第15話  哀  傷

文字数 15,008文字

  
 かく恋ひば堪へず死ぬべし よそに見し人こそ おのが命なりけれ
                    ( 続後撰集 恋一 )
 かたらひし声ぞ恋しき俤(おもかげ)は ありしそながら 物も言はねば
                        ( 続集 )
            和泉式部

( 和さん・・・ 大好きなの。 側に居たい、ずっと。)
( 風馨ー )
まるで夢幻世界の裡に垣間見た、お伽話のごとく遥かなる異国の、素朴な田舎家の屋根裏部屋であった。七つ年上の牧野の広い胸の中に身体を預けて、その時 風馨は、これが男に膚を許す初めだと打ち明けたー
そっと豊かな黒髪を搔き上げ、唇でたどる細い首筋のしめやかな膚が余りに愛おしく、牧野の心臓は激しく乱れ打った。
( ー 兄さん以外を好きになるなんて・・・ )

彼女の艶やかな長い髪を撫でようと伸ばした指先が宙を空しく落ちて、牧野は瞳を凝らした。
「 ・・・・・・。」
ベージュのカーテン越しに、東京の空を明け染めた9月の薄明が、窓辺を ぼんやり照らしている。すでに新しい日の流動を迎えつつある街が発する様々な目覚めの音に、彼は体を横たえたまま、しばし耳を澄ませた。

昨日の、その次の日を、まだ迎えなければならないのかー 。

両の掌で眉間を擦りながら、牧野は計り知れぬ、深い溜息を漏らした。去り際に大層な御託を吐き棄てたきり、破天荒な無頼漢は さっぱり音沙汰なしである。平和と繁栄を謳歌してやまない島国に在っては、そろそろ例年に比べて潔ぎよく残暑が別れを告げようとしていた。

イムギの奴・・・ 何かあったかー?
いや。あの男に限って、ドジは踏むまい。

ふと、彼にまつわる記憶が脳裏に展開し、起き上がりながら牧野は口の端に苦笑を浮かべた。イムギの心象は別として、不遇な生い立ちや互いに '兄' である共通項に、出逢った時から不思議と親しみと愛着を覚えてしまう。自分にとっての弟が、庇護せずにおれぬ最愛の存在であった以上だろうー 風馨に対する、イムギの狂信的な偏愛ぶりについても察せられるのであった。
だからこそ風馨を愛してしまった事を、背負い難いほどに重い咎として、自らを責め続けて来た。仮初めにも彼女を奪い出し、すべてを投げ打って逃避行する選択肢を選べる機会が無かった訳ではなかった。むしろ、彼女はそうした活路にこそ希望を託していたかも知れない。しかし、牧野はどうしても踏み切る事ができなかった。風に舞う木の葉一枚の重みも持たない自分に比すれば、護るべき祖国と闘うべき思想を持つソスリュコこそが、彼女を託すには明らかに相応しいー
空転する思考を停止させようと、牧野はベッドから降りて窓を開けた。
「 ・・・・・・ 」
早朝の大気に晩夏の名残りはなく、乾いて澄みはじめた秋の気配が、在るがままの刻の移ろいを彼の前に差し出して見せた。川沿いの土手を行き交う人々の姿も、上着を羽織る気温になっている。静かに眼を閉じ、煌めきを増す朝の陽射しの温もりを感じ取って、彼はふと呼吸を留めた。

( 和さんの・・ '声' も話し方もね・・・ とても優しいの。)
遣る瀬ない風馨の囁きが、聴覚の何処かで鮮やかに蘇った。
( ? そう・・??)
自らのすべてを任せきって、牧野の愛撫に白い頬を薄紅に染めながら、彼女は懸命に瞼を瞑っていた。
( 和さん。お願いー 名前を呼んで・・ )
( 何度でも呼ぶよ。 風馨。・・・風馨。)

「 ・・・ !!」
冷ややかな窓ガラスへ額を乱暴にぶつけ、彼は晴れ渡った空を仰いだ。今日は午前中に外出が予定されていて、佐野医師と共に、弟の泰弘の引越しを手伝う事になっている。泰弘の心積もりでは、来年の内に個人医院を開業し、療養中の婚約者である寿々を迎えて入籍する計画だった。しかしながら、寿々が一日も早く共に暮らしたいと切望したのであった。
もっともな事だー。
弟から報告を聞いた折、牧野は心底、相手の女性の願いに共感できた。傷付いた人の心を真に癒し得る方法があるとすれば、愛する人と肩を寄せ合う手当てに勝る特効薬は存在しないに違いない。
二人の新居には、綾嶺大学病院にほど近い場所に小じんまりしたメゾネットを選んだ。荷物の運搬や搬入のおおよそは専門業者らが担ってくれるので、手伝いとは言っても知れている。昼前の退所時間に合わせて、鎌倉方面の療養所へ泰弘が寿々を迎えに出かける予定である。兄と悠介に、先ずは最愛の女性を引き合わせたかったのだろう。
泰弘から、彼女こそが この世に只一人、自分の生命を護り抜いてくれた存在であると聞いた。弟とその人にとって、永らく待ち侘びたであろう喜ばしい門出の日である。だが牧野の心象は、とっくに夏の温もりなど忘れ去った浅瀬の葉陰越しに、遥かな碧空を遠く眺めるごとく、鬱然として晴れなかった。

そも、彼が自らの生命を危機に曝す覚悟を持して、この国の土を数年振りに踏むに至った訳は、泰弘を付け狙う陰謀の脅威について告らしめる為であった。
風馨を失って後、深谷らの思惑に因って生かされ続ける理不尽と懊悩に耐え切れず、牧野は消息を絶った。組織の追跡は執拗であった。牧野を追い詰める手段を模索する中に浮上したのが、泰弘の存在だった。若年ながら、医師として社会的な評価を得ていた泰弘は、恰好の標的となった。その不穏な動きを察知して事前に阻むべく、深谷の元へ乗り込んだところを拉致されたー

( この辺りが、潮時なのかも知れんー )
濃い目に抽出したコーヒーを口へ運んで、牧野は思った。現役警察官が殺意を持って襲撃された事件の凶悪性の高さに対し、警視庁本庁からも捜査人員が補充された。特別捜査本部が立ち上げられたものの、未だ芳しい成果を見出すに至ってはいない。
おそらくは、釈然たる解決に辿り着ける事はあるまいー 表沙汰の社会の眼からは見透かせない次元の裡で、巧みに繰られる陰謀の恐ろしさを、牧野は識り過ぎていた。
( 此処から消えて、それで一体、どうするー )
どこまで逃げても、討手らは自分の追跡を諦めないだろう。道端で無様に骸を晒すぐらいなら、自ら 'けり' を着けるかー
果てを持たない禅問答の如く、自問自答は ぐるぐると 彼の脳内で無為な旋回を繰り返した。
いずれにせよ、彼の心を埋める果てしない虚無の瓦礫の端(はた)で後ろ髪を引くものは、ただ、風馨の嘆きが想い測られる一点のみであった。

「 佐野さん、兄さん、今日はすみません。」
予定していた時間に転居先住宅横の駐車場へ降り立つのを、泰弘が出迎えて、丁寧に会釈をした。
所轄警察の津久井巡査長らが襲撃された事件に関連し、警視庁本部の捜査官から先月、事情聴取を再び受けている。個人的に信頼の厚い津久井の受難と負傷は、彼にとっても取り分けて衝撃的な心痛を与えるものであった。
ラフなコットンのボトムスとスタンドカラーのシャツで微笑んだ面差しは、思いのほか翳りがちに感ぜられた。
「 天気が良くて何よりだったね。」
悠介は、頭上に広がった透明な青空に似合う、特有の人懐こい笑みと頬の笑窪を浮かべて見せた。佐野家にあっては、留守中に侵入した何者かによる襲撃事件以降、現場に居合わせた水樹の元へと成未は身を寄せ、8月一杯を療養して過ごした。9月を迎えて自宅に戻り、職場への復帰と通常の日常のリハビリが始まっている。
この一月ほどの間も、役所の福祉担当者へ提示したメソッドを変更する事なく、悠介は牧野の心療を続けた。関わりのない一人娘が被る羽目となった事件も『牧野から手を退け』と云う脅迫についても、彼はおよそ意に介さぬ風で いつも通り爽やかに牧野へ接した。
  人間誰しもが、不可抗力に晒されながら生きてるんだ。
  難しく考えたところで、埒(らち)は開かん。犯罪の取締りは警察に任そう。
いつもながら、悠介の思想は明朗で簡素であった。

「 今のうちに動かしておくものは??」
玄関を上がるなり、悠介はシャツの袖をまくり上げて泰弘に声を掛けた。明るめのナチュラルオークで統一されたリビングはフラットな吹き抜けで、中庭を囲む二面のサッシが全面採光になっている。一見して、大型の家財道具は各々が、ふさわしい位置に ほぼ納められてあった。
「 すみません。二階へ運ぶ物が少しあるのでー 」
キッチンの一角にまとめられた、ドレッサーやチェストなど数点を運び上げる補助を、泰弘は頼んだ。寿々の実家から持ち込まれた家具であるらしい。牧野が悠介を制して、階段を昇降しての運搬作業は兄弟で行った。悠介は、未開封のボックスを開けて細々した荷物を取り出し始めた。
二階の寝室と書斎へ家具を運び終わると、階段を降りながら、泰弘は兄の横顔を改めて見上げた。
「 兄さんー 来てくれて、どうもありがとう。」
その左肩へ軽く掌を置き、牧野は伏し目がちに、しかし鋭い眼差しで訊ねた。
「 よかったな。 ・・・変わった事はないか? 困っている事は 」
「 ー うん。」
生き別れさせられる以前、少年だった兄が寄り添うたび、口癖のように確かめ続けてくれた言葉を同じく いま耳にして、彼は階段の途中で足を停めた。寄る辺ない身の、鞭打たれるような心細さや悔しさに流れる涙を、兄自身も未だ小さな手で、幾たび懸命に拭ってくれた事だろう。兄がくれた温もりの、深い、深い優しさを ついぞ澤村が忘れた事は無い。
「 兄さん、ほんとにー ありがとう。 寂しかった ・・ずっと。」
「 ・・・・・・ 」
胸を裂く嗚咽に堪える泰弘の癒えようのない傷痕を、多くを語らずとも、牧野は漏れなく受け止めている。最愛の女性こそが、今後も彼の傍らに在って、削ぎ落とされた泰弘の心の欠損を時間をかけて埋めてくれるに違いない。
口の端へ微かな微笑を浮かべてみせて、牧野は移動を促した。
「 お前が、そのひとを寂しくないようにしてあげる番だ。」

オードブルやサンドウィッチなどの軽食と飲料を冷蔵庫から取り出し、リビングのローテーブルに配膳し終えると、泰弘は出掛ける準備を始めた。スーツは寿々の好きな濃紺のシャドウストライプに、ネクタイは地柄で臙脂色を合わせた。
「 御もてなし出来なくて ー 申し訳ありません。」
ランチはデリバリーを頼んであるので、それまで何か摘んでいらして下さい と、やや慌ただしく出発前に言い置いて出ようとする弟を、牧野は静かに呼び止めた。
「 ーヒロ。」
「 うん?」
見送りに戸外へ出るすがら傍らへ寄り添い、彼は耳打ちをして念を押した。
「 気をつけて行け。彼女を無事に連れて帰るまで、油断はするなよ。」
「 ・・・・ 」
束の間、魅入られるように兄の眼を見つめて沈黙すると、澤村は涼やかな笑みを浮かべてみせた。
「 ありがとう。兄さんー 行ってくるよ。待っていて。」

予定時間通りの出発を見届け、二人はリビングへ戻った。触って差し支えなさそうな荷物を選んで概ねを開封し、できる範囲で収納を終えると、悠介は 中庭で一服するか、と牧野を誘った。
リビングから屋根付きのデッキスペースへは、フラットに繋がっている。庭の中央には、高さ2メートルほどのサルスベリが、姿の良い枝振りをしなやかに伸ばしていた。夏の名残りの優美な花びらを見上げながら、二人は其々にノンアルコールドリンクのプルタブを開けた。
「 ?ああー 。薄い紫のサルスベリなんだ。珍しいな。」
「 ・・・・・・ 」
牧野が仰いだ頭上から、昼近くなって眩しいまでに煌めきを増した初秋の陽射しが、深閑と降り注がれて来る。テーブルの差し向かいで悠介は頬杖を突いたまま、牧野の遥かな視線の先を追った。
「 トモ君さ、」
「 ? ーはい。」
「 どこか、行く宛てとかが有るのかい??」
「 ???・・ 」
真正面から見据えた医師の眼差しは、中々に容赦の無い鋭さで、牧野の精神の身動ぎを押し留めてみせた。しかし次の瞬間には、少年めいた無邪気な色合いへと あっさりスライドさせ、悠介は愉し気に続けた。
「『もう自分は此処に居ない方が良いんだ 』とかさ・・ そんな感じで思ったりして無い??」
「 ・・・・。」
さすがに牧野も、眼前の風変わりな医師には無効らしい抵抗を諦めて、観念した苦笑を漏らした。
「 ー先生は、何か・・ 心を読み取る訓練をされています??」
まさかなー デッキチェアに深々と身体を預けると、陽射しの温もりを確かめたく、悠介は瞼を緩やかに閉じてみた。
「 そんな技が操れたら、あくせく苦労なんかするかいー !
ただの勘だよ。君から伝わって来る、印象から受けるー 」
心地好さげに伸ばした両の掌を頭の後ろで組み合わせると、悠介はその瞳に、深い情を込めて見遣った。
「 ・・・やっと兄弟が揃ったんじゃないか。 君らのほんとの人生は、此処からだろう。」
「 ・・・・・・ 」
返せる言葉が見つからず、牧野は真っ直ぐな美しい姿勢を崩さぬまま、耳を傾けている。
「 トモ君、俺さ・・ 」
言い掛けて、彼はふと 口を噤んだ。そして一息の後、自嘲的な照れ笑いで破顔しながら続きの言葉を口にした。
「 寂しいんだよ、とんでもなくー 」
「 ・・ はい。」
言葉の真意を計り兼ねながらも、牧野は相槌を打ってみせた。悠介が発した『寂しい』というワードの響きに、心が無意識のうちに共感して彼を頷かせたのであった。
「 寄り添う相手の有る人たちを見るのが、実のとこ辛くてな・・ 澤村君の大事な日に、不謹慎だが 」
嘘偽りのない心情を吐露する、本来は逆の立場であるべき悠介を、牧野は不可思議な心の温もりを感じながら見守った。

  女房に二度と逢えないっていうー
  この欠けた処を、どうしたって埋めようが無いんだよ。
  未練がましいとか、医者のくせに、とか よく言われるんだけどさ。

「 詮索するつもりは毛頭ないから、誤解しないでくれよー 」
テーブルの上に両手を置き直し、やや改まった口調で前置くと、悠介は真摯な眼差しを牧野へ注いだ。
「 たぶん君にも・・・ 二度とは取り戻せない、そんな大切な人が在るんだろう。」
「 ・・・・・・ 」
無論、風馨について他人へ口外した事は一度たりと無かった。数ヶ月前、クリニック近くの河川敷で束の間 垣間見た彼女の印象から、おそらく悠介は察し得たのに違いない。しかし今この時まで、悠介が彼女について触れた事はなかった。
ー 玄関のチャイムが鳴った。 昼食が配達されて来たらしい。身軽に立ち上がって、悠介が応対に向かった。
   どうしたって埋めようが無いんだよ
悠介の口を突いて出た言葉が、永らく探し求めていた、謎を解き明かす啓示であるかのように、牧野の中で響き続けている。最愛の女性と、死別せざるを得ないー いったい何故に、かの、人一倍善良で純粋な男の人生に、そんな無慈悲で苛烈な運命が定められなくてはならないのか。
自らが背負う以上に果てしが無いであろう、悠介の抱えて来た寂寥や空虚を、牧野は改めて想い測った。 そうなんだ。 ー 所詮は、儘ならない。傍らに在って共に生きる事が叶わぬのであれば、なぜ出逢ってしまうのか。
そのひとの瞳に出逢った刹那に、恋い慕う切なさは否応もなく産まれてしまうというのに。

思いのほか種類の多かったデリバリーメニューの中から、差し当り二人分のランチボックスを選び出して悠介が戻って来た。
「 また随分と豪勢みたいだがー どうする? そこで昼飯にするかい??」
「 ー 先生、 俺・・・・ 」
悠介を見遣った牧野は不意に言葉を詰まらせて、両手で額を抱え込んだ。彼の深淵を満たす膨大な '傷み' の核が、言葉には なし得ない沈痛な嗚咽となって、彼を激しく震わせた。テーブルに二段の弁当箱を置くなり、悠介は胡座を掻いて彼を見上げた。
  大学病院で彼に逢った時、自分の中の何かが共鳴したのは、ここだったんだなー
「 ー ほんとに何にも無いんですよ・・ 生きていく目当てが。」
「 ー うん。」
風馨の存在と関わり合った経緯について初めて、牧野はごく掻い摘んで悠介に打ち明けた。
「 ・・それはー 辛い道だね。」
悠介は、瞼を深く閉じて呟いた。我が身の置き処を見つけられないまま、遣り切れぬ精神の疼痛を持て余す男たちの頭上にも、均しく時は刻まれて、この日の正午を回ろうとしている。
テーブルに背を持たせ、無造作にジーンズの両脚を投げ出すと、悠介は降り注ぐ陽射しを仰いだ。
「 在り来たりな言い方だがー 人類のほぼ半分は女性なのにな。
どうして、彼女じゃないと駄目なんだろうな?? ・・ ほんとにさ。」
「 ・・本当ですね。 どうしてなんでしょうね。」

懐石風な拵えながら洋食の惣菜も取り入れた凝った作りの弁当を、彼らはとにかくも、食しておく事にした。差し向かいで頬張りながら、悠介は しみじみした声を出した。
「 トモ君は強いなー 俺だったら、後先も何も考えられんよ。『レジリエンス』とか心療で言ったりするんだが 」
「 ? どんな意味です??」
刻々と、奔放な変容を見せる悠介の豊かな表情を眺めて会話する心地の好さを感じながら、牧野は問い掛けた。
「 トラウマや逆境に対応するための適応力とか回復力で、人間には本来、備わってるはずなんだと。」
言い挿して、まず先に、悠介は あっけらかん と笑った。
「 俺なんか、心が折れない訓練するどころか、木の根っこごと倒れちゃってるからね!
もうその時点で、医師失格しちゃってるからさー 」
つい つられて、牧野も久々に外連味のない笑顔を見せた。 無様ついでに、話しちまうがー と、
無垢な少年のごとく傷ましい、その眼差しを 悠介はふと、臆面もなく潤ませた。
「 俺 時々は、死んじまおうか とか真剣に思うんだよ。美穂に逢えるんなら、可いか ってー 」
「 ・・・・・・ 」
見守る牧野の黒眼がちな瞳も、俄かに美しい煌めきを見せた。
「 でもな、ほんとに『あの世』とかが在るかどうか、判らないからさ・・・
何にも無くなったら、想う事すら出来なくなるだろ??
だったらせめて、おめおめ生き永らえて、ずっと忘れないで居た方がましなのか ー って。
いっそ完璧にイカれちまって、物の怪でもマボロシでも良いから、美穂とまた逢えさえしたら どんだけ好いだろう って ・・・
そんな阿呆みたいな事をさ、心の底から願ってるんだよ。」
およそ狂気染みた運命に翻弄され続け、混沌と流浪の只中にのみ、自らを活かさざるを得なかった牧野が、経験のない心の動きに委ねて身を乗り出した。
「 先生は、生きていて・・ ください!」
瞬がず見つめた瞳に、悠介は悪戯っぽい微笑を返してみせた。
「 じゃ、トモ君も何処へも行かんでくれよ。」
「 ・・・・・ 」
他人へ、これほど近く心を寄せたのは初めての事であった。強いられずとも、傍らに在る存在の温もりへ牽制なく寄り添える初めての安らぎを、牧野は眼を閉じ、全身で感じ取ろうとした。そのまま、精神の深い、深い処から涙が滲み出て来るのを待った。
「 君の大切なひとと、澤村君たちのためにー それと、半分以上は俺のために。」
娘も、いずれは何処かの野郎が掻っさらって行っちまうだろうし と、悠介は苦笑しながら大きく溜息を漏らした。

ほぼ予測と違わぬ時刻に、澤村の運転するクーペが到着する気配が聞こえた。玄関のドアを開いて迎えに出ると、初秋の儚い日照の運行は思いの外に早足で、陽射しは そろそろ淡く薄らいでいる。ルーフ下のガレージで澤村がトランクを開けるのを見て、牧野は歩み寄って声を掛けた。
「 ヒロ。手伝うかー 」
「 兄さん、ただいま。どうもありがとう。」
穏やかな微笑で応えた弟の表情に、愛する女性を護る頼もしさが垣間見えるのを牧野は確かめた。
( 幸せなんだな。本当によかった・・・。 )
自身の身上はさて置き、彼は心の何処かに ほんのりと暖かな救いを感じた。車載して戻った荷物のバッグを手分けして携帯し終えると、澤村は助手席の窓を軽くノックして開いた。
「 寿々さん、お待たせー 兄さんだよ。」
「 ・・・・ 」
差し伸べた手に導かれ、しとやかな身のこなしで降り立つひとの状(さま)へ牧野は眼を遣った。
「 お兄さまー?? 御手を煩わせてすみません。はじめまして。寿々と申しますー 」
寿々は、端正な面差しに素直な申し訳なさを俄かに浮かべて牧野を見上げた。その容姿の醸す気高さと優美さに不意を突かれて口籠ったが、精一杯の努力で、どうにか会釈を返した。
「 いいえ・・ ー 牧野です。」
開けた方の右手で寿々の肩を抱いて徒歩を促すと、玄関前で出迎えている悠介について、澤村は紹介した。
「 先輩の佐野先生。とてもお世話になってるんだ。」
「 お世話になってるのは、此方の方ですよ。ーこんにちは。」
澤村の傍らで、寿々は真心の籠もった情の深げな瞳を悠介へ向けた。この美しい女性に おそらくは特有に備わった、感受性の鋭利さや情愛の豊かさが、悠介には一見して解せられる想いがした。世の塵埃に塗れてもなお、汚れを赦さぬ魂こそが抱える懊悩は、過大な負荷を彼女に及ぼし続けて来た事であろう。
「 お話は善く伺っております、先生。どうもありがとうございます。」
丁寧な辞儀をみせる寿々の絹の黒髪を、9月の微風が柔らかく解いてそよいだ。
「 リビングで、ゆっくりしよう。 ね、寿々さん。」

ぜひ夕食を済ませて行ってください と、引き留める二人に謝意を伝えて、悠介と牧野は陽の傾くのを待たずに帰途に着いた。
「『天の采配』とか言うが・・ 」
ハンドルを握りながら、悠介が呟いた。寿々の、闇夜のせせらぎを湛えたごとき艶やかな眼差しに一たび出逢えば、誰しもが忘れ難い印象を抱くに違いない。
「 あの女(ひと)は、澤村君を救うために、その場所に在ったんだなあ。」
「 ・・・ほんとに、そうですね。」
最初の信号待ちで、何事か思い付いたらしく、悠介は車窓越しに道路標識を確認した。
「 連れ回して悪いんだがー ちょっと、寄り道してもいいかい?」
「 はい。全然・・。」
この人と共に過ごせたら、よほど気が楽だ 何気なく、そんな風に思えている自分自身に くすぐったい違和感を覚えつつも、牧野は疲弊し切った心を委ねてみる事にした。
「 先生ー 」
「 うん??」
左目の端で、悠介は助手席の牧野に応えてみせた。ちょうど正面から差し込む陽射しに彫りの深い瞳を細めながら、牧野は前方の遠くを見据えている。 
弟へは伝えないでください と、彼は前置いた。
「 さっき、俺ー なんだか母親の顔を思い出しました・・ たぶん、顔立ちの何処かが似てるんだと思います。」
「 寿々さんが、か?」
「 ーええ。」
養護施設に保護されるに至った前後の泰弘の記憶は、三つになるかならないかで、ごく断片的だと思う と、彼は付け加えた。
「 だから、何だー という事でも 別に無いんですが。」
「 うん。ー君が感じたんだから、きっと そうなんだろう。」
不思議なものだな と呟きざま、悠介は明らさまに、その眉間へ嶮しい悩ましさを浮かべた。
「 娘がさ、」
「 ?? ええ。」
「 よく、『亡くなった妻の忘れ形見』とか言うじゃん ? 」
比較的 住宅の建て込んだ十字路で徐行しつつ目を配り、対向車や歩行者を確認し終えると、悠介は右方へハンドルを切った。
「 それがさー ぜんぜん美穂に似てないの、娘なのに。見た目も性格も、まんま俺なんだよな・・ 残念な事に 」
「 ・・ はあ。」
しみじみと可笑しみが込み上げて、牧野は安らぎに包まれた表情で破顔した。悠介は、いたって真剣な眼差しで愚痴をこぼしている。
「 親娘を勘当されちまいそうだから、面と向かっては言えないんだがねー 。」
ついには溜息交じりに、悠介も笑窪を見せて自嘲の苦笑を漏らした。目的地の設備らしい小規模な駐車場へと徐行して進む先を牧野が見遣ると、なだらかな坂の上に寺院の山門と大きな屋根が臨めた。
「 命日でもないんだが・・ 一緒に墓参りしてやってくれるかい。」
「 ーはい。」

トランクに常備してある墓参用の小物を揃えたトートバッグを取り出すと、悠介らは山門手前の商店で供花と線香を求めて、寺院奥の墓所を目指した。さほど規模は広大ではないが、創建以来 刻まれて来た歴史の重さを、風化の箇所も拝せられる古びた山門が物語っている。門をくぐった正面に、由緒のあるらしい銀杏の巨木が、何事か雄弁な佇まいで虚空遥かに枝を伸ばしていた。本堂と三重塔を傍らに眺めて過ぎると、突き当りが墓所である。入口手前の水屋内に備え付けの墓参用の手桶とバケツに水を汲み、柄杓にすくった清水で形ばかり手を浄めて、苔むす石段を昇ってゆく。やや窮屈そうに居並んだ墓石の狭間を、大柄な体軀を控え目に背をすぼめて牧野は悠介に続いた。彼岸から間がないせいもあってか、おおよその墓前が、未だ彩りを残した花束や供え物で飾られてある。悠介の進む方に、泰然たる大木が一本、懐深く木蔭を広げている様を牧野は見遣った。悠介の愛するひとの墓石は、年輪を重ねた逞しい古木の元に在るらしかった。
「 美穂。友だちが来てくれたよ。」
体を屈め、優しく頭を撫でるように墓石に触れると、悠介は手際よく周囲の清掃を始めた。
『 浄蔵美鏡大姉 』と戒名が刻まれている。
「 夏涼しいし、冬は風除けになると思って此処に決めたんだがー 」
携帯サイズの箒で落ち葉を掃き浄める跡を、牧野は固く絞った布巾で拭き上げていった。作業の間、頭上の梢では 終始 さわさわと爽やかに葉擦れを立てて、初秋の風がそよいだ。
「 けっこう埋もれがちなんだよね。」
新しい供花を両脇に飾り、線香の束に着火を済ませると、桶の清水を汲んだ柄杓を悠介は牧野へ差し伸べた。
「 てっぺんから掛けてやって。」
「 はい・・。」
最愛の人を訪う、おなじ心で、牧野は墓前に跪いて ゆっくりと丁寧に清水を掛けて墓石を浄めた。並んで合掌を終え、胡座を掻いて墓前に腰を落ち着けると、悠介は寛いだ微笑を浮かべた。
「 頼りになるお兄さんが出来て良かったね って、たぶん向こうで言ってる。 な? 美穂。」
優しく語り掛ける横顔へ、牧野は珍しく、衝動のままに問い掛けた。
「 先生ー 奥さんの写真・・お持ちですか?」
「うん? 持ってるー 見てやって。」
ジャケットの内ポケットから革製のケースを取り出し、悠介は笑顔で無造作に手渡した。
「 ・・ ありがとうございます。」
掌の上で牧野が そっと開いた、使い込まれたケースの中に、色褪せることの無い 悠介の無限の愛が息づいていた。
中綴じの収納スペースも含めて、いかにも優しげな童顔の愛くるしい女性の幾つもの笑顔が、牧野を暖かく迎えた。学生時代に撮られたものか、二十代らしい悠介が背後から伸べた両腕を交差して彼女の肩を抱いている。その一枚が捉え得た青年の純愛は、時空を越えて なお一層の純度を増し、牧野の前で透き通った煌めきを放っていた。
「 な?? 可愛いだろ?? 大っきな眼が垂れててー 」
「 ・・はい。 すごくー 可愛らしいです・・・ 」
大事に閉じたケースを両手で額に押しいただき、理由も判らず、牧野は声を絞ってむせび哭いた。その、大きな背を優しく撫でつつ、悠介は無言で寄り添った。供えられた線香の白い煙が、二人の頭上を漂いながら、やがて美穂の墓石を覆う梢の高みへと昇っていった。


 九月最後の土曜は、正午を過ぎてから、粒の細かい煙るように静かな雨となった。
この日、午前中に担当医師に問診を受け、今後の経過観察のメソッドや日常生活を過ごす上での注意点を聞いて、津久井は ほぼ2ヶ月に及ぶ入院治療を終えた。むこう2週間は自宅待機で日常生活のリハビリから始め、週ごとに通院して経過を確認する予定になっている。最後の昼食を院内で済ませ、綾嶺大学病院のタクシー乗り場から彼が向かった先は、自身の暮らすワンルームマンションでは無かった。所属する所轄範囲内の北東の外れに位置する区立公民館前で、津久井は車を降りた。この施設に用がある訳ではなかった。
「 ・・・・・ 」
リュックを左肩に掛けたまま腕時計の時刻を確かめると、常になく、足取りの赴くべき先を決め兼ねてタクシー乗り場のベンチに腰を下ろした。雨模様のせいでもあろうが、週末の施設では主だった行事予定が無いらしく、下校時刻後の校舎めいて しんと鎮まっている。周囲一帯は、武蔵野の面影を色濃く残す緑豊かな住宅地である。昭和期からの家屋が多く、商店街を成すまでは密集せぬ、地元に根差した多様な個人商店も住宅街に彩りを添えて健在である。
「 ー利用されます??」
唐突に掛けられた声の方へ、津久井は顔を上げた。流しのタクシーが一台、目ざとく津久井の姿を見つけて施設内へ乗り入れていた。半開きした助手席の窓越しに、初老らしい運転手が人馴れした視線をこちらへ向けている。視線を足元に落としていたとは言え、車が走行して来たのに気付かなかった事に、津久井は愕然とした。
「 いいえ。・・すみません。」
返事を聞くや、運転手は身軽に会釈して滑らかに車を発進させ、車道へ戻って行った。タクシーに背を向けて立ち上がると、津久井は公民館入口の屋根下をはずれた。頭部を湿らせ始める初秋の雨のしめやかさを感じながら、土地勘のある経路を辿ってゆく。近隣のコンビニで雨具を誂えられなくもなかったが、さほどの雨量でも、目的地までの距離でも無かった。細道の行き詰った突き当たり、ごく ささやかな面積の児童公園に隣り合った角地の一軒家の前で、津久井は立ち止まった。
「 ・・・・・・ 」
古びた表札の『新美』という文字を、彼は前髪から滴る雫越しに見つめた。
質素な佇まいの経年した平屋で、錆も浮かんだ鉄の門扉は彼の胸ほどの高さもない。この折にも形ばかり閉じられてあって、別段 施錠されていないのに気付くと、津久井は そっと門扉を潜って玄関へ進んだ。
扉の前でなおも躊躇い、チャイムを鳴らすか、鳴らさずにノックするか決め兼ねていると、屋内から猫らしい鳴き声が、思いのほか間近で聞こえて来た。扉のすぐ向こう側で鳴いているらしい。
( ・・くぅちゃんー ?? なあに??)
玄関へ近寄る人の気配がして、自分の幼な子に訊ねるほどに優しく、女の声が微かに聴こえた。
「 ・・・・ 」
津久井が、どうしても この日訪ねたかった女の声であった。
施錠を解き、ごく慎重に扉を開きながら玄関前の様子を伺った視線の先に、濡れそぼって佇んでいる津久井をみとめた女が呼吸を詰めるのが判った。
「 ー!? 津久井さん?? 病院は・・ 」
やっとの事で口を開いた横を、ガタイの良い赤トラ猫がすり抜けて外へ出ようとするのを同時に留めて、重なった津久井の手を彼女は両手で そっと さすった。
「 冷えてるー 大怪我なさったのに。」
屈んだまま見上げる大きな瞳が、見る間に潤んで煌めいた。
「 ・・・・・ 」
言葉の接ぎ穂を見つけ得ない津久井の手を取ったまま、彼女は中へ入るよう促して立ち上がった。
扉を閉めて施錠すると、靴を脱がせて上着を預かり、ダイニングの椅子へ津久井を掛けさせた。
「 直ぐ支度しますー お湯に浸かってください。」
「 いや。そんなつもりじゃー 」
脱衣所から慌ただしげに持ち出したバスタオルで背後から覆うと、女は津久井の濡れた髪を丁寧に拭い始めた。
「 ・・・・・・。」
瞼を閉じ、津久井は此処へ至った経緯の説明と彼女を遮る事を止めた。屋根にそぼ降る雨音は響かない。かすかに、何処かより音楽が聴こえて来る。津久井には解らない外国語の歌唱で、フランスの言葉らしかった。そこはかとなく秋雨の湿り気を醸す、日照の差さない室内で、彼女の掌の柔らかな温もりを彼はタオル越しに感じ取っている。
女は津久井より二つ年下で、古風なほど端正な顔立ちは、古えの美人画の憂いを儚げに宿していた。名を、新美 紫乃と言ったー
彼の父親を殉職へ追い込むきっかけとなった、違法薬物所持と傷害及び傷害未遂、殺人事件の被告として服役中の 新美 宏之の実妹であった。
「・・・・」
拭うのを停めた両手を、躊躇いがちに分厚い肩の上へ置いた後方を、津久井はいくぶん首を捻って観やった。
「 ーICUに居る時、見舞いに来てくれたんですね。」
顔を向かい合わせずとも、彼女の秘めた息遣いの気配を津久井は肩に感じた。
「 ・・村山さんが報らせてくださってー ごめんなさい。 心配で居た堪れなくて・・・ 」
透き通った細い声がわずかに震えた。その華奢な指先へ触れようとした津久井の元を離れ、紫乃は風呂場へ向かった。
津久井がこの家屋を訪れた直近は、この年の2月で、ひとり親だった兄妹の母親の三回忌の折だった。母親は、裏庭の樫の古木の枝にロープを吊るして、自らの生命を絶ったー。
勧められて止む無く、彼はキッチン奥の風呂場へ向かった。
いなくなる前の父の部屋着ですが・・・ 着衣が乾くまでの間に合わせにと、畳まれた男物のジャージと長袖のシャツを彼女は手渡した。脱衣所のカゴには、清潔なタオルが数枚用意されている。
父親だった男は、被告が犯行を犯す数年前に蒸発し、以来 行方が判明しないままである。
「 ・・・・・・ 」
手荷物のリュックから下着の替えを取り出すと、津久井は湿った着衣を脱いで湯気で曇った風呂場のドアを開いた。
浴槽の中で熱めの湯に浸かりながら、薄っすらと雨天の午後の灰色を映す窓を彼は眺めた。そして、この屋の家族が正常で平穏であったはずの、かつての暮らしの様を思い浮かべてみた。体内の血行が循環を盛んにし始めるに連れ、負傷した傷跡の疼きが深く、強くなる。敢えて確かめるかのように、津久井は目を閉じて傷みの在り処を辿った。
着替えを済ませて戻ると、紫乃はキッチンに立って飲み物の準備をしていた。努めて微笑を浮かべて振り向いた面差しは、蒼ざめて見えるほどに白かった。
「 ーごめんなさい。小さかったですね、やっぱり 」
足元に置かれたクッションがお気に入りの場所らしく、赤茶の虎ネコが機嫌よく毛繕いをして寛いでいる。火に掛けたケトルの湯の沸き加減を見ながら、彼女は背中越しに訊ねた。
「 インスタントなんですけど・・ コーヒーで宜しい??」
「 ・・・・ 」
応えを返さぬまま近付くと、津久井は背後から彼女の左肩へ手を置いて、コンロの火を静かに消した。
「 ー少し温かくなりましたね。・・・良かった。」
肩の上の津久井の手を見遣り、けして向き直ろうとはせずに、紫乃は何気ない風を精一杯 装って呟いた。その優しい肩を、津久井は不意に、背後から羽交い締めに強く抱き寄せた。
「 ・・・。」
息を凝らして、刹那 身体を強張らせたが、はじめて腕の中へ引き寄せた紫乃の身体は、津久井の筋肉の動きへ やがてしなやかに添い始めた。腕力と握力の負荷を掛け過ぎない配慮を施すのが、やっとであった。それでも、皮膚の薄い、女の細い骨格には力が強すぎたかも知れぬ。
「 自分はー 警察を辞めるつもりでいます。」
「 ?! ー津久井さ・・ 」
言い掛けるのを強引に自分の方へ向き直らせると、腕を解かずに その澄んだ瞳を覗き込んだ。
「 来年、親父の回忌が済んだら・・ 俺と一緒になって下さい。」
「?? ・・・・ 」
止め処ない涙が、彼女の頬を伝って濡らした。
「 自分を偽るのを止めますー ずっと、ずっと・・ 貴女を想っていました。」
栗毛色の艶やかな髪を乱して首を横に振り、紫乃は懸命に、刑事の決意を窘めようとした。
「 そんな・・ 駄目ですー! いけません。 立派な警察官でー 」
「 紫乃さん!! もう善いんだ!!」
遮った津久井の言葉の鋭さに、潤んだ眼差しを震わせながら、彼女は頑強な男の顔を熟っと見つめた。そして、肩を掴んだ彼の右手を両手でそっと握ると、儚い唇へ押し充てて幽かに微笑んだ。
「 ・・はじめて、名前で呼んで下さいましたねー 」
「 ・・・ 紫乃さん。」
腕の中深くへと、津久井は強く抱き締めた。
「 貴女は、十分過ぎるほど背負って来た・・ 終わらない苦しみなら、せめて一緒に・・ 」
いつしか胸に縋り、慎ましやかな鼓動とともに彼の研ぎ澄ませた神経を仄かに包み込む、せつないフレグランスの香に津久井は常軌を喪っていった。狂ってしまいそうな予感を戒める警鐘が、脳内の遠くで発令されるのを感じた。構わない と思えた。
「 愛おしいんだ。 貴女がー 」
紫乃の唇を奪うと、しだいに激しく求めた。穏やかに身体を委ねながら、彼女は言い知れぬ優しさで応え続けた。その後の記憶が あやふやである程に取り乱して、早い初秋の日暮れが忍び寄る家屋の何処かで、津久井は永く想い続けた女の身体に膚を重ねていった。
















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登場人物紹介

水樹 史也( みずき ふみや)

広告制作会社勤務のイラストレーター。26才。心療内科カウンセラー 佐野 悠介との出逢いがきっかけとなり、かつて深刻であった精神状態から快方へ導かれて以来、悠介へ深い信頼を寄せている。

並外れて繊細な神経に恵まれた一方で、一般的な常識にとらわれない大胆な行動力をも兼ね備えている。

佐野家隣家の牡猫コタロウ( 水樹は一方的にヴァンプと呼ぶ )は親友である。

コタロウ

佐野親娘が暮らすマンションの隣人・黒田さんが飼っている去勢済の牡猫。

遠出はしないが、何故か佐野家へだけはベランダを器用に伝って頻繁に訪ねて来る。穏やかで人なつこい性格で、ツンデレのツン要素はあまり持ち併せていないらしい。

大柄な水樹 史也が繰り広げるスキンシップを実のところは迷惑に感じている、かどうかは不明である。

佐野 成未( さの なるみ )

大手通信販売会社に勤務する27才。きょうだいは無く、臨床心理士の父・悠介と二人暮らし。

十代で母を亡くしたせいもあってか、日常の生活者として揺るぎのない堅実さを備えたしっかり者である。

職場の同僚で後輩にあたる 中村 宏太 に異性として好意を感じているが、適当な距離から見守っていたいとひそかに願っている。

亡くなった母の実姉で、関西在住の叔母・川瀬 愛子 の無敵な明るさも好き。


佐野 悠介( さの  ゆうすけ )

臨床心理士を務める成未の父親。ある意味、純粋な少年時代のひたむきな向学心を持ち続けている。生来の気質としては朗らかで、性善説を信念とする。豪放と呼んでも可いマイペースと他人の反応をあまり意に介さない爽やかさが、弱点でもあり強みでもある。早世した妻の美穂をこよなく愛し、誰よりも傷みを背負っているが、忘れ形見の成未にも敢えて語った事はない。彼の血の通い合った心療の姿勢が、苦しむ者の拠り所となる。

中村 宏太( なかむら  こうた )

成未の後輩にあたる同僚の青年。人間関係に於ける周旋などに、ややもすれば誤解を招くほど不器用な誠実さと真面目さが長所とも謂える。その一本気さゆえ逆境に弱そうに見られがちであるが、外見とは裏腹の不屈な意志の勁さを秘めてもいる。誰にも明かさないが、片親の家庭に育ち自身の努力によって現職を掴んだ不遇な経歴こそが、未来を生きる糧となるという誇りと信念を強く抱く。

その一方、他人知れず成未に対する深い愛情を日々確かめてもいる。


記憶を持たない謎の男

事故なのか、傷害の被害者であるのか、瀕死の重傷を負って忽然と現れ、救急病院へ収容される。

怪我の後遺症によるものなのか、彼の「記憶」には深刻な混沌が生じていた。

唯一の所持品である色褪せた挿絵らしい紙の切れ端と、彼の脳内から無作為に出現するワードを手掛かりに、悠介と里中は心療にあたろうとする。

ところが正体不明者が次々と現れ、彼の身辺はしだいに不条理な危険に晒されてゆく。並外れた体力と身体能力を備えている事実に関しては、疑う余地がない。

里中 睦( さとなか  あつし )

悠介の同窓生で個人の臨床心理クリニックを経営する。佐野家とは美穂の在名中より親しい交流を持ち続けている。学生時代に培われた純粋な理念と悠介との信頼関係を自身の宝としており、悠介に臨床治療の片腕を託してもいる。成未にとっては、心の内を明かせる大切な存在である。

明朗な印象で独特の愛嬌の豊かさが魅力だが、外見とは裏腹のこまやかで緻密な神経を持ち合わせている。

澤村 泰弘( さわむら やすひろ )

悠介らの母校に附属する大学病院の心療内科で治療にあたる若手医師。緻密な頭脳と臨床医師としての適性から、周囲に将来を嘱望されている。公にはされていないが、不幸な幼年期に他家へ養子に迎えられた生い立ちを持つ。

心療を目指したきっかけは自らが幼い頃に負い、癒えることのない心の傷痕にある。少年時代に奏法を学んだヴァイオリンを愛し、多忙な中に於いても一人奏でて過ごす時間を大切にしている。

津久井 慎司( つくい  しんじ )

佐野親娘が居住する地域を所轄する警察の刑事で巡査長。謎の男の身元や負傷した経緯などが究明されないままの現状に違和感が拭えず、真相を突きとめようとする。微塵な情報を見逃さない、物的な手掛かりに基づく公正な分析を規範とすべく自らを律する一方、現場の人間に対する直感的な印象や気付きにも重きを置く。真摯な責任感と誇りが、職務に取り組む信条である。学生時代より精進している空手道の段位は黒帯で三段。

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