。」
彼女がテーブル上でファイルを開いた時、日本茶を注いだ茶器を女子職員が出してくれた。
「 こちらが、お尋ねの卒園児の記録になります。」
「 拝見します。」
A4サイズの頑丈なリングファイルの中に、その少年の7才から15才までの間の詳細な記録が保管されてあった。
「 そして、こちらが 」
津久井の手元を拡くすると、彼女は同様に、もう一冊ファイルを開いた。
「 弟さんの方の記録です。」
「 ・・・・・・ 」
視線が厳しくなり過ぎぬよう配慮はしつつ、津久井は園長を見つめて確認した。
「 兄弟で、保護されていたんですね。」
「 はい ー 」
話しかけたが、彼女は不意に涙ぐんで声を詰まらせた。七分袖のカーディガンのポケットからハンドタオルを取り出し、目元を抑えると
「 あの子たちが来た時、わたし自身、道外からこの実家に帰ったばかりの7月で 」
感慨を抑制する努力をして呼吸を整え、言葉を継いだ。
「 とても、印象に残っています。 ・・・ 忘れることが出来ません。」

“ 母親は、元々は道東の出身と言っていました。10代から温泉街の水商売に入って、結婚しないまま子どもを産んだそうです。下の子が生まれる前に、父親の男は何処かへ消えてしまいました。親や実家を頼れない事情があるとかで、彼女は働きながら、別の男と同棲を繰り返しました。あの子たちはいつも、同居する男に疎まれて、母親にも庇ってもらえなかったんです。それで、三つ年上の トモ(和智)くんが 一生懸命、弟の ヒロ(泰弘)くんの面倒を見て、守っていました。保護された年に同居していた男の暴力が、一番ひどかったようです。生命の危険を感じて逃げ出して、この先の海岸で隠れているのを、近所の人の通報で保護したんです。本来なら、トモくんは小学校へ通っている年でした。正式な行政の保護手続きを終えないうちに、母親は男と一緒に行方が判らなくなりました。”

「 ・・・・・・ 」
捜査においての条件反射で、無意識のうちに両手に備えた手帳とペンから、津久井は顔を上げた。
「 弟さんの方は、記録が少ないようですね ?」
「 はい。」
二冊目のファイルにまとめられた透明フォルダを ぱらぱらめくって、彼女はあるページの文書を指し示した。
「 ヒロくんは、学校へ上がる一年前に特別養子縁組が成立して、本州へ移住しましたので。」
当時、6ヶ月間の試験養育期間を経た後に、特別養子縁組の審判の確定を証明した家庭裁判所発行の通知の写しが保管されてあった。
( 本籍を東京都調布市の養親住所へ異動。 養親者氏名 澤村 賢司 ー )
情報を綴ろうとペンを取って、彼は再び手を止めた。
( 澤村・・・ ??)
動じることの稀な津久井が、脳内を強烈に揺さぶられる衝撃を感じた。記憶をつかさどる海馬と大脳皮質の中を、彼は高速で検索し始めた。記憶されている映像のコマを、猛スピードで巻き戻して行く。
4月、救急搬入された男の聴取が許されて病院を訪れた。本人に会う前に、担当していた主治医による病状の説明と見解を訊いた。見たところ30そこそこで思いのほか若いな と感じた医師の、白衣の左胸にネームプレートを見た。 その名が 『澤村』であった。
「 養親さんが迎えに来られた時、ヒロくんが泣きましてね・・・ 」
思わず、彼女は大きく落涙した。
「 お兄ちゃんも一緒だと思ってたんですね。 生まれてからずっと、この世で二人っきりだったんですものね。」
弟ひとりで行かせる事について、彼女は気が進まなかったらしい。しかし、またとは無い良縁で、本人の将来を考えれば良かれとの判断で、当時の園長が話をまとめた。
「 東京の方の内科病院の院長さんで、息子さんがなくて、就学前の男のお子さんを探してらしたものですから」
「 内科病院の? ・・・ そうですか。」
「 トモくんが、なにかご迷惑をお掛けしたんでしょうか?」
居住まいを正した彼女の表情には、真剣な覚悟が感ぜられた。管轄署内において重傷を負って救急搬送され、記憶に障害が生じている男性についての概略を、彼は説明した。
「 この中に、ご本人たちの写真はありますか?」
入院中の男の顔を、津久井は鮮明に記憶している。
「 写真でしたら・・ 」
園長は立ち上がり、ひしめく本棚の中から古いアルバムを一冊抜き出して来た。膝の上でしばしページをめくっていたが、
「 ーああ。ここに居ます。」
彼女は刑事の方へ向けてアルバムを手渡した。
「 ・・・・・ 」
園内の行事や成長記録を撮影した膨大な枚数の写真が、年次を追い、手書きのコメントなど構成にも工夫を凝らしてまとめられてある。
「 まだ、来たばかりの頃です。」
示された先に、幼い少年ふたりの写真があった。誰かの誕生日祝いなのか、テーブルの上には取り分けられたケーキとジュースが置かれている。しかし、少年たちに笑顔はない。おそらく右側が兄だろう。年に不相応な鋭い視線で、周囲を見据えている。左側の子はぴったりと寄り添って、心細げに視線を落としている。
この男にしては珍しく、堪えがたい情動が不意に涙腺へ込み上げるのを感じて、津久井は提供された日本茶をすすった。以後の、弟が引き取られるまでの兄弟の記録を追いながら、確認に時間が掛かりすぎるので。再び彼は訊ねた。
「 この方が最年長の時の写真はありますか?」
彼女が本棚の前で探している間、津久井は6才頃と思われる弟の面差しを記憶に焼き付けた。顔立ちの似た兄弟ではない。輪郭に尖りが少なく、凹凸の浅い切れの長い目元の雰囲気が、話を聞いた担当医の印象と似ている気はした。
「 お待たせしました。」
中学校卒業の折に撮られた、との写真を、彼は慎重に凝視した。骨格のよく発達した体躯に、短髪姿である。あごの輪郭の強い、彫りの深い目鼻立ちと、とりわけて象徴的なのは眼差しであった。鋭いとか暗いなど単純な形容では例え切れようのない、 “虚無“ な 闇 とでも呼ぶべき、独特の険しさに充ちている。
( まちがいない。同じ人物だ。)
「 ご本人が書かれた紙をどれか一枚、お借りしたいんですが 」
ファイルに保管された多岐に及ぶ記録の中から、彼女は一枚の原稿用紙を選び出した。小学校の卒業文集に掲載された作文の原稿だという。文集のテーマは『 大人になったら 』とある。

6年2組27番 牧野 和智
 僕にはお父さんもお母さんもいないので、敬愛の家でくらしています。弟がいて、とてもかわいかったけど養子に行ってしまいました。大人になったら強くなって、弟をむかえに行きます。それで、なかよく二人で暮らします。僕は男だから、大人になったら警察官や自衛官になって、世の中のためになりたいです。

「 ・・・・・・・ 」
不覚にも、両頬を涙が伝って落ちたのに狼狽えた津久井は、分厚い掌で乱暴に顔をこすった。阿呆さ加減にもほどがあるー 全くもって、俺はいったい何をやってるんだ!?
心のうちに著しく自虐を叫びつつ、後輩の加藤あたりが同席していなかったことに、彼は心底、感謝した。
持参したビニールホルダーに原稿を預かると、上着の内ポケットから取り出した一枚の紙を、彼は園長に手渡した。
「 この絵について、なにかご存知ありませんか?」
例の、唯一の所持品と思われる日本画的な絵画の切れ端である。
「 はい。・・・・ 」
しばらくの間、記憶の手掛かりを捜していたが、彼女は何かにたどり着いた様子で席を立った。
「 苙さん、苙さんー 」
明るい陽の降り注ぐ窓から、大きく手招きをして彼女は誰かを呼んだ。すると、津久井を案内してくれた男性職員が怪訝そうに顔をのぞかせた。園長が手にした絵を介して、二人はいくつか言葉を交わしたが、ほどなく「 苙さん 」と呼ばれた職員がドアを開けて入室した。園長の隣の椅子に座ると、彼はその絵を手に取って見つめた。
「ああ。 ーそう、そう。」
「 ? 」
つい鋭い視線を向けた津久井の様子は気にかけず、彼は頷いてみせながら片方の手で絵をなぞった。
「 俺がやったんよ、あの子に。 あの時。」
「 あの、時 ??」
中学校に通う間、同級生らから理不尽な悪意を向けられるなど、不遇がかさなる中で少年は著しく精神が荒んでしまったらしい。園内の誰に対しても心を閉ざしていったが、唯一、彼が耳を傾けた人物がいた。それが、この男性なのだという。
「 ほら俺も、親に捨てられてな、ここで育ててもらったからさ。」
彼は、津久井の方へ向きなおった。

「 そらもう、なんもかも厭んなって。腹が立って腹が立ってね。いっそ何かやらかして死んじまおうかって、思ったさ、あれくらいの頃ね。こればっかは、そんな目に会ったもんにしか解らん気持ちだから。『お前はよ、たいそう立派にやってんだから絶対負けんな。負けたら悔しいぞ』って、いつも言ってたのね。
それが一度、ひでえ怪我してきた時があって 」
「 ・・・・・・ 」
弟とも離別を余儀なくされて思春期を迎えた少年の、泥砂にまみれて這い廻るがごとき孤独と苦悩が、津久井を刻々と打ちのめしてゆく。

「 こっそり海岸に連れてって手当てしたら、初めてあの子がさ おん、おん 声張り上げて泣いたんだ。
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょうーー つって。
そん時に、この絵のこと思い出してね。御守り代わりに財布に入れて持ってたから。」
「 お母ちゃん、その話よくしたもんね。」
園長の斎藤にも共有する記憶があるのか、感慨深げに言葉を継いだ。

「 自分の時は、この人の亡くなったおっかさんによく面倒見てもらって。俺が手えつけらんなかった時に、ひょっこり昔観たっていう映画の話はじめてさ。なんとか・・お千、とかって、大昔の。それが、気の毒な身の上の男の子をお千さんていう女の人が守り抜いてやって、あとで立派な医者になる、そんな話で。で、その女がさ、最後に 『あんたに私の魂をあげますよ』って、 そういう意味のこと言ってやるんだって。だから、これから先何があっても、この魂があんたを生かしてくんだから、大丈夫だから信じて生きなさい、って。」

「 『魂』、をあげる、と?」
「 いろんな事情を抱えたお子さんたちを預かるんだから、せめてそれくらいの覚悟は心掛けないと、と母からよく諭されました。」
その原作小説が掲載された古い文芸雑誌を、斎藤園長の母がたまたま古書店で見つけて購入していた。その誌面から挿絵の部分を切り抜いて、苙さんに持たせたのだそうだ。

「 あんたのおっかさんには成れないが、何時だって見守ってるんだ。それ忘れないよう、どうか持っていて、てくれたのがこの絵。おかげで、俺はなんとかなったからさ。あの子には、なんとしても生き延びてほしくて、『これはお前を護ってくれるぞ、失くさないで持ってろよ』って、渡したの。」

聴き取りを終え、空港へ戻る前に津久井は海岸へ足を運んだ。そろそろ正午に差しかかっている。海峡に沿って続く海岸に、人影はまばらであった。
「 ・・・・・・・ 」
彼は瞼を閉じてみた。大洋側へ吹き抜けてゆく風は、この時候がらは爽やかに乾いている。打ち寄せる波の音と、時折、海峡を挟んだ水路上から各種船舶のエンジン音と汽笛が遠くで聞こえた。ふと、意外な間近で んみゃあー、みゃあー とでも聞こえる鋭い音声が耳に飛び込み、彼は眼を開けた。ウミネコの一群れが、砂浜に降り立ったのであった。比較的、人慣れがしているのか、特徴的なくちばし先端の黒斑や赤斑が識別できる近距離で思い思いに翼を休めている。海のネコ、とは上手く名付けたもんだな、と、どこか人間の嬰児の泣き声にも似た独特な声に、彼はしばし耳を澄ませた。
言うまでもなく、彼がいま立っている場所は遥かに北へ広がる大地の南端であって、目視できる対岸には、本州最北端の地が待ち受けている。津久井の眼前には、彼が従来抱いていた想像に比べて、はるかに鮮烈な群青の海と空が続いていた。


 5月最後の休日となった午前中、澤村医師は鎌倉方面へ向けて車を走らせていた。目黒区の自宅マンションを出てから、そろそろ50分ほど、通称 横横道路 を南下中である。同行者はいない。曇天だが、視界は悪くなかった。日野の料金所で前方に4台つながって、彼はハンドル近くにセッティングしたスマートフォンをタップした。保存されている一枚の画像が浮かんだ。晴れた窓辺で心もとなげに微笑む、痩せた女性の姿があった。
「 もう少しで着くよ。待たせてごめんね、寿々さん。」
画像のひとと音声通信がつながっているかの如くに、彼は心情のこもった口振りで呟いた。この先、釜利谷ジャンクションをさらに南下した後、朝比奈から金沢街道へと入って行く。
霊園にさほど遠くない、切通し越しに、材木座海岸をはるか眼下に一望できる高台の一画に、私立の精神療養所がある。少なくとも月に一度、もしくはそれ以上の頻度で澤村はこの施設を訪れ続けていた。訪問を始めて、そろそろ3年を経る。澤村という男が背負った、ごく数奇で非凡な人生にとってほどで無いにせよ、この世に唯一無二の存在が社会生活から断絶隔離させられたとしたら、せめて心は、その人の傍らに在りたいと願うに違いない。
到着して、彼は先ず主治医を訪ねた。入院時の担当から引き継いで、二人目の医師となる。直近一ヶ月間の治療報告を医師は定型的に述べたが、患者の食欲の低下について、表情をやや曇らせて付け加えた。食事の摂取量と体重減少の推移等を根拠に、現状は未評価ながら、摂食障害の兆候の可能性も否定はできないため慎重な観察が必要である旨を説明した。澤村の見識の範疇に於いても、当院の治療方法は公正であって、別段の異存はなかった。ただ、入院時の判断に彼が関わることを許されなかったという親族的な経緯が、彼の奥深いところで闇黒にくすぶり続けている。
二階の個室の扉の前で、この日も澤村は、ひとたびの躊躇いを感じた。いつも、こうであった。そのひとの、清らかで甘美な世界へ足を踏み入れた後は、今度こそ、嶮しい現実の世界へ戻る勇気を自分が失うのではないかー  はやる想いの裏腹で、そんな、ざわめく畏怖にも似た情感に葛藤を覚えるのである。
ノックをして静かに扉を開けると、 井上 寿々 は窓際に立って外を眺めていた。そして、ゆるやかに振り向いた。
「 ・・・・・・ 」
なにか言いかけて言葉が出ず、微笑んでみせようとして、上手く表情を解すことが出来なかったらしい。漆黒の艶やかな長い髪だけが、初夏の微風にそよいだ。逆光のせいもあってか、端正な面差しが、澤村にはひどく蒼ざめて感ぜられた。後ろ手に扉を閉め、憑かれたような足取りで駆け寄ると、左肩に掛けたボディバッグを椅子に投げ棄てて無言で抱き締めた。
「 ・・・・・ 」
言葉を発しようと開きかけた、その桜いろの唇を、澤村は自らの唇でふさいだ。狂おしいまで愛おしく、懐かしい、はかない唇であった。
「 泰弘さんの車が見えないか、探していたの 」
無垢に身体を預けて瞳を閉じたまま、寿々は白い指先で澤村の頬をやさしく撫でた。
「 逢いたかった・・・ 逢いたかったよ。」


 昼食を終えると、澤村は彼女を施設内の庭園へ誘った。緑地南西のはずれ、海を見下ろせる白樫の巨木の木陰が、ふたりで過ごす彼女のお気に入りの場所であった。木目の美しく詰まった幹の周囲は2メートルほどもあるだろうか。この季節は遅めの新緑が淡々とそろう頃合いで、とりわけ涼やかである。相模湾へ吹き抜けてゆく風が、時折さわさわと梢をゆらす木陰に、折りたたみ椅子を設置して彼女を座らせた。
「 今日はなにを弾こうか 」
バッグから愛用のヴァイオリンを取り出して準備をしながら、澤村は穏やかに聞いた。
「 あのね 」
「 うん?」
皮膚の薄い素顔に、寿々は少女の微笑みを煌めかせ、ねだってみせた。
「 久しぶりに、メンデルスゾーンのコンチェルトが聴きたいの。」
「 ああー ・・・ Eマイナーだね。」
「 ええ。オーパス64 」
すこし曖昧な微笑を返してみせると、彼は確信の持てない口調で前置きをした。
「 練習をさぼっているから、ごめん、上手くないけど 可いかい?」
「 いいえ、上手よ。 私が教えたんですもの。」
肘あてに両腕を休ませ、その華奢な顎の前で、寿々は優美な物腰で指を組んだ。そして、澤村によって左の薬指に飾られた銀の指輪に、切なげに頬を寄せた。
「 私ね 」
「 うん 」
椅子の前に膝を着いてヴァイオリンと弦をいったん芝生に置くと、彼は正面から見上げた。
「 泰弘さんの音色が、昔からどうしようもなく好き。」
「 そうかい? 全然上手くないのに。」
寿々は微笑んで両手を伸ばすと、前髪をやさしく撫でながら彼の瞳を覗き込んだ。
「 こんなに優しくて穏やかなのに、不思議ね。」
「 なにが ー?」
「 泰弘さんから響く音は、とても〝アパッシオナート〝。違う人みたい 」
言い掛けて、ふと彼女の表情に険しさが浮かんだ。
「 ・・・?」
その左手に掌を重ねて、澤村は様子を見守っている。見る間に、やや茶褐色ぎみの寿々の瞳が、涙で きらきら と潤んだ。
「 可哀そうにー 」
前髪の下に、澤村の左の生え際から額へかけて遺された、10センチほどの癒えぬ傷痕を探り当て、彼女はその箇所を指先でなぞった。
「 あの時の傷ね?」
「 うん。」
細い指先の感触を確かめていたく、彼は瞼を深く閉じた。
「 こんなに優しい子に、本当になんて酷いことを・・・ きれいなお顔に、可哀そうに 」
もはや自分が、彼女をその心の闇から救い出すべき立場であり、唯その目的のためにのみ、今日まで生き永らえる意義があった。のであるが、この瞬間、愚かしく呆けたふりを演じてでも、滔々と無限に湧き出ずる寿々の情愛の心地好さに、澤村は溺れて過ごしたかったのである。
「 ・・・離れなさい!」
膝に掛けていたブランケットで性急にくるみ、澤村を腕(かいな)に抱き寄せざまに彼女が発した声は、異様に鋭かった。
「 二度と泰くんを傷つける事は許しません。」
見開かれた瞳は、彼の後方の、視界では捉えられない何者かへと向けられている。
「 ・・・・ いるの?」
あえて顔を上げずに、彼は小さく訊いた。
「 大丈夫。 見ては駄目よ。」
さながら少年の頃と同じ姿で、彼女の薄い膝に澤村は息をひそめて縋った。
「 ・・・満理子義姉さん?」
「 あの子、まだ諦めていないのよ。」
小声で応えてみせた彼女の両手は、緊張のために冷え切っている。義父方の従姉妹にあたる寿々の家族が、かつて澤村家の近隣に転入して来たのは、泰弘が9つ、彼女が中学2年の時であった。縁組先の家庭内で頑なに隠蔽されていた、常軌を逸した泰弘への仕打ちについて、彼女が初めて察して気遣ってくれた。そして愛し、守ってくれ続けた。異性として、澤村が初めて恋心を抱いた女性であった。そして何よりも、人から愛情を注がれるという、彼にとっては信じがたい奇跡を、生まれて初めて与えてくれたのが寿々だったのである。
「 泰くんのせいじゃないの。 あの子たちが悪いのよ。」
複雑に混濁した彼女の精神世界に於いては、当時、11才だった義姉の亡霊と化した姿が、おそらくは鮮明に目視できている。
こんな折、とりわけ医師としては有るまじきながらも、澤村は狂気染みた衝動に駆られるのであった。いっそ彼女を乗せて、車ごと断崖から海へ身を投げてしまえたら、と。
「 ごめんね・・・ 寿々さん。ごめんね。」
涙にむせんだ声に気付くと、寿々はブランケットを丁寧に掛けなおして、その肩を優しく包んだ。
「 私がいるから、ね。もう大丈夫よ。」



































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登場人物紹介

水樹 史也( みずき ふみや)

広告制作会社勤務のイラストレーター。26才。心療内科カウンセラー 佐野 悠介との出逢いがきっかけとなり、かつて深刻であった精神状態から快方へ導かれて以来、悠介へ深い信頼を寄せている。

並外れて繊細な神経に恵まれた一方で、一般的な常識にとらわれない大胆な行動力をも兼ね備えている。

佐野家隣家の牡猫コタロウ( 水樹は一方的にヴァンプと呼ぶ )は親友である。

コタロウ

佐野親娘が暮らすマンションの隣人・黒田さんが飼っている去勢済の牡猫。

遠出はしないが、何故か佐野家へだけはベランダを器用に伝って頻繁に訪ねて来る。穏やかで人なつこい性格で、ツンデレのツン要素はあまり持ち併せていないらしい。

大柄な水樹 史也が繰り広げるスキンシップを実のところは迷惑に感じている、かどうかは不明である。

佐野 成未( さの なるみ )

大手通信販売会社に勤務する27才。きょうだいは無く、臨床心理士の父・悠介と二人暮らし。

十代で母を亡くしたせいもあってか、日常の生活者として揺るぎのない堅実さを備えたしっかり者である。

職場の同僚で後輩にあたる 中村 宏太 に異性として好意を感じているが、適当な距離から見守っていたいとひそかに願っている。

亡くなった母の実姉で、関西在住の叔母・川瀬 愛子 の無敵な明るさも好き。


佐野 悠介( さの  ゆうすけ )

臨床心理士を務める成未の父親。ある意味、純粋な少年時代のひたむきな向学心を持ち続けている。生来の気質としては朗らかで、性善説を信念とする。豪放と呼んでも可いマイペースと他人の反応をあまり意に介さない爽やかさが、弱点でもあり強みでもある。早世した妻の美穂をこよなく愛し、誰よりも傷みを背負っているが、忘れ形見の成未にも敢えて語った事はない。彼の血の通い合った心療の姿勢が、苦しむ者の拠り所となる。

中村 宏太( なかむら  こうた )

成未の後輩にあたる同僚の青年。人間関係に於ける周旋などに、ややもすれば誤解を招くほど不器用な誠実さと真面目さが長所とも謂える。その一本気さゆえ逆境に弱そうに見られがちであるが、外見とは裏腹の不屈な意志の勁さを秘めてもいる。誰にも明かさないが、片親の家庭に育ち自身の努力によって現職を掴んだ不遇な経歴こそが、未来を生きる糧となるという誇りと信念を強く抱く。

その一方、他人知れず成未に対する深い愛情を日々確かめてもいる。


記憶を持たない謎の男

事故なのか、傷害の被害者であるのか、瀕死の重傷を負って忽然と現れ、救急病院へ収容される。

怪我の後遺症によるものなのか、彼の「記憶」には深刻な混沌が生じていた。

唯一の所持品である色褪せた挿絵らしい紙の切れ端と、彼の脳内から無作為に出現するワードを手掛かりに、悠介と里中は心療にあたろうとする。

ところが正体不明者が次々と現れ、彼の身辺はしだいに不条理な危険に晒されてゆく。並外れた体力と身体能力を備えている事実に関しては、疑う余地がない。

里中 睦( さとなか  あつし )

悠介の同窓生で個人の臨床心理クリニックを経営する。佐野家とは美穂の在名中より親しい交流を持ち続けている。学生時代に培われた純粋な理念と悠介との信頼関係を自身の宝としており、悠介に臨床治療の片腕を託してもいる。成未にとっては、心の内を明かせる大切な存在である。

明朗な印象で独特の愛嬌の豊かさが魅力だが、外見とは裏腹のこまやかで緻密な神経を持ち合わせている。

澤村 泰弘( さわむら やすひろ )

悠介らの母校に附属する大学病院の心療内科で治療にあたる若手医師。緻密な頭脳と臨床医師としての適性から、周囲に将来を嘱望されている。公にはされていないが、不幸な幼年期に他家へ養子に迎えられた生い立ちを持つ。

心療を目指したきっかけは自らが幼い頃に負い、癒えることのない心の傷痕にある。少年時代に奏法を学んだヴァイオリンを愛し、多忙な中に於いても一人奏でて過ごす時間を大切にしている。

津久井 慎司( つくい  しんじ )

佐野親娘が居住する地域を所轄する警察の刑事で巡査長。謎の男の身元や負傷した経緯などが究明されないままの現状に違和感が拭えず、真相を突きとめようとする。微塵な情報を見逃さない、物的な手掛かりに基づく公正な分析を規範とすべく自らを律する一方、現場の人間に対する直感的な印象や気付きにも重きを置く。真摯な責任感と誇りが、職務に取り組む信条である。学生時代より精進している空手道の段位は黒帯で三段。

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