第13話 カルィビエーリナヤ(子守唄)
文字数 14,840文字
ハヤトが必要として来ない限りは干渉をせず、自室のデスクで、テキスト作成などパソコンに向かって従事モードで過ごす。質素でバランスの良い手料理で肩を寄せ合い、取り立てて言葉の詰まった会話も二人には要らなかった。そして、彼が求めた時には、時を惜しまずに全てを忘れて膚を重ね合った。互いの霊魂を削ぎ合うごとくに傷ましく、峻烈な愛し合い方であった。
二日目の入浴時に、やや伸び過ぎた彼の髪をカットして整えながら、ふとエレーナが口ずさんだ古い素朴な唄をハヤトが気に入った。
いつしか忘れ去られて歌われなくなった、作者不詳の古い子守唄なのだと言う。彼女の亡くなった母親も忘れ掛けていた唄を、エレーナが生まれた時に思い出し、歌い継いでくれた。
バィョシュキ バィョ モィ アンギル
= ″ ねんねん ″ おやすみ。天使さん
バィョシュキ バィョ スピィ クウァィチ プラークチ
= ″ ねんねん ″ おやすみ。泣かないで
木枯らし吹いたら すぐに冬
お空も凍るよ。 その前に、元気で育つのよー 。
物哀しい中にも、母親の体温が伝わって来るような温かさに溢れた旋律に、エレーナの湿り気を帯びた声がよく似合った。歌などに、ハヤトはついぞ感慨を覚えたことが無かったが、この唄声に限っては特別な心地好さがあった。以来、彼女の膝枕で憩うひとときには、欠かせないオプションとなった。ふんわりと柔らかな膝へ深く顔を埋めるー 髪や頬を撫でる掌の優しさに包まれる度に、ハヤトの奥深くの傷みを一つ一つ、遣る瀬のない疼きが眼前へと晒しては突き付けてみせた。自らの心身を他人の温もりの中に預ける無謀さがもたらす '救い' のある事を、彼は初めて教わった。
「 エレーナ 」
入浴後の彼の濡れた髪をタオルで乾かしながら、エレーナは煌めく瞳で覗き込んだ。
「 なあに? ミーリュイ。」
8月の遅い午後の風は、やや潮の湿り気を含んで、窓辺に寄せたソファの上へ穏やかにそよいだ。彼女の波打つブロンドが、天使の撒き散らす透明なフェザーのように、ふわふわ 陽射しを映して揺れている。腕を伸ばすと、そのサクランボ色の唇にハヤトは指先で触れた。
「 あの時、どうして俺が抱くのを許したんだ?」
「 ?? 」
二年ほど前、彼女が初めて( かなり強引な経緯であったものの )彼に膚を許した折について思い出したらしい。
「 だって・・・・ 」
エレーナは くすくす 愉しげな笑いを漏らした。
「 こら。笑うな って。」
その日は、九月の中旬頃であった。この街の、ごく短い秋のうちに数日しか訪れない、陽射しの暖かな小春日和であった事を、エレーナが忘れる事は無いであろう。生来、利発で勘の良いハヤトのロシア語習得は、秀れた効率性で進捗をみせた。日常的な生活会話に支障のない程度の語学力を身に付け得た、と彼女は当時、判断していた。
そもそもは、この一見して多国籍風な、只ならぬ刺々しさを身に纏う男が、慎ましやかな日常を送る彼女の部屋の扉を唐突に、ノックもしないで開いた瞬間 ー から物語は始まる訳であるが、長くなり過ぎるので、この場では省かざるを得ない。
とにかくも、件(くだん)の秋の日、淹れたてのコーヒーをハヤトに手渡しながら、エレーナは にっこり 愛苦しい笑みを浮かべて言葉を掛けた。
( もう、簡単な日常会話なら困らないでしょう。 私のレッスンは、お終いにした方が良いかしら??)
途端に彼の表情が強張って、戦慄が疾るほどに視線を鋭くした刹那の様を、彼女は懐かしく鮮明に、記憶の中で再生している。
「 あなたの上達が早かったから、冗談で言ったのにー 」
彼専用のヘアブラシで丁寧に髪を梳かす手は休めず、エレーナはつい、優しい笑い声で続けた。
このソファから突然ガンを突き付けて、
『 これからも俺に来て欲しいなら、ベッドへ行って俺の言う通りにしろ。
終わりにしたいなら、直ぐに殺してやる。どちらか選べ。』 ってー 。
百歩譲って、かねてより目当てだった女を口説くための台詞のヴァリエーションだとした処で、法外な無茶苦茶加減にも程がある。
「 死にたくないから、言う事を聞いたのか?」
膝の上で眼を閉じたまま訊いたハヤトの表情は、存外に、和やかな彩度で包まれている。ふと思い付いて、彼女のふくよかな胸元に顔を埋めた。素肌に触れたがっているのを察したエレーナは、爽やかなマリンストライプの開襟シャツのボタンを外した。
「 ずっと、あなたに来て欲しかったし、抱いて欲しかったからよ。」
「 ・・・・・・ 」
彼の興味は、素肌への愛撫へと移行したようであった。柔らかな膨らみを熱心に貪りはじめた、洗いたての美しい髪に頬を寄せると、恍惚を受け止めながらエレーナは囁いて問うた。
「 ー ミーリュイ。 夕食は、お肉とお魚のどっちが可くて? 」
「 エレーナだけで良い。」
「 栄養を摂らないとー 」
『 クラシコフさんー !?』
部屋の扉を重く叩いて、耳慣れない男の声が彼女の名を威圧的に呼ばわったのは、この時であった。
「 はいー ??」
ハヤトと視線で申し合わせながら、エレーナは手際よく身繕いをした。優しい気性の芯に、驚くほど気高い勁さと、何ものにも揺るがぬ沈着さを備えている処が、この白系ロシア女性の更なる美点であった。
「 ・・・・・・ 」
渋々ソファに座り直すと、応対に向かう毅然とした姿を見送るにつけ、激情の赴くままに彼女を抱きたかった想いがいっそう募って、ハヤトは扉の外の来訪者を睨み付けて舌打ちをした。
「 クラシコフです。何か御用でした?」
年代物の重厚な扉を半分ほど慎重に開いて、エレーナは問い掛けた。一階エントランスの大階段の周りを楕円に囲む形に、二階居室前の大理石の廊下が連なっている。室内に較べると、扉の向こうは やや冷ややかに湿って、薄暗く感ぜられた。ロシア人女性としては小柄な彼女が見上げた目線の先に、横幅の広い男の背広とネクタイが在った。さらに目を上げて確かめると、50才前後らしい、黒々とした口髭を蓄えた恰幅の良い男が立っている。見覚えのない顔であった。
「 市警察のバザロフです。7年前に亡くなられたご主人の件で伺いました。」
男は上着の内ポケットから、警察官証と家宅捜索の令状を取り出し、肩のあたりに掲げてみせた。
「まあー。今頃になって何故ですの? 主人の死因は事故死で5年前に結審していますのに?」
書類をぞんざいに折り畳みながら、男は意に介さぬ風でエレーナの質問に回答した。
「 我々が極秘に捜索していた、極めて疑わしい、事件に関与したとみられる人物が自首して来たのです。」
ついては、クラシコフ氏が使っていたパソコンのデータと遺品の中で、いくつか照合が必要な物がある、と告げた。寝耳に水ではあったが、止む無く、協力する事を決めて彼女は入室を促した。
「間もなくコンピュータの担当者が到着するので、扉は開けておいて下さい。」
バザロフと名乗った男は、部屋に足を踏み入れるなり、リビングのハヤトを躊躇なく凝視してエレーナに尋ねた。
「 失礼ですが、あちらの方は?」
「 義理の弟ですの。」
「 ほおー?」
この間にも、愛らしい瞬きをハヤトの瞳へ示しつつ、とにかくも大人しく遣り過ごすよう、彼女は懸命に制している。
「 お二人の身分証を提示して下さい。」
「 ・・・・・・ 」
ゆったり羽織った白いコットンシャツの胸ポケットからパスポートを取り出し、彼はエレーナに手渡した。受け取って、扉近くのポールハンガーに掛けたデイリーバッグより自身の身分証を出して添え、彼女は提示してみせた。
中庭の何処かで子供が遊んでいるのか、はしゃいだ笑い声が明るく煌めいて、遥かに響いて来る。手元の視界が翳って見辛いらしく、男はリビングの窓から差し込む陽射しに透かして確認を終えると、2通をエレーナへ返却した。
「 結構です。ご主人の遺品はどちらですか?」
ソファに腰掛けたままのハヤトにパスポートを返し、彼女は書斎代わりの自室へ男を案内した。
「 こちらです。どうぞー 」
自分の視界から逸れたエリアへ見知らぬ男が入室して行くのを追って、ハヤトは立ち上がった。玄関の扉と、ほぼ対角線上に位置する書斎が見通せる壁面に背を持たせて立ち、彼は其れとなく様子を窺った。主(あるじ)が使っていたと思しきアンティークの本棚に、遺品がまとめて保管されているらしい。一番下の引き出しから、エレーナは経年したファイルや書類の束を取り出して、デスクの上に並べてみせた。
「 ・・・・・・ 」
ふと、足元の愛用のブーツに目をやったハヤトは 紐の結わえが、やや甘いかー と気になった。壁面の並びに、彼の肩くらいまで高さのある大振りな観葉植物の鉢植えが飾られてある。その鉢の高さが足場に使えそうなのに気付いた。書斎内の動向に注意を払いつつ、鉢の縁へ右足から載せて紐の結わえを補正し始めた。開かれてある玄関前の通路へは ちょうど背を向ける形となる。部屋を照らす日照の密度が、太陽の運行に従いそろそろ薄らいで、室温が幾分下がったように感ぜられた。吹き抜けた広大なる空間に冷ややかなディレーを響かせて階段を昇り終え、こちらへ向かう靴音が近づいて来た。コンピュータの担当捜索官が到着したものと思われた。
「 ーちっっ!!」
右足の靴ひもを直し終わったハヤトは更なる苛立ちを覚え、心の内に再び強く舌打ちをした。
無駄に時間を取らせやがるー!! 苛立ち紛れに、何の気無し、続けて左足のブーツを鉢の上に載せた。日本の例えに 『魔が差す』 というのがある。古えの派生時に於いては、平穏な日常の風景の中へ、突如として『通り魔』などと称された何らかの魔性が出現し、忌まわしい災いを成した数々の実例に基づいて、人々に現実的な喚起を促すため語り伝えられたらしい。
この折が、謂わば、そうであったかも知れない。
“ ハヤト=イムギ “ らしからぬ、悲観性を微弱に欠いた束の間の緩みが、緊張の綻びをもたらした事は否めないに違いない。本来であれば、次に入室して来る人物について、万全の注意を払うべきであったろう。
靴音は、正確な歩幅と速度で歩を進め、やがて部屋の手前あたりで静かに歩を留めた。この時むしろエレーナの方が、ふさわしい感度に則った反応を見せていた。デスクで捜索中の警官とリビングのハヤトの様子が見える位置を選んで立ち、彼女は推移を見守っている。身に纏うアイテムの中で、ブーツのコンディションをハヤトが最も気に掛けがちであるのを良く承知している。そうなだけに、なにかしら釈然としない事柄が沸き起こっている最中に、彼の神経が足元の方へ幾らかでも向かうのは好ましくない気がした。
「 ・・・・・ ??」
部屋の外の靴音にも神経を注いでいたエレーナは、要件があるにも関わらず、姿を見せようとしない担当官の行動に不審を感じ、開け放した扉の向こう側に目を凝らした。しかし、来訪者の姿は見えない。彼女の視界左手で、ハヤトはさも不機嫌そうに、上体を屈めた姿勢で靴紐の調整に余念のない様子である。背後で捜索中の警官に指摘されない範囲で寄って、ハヤトに小声で注意を促そうとエレーナが口を開いた、その時だった。窓の下に、車が猛スピードで走り込んで来る走行音と急停止で軋むタイヤ音が唐突に響き渡った。同時に、バタバタとドアが開閉され、周囲の平穏な空気を切り裂いた。只ならぬ気配に、紐を引き締めた両手を止め、ハヤトは窓の方を見遣った。その背中を目がけ、見知らぬ男が通路から駆け込んだ。
ー!!!!
男の右手に握られた鋭利なナイフの切っ尖が陽光を反射して閃くのを、エレーナの瞳は捉えた。
「 ニエーッッ ツ(駄目)!!!」
叫びながらハヤトの背中に縋り付くと、彼女は渾身の力で彼の頭部を胸の下深くへと伏せさせた。彼の身体を覆って屈み込んだエレーナの背に、 ズウゥゥン と鈍い音を立て、猛烈な威力の衝撃が加えられた。
「 !? 」
次の刹那、拒絶反応を起こした彼女の全身を大きく揺さぶる激しい痙攣が、ハヤトに伝わった。
ー 彼は、全てを察せざるを得なかった。
絶対的に受け入れ難い事実であった。叫ぶ事すら出来ず、抱きかかえたエレーナの身体は自律を失い、堕ちた石像のごとくに凭れ掛かった。右肩甲骨の下あたりに、ナイフがグリップのみ残し深く突き立てられている。金属製のグリップに刻まれた細密なループが、彼女の心拍の振動に震えて忌わしい煌めきをみせ、ハヤトを嘲笑った。
「 全員動くなっっ!!!!」
部屋に駆け込んだ4人の男達が、顔の高さに銃を構えて各々叫んだ。
「 くそっっ !!!」
抵抗の身構えを見せた襲撃者の後頭部を、先頭に立つ男が銃のグリップパネルの一撃で殴り伏せた。床に倒れた背の上に片膝を突き、手にした銃口をハヤトの額中央に強く押し付けると
「 エレーナの搬送を手伝え!!」
男は低く、重く命じた。書斎では、他の男達が 'バザロフ' と名乗った男を拘束している。
「 ・・ リヴィンスキー ・・さん?」
大柄な体躯を屈めて負傷の状態を間近に覗き込んだ男の顔を、混濁する意識と視界の中に ぼんやり認識したエレーナは不思議そうに、男のものらしい名を澄んだ声で呼んだ。
「 喋らないで、じっとして。気をしっかり持つんです。可いですね??」
「 ・・・・。」
穏やかな視線を注いで諭すと、彼女は素直に頷いて、僅かながら微笑んでみせた。スーツの上着を脱いで彼女の肩に掛け、男は立ち上がりざま、冷厳な一瞥をハヤトへ殴り付けた。
「 貴様ー 半殺しにしてやりたいが、病院が先だ! 一刻を争うっ!!」
エレーナをかかえ、バルコニーからテラスの外階段伝いに男の後ろを走り降りると、一台の警察車両が停車している。後部座席のドアを開け放ち、ハヤトが乗り込むなり、男は車を発進させた。車上のサイレンを稼働させて左手に無線機を掴むと、明晰な緊急連絡を告げた。
「 市警のリヴィンスキーだ。女性が背中の右側をナイフで刺された。凶器の刃渡りは20センチほどで刺さったまま、スクリューモデルと推定される。10分以内に着く。救命措置の準備を頼む。」
ハヤトの腕の中でエレーナは殆んど意識を失っていたが、周期的に微かな覚醒を繰り返した。堪え難い激痛に全身が捩れ掛かるたび、ハヤトは奥歯を噛み締め、夢中で彼女の体を抑えた。洗い立てだった彼の髪の香りを ふと感知して、エレーナの苦痛に歪んだ瞼が、一たび うっすら と開いた。
「 ・・・・・ 」
何ごとか伝えたいのか、水色の眼球が虚ろに震えた。
( っっっー!!!)
溢れ落ちる涙でエレーナの頬を濡らし、ハヤトは何度も首を横に振ってみせた。彼女の愛らしい唇が、貝殻のごとき白褐色へ色褪せはじめている。やや強引なカーブを切りながら、男は運転席からハヤトに届く声で呟いた。
「 信心が無くとも、神に祈れ!」
救急総合病院の手術室前で、折り畳んだ膝を両腕で抱え、ハヤトは森閑と冷ややかな通路に座っていた。到着と同時にエレーナがストレッチャーで運び込まれてから、どれほどの時間が経過したのだろうー オペレーション中のサインが灯された後しばらくは、従事者らの慌ただしい出入りが見られた。以来、行き詰まる閑けさのみが、窓のないフロアを重苦しく支配し続けていた。リヴィンスキーと言った男は、一旦この場を離れている。立ち去り際、殴り書きで連絡先のメモをハヤトに手渡し、 自分が戻るまでは、何があっても絶対にここを動くな と鋭く命じた。
何でもするから エレーナを死なせないでくれ!!!
頼むっっっ!!!
生まれて初めて自分の力以外の、超越的な智力を持ち得る何らかに縋り、彼は心の内でひたすらに叫び続けていた。握り締めた両手の拳が、身替わりになった彼女に凶器が突き立てられた刹那の、生々しい衝撃を繰り返し甦らせては、ハヤトを責め苛んだ。
何故だっ なぜなんだっっ ー クソッッッ!!!!
彼女が察知できた危機を、なぜ見過ごした!?
なぜ彼女を視ていなかった???
地獄の奈落深くへ蔑め、我と我が身に制裁を加えたい憤怒に拳を震わせる他に、彼には為せる術もなかった。混乱を極めるハヤトの脳裏の何処かで、赤ん坊だった風馨が、母親の手により洗面台で溺れさせられた日の悍ましい記憶が、鮮明に再生され始めた。二月の深夜だった。
泣き止まない風馨に業を煮やした母親が、狂ったように喚きながら、シャンプー用の洗面台の湯の蛇口を捻った。風呂場の前で、未だ4つにならないハヤトは、やはり膝を抱えてうずくまっていた。乱暴に衣服を剥がすと、 湯に浸かっとけ!! くそガキッッ!!! 桶にスイカでも浮かべる 'ぞんざい' さで、赤ん坊を湯の中へ放り込んだ。
幼心にも、酷たらしさのあまり心臓が停まりそうだった。しかし、目を背ける訳にはいかなかった。この世でたった一つの大切なもの、妹を救わねばならない。風馨はそれまで聞いた事のない声で烈しく泣き叫んだが、しだいに泣き声が弱まっていった。
ふうか が死んじゃう!!!
手を出したら、おまえ風呂に漬けてやるからな! 消灯したキッチン越しに、すかさずハヤトを睨みつけた母親の顔付きは、人間のものとは思われなかった。
自分より大きなバスタオルで懸命に妹を包み、裸足のまま、アパートの部屋を駆け出した瞬間
ー 息詰まるほどの深夜の大気の冷たさと妹の微かな温もりを、後に如何なる修羅場を目の当りに潜ろうとも、忘れる事は叶わなかった。
やがて、手術室のドアが開いたのを気付かぬまま彼は俯いていたが、俄かに騒めいた人々の気配が響いた方へ眼を遣った先に、手術衣の医師の姿があった。50代前半と見受けられる痩せ型の、神経のごく鋭利そうなマスクの上の目元に、隠し切れない疲労が滲んでいる。強力な魔術によって心身の自由を封じられたごとく微動だにも動けずに居るハヤトを見とめると、医師は声を掛けた。
「 クラシコフさんの親族の方??」
「 ・・・・。」
硬直した身体を立ち上がらせながら、ハヤトは医師を見つめ、ゆっくりと頷いてみせた。医師の背後で、医療器具とストレッチャーの車輪が、重々しく湿った回転音を響かせてドア付近まで運ばれて来た。酸素吸入器のほか何筋もの管を挿入され、蝋燭のように真白くエレーナが仰臥している。
「 最善を尽くしましたが、脾臓と腎臓への損傷が最も大きい。集中治療室へ移動します。」
「 ・・・・・・・ 」
三名の看護師らが彼女を運んでゆく順路を、ハヤトは茫然と虚ろに、足を引きずって後を辿った。専用のエレベーターで階を昇り、ナースセンターと通路を挟んで設けられた治療室の一つへ、ストレッチャーは運び込まれた。くすんだ水色の四角い室内には、モニターのほか高度な医療装置が何種類も配備されている。従事者以外の入室が許されないため、通路側に設けられた大きな窓越しに、ハヤトは彼女の様子を見守った。中央の寝台に移されたエレーナの周囲で、室内装置との接続や、彼女に挿入や注入が施された各機器に不具合のない事を確認し終えると、看護師らは部屋を出て沈着にドアを閉めた。低い天井から無機的に照らす蛍光灯の元で、エレーナは二回りほども小さくなって感ぜられた。ハヤトが生きるために無くてはならない、瑞々しく甘やかな優しい肢体は、何処にも見当たらなかった。
死なないでくれー !!! エレーナ!!!
( ーおい。 おいッッ!!)
何者かの手がハヤトの肩を鷲掴みにした。治療室の窓の前で寝入ってしまったらしい。
「 ・・・・!?」
神経と身体が全く同期できずチグハグな反応ながら、とにかくも反射的にシャツ左下のガンホルダーへ伸ばした彼の腕を、強い掌が留めた。
「 俺だっ!馬鹿者。」
暗闇の中に着火する焔の鮮烈さで睨み返した背後に、リヴィンスキーの濃い群青の瞳があった。通路まわりの照明は彩度を落とされ、ナースセンターのエリアのみが、煌々と明るく浮かび上がっている。すでに日付けが変わっていそうであった。差し向かいの突き当たりに、簡易な休憩スペースが設けられている方を示すと、リヴィンスキーは頑強な骨格の顎をそちらへ振ってみせた。
「 ・・・・・・ 」
体重を支えていた両膝が痺れて感覚を失っているのを、心中に舌打ちしつつ、ハヤトは先ず、冷え切った廊下の上に解して伸ばした。窓から治療室の中を確認すると、格別な異変は起きていないように見える。入室した折と変わらぬ姿勢のまま、エレーナが横たわっている。醒める事のない悪夢の続きが始まった。
「 ー ・・・。」
やむなく、気の進まぬ足を引き摺って休憩スペースに向かうと、一つだけ置かれた質素な長椅子の端へ彼は腰を下ろした。
「 ー そいつを喰え。」
スペース隅の吸い殻専用のバケツ横で煙草を燻らせていた刑事は、椅子の上に置かれた生成りの紙袋を指し示した。ペーパーカップのホットコーヒーとサンドウィッチが入っている。
「 睡眠薬なんぞは入れてない・・ 」
俯いたまま、素っ気なく首を横に振ってみせたハヤトを見遣った彼の眼差しが、冷たく強張った。吸い差しの煙草を口の端に咥えると、正面からシャツの胸倉を鋭く締め上げ
「 ・・・ エレーナの命を救うために、喰え!! 腹の中に取り込めっ!!」
リヴィンスキーは厳然と言い放った。
「 ・・・・・・ 」
氷河の鉄槌の如く、容赦のない彼の視線を凝視し返すハヤトの脳裏で、エレーナの口癖だった優しい物言いが ふんわり と過ぎった。
お食事はとても大切なの、ミーリュイ。
強くあるために、面倒でも召し上がってね。お願い。
彼女と出逢うまでの人生に於いて、彼にとって喰らう事とは、義務的な捕食作業以外の意義を持たなかった。出来合いの製品か、業務として調理された食品のみが、生命を維持するために必要なツールだった。それが、彼女の部屋を訪れるようになって何時の頃からか、エレーナは彼に食事を振る舞うようになった。決まって前触れのない訪問である為に有り合わせの食材でメニューを誂え、必ず、自らが調理した料理をハヤトに食べさせた。 '手料理' という、彼の味覚が知る由の無かった温もりと安らぎをくれる食べ物を、生まれて初めて味わった。
「 ・・・ わかった。」
掴んでいる手を静かに離させると、彼はサンドウィッチを手に取った。一口かじって、唾液が全く分泌されないのに気付き、大きくむせ込んだ後、コーヒーでどうにか飲み込んだ。
「 ・・・・・ 」
重苦しい閑けさがフロアの密閉された空間を支配する中、様々な医療機器の規則的な稼働音だけが克明に時を刻んでいる。椅子の反対側に腰掛けると、リヴィンスキーはネクタイを緩めて、シャツの第一ボタンを外した。両腕を背もたれに預け やや胸を逸らすと、ハヤトに横顔を見せたままで呟いた。
「ー 警官を騙ってお前を狙ったのは、'ノーザンルート' に関わる組織の下っ端だ。」
「 ・・・・・ 」
食べ終えた紙ゴミを傍らのダストボックスに放ると、ハヤトは膝の上で頬杖を突きながら刑事を見遣った。ソスリュコより、少し若いくらいかー ふと、そんな事を思った。
「 近頃エレーナの身辺でチョロ付き出した奴らに、何人か張り付かせてたんだがー
狙われる覚えが無いとは言わさんぞ。 ー『イムギ』。」
リヴィンスキーは、怖いほどに切れの長い瞼を気怠く瞑ってみせた。
「 ・・・・・ 」
ハヤトは、無言のまま椅子の上に胡座を掻いて座り直した。両の掌で膝頭を掴み、一息、背筋をまっすぐに伸ばした。
「 日本の警察が秀れているかどうか知らんがなー 我々も遊んでいる訳じゃない。」
そこまで言うと、彼は俄かに感情の起伏を露わにし、群青の瞳を見開いた。何処か遠くへ視線を投じると
「 去年、ウスリースクへ転属の打診が来た時に・・
多少 強引でも、エレーナを女房にするべきだったー 」
別人のように鎮痛な口ぶりで、感傷を吐露した。
「 !? ー 」
聞き捨てならぬ台詞に、ハヤトの方でも俄かに研ぎ澄ませた歯牙を剥き出しにした。
「 ーぜんたい何者なんだ?? あんたはっ!?」
ゆっくりとハヤトに顔を向けたリヴィンスキーの眼差しは、すでに冷徹な警察官のものへと戻っている。
「 早とちりするな。彼女とは何もない。プロポーズしたが、彼女は受けなかったー
彼女と結婚する以前から、俺はセルゲイを追っていたんだ。」
薄明るい夜間照明に照らされた殺風景な廊下に視線を落とすと、リヴィンスキーは抑揚を押さえた低い声で言った
「 ・・・ 彼女から聞いてないのか?セルゲイが密輸組織の顔役だった事や、他に何人も女を囲っていた事を 」
「 ー !?」
驚きを明らさまにする様子を眼の端に捉えながら、彼は その威厳深い眉間をやるせなく曇らせた。
「 組織の拠点は、中央アジアにいたるまで複数の州を網羅している。ここは謂わば終点であり、出発点でもある。裏の顔をカモフラージュする為に、それらしい堅気の女房が必要だったのさ。」
「 何だって、エレーナがそんなー 」
怒気を発し食い掛かろうとして、ふと、ハヤトは口を噤んだ。敢えて、深く気に留めぬよう受け流して来た、彼女の言葉や表情の断片たちが、猛烈なスピードでフラッシュバックし始めた。事柄ごとの時系列や、前後の状況の記憶が絡まり過ぎて混乱するのを性急に整理しようと、彼は両手で額を抱え込んだ。
ー 私に飽きたら、棄てる前に、どうかあなたが手に掛けてね ー
ー いっそ殺してちょうだい。それも幸せだわ ー
「 ・・・・・・・ 」
確かに、刑事が説明した事情が事実であるならば、宙に浮かんだままのパズルの様々なピースが、全てぴったりと当て嵌まる気がした。過去の不幸な結婚生活が彼女にもたらした、引き裂かれた心の爛れた傷痕が、折にふれ、堪えがたい吐息を漏らしていたのにハヤトは思い当たった。
( エレーナ・・・ だからか!)
初めて抱いたあの日にも、彼女が涙混じりで不思議な言葉を呟いた。無論、'イエス' か 'ノー' しか認めないハヤトとしては、理解不能な戯言として強引に聞き棄てて終わらせたのであるがー
その時、ハヤトに命ぜられるまま素直に、エレーナはベッドの上でブラウスとスカートを脱いだ。そして、語学の指導中はいつも、後頭部で内巻きに纏めている長い金髪を解いた。
( ・・・・ 好い女だ。)
ベッドの脇に立ったまま、我と知らず、ハヤトは呆然と見惚れていた。思っていた以上に着瘦せがする性質であるのに、改めて気付いた。絹糸のように柔らかいブロンドと、刺々しさの微塵もない優しい童顔で、9月の夕陽に照らされた肢体は白く艶やかに透けている。これほど美しい女を、目の当たりにした事が無かった。
「 ハヤトー 」
「 何だ。」
ベッドに腰掛けてブーツの紐を解き始めた彼の名を、エレーナは遠慮がちに呼んだ。続きの言葉が返って来ず、やや苛立たし気に顔を上げた彼の首へ不意に縋り付くと、彼女は そっと 唇を重ねた。
「 ・・・・・・ 」
出逢った事のない、柔らかで甘やかな世界が、ハヤトを明るい乳白色で包んだ。幾多の女たちに相手をさせて来て、キスを交わす事はあっても、彼にとってそれは飽くまで行為のテクニカルな一環でしかなかった。妙な言い方をするならば、ここでエレーナから贈られた接吻こそ『 ファーストキス 』であった。唇から全身へ緩やかに浸透してゆく、得も言えぬ安らぎと心地好さに、彼は瞼を閉じて身をまかせた。
「 好きだったの・・・ 初めて会った時から、ずっと。」
彫りの深いハヤトの顔立ちを唇で優しくなぞりながら、彼女は囁いた。
「 ー でも、ね。」
「 ?ー なんだ??」
見開いた眼前に、薄水色の宝石の瞳が きらきら 潤んで煌めいている。
「 ・・・ 自信がないの。 満足してもらえなかったらー
あなたから、詰まらない女って思われたら・・ 私どうしよう。」
「 ー 何だって???」
腹立ち紛れにブーツを蹴り棄てると、彼女を荒々しく抱き寄せて膝の上に跨らせた。
「 あんたはお利口過ぎて、どっかコワれちまってんのか!?」
薄手のリネンのキャミソールに透かせる素肌へ、反射的に忍ばせようと伸ばした手を、ハヤトはふと留めた。この男にすれば、あり得ない事だった。幾つかは年上で未亡人である彼女をベッドへ載せた時、どんな手練手管を振る舞ってみせるのかー そして、如何にして彼女を凌駕してみせるか が、この場面に於ける関心事であった訳である。ところが、いま彼に捕獲(?)され、露わになった膚も厭わず 眼前で当惑しているのは、まるで別人の 見知らぬ女であった。玩具の不具合でも確認する手つきで顎を上げさせると、星の欠片が沈んでいそうなエレーナの水色の瞳の底をハヤトは覗き込んだ。
「 何を言ってるのか さっぱり判らんが、俺の目には狂いがないんだ。 いいか!」
「 ・・・・・・ 」
ゆっくり瞬いて頷いてみせた彼女の瞳から、大粒の涙が頬を伝った。
「 良い子にしないと、抱いてやらんぞ!?」
怒気を滲ませるハヤトの掌を両手で握りしめ、彼女は眼差しを切なく潤ませた。
「 それは いやー。」
「 ??? 」
「 ハヤト、抱いてほしいの・・ お願い。」
「 ・・・・・。」
真意を測りかねて凝視するものの、偽りや芝居めいた演出は毛ほども見当たらなかった。一般社会に受け容れられ得る教養や常識を兼ね備えた、美貌の未亡人が、さながら '掛け替えない処女を捧げん' と乞う乙女の有り様で、自分という男に縋っている。女に泣かれたのも含めて全てが番狂わせで、思い掛けない展開であった。ある意味 大きく気を削がれながら、しかしハヤトの欲望は俄かに、いっそう深いベクトルへと舵を切った。何故かは解らないが、むしろ無性に抱いてみたくなった。
「 ・・エレーナ。」
肌目のそろった滑らかな素肌に手を伸べると、様々な箇所を指で探りながら彼女の反応を確かめ始めた。
「 俺に可愛がってほしいか?」
「 可愛がってー 」
薄く紅潮した頬と長い睫毛を震わせて頷いてみせたが、やがて声にならない吐息となった。普段の落ち着いたアルトとは趣を異にして、微風に揺らぐ白い花びらのように儚いその響きも、ハヤトはいたく気に入った。
「 よし。可愛がってやる。」
エレーナの白い肢体をベッドに深々と埋め、彼はその上に身体を重ね合わせた。
「 あんたを、俺のものにするー 。」
「 今日の夜あたりまでが、勝負らしいなー。」
「 ・・・・? 」
重く湿ったリヴィンスキーの言葉に強引に引き戻されたハヤトは、茫然と宙を見上げた。新しく咥えた煙草に火を点そうと、上着の内ポケットにライターの在処を探った手を ふと停めると、リヴィンスキーは椅子の背もたれへ力任せに肘を打ち付けた。
「 ーくそっっ! 俺なら、彼女を必ず幸せにしてやれるのに!」
烈しく込み上げる遣り場のない憤りに、彼は拳を震わせた。
「 ・・・・・・・ 」
声を噤んだままでいるハヤトの傍らへ、使い古した分厚い書類封筒を置くと
「 捜査に協力してもらう。リストに目を通しておけ。」
一本のラインマーカーを封筒の中へ放り込んでみせ、彼はゆっくりと立ち上がった。
「 顔写真に見覚えのある奴がいたらマークしとけ。俺は戻って署内で詰めている。何かあったら必ず連絡しろ。」
刑事は去り、黙々と時は刻まれ続けて、やがてフロアの照明が常灯の明るさへと切り替わった。夜明けを迎えたようであった。休憩コーナーの隅に たった一人取り残されたハヤトに、時間の経過を把握する気力はまるで無かった。廊下を挟んだ治療室と対峙した簡素な長椅子の上で、彼は唯ひたすらに座り続けていた。決まった間隔で、エレーナの容態と機器類の動作を確認する看護師らの出入りが幾度も繰り返された。しだいに人々の行き来が増えはじめ、電話の応対や来訪者との遣り取りなど、ナースセンターの周囲も慌ただしくなってゆく。
「 ・・・・ 」
俄かに、抗いがたい睡魔がハヤトを襲った。痛いほど眼を見開いて足搔いてみたが、ついに力尽き、椅子の上で小さく膝を抱え込むと 気を失うごとく眠りの底へ堕ちて行った。
ー 遠くからなのか、近くでなのか、曖昧な認識しかできずにいるハヤトの嗅覚が、コーヒーの沸く芳醇な香りを薄っすらと捉えた。未だ開かずにいる瞼越しに、白く眩しい陽射しの温もりを感知した時、うつ伏せた彼の頭髪に何かが触れた。
「 !?ー 」
神経的な条件反射で、彼は瞬時に、頭上で翳された 何か を鋭く掴んでベッドの上に組み伏せた。
「 あっっー 」
小柄なエレーナが、いとも容易く転がされてバウンドを打った。降ろしたままのブロンドが、波打ち際を撫でる潮騒のようにシーツの上で揺らめいている。
「 ・・・あんたか!」
ハヤトは苛立たし気に、両の掌で ごしごし 顔を擦った。エレーナを我が物としたまま深い眠りに落ちて、次の朝を迎えていた。彼女は上体を起こすと、呼吸を整えつつハヤトの様子を見守った。
「 ごめんなさいー 起こすつもりじゃなかったの。」
「 じゃあ、何なんだ??」
覚醒し切らない体躯をもう一度ベッドへ投げ出すと、左脇の此処へ来い と云う手招きを彼女にして見せた。するする寄って傍らへ納まったエレーナの円やかな白い頬は、野薔薇の薄ピンク色に輝いている。
「 好きよ・・・ ハヤト。」
囁きながら、ハヤトの顎の真ん中にくびれた縦の線に、彼女はそっと唇で触れた。
「 ああ。ーそれで???」
腕の中で くるり とうつ伏せになったエレーナは、水色の瞳をいっそう大きくして彼を見上げた。
「 あなたの綺麗な髪の毛も大好きだから、触りたかったの。それだけ。」
華奢な白い手首に、掴まれた跡の痣が赤く滲んでいる。
「 ・・・・・・ 」
それは、頭部が攻撃より防御すべき要めの部位である事以前に、彼自身の深淵なトラウマであった。幼児期に刻印された親からの苛烈な暴力が、彼という人間を成す細胞の微小な組織までをも、未だ支配し続けていた。頭上を掠めて動く物に対する反応は過敏であったし、他人の手が頭部に触れる事を絶対的に嫌悪した。
「 ・・ 痛いだろ。」
自分の掌の形に変色している手首の箇所へ無造作に指先で触れながら、ハヤトは呟いた。
「 ハヤトー 」
微笑んでみせようとした彼女の頬を、この日の新しい陽射しを反射して煌めく涙が、幾粒も伝い落ちた。それを見咎めて眉間をやや嶮しくすると
「 ?? ーこら!まだ泣くか!?あんたはー。ごまんと可愛がってやったろうが!」
軽く握った拳で、彼女の優しい額を小突いてみせた。うんうん と、エレーナは懸命に頷いて首を振った。
「 もう、どうして良いか判らない。あなたが好きなのー 」
「 ・・・・・ 」
笑顔を見せるのが稀なこの男が、不覚にも、愉し気な笑い声をつい漏らした。両手を小さく掲げ '降参' をジェスチャーしてから、申し訳程度に、彼女の濡れた頬を拭ってやった。
「 わかったー あんたにだけは、俺の頭を触らせてやる。だから ポロポロ泣くな! いいか。」
嗜められるが早いか、細い指先を伸べると
「 ありがとうー ハヤト。 あなたは、私がもらえた一番大切な、素敵な宝物。」
薄いライラックのサテンのガウンが肌けるのも憚らず、エレーナは艶やかな髪に頬を寄せ、妙なる優しさで口づけた。
「 ・・・・・ 」
瞼を深く閉じたハヤトの耳に、何処か遠く、鳴らされ始めた教会の鐘の音が遥かに聴こえていたー