第18話  零露の文(あや)

文字数 17,406文字

 城南地区所轄署の刑事課巡査長 村山は、捜査中である被疑者の張り込みを終えて、署内に於いての当直にあたるため帰署した。駐車場で覆面車輌を降りると、同行した署員へ断り、携帯を取り出した。
「 すみません、直ぐ戻りますー 。」
時刻は、そろそろ23時に近かった。各階ごとに幾つかの窓の照明が消灯されているのを見上げながら、村山は通話の応答を待った。自身の負傷も含め、同行していた津久井が重傷を負った発砲事件の捜査が難航を続ける中て、ようやく被疑者の一名を実行犯として断定し得る肝心な段階に差し掛かっている。事件に関与したと推定される重要な被疑者数名の動向を追いつつ、三日ほど署内に泊まり込みが続いていた。
「 ー もしもし??」
声をひそめ、携帯の向こうで応答した妻の恭子の不安と緊張を感じ、村山は小さく笑ってみせた。
「 悪いー 結衣 起こしたか?」
「 ううん、大丈夫ー よく寝てる。」
高校時代の2学年下でバスケ部のマネージャーだった恭子は、結婚して六年ほどを経ても、村山の事を『淳さん』と、後輩の時分の名で呼ぶ。
「 淳さんー 大丈夫???」
事件以来、幾分 過敏に気遣うようになっていた。元来 朗らかで芯が気丈で、物事を くよくよ抱え込まない性質なのだが、津久井が重傷を負った経緯もあり、事件が彼女に遺した心の傷跡は村山本人よりも重かった。
「 俺は大丈夫だよ。 ・・お前の声が、聴きたくてなー 」
「 よかった・・ ありがとう、淳さん 」
涙混じりになるのを懸命に堪えて返す優しい声を、村山は束の間、瞼を閉じて全身で感じた。申し訳程度に敷かれた壁面沿いの低木の植え込みでは、深まる秋の深夜の闇に紛れ、しきりと数種の虫たちが集(すだ)いている。
「 明日の昼ごろ、一度 帰るよ。」
通話を終わらせながら、彼は二階へと足早に階段を昇った。
村山が最後の段を昇り終えるのと、元宮部長の太い怒号が鎮まった二階廊下へ谺を伴い響き渡ったのが、ほぼ同時だった。
「 ー!?」
刑事課室へ駆け込みざまに見遣った村山の目に、ドア近くの壁面で津久井の襟元を鷲掴んだ元宮の姿が飛び込んだ。とっさの反応で、背後から両脇を抑え込み引き離そうとしたが、元宮は尋常ならぬ勢いをはらませている。
「 この、ー 大馬鹿もんがっっ!!」
この瞬間までの経緯を目の当たりにしていたと思しき二名の課員は、むしろ仲裁に入る間を測りかねたらしく、立ち尽くしている。
「 ー部長、こいつ何か・・ 」
「 貴様! どう言うつもりで警官やって来た、ええっっ!?」
「 ・・・・・ 」
村山の抑制を意にも介さず、真正面から津久井の顔を凝視して、元宮は鋭く問いを浴びせ掛けた。
完全に抵抗を放棄しているらしい津久井は、視線を低く落としたまま無言で居る。
「 親父さんの遺志を継いだ とか、そんな薄っぺらな動機だけで刑事(デカ)やってんのか!!」
「 ー部長。」
ここに至って、ようやく元宮は掴んでいた両手を離した。村山が背後へ寄せた椅子へ乱暴に腰を下ろすと、大きく腕を組むなり津久井を見上げた。
「 何処の女に惚れようが、お前の勝手だがー 」
やや居住まいを正し、津久井は初めて口を開いた。
「 彼女はー この事とは関係ありません。」
「 ー!!!」
売り言葉に買い言葉なのか、再び やおら詰め寄り掛かる元宮を課員が両側から抑え込んだ。止む無く、村山は津久井の後ろ襟を強引に摘み、室外へと移動を促してみせた。
「 ・・・・・。」
通路奥の窓下に置かれた長椅子まで歩いて、仏頂面のまま腰を下ろした傍らで、村山は津久井の顔を覗き込んだ。
「 復職の予定、来週からだったろう。今日は何だよ??」
「 ー 相談しに、来た。」
「 相談て、ー何の 」
カチ・カチ・カチ・・・・
昔ながらのアナログな丸い壁掛け時計の針が、廊下を挟んだ頭上で粛々と耳障りな稼働を続けている。両膝に腕を預けて俯いていた津久井は沈思した後に、重い口を開いた。
「 ・・ 辞職する、相談。」
「 はああー ???」
元宮ならずとも、驚愕の声を上げざるを得ない発言に違いなかった。従来 不器用とさえ言えるほど、課員の中でも人一倍の ひたむきさで任務に取り組んで来た男の口から出た言葉とは、俄かには信じ難かった。まして、である。
刑事捜査に感情論は厳禁の法度とは云え、元職警官二名が捜査中に襲撃されたとあって、本庁に於いても見過ごせぬ故に特別捜査体制を敷いている。事件の背後で遠く近く、狡猾かつ不敵な挑発を垣間見せる闇組織の存在を見据えた、謂わば総力戦が展開中の最中なのである。当初の予想外に捜査の進捗が思わしくも無く、次週 津久井の前線復帰を待って一気に追い込みを掛けたい元宮の憤慨振りは最もであろう と思われた。
入院中、おそらくは彼が初めて正面から肉迫した偽らざる自身との遣り取りを、津久井は村山へ打ち明けた。長きに亘り、決して解いてはならぬと自ら封印して来た紫乃への想いと、彼女と共に未来を生きる人生を選択する決意についてー
途中から背を壁にもたせ、常通りの姿勢の良さで村山は耳を傾けていたが、一通り聞き終えると両腕を頭上に組んで ゆっくりと伸びをした。
「 ・・・ で、なんで辞めるんだよ?」
「 ・・・・・・ 」
下ろした両手を後頭部で組んだまま、村山は絞られた照明の元で津久井の横顔を見遣った。ノータイ姿の津久井を見るのも稀だったが、平素より髪が伸びているせいか やや全体に線の細まった印象を受けた。
「 ー収監中の新美に、問題行動はないんだろう?」
「 特には聞いてない。」
一緒になる相手が捜査中の被疑という訳でも無し、別段 構わんだろう と、いかにも この男らしい実直な反応で、村山は穏やかに応えて返した。
「 ここだけの話、」
膝の上で組み直した手元に視線を落とすと
「 女房が居てくれるから、俺、なんとかやってんだよー あいつを護っててやりたいから。」
村山は、微かに自嘲的な微笑を口の端へ浮かべた。
「 まあ、・・じっさい俺の方が世話になりっぱなしなんだが 」
「 ー津久!」
2名を見つけた課員の室田が、重い靴音を通路に響かせながら小走りで駆け寄った。ワイシャツの袖をたくし上げた右手に、何か握っている。
「 ・・・面(つら)洗って、来週 出直して来い。いいな。」
津久井が今晩持ち込んだ辞表の封書を強引に差し戻して言い放つなり、室田は踵を返した背中越しに村山を呼んだ。
「 村山、戻れ!」
従って立ち上がると、村山は一たび津久井の肩に掌を置き 二、三度 力強く揺すぶって言葉を遺した。
「 とにかく、性急に思い詰めるな。 ー その人のためにも 」

 10月最後の木曜、常と変わらず 牧野は ようやく空が白み始めるのを待って起床した。夜の明けるのが緩やかな時候で、窓の外の世界が纏った奥深い闇が未だ名残りを惜しむ、蒼く翳った頃合いに目覚めてしまう。
「 ・・・・・・ 」
差し当たり、前夜と異なる点の見当たらぬ身体状況で新しい日を迎えたようであった。直近の習慣で、先ずは左手を伸ばし枕元に置いた小型ラジオの音を鳴らした。英語圏のニュース放送を数局選んである。ほぼ半日程度の時差で、音波発信元のエリアでは一日前の夜を迎えよる頃合いらしい。布団に起き上がると、ペットボトルの水を一口飲んだ。瞬時に体内の細胞へ吸収されゆく水分の冷ややかさが、今朝は際立って感ぜられた。半身を潤す水温の低さが、背中の傷痕の最深部を 薄っすら 撫でてみせて過ぎった。
今月から、独りで暮らすようになっている。早期の自立を促す目的で、悠介からの経過観察の報告をもとに、区役所福祉課の担当者 十河より 向こう半期間の生活指導の計画が施された。引き続き里中の協力を得つつ、診察日はクリニックへ出勤して補助的な軽作業に従事し、休診日の木曜ごとに悠介の心療を受ける課程を過ごしている。仮住いは昭和期築の古めいた促進住宅の五階建ての箱型団地で、牧野に提供された部屋は一階の端であった。河川沿いに歩いて、里中のクリニックまで30分は掛からない距離である。ごく簡素な台所と六畳と四畳の和室に、申し訳程度の幅の浅いベランダが設けられている。単身者用の冷蔵庫や一通りの寝具など、生活に最低限必要な道具は、澤村が揃えた。次段階の生活を始めるにあたり、当初 澤村は兄のために賃貸物件を準備する旨を役所へ申し出たが、牧野自身が其れを拒んだ。
今日はクリニックで10時から悠介の心療を受け その後、昼食を共にする約束となっている。カーテンとサッシを開けてベランダへ出ると、牧野は一つ、湿りを帯びた早朝の冷気を大きく吸い込んだ。住居が充てがわれて以降、室内で可能な範囲の身体鍛錬には昼夜の時間を惜しまない辺りが、牧野と云う男に特有の傷ましくもある謹直さなのだった。
集合住宅の棟は二つあって、ベランダの面する共有スペース(とは言え、放置されたままの砂場とささやかな遊具が幾つか並んでいるに過ぎないが)を挟んだ向かい側にもベランダが並んでいる。二棟ともに、部屋の埋まり加減は4割程度で居住者らの人口密度は閑散としている様子であった。
動き始めた街の気配を感じながら、錆びつきのひどい鉄柵を利用して軽い屈伸で体をほぐしていると、斜め向かいの部屋のサッシが開いた。見たところ60代後半ほどの痩せた男性で、これまでにも数度 顔を合わせていた。
「 ・・・・・。」
向こう側でも牧野の姿に気付いたらしく、笑顔というよりは 若干ばつの良く無さげな中途半端な顔付きで、軽く顎を下げて会釈してみせた。牧野の方も、無言のままで会釈を返した。大気が含み始めた日光の乾いた肌触りとともに、男性側のベランダからラジオ体操の軽快な音楽がこちらまで流れ来る。一日の始まりに、この体操から身体機能を整えるのが彼の習慣であるらしかった。音楽に合わせる訳でもないが、遣り掛けのルーティンを終えるまでの間 牧野は近しい空間を名も知らぬ隣人と共有して過ごした。年季が入っていると思しき一つ一つの動きが過度に固苦しく、男性の取り組み様が真剣に過ぎて、やや微笑ましい気もした。
先に失礼しますー 何とは無し、そんなニュアンスの視線を送って軽く頭を下げてから、牧野は室内へ戻った。
ごくごく簡素な朝食を義務的に摂った後、シャワーを浴びて身支度を整えはじめた頃、来訪者を告げるドアのチャイムが鳴った。
「 ・・・・?」
廊下側へ慎重に開いたドアの先には人影が無く、牧野は周囲を見遣った。
「 ・・・・??」
ドアの左方、色褪せたコンクリートの壁面に、見知らぬ長身の男が気持ち背を持たせた姿勢で横顔を見せている。
「 !ー ・・・・。」
瞬時の本能的な識別で、男が一般的な存在の市民ではない事を牧野は嗅ぎ分けた。牧野より頭ひとつほど長身で、国籍は不明ながら光沢の豊かな長めの金髪と、目鼻立ちの彫りの深さ、艶やかな皮膚の透明感は、北方系の欧州民族の特徴を備えている。暫しの間、二人の男は視線を合わせぬままに対峙を保った。牧野の左手は、古めかしい金属製のドアノブを掴んだままである。遥かに隔てた市街を駆け抜ける警察車輌と救急車のサイレンが、相次いで過るのが遠く聞こえた。或いは、出勤渋滞中の近隣道路で事故が発生したものかも知れない。
「 ・・・・・ 」
金髪の男は微動だに動かない。上目遣いに やや視線を上げて虚空を見据えると、目には映らぬ獲物の動きを漏れなく把握する獰猛な獣の眼差しでサイレンの行方を辿った。薄目のカーキのトレンチを着崩した態(なり)で、コートのボタンは一つも掛けず、長い両手を無沙汰そうに両脇へ垂れている。着痩せして見せながら、衣服の下に仕込まれていると思しき 充分鍛えられた筋肉の隆起と柔軟さを、牧野は鋭く感じ取った。
「 ・・・・・ 」
真顔を崩しもせず、白々しく閉じ戻そうとしたドアの隙間に、男は優雅な身のこなしで靴先を挟み込んだ。そして徐ろに身体を起こすと、慣れ親しんだ友人であるかの如く浮かべた微笑の裡に さも怪訝な一瞥を冷たく浴びせ掛けた。
「 ヘイ、ヘイ・・ ーワッツアップ??」
両腕を伸ばしてドアの上部に手を休め 牧野の目を興味深げに覗き込みながら、男は特徴のある声で、その名を呼んでみせた。
「 ハウズドゥウイン? ホーリー・・ 『セレム』」
「 !?ー 」
とっさに半歩下がって身構えようとする牧野の反応を制御すべく、両手を軽く頭上に掲げると、男はその引き締まった口元を悪戯っぽく尖らせた。さり気なく自らドアの隙間へ身体を滑らせ、牧野の居住スペースへ侵入を果たすなり 男は後ろ手にドアを閉じた。
「 ・・・・・ 」
コンクリートが剥き出した玄関へ、直かに胡座を掻いて座り込んだ男は、見上げた視線で牧野にも同様に座るよう指し示した。猫の額ほどの面積を埋めた見知らぬ異国人の醸す体温と、微かな煙草の香が、およそ生活感を伴わない天井の低い空間の密度を俄かに重く湿らせた。背後の和室では、掛けっぱなしのラジオが相変わらずの気忙しいブロークンな口調でニュースを巻くし続けている。
「 ・・・・。」
止む無く、1メートルほど隔てて牧野は胡座を掻いた。男の風態等から、脳裏で検索を繰り返すものの思い当たる情報を発見できずにいる。改めて向かい合うと、男は特徴的な訛りを隠さぬ英語で、 簡単な英語なら会話できるな?? と、牧野へ問い掛けた。しかる後、男は慎重な物言いで言葉静かに語り始めた。
「 信頼したまえ。私は非常な紳士で・・ 」
「 ー???」
先ず、顔の前で両の掌をゆっくり開いて見せてから、男はシャツの胸ポケットより小さな紙片を取り出した。数枚の写真であるらしい。ボードゲームの手持ち札を確認するように手元で並べながら、彼は愉しげに濃い蒼天の色の瞳を細めた。
「 ーことに、 美しいご婦人に対しては、だ。」
指先で摘み上げた二枚を、男は牧野の視線の高さへ掲げて見せた。好天の戸外で撮られた、二十代の日本人らしい一人の女性が克明に映し出されている。病院関係者らの記憶を辿ったが思い当たらない。しかし、小造りな顔立ちの割りに はっきりした目鼻の面影の何処かに、牧野は見覚えがある気がした。表情を変えない牧野の心理を、つぶさに読み取れ得る能力を秘めているのか、男は口の端に幽かな笑みを浮かべた。
「 そう。こちらのキュートなお嬢さんは、父親似だな・・ 君の担当の、佐野の一人娘だ。」
「 !?・・・・ 」
二枚を床に滑らせると次の一枚を選び、男は小さく感嘆の吐息を漏らしてみせた。
「 そしてー ブロンドのロシア美人だ。」
何処かの病院らしい施設の窓辺で、車椅子に腰掛ける治療服の女性が映されている。長い金髪を、無造作に左肩の上で一まとめに編んだ化粧気のない面差しは やつれても居ながら、ラファエルの描く聖母さながらに、清らで美しかった。
「 ドレス姿が見てみたいものだなー 実に、好い女だ。」
そして、もう一枚を揃えて並べると、男はその声色を やや 鋭くした。
「 まあ、 ー 用があるのは、こっちの '坊や' なんだが 」
( ・・・ ?!)
女性の傍らへ寄り添う若い男の姿に、牧野は心中 目を疑った。牧野の知る限りとは印象を大きく異にして見えるものの、それは紛れ無く イムギの姿であった。
婦人連れである事がまず驚きだったが、しかも相手が一般人らしい上に、見るからに知的で上品な風情の美女なのである。牧野は一たび、合成写真では無いのかと真剣に疑って凝視した。
「 この、凶暴極まりない 'シスコン' 坊やの行方が・・ 」
イムギの姿を捉えた写真を苛立たしげに指先で ひらひら 揺らせてみせると、男は続く2枚を再び床へ滑らせた。
「 皆目わからんのだ。」
「 ??? 」
見上げた牧野の眼差しを覗き込み、男は膝の上で頬杖を突いた。
「 ー何か、心当たりが??」
「 ・・・・。 」
奇妙な親しみを滲ませる微笑を口の端に浮かべてよこす金髪の男を、牧野はしみじみ眺め返した。此処まで聞いて、この人物の背後に潜んでいる存在と出現の理由及び目的については、既にその凡そを察し終えている。
( 此奴は・・ 俺を知ってるのかー ??)
むしろ、男の正体それ自体の方へ興味を感じて、牧野は黒眼がちな瞳をまじろぎもせずに その挙手を注視し続けた。男の方でも、牧野の心理の綾を不思議なほど把握しているものらしい。黙したまま動かない牧野の反応に対し、一先ずの了承を示すかのごとく 彼は努めて穏やかに頷いてみせた。
「 ・・無いようだな。」
「 ・・・・・ 」
少しく溜息交じりにコートの内ポケットからタバコの包みを取り出すと、男は牧野の眼前に差し向け 吸うか?? と、尋ねる目配せを送った。国内ではあまり見掛けない銘柄である。首を横に振って辞してから、牧野は灰皿代わりに、飲み差したコーヒーの冷め切ったマグカップを差し出した。
「 ・・・・・ 」
小振りなライターで点火して、男は一つ ゆっくりと巻きの細い煙草を燻らせた。濃密な特徴のある芳香が、四角い空間を忽ち優雅に満たした。唇の左寄りで器用に煙草を咥え直し、男は牧野へ横顔を見せて大柄な背を壁にもたせ掛けた。
「 察しの通りー 'イムギ' を追うため、君の手を借りに来た。」
一通りのニュース報道を終えたらしく、ラジオからはスムージーな懐かし目のメロウポップスが流れ始めた。隙の見当たらぬ精悍な面立ちの印象を裏切り、疑わしいほど円(つぶ)らで無邪気に良く動く瞳を、男は牧野の頭上の何処かへ向けた。その不透明な瞳の色の、鮮やか過ぎる薄蒼を牧野は油断なく見守っている。
「 最後に奴が確認されたのは、極東の病院だ。」
牧野の足元へ滑らせた写真に視線を落とすと、男は軽く顎を振って 指し示してみせた。
「 ー このロシア美人が、奴を庇って死に掛けた。信じられるか??」
「 ・・・・・ 」
タバコの灰をカップへ落としながら、彼は わざとらし気に深々しく眉間の皺を寄せ、険しい表情を拵えた。
「 これほど好い女を、生命の危険に晒すとは・・ 実に怪しからん!」
ー 其れで?? いま時間の猶予があまり無い。 ごく簡潔な語彙を並べて、牧野は問い返した。
「 奴が接触を図る可能性が高いのは、やはりー 」
更なる写真を取り出し、何故か男は明らかに、その眼差しへ嬉々とした興味深さを漂わせた。
「 最愛の妹、だろう。」
牧野へ向けてかざした一枚の中央に、風馨が居た。おそらくは最近に撮られたものであろう。何処か晴天の庭園で つばの広い白い帽子を被り、低木の手入れをしている折らしい。薄紫の小さな花々が、彼女の腰の辺りで共に陽射しを宿して煌めいている。かつて、クリニック近くの河畔で訣れた時よりも一回りほど痩せたように思えて、牧野はひどく気に掛かった。
手元に残した一枚へ視線を落とし、どうやら本気らしい嫌悪感を尖らせると、男は徐ろに呟いた。
「 或いはー こいつが絡んでいる可能性も考えられる。」
写真越しに牧野の眼を凝視し直すと、ここまでの趣きを俄かに改め、彼は複雑で意味深げな表情を向けた。
「 君の、その・・ 『サムライ』スピリット、か?? ストイック振りは、全く敬服ものだな。」
「 ー 何が言いたい。」
自らの眼差しに、次第と抑制の箍(たが)の上限が せり上がり来る感覚を覚えながら、牧野は相手の眼を見据えた。いたって体温を感じさせない牧野の内に、暗赤色の焔の種を発火させ得たらしい感触は同時に、男の至上なる悦楽の導火線へも着火を持たらした。
「 私が君の立場ならー いま直ぐ こいつを八つ裂きに葬りたいがね。」
男が突き付けた写真の中で、ソスリュコの膝の上にしなやかな身体を預けて抱かれた風馨は、彼の濃密な口づけを受け止めていた。
「 ・・・・・・ 」
決して表情を変えぬ牧野の肉体と精神の最深部が、生気を伴わない、乾き切った音を不具合に呻いて軋んだ。手っ取り早くガソリンを浴びせたい衝動をも愉しむかの如く、容赦を見せない笑顔で男は続けた。
「 君だって、本心ではそうだろう?? ーセレム。」
俯きがちに右足の片膝をゆっくり立てると、上体をやや起こしざま、牧野は鋭く言い放った。
「 ー立て。 武器が無くても、俺はやれる。」
「 そうだ。・・実に、好い。」
牧野の動きを見遣りつつ、真摯極まりない挑発を意にも介さぬ風で、男は周囲の面積の狭さに そろそろ限界を感じたか、長い両脚を許される限り伸ばした。なおも挑みかかる間を窺う牧野を制して彼の発した声は、湿りを帯びて繊細な響きでありながら、何らの抵抗をも許容せぬかの独特な威圧力を感じさせた。
「 君の、その眼にー もう一度逢いたくて来た。」
「 何だとー ??」
煙草をカップへ投げ捨てると、写真を拾い集めて仕舞う傍らで 男はその眼差しに冷ややかな力を込めてみせた。
「 'レジェンド・ソスリュコ' には、随分と貸しがあるー 。君が背中の傷を受けたあの現場に、私は居合わせたのだからな。」
「 !? ・・・・・・ 」
冷たく騒めき立つ憤怒のあぶく越しに、遥かなる北方に連なる山岳と人々の特有な言語の どよめき、そして風馨の黒髪と白い膚の手触りが、まざまざと牧野の脳裏をかすめて過ぎった。微かな眩暈を覚え、彼は努めて静かに ゆっくりと一息を吸い込んだ。
「 正気を失わず、あれだけの傷みに耐え得た男を・・ 私は、君以外に知らない。」
膝を抱え込む形に体を屈ませ、不意に近しく顔を覗き込んで、男はコートのポケットから取り出した一通の封筒を差し出した。受け取ろうとせぬ牧野の足元へ封筒を置き、無骨そうな人差し指と中指を添えると 男は告げた。
「 二日だけ時間をやるー。」
「 ・・・・・・ 」
無言のまま視線を落とし、牧野は差し出された封筒と男の分厚い手元を見つめた。
「 '坊や' の追跡に協力するなら、明後日の朝、国際線に乗れ。パスポートと搭乗券、連絡用の携帯が入っている。」
「 ー ・・・・。」
「 可愛い弟の顔くらいは、見ておきたいだろう。」
返す言葉の代わりに、牧野はごく間近な距離で男の眼差しを凝視した。瞳の色が濃すぎるせいか、精巧な絡繰り人形に嵌め込まれたガラス玉の如く男の本意は読み取れない。
「 万が一、 ・・君の協力を得られん場合は 」
立ち上がりながら、彼は不敵なまでの満面の笑みを清々と浮かべて付け加えた。
「 手段は選ばず、美女たちの手を煩わせざるを得まいー 。 全くもって、困った '坊や' だ。」
「 ・・・・・ 」
微動だにせず眼で追う牧野に横顔を見せるなり、男は躊躇なく玄関のドアを半分ほど開いて外を見渡した。陽射しが注がれ始めた午前の薄い温もりが、微風と共に室内へそよいだ。ドア越しにもう一度顔を覗かせ、やんちゃそうな表情へ得も云えぬ親しみを滲ませると、自らの名も明かさぬまま男は去って行った。
「 では明後日、機内で落ち合おうー。」

 平常通りに悠介の心療を受診し、遅めの昼食を里中も交えて和やかに摂った翌朝ー やはり牧野は、空が白み掛ける時分に目を覚ました。例によってラジオの音波を拾い、熱いインスタントコーヒーを入れた。
「 ・・・・・ 」
コーヒーを啜りながら、薄暗い室内を見渡してみた。この朝は可燃ゴミの収集日となっている。指定されたゴミ袋を玄関に準備してあるが、容量の半分ほども詰まっていない。几帳面な男で、可燃品目として廃棄がかなう物品の漏れがないよう、周囲を順に眼で追って確かめた。出来うる限り、見苦しく劣化を生じる物品を室内に遺したくなかったのである。
役所から発行された福祉関係の書類、心療に関する書類の類い、冷蔵庫の中に保管された若干の食料などをゴミ袋に追加して封をした。所定の廃棄場所へ運び終えて空を仰ぐと、暗い灰色の天の高みに、明けの明星が夢の名残りを惜しんで ぼんやり滲んでいる。
「 ・・・・・ 」
その光を視覚に刻んだ後、この日予定している作業以外の思考を努めて遮断しながら、彼は足早に部屋へ戻った。

寝具を丁寧にたたんで和室の押し入れ上段へ載せ、トイレと浴室内をざっくり清掃した。フライト前に今晩仮眠を取るための、国際空港最寄りのビジネスホテルでシングルは押さえてある。冷蔵庫内の最後の食材を取り出して電源を抜くと、白米の残りと合わせて雑炊めいた雪平鍋を温め、ガスコンロの元栓を閉めた。あとは僅かな衣類等をショルダーに詰めれば、おおよその支度は終いであった。
「 ・・・・・ 」
味付けも気に掛けず朝食を口へ運びながら、思いのほか時間が余り過ぎる事に当惑を感じ、牧野はかすかな吐息を漏らした。都内を離れる前に、大学病院臨床の昼休憩に澤村を訪ねる予定でいた。今日以降、二度と己れの産まれた国の土を踏むつもりは無かった。何らかの必然が牧野の元へ唐突にもたらした、見知らぬ男の依頼を遂行するつもりも皆目 無かった。如何なる有り様で在ろうと、イムギには生き抜いて欲しいー その願いが、彼に於いてぶれる事は決してない。何れにせよ、大陸へ渡って無抵抗に身を晒したならば、さして時を待たず 何者かが自分に終止符を打ってくれるに違いないー。
この十月最後の週末の朝、牧野の精神に去来していた思考のすべては、其れのみであった。
食事を終えて台所のシンク周りを清掃し、数少ない食器を洗い終えて水切りに並べると、已む無く 部屋を出る前に湯に浸かる事にした。アンティークとすら言えるサイズの使い古された浴槽に、牧野の体格と身長では、足を伸ばす事は叶わない。胡座を掻いて禅でも組むような姿勢の良さで湯に浸かり、小さな窓灯りだけの浴室を包む薄い湯気の中に 牧野は しばし身体を預けて過ごした。

ほぼ予定した頃合いに、綾嶺大学病院一階 心療内科外来の待合へ牧野は到着した。週末のせいもあってか、診察待ちの患者でフロアは ほぼ埋められている。受付の事務員へ、澤村医師の身内で所用のある旨を伝えてから、牧野は一番端の窓際に空席を見出して腰を下ろした。待合スペースの正面は天井までのガラスで仕切られ、自動ドア上部へ設けられたモニターに担当医ごとの診察状況が逐次、反映されるシステムとなっている。3名の医師のうち、他の2名は診察待ちの患者番号が残り1名と表示されていた。たまたまなのか、常より個々の診察に時間を掛け過ぎてしまう嫌いがあるものなのか、澤村の進捗のみが未だ午前11時30分診察予定の患者番号を3名残している。
「 ・・・・・。」
少しく微笑ましさを感じて、牧野は内心に小さく苦笑を漏らした。重傷を負った彼がこの医療施設へ救急搬送された夜から、7ヶ月近くが経とうとしていた。禍々しい運命は、この生来 並外れて忍耐強い男へ煩く纏わり続け、可視できない定めの『糸』を断じて解き放たぬ執拗な意思を飽かず見せつけて来た。
( 疲れたー 。・・疲れたな。 )
いささかなりとも頼みにしていた刺客であるはずのイムギ本人が、行方知れずとは・・
イムギに限って、無様な顛末を迎えているとも思わず、ごく複雑な背景の絡んだ出奔には違いなく、少なくとも 自分の息の根を止めてからが望ましかったー 取り留めない思考が、意識の遠くをテロップ化して過ぎるのを 牧野は何らの感慨も抱かず眺めている。手厚い治療の効果はみとめられて、壊滅に近く破壊された彼の脳内機能は、生命活動を維持し得る能力を取り戻しつつあった。闇に紛れて葬り去られた、大部分の記憶の喪失に未練はないが、牧野の精神は ともかくも、此処に至って ひたすらに疲れ切っていたのである。
温もりを増すガラス越しの陽射しを左半身に受けつつ、彼はゆっくりと瞼を閉じた。エスカレーターを中心に上階へと吹き抜けている院内の、微妙に重い人々の騒めき、診療の運行に関する様々なアナウンスなどの粛々たる音声が、深海の底で沈黙する牧野の聴覚へラグを伴っては届き続けた。
( ・・ ーへ、 サラ ーンヘ・・ )
( ??ー うん?)
ふと腕の中に、忘れ得ぬ素膚の懐かしさを克明に感じて、牧野は反射的に応えた。風馨をこの手で抱いて心底愛した遠い日、互いの温もりと吐息のみが 生命の在り処であり得た甘美な刻の中で、訊ねたことがあった。
( 風馨のー )
( ・・なに?? 和さんー?)
可憐な陶酔を懸命に受け止め続ける風馨の瞼に優しく口づけて、牧野は訊いた。
( 別の言葉だと、何て言うー??)
( ・・何を??)
強く絡ませた指に力を込め、漆黒の美しい髪に顔を埋めると 彼は深い溜息とともに囁いた。
( 愛してる ってー )
( ー 『サランーへ』、 ・・・『サランヘ』ー。)

「 兄さんー??」
耳元で自分を呼んだ泰弘の声に反応し、牧野の脳内が瞬時に具現化して対応させたのは 養子として連れ去られる以前の、幼い弟の つぶらな眼差しであった。
  俺が学校へ行ってる間、泣いてなかったかー??
泰弘が一人でいる時に虐められなかったか 怪我などしていないか確かめるべく、記憶の何処かより正確に蘇った少年時の日常の習慣通り、牧野は利き手の左を伸ばした。
「 ごめんね、ずいぶん待たせちゃってー 」
「 ああ、ー・・・」
指先が触れたのは、弟の小さな頬では無く、澤村が羽織った白衣の胸ポケットだった。兄の左手を預かると、依然として医師の顔のまま脈拍を測りながら、やや意識の混濁している牧野の両眼を目診して見上げた。束の間、深く寝入ってしまっていたらしい。院内の騒めきは昼食と昼休憩のモードへ既にシフトを終え、多少の活気を醸し始めている。牧野の周囲で、待合の椅子は ほとんど空になっていた。
「 昼飯、行こう。」
「 ー いや、良いんだ。」
ガラス窓を背に片膝を突いた姿勢で、差し込む陽射しを眩しげに細めてみせた兄の眼差しを、澤村は見守った。体調の管理以上の、直感的な何らかの違和を 地上に二人きりの骨肉の細胞たちは感知し得ていたのかも知れぬ。
言葉で返すのを躊躇ったまま、陽光を透かした優しい瞳で見上げる弟に、牧野は不器用な作り笑いを浮かべてみせた。昼をまわって、そろそろ里中あたりから無断欠勤を案ずる問い合わせの連絡が澤村宛に入るかも知れない。大学の研究室に届けるものがあって、ついでに寄っただけだー
適当に話をごまかすと、牧野は両手で強く顔を擦った。
「 顔を見に寄れてなくて、ごめんよー 」
気遣う澤村を振り切るように立ち上がってバッグを肩に負い、牧野は頭ひとつほど低い弟の眼を深く覗き込んだ。
「 お前は、彼女を幸せにする事だけ考えてろ。俺は何とでもなる。」
共に歩き出そうとする弟を制し、充分な昼食と休憩を取るよう 言い置いて、何事も変わり無さげに牧野は背を向けた。最後に僅かばかり振り向いた窓辺の陽溜まりの中で、泰弘が いつも通りの素直な眼差しで小さく手を振ってみせた。
( お前は必ず、幸せで居ろー 。)
心の中に強く念じながら、一つ頷いて澤村へ返し、牧野は足早に正面エントランスへ向かって歩き出した。


 国際空港へ直結している路線のうち、直近の距離に位置する駅周辺で選んだビジネスホテルに、牧野は予定よりも早く到着してチェックインを済ませた。七階のエレベーターホールから奥へ5番目の部屋だった。窓越しに外を覗くと、眼下右方には 其れなりの規模の緑地公園と付随する駐車場が長閑に見渡せ、空港まで乗り入れる私鉄沿線の路線が高架上で緑地を分断している。
日が暮れかかるまでは、未だ間があった。いったん外に出ると、念のため、明朝利用する私鉄駅までの順路を辿り、改札周辺で路線図と空港までの所要時間などを確認した。此処から空港までの乗車時間は、15分程度である。近隣のコンビニで手軽な食品と飲料を数種類購入し、牧野は宿泊先へ赴いた。駅前の市街角地に建つホテルの側面が、中庭めいた共有スペースとして提供されているのに気付いて、時間潰しのため立ち寄る事にした。
やや和風な趣きに敷かれた横長な屋根の下にベンチを見つけ、彼は腰を下ろした。テイクアウトのホットコーヒーを啜りながら、道路を渡った正面を横切っている線路に視点を置いた。メタリックなボディにラインを彩った箱形の車両たちが、軽快な走行音を響かせつつ交差して行く。レジで温めたチョリソーのホットドッグを手に取った時、背後に寄る人の気配を感知して 牧野は動きを止めた。女であるらしい。と思ったのは、少し甘ったるいようなフレグランスが仄かにそよいだせいであった。気に掛けぬ風を装う傍らに、牧野とは反対の方角を向く態(かたち)で 一人の女が ふんわり 腰掛けた。
「 メイ・アイ・シット ・・ウィズ ユー ?」
女の発した独特なアクセントを解せぬ振りを装い、牧野は伏し目がちに傍らを見遣った。混血の日本人かとも錯覚を受ける第一印象だが、そうでは無いらしい。小柄な体格らしく、黒いデニムジャケットのウエストをタイトに締めたベルトが余り過ぎるのか、端をポケットへ仕舞い込んでいる。20代には違いないが、濃い鳶色の髪をごく無造作に後頭部で一つに纏め上げた横顔は、二十歳以前の少女めく面影を湛えてもいた。
「 ・・・・ 」
無言のままコーヒーを口に運んだ牧野を、女はおよそ屈託無さげに 無邪気な笑顔で見上げた。
「 ミスタ・・ ' セレム ' ??」
「 ー ・・・。」
この男にしては珍しく苛立ちを隠せない表情を面に見せると、言葉を返すでも無く、溜息混じりにホットドッグを食べ始めた。秋の盛りの週末、日暮れ前の街頭の雑踏は さほどの密度を見せていない。各業種のオフィスに於いては、その概ねが 平穏に月末と週末を迎え得そうな見込みを誰とはなし感じつつ、退社時刻を心待ちに数え始める頃合いに違いなかった。
「 ー 向こうが、西なのね。」
牧野の反応に悪びれる様子もなく、交差点の信号表示に従い再び動き始めた様々な車体の過ぎり行く方を素直に目で追って、女は何故か 寂しく呟いた。幾分かすれ気味な特徴のあるハスキーで、温かく湿って円やかに響く声だった。
「 ・・・俺に、何の用だ。」
食べ終えた口元を手の甲で拭いながら、牧野は鋭い視線を見知らぬ女へ注いだ。すでに大気は、蓄えおいた一日分の心地好い暖かみを供出し尽くして、渡る風は未だ さやかなれど、日没以降の 寂(しん)として孤独に沁み入る冷やかさを予感させている。ベンチの上へ、まったく無防備に投げ出した女の華奢な指先の皮膚が白んで、冷たそうに彼の瞳に映った。
「 ・・ なあに?? ミスタ?」
牧野の放った問い掛けの厳しさに臆するより、反応のあった その事が心から嬉しく喜ばしい様で、女は満面の笑みで見返った。ややアンバランスに大き過ぎる琥珀色の瞳と、肉感豊かな形の美しい唇は いかにも異性の興味を惹く貴重な条件を備えている。
「 ・・・ 誰に頼まれて、此処へ来た??」
やはり珍しい事に、傍らの女に対する何か不可解な、大人げを欠く苛立ちを無性に覚えて牧野は努めて抑揚なく もう一度訊いた。
「 ああ・・。 ー貴方、とても善い声ね。」
「 ー!? ふざけてるのか!」
コーヒーカップを乱暴に置くなり、牧野はベンチを跨ぐ形に身体の向きを変えた。同時に 無駄のない動きで女の両腕を掴むと、左、右、と順に衣服の袖を肘まで たくし上げて薬物等の摂取痕を確認した。いずれも無傷の 滑らかで柔らかな皮膚だったが、左の手首内側に幾重にも刻まれた 褪せた古い傷痕が露わになった。
「 ・・・・・。」
「 とても広くて・・ 深くて、そして哀しいのね。」
刃向かいも抵抗もせず、女は恍惚と切れの長い瞼を閉じて微笑を浮かべた。無論 力の加減はしていたが、掴んだ女の手首の細さと柔らかさに胸を衝かれ、著しく自己嫌悪に苛まれて 牧野は両袖を戻して詫びた。
「 ・・すまん。悪かった。」
しかし微塵の躊躇も無く、牧野の左手を さも手放しがたく膝の上で優しく両手で撫でて、女は再び顔を上げた。
「 ね。今夜、あなたの部屋で私の名前を呼んで聴かせてー 」
真意を計り兼ね、もはや牧野は滑稽さすら感じ始めている。寄り道せず真っ直ぐ部屋に戻るべきであった、と自らの気まぐれを心から後悔した。無碍に女の手を拒むことも憚られ、少しく溜息混じりで絶望的な物言いとなりつつも、牧野は問いを繰り返した。
「 ーだから。 あんたを寄越したのは、・・金髪のデカい野郎か?」
「 ???・・ 」
気付かぬうちに、冷え切った薄い両手の中へ しっかりとホールドした牧野の大きな掌へ頬を摺り寄せ、女は首を横に振ってみせた。
「 日本人でー 眼鏡を掛けた、感じの悪い痩せた男よ?」
「 そうかー 解った。」
面積の大きな雲が流れ来たのか上空が俄かに翳りを帯びて、視界の彩度が淡く色調を変えた。そろそろ、最初の帰宅者らの人波と道路渋滞が出現し始める時間帯へと差し掛かる。女の風態とマッチしたフレグランスと、皮膚の柔らかさを退ける工夫にすら無気力になりながら、奇妙に懐かしく精神の中枢で蘇り掛かる一つの感覚の正体を 牧野は見極めようとしていた。
「 ??・・・・ 」
この、怖ろしいまで無防備に全身を投げ出して、差し伸べられる手を乞い願うごとき傷ましい、小さな存在をー
( そうか、 ー ずぶ濡れの仔猫を拾ったんだ・・・ )
少年の頃、未だ養護施設へ保護される前だった。
たしか、北の街の短い秋が終わる時候の雨の日、当時住んでいたアパートの周辺で、和智と泰弘の兄弟は聞き慣れない 悲痛な生き物の声を耳にした。午後の遅い頃だったが、知らない男が母親に会いに来る時は いつも決まって部屋の外へ出されていた。真四角な二階建てのアパートの周りは、駐車場と駐輪場と、手が入らずに放置された雑草まみれの空き地だった。声を発している何かを棄ておけず、玄関横の窓枠に引っ掛けられた母親の傘を そおーっっ と持ち出し、和智は寒そうに半ズボンの膝を抱えている弟の手を引いた。
( にい・・ ??)
( ーしっっ。)
小さな肩に担いだ花柄の傘の下で泰弘の手をしっかり握りながら、六つを過ぎたほどの少年は 頭上の傘を叩いて落下する無慈悲な雨音に 注意深く耳を澄ませた。
  みぎゃあー みぎゃああ みぎぃぃぃーー
幼い胸を締め付ける必死の叫びの音源を和智は適確に聞き分けて、しょんぼり立ち尽くす弟を誘導した。空地の隅に晒されている剥き出しの切り株を囲んだ雑草の陰で とても小さな仔猫が一匹、声を限りに鳴き叫んでいた。ふんわり肢体を包んで在るべき幼い毛並みは 痩せ過ぎてもいるのだろう、雨に打たれ切って弱々しく まるで見知らぬ生物のように見えた。
( ー よし、 ・・・ よし、よし。)
傘を泰弘に持たせ、視界を遮る雨の雫越しに懸命に見上げる生き物を 少年は夢中で胸の中へ抱き上げた。抱き締めた瞬間に儚く命尽きてしまいそうな、弟よりはるかに一層小さな生命が、生き抜くために必要な救いの手を求めて、命の限りを振り絞って叫んでいる。駐輪場の片隅へ座ると、和智は着ていたニットトレーナーを脱いで仔猫を包み、一生懸命からだを拭いた。しだいに仔猫は鳴き止んで ゴロゴロゴロゴロ 鳴き声と同じくらいの力強さで 心地好げに喉を鳴らし始めた。
一通り拭き終えた仔猫を泰弘に抱かせ、足音を立てぬよう階段を昇って部屋へ忍び込んで、和智は台所シンク横のストッカーから 乱雑に放り込まれた食品の欠片をいくつか掴み取った。そして、雨が冷たく濡らし続ける世界へ急いで戻ると、大きな傘の蔭で 泰弘が くすぐったそうな愛らしい笑みを浮かべた。
( にい、この仔・・ ちゅぱちゅぱ してくる。)
見ると、空腹で母猫の乳を吸いたいあまり、泰弘の柔らかい指先へ音を立てて夢中で吸い付いていた。手にして来た食品は どれも硬そうで、唯一 半分ほど食べ差した菓子パンなら仔猫も食べれそうだった。
( ほらー がんばって食べろ。)
仔猫の口の大きさまで 出来るだけ小さくちぎって掌の上へ乗せると、臭いを嗅いで確かめもせず 仔猫は懸命に食べ始めた。慌ただしく食べる最中も、終始 ゴロゴロ 喉を鳴らし、時折は うぅぅー ふうぅぅ と 不思議な声で小さく唸ってみせた。やがて満腹になったのか、泰弘の腕の中で仔猫は呆気もなく 仰向いた姿勢のまま すぴぃすぴぃ 小さな寝息を立て始めた。よほど空腹で心細く、疲れ切っていたに違いない。
( ー かわいいね。)
( うん・・。 )
ペット飼育が禁じられている物件である以前に、恐怖の具現である母親が大の動物嫌いだった。
幼い兄弟の心に灯された 小さな生命を慈しむ心が、時を待たずして いとも他愛無く酷たらしい仕打ちと顛末に曝された事は想像に難くない。
「 ・・・・・・ 」
自分の傍らで、まるで掴みどころの無い実体不明の異国籍の女が全身に纏った 透明なヴェールから滲み出る、あの日の仔猫と似通った 悲痛極まりない傷みを牧野は感じ取っている。
「 ー他所をあたれ。俺は金なんか持ってない。」
やや強引に手を振り解き、牧野は姿勢を戻して女へ背を向け直した。その動きに、体内に内蔵した磁石が反応するごとく 至って自然な身軽さで するする とベンチの上で女は反転してみせた。
「 お代なら・・ もう、眼鏡の男から貰ったから要らないわ。」
「 ー なら、その金で此処より良いホテルへ泊まれ。」
牧野の膝へ在しも縋りそうに、瞳をさらに大きくして女は横を向いたままの日本の男を見上げた。
「 いや、・・貴方と一緒が好い。」
ー いったい何だって、俺はこんな事をやってるんだ。
  此処から立ち上がって、部屋へ戻れば済むだけの事だろう。
しかし牧野がようやく返した言葉は、脳内で交わされた自問自答とは 何故か趣きを異にしていた。
「 ・・ 歳はいくつだ?」
「 28 」
おうむ返しに応える笑顔をゆっくりと見遣って、牧野は眉間の表情を少し嶮しくした。
「 嘘つけ、 ーせいぜい 22か23ぐらいだろ。」
図星だったらしく、二重の瞼をいささかバツ悪げに伏せたかと見えたが、次の瞬間 女はすこぶる懲りずに睫毛を美しく開いて 牧野を仰いだ。
「 避妊のことなら心配要らなー 」
無邪気すぎる唇を指先で留めてみせると、牧野はでき得る限りの怖い顔で覗き込んだ。
「 だから、・・そう云う事は言ってない!」
肌を触れて過ぎる微風が黄昏の湿度を宿し始めたのを感じ、牧野は一旦 白旗を掲げる決心をした。ともかくも、部屋で一人になりたかった。
「 ー 日が暮れてから、目立たないように来い。」
部屋の番号を教え、女に念を押してから彼は立ち上がった。
























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登場人物紹介

水樹 史也( みずき ふみや)

広告制作会社勤務のイラストレーター。26才。心療内科カウンセラー 佐野 悠介との出逢いがきっかけとなり、かつて深刻であった精神状態から快方へ導かれて以来、悠介へ深い信頼を寄せている。

並外れて繊細な神経に恵まれた一方で、一般的な常識にとらわれない大胆な行動力をも兼ね備えている。

佐野家隣家の牡猫コタロウ( 水樹は一方的にヴァンプと呼ぶ )は親友である。

コタロウ

佐野親娘が暮らすマンションの隣人・黒田さんが飼っている去勢済の牡猫。

遠出はしないが、何故か佐野家へだけはベランダを器用に伝って頻繁に訪ねて来る。穏やかで人なつこい性格で、ツンデレのツン要素はあまり持ち併せていないらしい。

大柄な水樹 史也が繰り広げるスキンシップを実のところは迷惑に感じている、かどうかは不明である。

佐野 成未( さの なるみ )

大手通信販売会社に勤務する27才。きょうだいは無く、臨床心理士の父・悠介と二人暮らし。

十代で母を亡くしたせいもあってか、日常の生活者として揺るぎのない堅実さを備えたしっかり者である。

職場の同僚で後輩にあたる 中村 宏太 に異性として好意を感じているが、適当な距離から見守っていたいとひそかに願っている。

亡くなった母の実姉で、関西在住の叔母・川瀬 愛子 の無敵な明るさも好き。


佐野 悠介( さの  ゆうすけ )

臨床心理士を務める成未の父親。ある意味、純粋な少年時代のひたむきな向学心を持ち続けている。生来の気質としては朗らかで、性善説を信念とする。豪放と呼んでも可いマイペースと他人の反応をあまり意に介さない爽やかさが、弱点でもあり強みでもある。早世した妻の美穂をこよなく愛し、誰よりも傷みを背負っているが、忘れ形見の成未にも敢えて語った事はない。彼の血の通い合った心療の姿勢が、苦しむ者の拠り所となる。

中村 宏太( なかむら  こうた )

成未の後輩にあたる同僚の青年。人間関係に於ける周旋などに、ややもすれば誤解を招くほど不器用な誠実さと真面目さが長所とも謂える。その一本気さゆえ逆境に弱そうに見られがちであるが、外見とは裏腹の不屈な意志の勁さを秘めてもいる。誰にも明かさないが、片親の家庭に育ち自身の努力によって現職を掴んだ不遇な経歴こそが、未来を生きる糧となるという誇りと信念を強く抱く。

その一方、他人知れず成未に対する深い愛情を日々確かめてもいる。


記憶を持たない謎の男

事故なのか、傷害の被害者であるのか、瀕死の重傷を負って忽然と現れ、救急病院へ収容される。

怪我の後遺症によるものなのか、彼の「記憶」には深刻な混沌が生じていた。

唯一の所持品である色褪せた挿絵らしい紙の切れ端と、彼の脳内から無作為に出現するワードを手掛かりに、悠介と里中は心療にあたろうとする。

ところが正体不明者が次々と現れ、彼の身辺はしだいに不条理な危険に晒されてゆく。並外れた体力と身体能力を備えている事実に関しては、疑う余地がない。

里中 睦( さとなか  あつし )

悠介の同窓生で個人の臨床心理クリニックを経営する。佐野家とは美穂の在名中より親しい交流を持ち続けている。学生時代に培われた純粋な理念と悠介との信頼関係を自身の宝としており、悠介に臨床治療の片腕を託してもいる。成未にとっては、心の内を明かせる大切な存在である。

明朗な印象で独特の愛嬌の豊かさが魅力だが、外見とは裏腹のこまやかで緻密な神経を持ち合わせている。

澤村 泰弘( さわむら やすひろ )

悠介らの母校に附属する大学病院の心療内科で治療にあたる若手医師。緻密な頭脳と臨床医師としての適性から、周囲に将来を嘱望されている。公にはされていないが、不幸な幼年期に他家へ養子に迎えられた生い立ちを持つ。

心療を目指したきっかけは自らが幼い頃に負い、癒えることのない心の傷痕にある。少年時代に奏法を学んだヴァイオリンを愛し、多忙な中に於いても一人奏でて過ごす時間を大切にしている。

津久井 慎司( つくい  しんじ )

佐野親娘が居住する地域を所轄する警察の刑事で巡査長。謎の男の身元や負傷した経緯などが究明されないままの現状に違和感が拭えず、真相を突きとめようとする。微塵な情報を見逃さない、物的な手掛かりに基づく公正な分析を規範とすべく自らを律する一方、現場の人間に対する直感的な印象や気付きにも重きを置く。真摯な責任感と誇りが、職務に取り組む信条である。学生時代より精進している空手道の段位は黒帯で三段。

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