第4話  ファンタジア

文字数 9,737文字

 複数の古物商店舗に大量の盗難品が相次いで持ち込まれた窃盗組織事件についての捜査会議を終え、津久井刑事は割り当てられた聞き込みに向かうべく、同僚らと共に五階の廊下を早足で歩いていた。階段を降りかけて、不意に呼び止められて立ち止まった。
「 津久ー! 」
鑑識部の松原鑑識係員が、彼を探して階段を昇って来たらしく踊り場で息を切らしている。
「 いま出るとこなん・・ 」
津久井の言葉を遮ると
「 まあー 一服付き合ってから行けや、な。」
かなり強引に背中を押して、屋上に設けられた喫煙所へ通じる扉の方向へと後戻りをさせた。
「 俺、吸わんですし 」
( 例の件で話がある。)
小さく呟かれた言葉に、彼は敏感に反応して動きを止めた。
鉄製の重い扉を開くと、光彩がまぶしく反転して視界を射た。時代を経てなお、武蔵野と愛称され続ける情趣ゆたかな地域の明るいパノラマが彼らを包囲した。屋上中央の喫煙所に人がいないのを確認して、松原は小さく折りたたんだビニール袋を津久井の右手に捻じ込んだ。
「 ・・ こいつは少年事件の指掌紋だ。」
「 ベースがありましたか 」
手渡された物を上着の内ポケットへ速やかにしまい、彼は鋭い視線を向けた。その眼差しには応えず、そろそろ50代を迎える謹直な鑑識員は悲痛な声を上げてみせた。
「 いいな。 俺を・・ 巻き込むなよ!」
ふたたび重い扉を先んじて開き、津久井は入館を促した。
「 津久よ。」
「 は 」
「 お前、( 公安 )がらみと睨んだ上で泣き付いて来たろう。」
揃って階段を降りながら、松原はこぼした。
「 来年と再来年つづきでさ、うちで受験生かかえてんだ。」
「 はい。」
「 後生だぜ。ここで職にあぶれる訳にゃいかねえからさ。」
鑑識部のある三階まで降りると足を止め、津久井はやや改まって辞儀をした。
「 ・・ 申し訳ありません。」
その分厚い左胸に拳を軽くくれてやって、松原は柔和な苦笑を浮かべた。そして別れ際、ふたたび念を押した。
「 いいな。 くれぐれも無茶はやるなよ。」
津久井が手に入れたのは、コンビニで倒れて搬送された男に関する情報である。
ようやく面会が可能となった四月中旬、彼は入院先の病室を加藤と訪ねた。30分以内の時間制限と看護師が立ち会うという条件の元、本人に直接の聞き込みを行った。とは言え、当時、男はおよそ言語を発しないばかりか、対人的な情動反応そのものが稀薄に見受けらる状態である。津久井は、負傷した経緯や事件性の有無などについて簡単な設問を10ほど並べた用紙を事前に準備して持参した。それを男に見てもらい、「はい」か「いいえ」、「わからない」のいずれかをマルで囲んで回答してくれるよう依頼した。抜かりがなかったのは、未使用のボールペンをビニール袋から出して男に手渡す際、本来は事件現場用の手袋をごく何気なく装着していた点であった。同席していた加藤が特に勘付かなかっただけなのか、気付かぬふりをして遣り過したのか定かではない。介添えの看護師も設問の内容をかみ砕いて補うなど手を貸して、男は時間をかけ全ての回答を記入して返した。すなわち、そのボールペンからの指紋採取と既存データの確認を、松原に頼んでいた訳である。無論、正式な捜査に則る行動では無く逸脱しているのは解り切っている。
面会のその日以来、ペンを封印したまま、津久井は人知れず心の中で煩悶し続けていた。が、どうしても見過ごすことができないと観念し、覚悟を決めて極秘裏に松原へ物を託した。ここで内部告発を受けるとなれば、其れはそれで止むを得ぬ。諦めもつくだろう。
何よりも彼を無謀な衝動へと駆り立てたのは、男の湛えていた、とてつなく濃密な暗さ とでもいうべき独特の雰囲気であった。捜査の現場へ出て8年余りほど、それなりに多種多様な人間の様を目の当たりにして来たが、出逢ったことがない。その背景に隠されているものを、津久井は明らかにしたかった。
( 未成年時の拘束ー ?)
上着越しに内ポケットを握ると、資料らしく紙片の感触がある。彼は一瞬、瞼を閉じた。
「 おいっ! 出るぞっ!!」
すでに車を通用口へ乗り付けた捜査員から怒号が飛んだ。津久井は全力で駆け出して行った。


 大学院課程2年目だった八月ー 。 悠介は同級生5名と共に日帰りの小旅行に出かけた。
ミニバンをレンタルして、郷里へ帰省中の向井教授( 当時は助教授である )と待ち合わせた茨城県内のJRの駅をめざし朝8時ごろ出発した。地元の観光スポットとして人気があると言う滝の周辺を散策する予定であった。首都高から常磐自動車道を2時間弱走り、太平洋の雄大な海岸線をなぞりながら国道を北上し、しだいに盛夏の緑濃い山岳地帯へと分け入ってゆく。ぶじ落ち合った向井も同乗して、めざすスポットの駐車場に到着したのが、ちょうど正午過ぎであった。避暑地のウッディなコテージめく洒落た佇まいの食事処で、名物の手打ちそばで腹ごしらえを済ませると、一行はのどかな散策を始めることとした。
「 危ないようなとこは特に無いが・・・ 滝の後ろをくぐる場合には、」
向井は笑って忠告した。
「 わりと濡れる。」
豊かな変化を見せて隆起する山脈の麓の一画が、滝の裳裾をやさしく曳いて二筋の清水を落下させている。高さ20メートル、幅は10メートルほどか。徒歩で滝壺まで降りられ、天然の造形に恵まれた滝の裏側を通り抜けできるあたりが人気のポイントらしい。この日、参加しなかった理由は忘れたが里中はおらず、他に男子が3名、美穂を含めて女子が2名だった。1時間ほど滝の周辺をぶらぶらして涼を取り、時間を決めて駐車場に集合すると決めた。遠出ではあったが、やはり向井の同行は心強く、学生たちは思い思いに散策を楽しみ始めた。
自然と、女子がふたり並んで歩く形になった。通常の半分以下に徒歩の速度を落として、悠介は2メートルほど前方の左を歩く、美穂の癖のない長い髪を見ていた。華奢な肩を楽しげに揺らして笑うたび、漆黒ではない細い髪が亜麻色に透ける。と、唐突に額に衝撃を感じて視界が遮られた。
「 ・・・・・ 」
気配を察した美穂が振り向いた。
「 佐野くん、 大丈夫 ??」
楓の枝が伸びているのに全く気付かず、ちょうど真正面から青々しい茂みへ頭を突っ込んだ態であった。
「 こらー。 環境破壊しない。」
美穂の傍らで、女子が苦笑して茶化してみせた。
「 目、だいじょぶだった?」
歩み寄ると、美穂は精いっぱい背伸びをして悠介の髪や肩にからんだ枝葉を払い落としてくれた。そして前髪に乗った楓の一葉をていねいに取り除くと、日光に透かして仰ぎ見た。
「 青葉の楓もきれいなんだねー 」
「 うん。きれいだね。」
愚直に言葉を繰り返してしまってから、悠介は内心ひどく狼狽した。
「『くぐり滝』って言うんだって。 行ってみよう。」
屈託のない笑顔で美穂は促した。
向井も含めて、バラけてはまとまりながら木陰の道を進むと、やがて苔蒸した古い石段にたどり着く。その、なだらかな傾斜を降りきった先がいよいよ滝壺で、力強い水音が威圧感を伴い一気に近付いた。学生たちは揃って歓声をあげ、勇んで滝潜りに先を競う者もあれば見上げる滝の威容に退く者もある。悠介にはしかしこの時、稀少な自然の景観も、野鳥のさえずりや眼前に落下する水音ですら遠くの事象であった。
この年度の修学過程を終えると、翌年は臨床心理士の資格を取得するための試験に臨まなくてはならない。7月に24才を迎えた彼が自らに課していたのは、美穂に対する傷ましいほどの恋慕を告白すること、その一事に限られていたのである。
「 佐野 」
「 ー はい。」
通りすがりざま、向井が肩に掌を添えて常と変わらぬ穏やかな声をかけた。
「 足元には気を付けとけよ。」
「 はい・・・?」
すらりと伸びた長身の背中をぼんやり眺めた後、視界の範囲に美穂がいないことに気付いた。母親とはぐれた幼子のごとく、悠介は夢中で捜し始めたが、周囲には見覚えのある同期生たちや見知らぬ観光客らの背中しかない。向井の忠告どころか、剥き出しの岩石の堆積を落水が打ち続けている浅瀬にスニーカーを足首まで浸し、しだいに滝の裏側へと進んだ。左側を垂直な水の壁が覆い、右側には昼なお暗く、安定した気温と湿度に護られて涼気をまとった岩肌が拡がっている。戸惑いつつ3メートルほど歩いたところで、人の声が聞こえた気がした。
「 ・・・・ ?」
足を止めて耳を澄ますと
「 た・す・け・て・ー 」
と、背後で女の声が呼び止めた。さすがに息を呑んで目を向けた先に、岸壁の狭間より白い両手が伸びて おいでおいで している。
「 うっ? ー 」
見掛けによらず、怖がりなところのある悠介は凍り付いた。次の瞬間 、
「 なんちゃって、 ねー 」
美穂が、明るい笑顔をひょっこり覗かせた。
「 し・・ 白河っ(美穂の旧姓)」
「 ここ、座れるよ 」
物の怪の類いではない、実体の美穂が楽しげに手招きをしてみせた。岩窟のくぼみを見つけたらしい。大人用の椅子一脚分ほどの平らな部分に、2名はこじんまりと体育座りで並んだ。美穂が小柄であったから、どうにか収まることができる空間であった。
「 ね、すごいねー 」
「 何が?」
瞳を閉じて、彼女はひとつ大きく息を吸い込んだ。
「 滝の音しか聞こえない。異次元みたい。」
「 ・・・たしかに 」
実は、とっくに悠介の精神は粉砕されている。将来の抱負だとか、人生の意義だとか、系統だった思想のすべてに対する憎悪を感じた。美穂と二人きりで生きているこの瞬間にしか、意義が感じられなかった。その沸々たる想いを、いったいどんな言葉に置き換えれば伝えることが叶うのかー
混迷を極める彼の脳裏に、言語の切れ端は浮かびようもない。
「 もおー 。 ほんとに ”ぶっきらぼう” なんだから。」
語気がいつになく強く感じて、美穂の目を覗き込んだ。目尻が垂れがちな大きな瞳が、波々と涙を湛えている。
「 ・・・・ 」
「 左手、 出してみて。」
彼女は自らの左の掌を精いっぱい広げてみせた。促されるまま掲げた悠介の大きな左手に、美穂は強引に指を滑り込ませ、しっかりと絡ませた。
「 もう、そばに居てもいいでしょ?」
言葉が継げないままで、悠介は左手を強く握り返した。
「 ずいぶん時間かかったね。」
「 お、俺が・・ 」
「 うん。」
左右に一粒ずつ涙が溢れるのと同時に、彼女は微笑んだ。
「 資格取って喰えるようになったら、 白河と一緒になりたい。」
それだけ言うのがやっとだった。重ねた掌を悪戯っぽく にぎにぎ して、美穂は笑ってみせた。
「 それはまた・・・. ずいぶんと待たされそうだ。」
身も世も無く
そんな古めかしい恋慕の表現にある通り、身を駆る烈しい情動に貫かれて、骨格の細い美穂の身体を夢中で抱き寄せ、悠介は唇を奪った。力が強過ぎたが、美穂は素直にやさしく委ねている。
限りある人の生涯のうちに「永遠」と呼べる瞬間が実在することを、悠介は信じた。
「 ごめん・・・ 待たせて 」
「 ずっと、ずっと、大好きだったよ。佐野くん 」

美穂ー

手を伸ばした悠介を目覚めさせたのは、サイドに置いたスマートフォンのアラーム音だった。
「 ・・・・・・ 」
煩しげにアラームを解除して、就寝時に美穂の定位置であったベッドの右側の余白に、悠介は深々と顔を埋めた。


 五月の下旬に入ったこの日、ひとつ重要な要件を悠介は予定していた。
”トモ” の身元の引き受けを実現するために必要な手続きや、今後利用できそうな福祉制度の確認など、区役所福祉課のケースワーカーへ相談に行く。あらかじめ、担当の部署へ面会の予約を午前中に入れてあった。法律に詳しくない以上、最も効率良く解決できる糸口がどの辺りにあるのか、まずは丸投げしてみてから考えようとの、彼らしい ざっくりした発想であった。大学病院の澤村にも担当医師として同行してもらうため、悠介がまず車で迎えに行く約束となっている。
外は雨天である。暗雲という程ではないが、今日一日の物語を始めて間もないのに、首都の空はやるせなく翳って見えた。あるいは、悠介の目にそう映ったに過ぎぬのかも知れない。ワイパーで弾くべきなのか、さほどでないのか微妙な雨量で、信号待ちをしながら、彼は水滴を眺めて呟いた。
「 十三回忌だよ、 美穂。」
次週の週末、美穂の墓所である寺院で簡素な法要行事が行われる。当日は、栃木県の実家で農業を継いでいる11歳上の兄・ 和郎と、吹田市在住の美穂の実姉夫妻に、法事と会食の案内を送ってあった。
予定よりも早く病院へ到着し、職員駐車場の南西、通用口に近い場所を選んで停車した。澤村に連絡するにも早すぎる気がして、悠介は後部座席に投げたバッグから一つのクリアファイルを抜き出した。”トモ” が所有していた、手掛かりの日本画に関する資料がまとめてある。
数十枚の中から付箋を記した一枚を手に取ると、蛍光ペンで目立たせてある一部分を彼は音読してみた。


( 1941年初版 岩波書店 鏡花全集 第二十巻 作者:泉 鏡花 『売色鴨南蛮』 本文より引用 )
『「姉さんが、魂をあげます。」――辿りながら折ったのである。……懐紙の、白い折鶴が掌にあった。
「この飛ぶ処へ、すぐおいで。」
 ほっと吹く息、薄紅に、折鶴はかえって蒼白く、花片にふっと乗って、ひらひらと空を舞って行く。……これが落ちた大きな門で、はたして宗吉は拾われたのであった。』


「 ・・・・・ 」
理由も解らず、不意に大粒の涙がこぼれ落ちて、彼は狼狽えた。慌ただしく頬を乱暴に擦りながら、澤村の携帯へ到着の電話をかけた。
「 はい。 通用口の近く、紺のセダンです。」
ほどなく、穏やかに微笑を浮かべた澤村が現れて車に乗り込んだ。濃いグレーのスーツをさり気なく着こなした彼は、白衣をまとう姿とは趣をやや異にして見える。
「 佐野先生。 何かとお世話をお掛けしてすみません。」
「 こちらこそ 」
シートベルトを掛け直しなから、悠介は苦笑した。
「 澤村君。 せんせい は、勘弁してくれ。頼むから 」
「 いや、そんな。 とんでもない ー 」
エンジンを掛ける前に、悠介は資料のファイルを手渡した。
「 ネットの範囲でしか未だ覧れてないんだが 」
「 ええ。」
書面の内容について概説すると、彼は役所へ向けて車を発進させた。助手席の澤村は一枚一枚、丁寧に目を通している。
( 30代前半と言うと、俺はいったい何をやってたんだろうー )
澤村の年代との隔たりを感じ、そんな感慨しか浮かばない自分の不甲斐なさに、彼はつくづくと打ちのめされていた。
「 こちらの文学作品を絵画化したものでは、という考察を?」
文字を追いながら、彼は問いかけた。
「 まあ、なんとも言えんのだがね 」
フロントガラスに注ぐ雨量が増えて来たので、悠介はワイパーとヘッドライトの動作を調整した。
「 その・・ ごく短いストーリーの中に、似通った設定のシーンがあるようだ。」
「 ええ。」
いや、むしろ と、 悠介は笑って注釈を付け加えた。
「 直感的にはそんな気がしている、と言うべきだね。」
澤村は、感慨深げに資料を見つめ続けている。あるいは、悠介が個人的に受けた深い感銘と同様の情動を感じているのかも知れない。
「 ヴァイオリンの趣味は、もう長いの?」
分野違いの話題に顔を上げたが、澤村は伏し目がちな微笑を見せた。
「 小5の頃でしたね、始めたのは 」
音楽教室っていうとこで習うの? 何の気なしに尋ねられ
「 いえ。」
澤村の眼差しに サーッッ と陰りがよぎったのを、不思議なほどに悠介は見逃さない。いや、見逃せないのであった。そして、そのことが気になって仕方がない。
「 親戚の・・ 従姉妹が教室で習っていて、彼女に教わりました。」
「 ほおー。個人指導だったんだ。」
「 従姉妹とは言っても 」
出発時よりも彩度が下がった前方の雨空を見上げた時、彼はおそらく医師では無い顔をしていた。
「 血の繋がりは無いんですが・・・ 僕は養子縁組で養われたので 」
「 そうなんだね。」
澤村という人間の計り知れぬ奥底に封印されている心の疼きが、ふと、その素顔を垣間見せてしまったー
そんな風に悠介には感ぜられた。
「 教わった、というと 」
高架橋下の交差点で、信号待ちになった。
「 その人は年上だったの 」
「 ええ。 ー五つ上で 」
いったん言葉を留めて、澤村は初めて装わない破顔を見せた。
「 うん? ・・なんか、済まん。失礼があったら謝るよ。」
悠介はホルダーからステンレスボトルを取って麦茶を一口飲んだ。ずいぶんと使い込んだ物である。美穂が在命中、すこし値は張るけど長く使えるから、と持たせてくれた。
( この方がね、経済的だし、環境にもやさしいから )
美穂が選んでくれた物であれば悠介は何でも構わなかったのだが、ペットボトルに対するエコボトルの利点について、彼女はいつも通り熱心に語ったのであった。
「 いえ、違うんです。」
澤村は、悠介の横顔を覗き込んだ。
「 佐野さんと過ごしていると、 なんだか話してみたくなる と云うか 」
「 えっ、 そう?? 」
左へ大きくハンドルを切りながら、彼は疑わしい声をあげた。
「 なんと云うか・・・ とても居心地が良くて 」
「 いや。俺は駄目だ。言葉がうまくないし 」
「 僕は・・・ 」
思考を整理したいときの癖なのか、この際にも両手の長い指を膝の上でゆっくりと組み合わせた。
「 うん? 」
「 小さい時から、いつも誰かしらに縋って・・・ 」
教会の懺悔室で司祭者の前にひざまずき、打ちひしがれる信仰者のごとく、彼は肅然として瞼を閉じた。
「 どうにか生きながらえて来た人間でー 実に無力で、取るに足らんのです。」
「 いや。 待て待て。」
区役所の庁舎を前方に確認しつつ、悠介は語気をいくぶん強めた。
「 どんな人間だって、そうさ。」
「. ・・・・・・ 」
駐車場に入り停車すると、ハンドルの上に両手を掛けたままで彼は続けた。
「 誰かに支えてもらって、どうにか生きてんだ。 誰も彼もがさ 」
言葉を返さずに見つめる澤村の瞳は、おそらくヴァイオリンを習い始めた頃と何ら変わらず美しく澄んでいる。
「 その、支えあい方がよく判らんから、」
シートベルトを外して一応、腕時計で時間の確認はしたものの、悠介の脳内の何処かでスイッチが入ると同時に弾けてしまった。
「 人類が誕生して以来、もう ずうーっっと、 心 っていう厄介なものを延々と持て余して来たのが、人間の歴史じゃないのか。」
この機に、澤村へ伝えておきたい事柄が様々に脳裏を駆け巡っていたが、例によって、思念の膨大さに自滅する形で悠介は頭を抱えた。
「 俺なんかさ、それこそ・・・ 」
居たたまれなさに、右の拳で彼は自らの額をゴツゴツ叩いてみた。
「 例えば、 里中とかが居なけりゃ、とっくに終わってた。 そんな有り様だからさ 」
語れば語るほど、伝えたい真意から遠ざかる言語の迷宮で立ち尽くし、悠介は論理破綻して大きく肩を落とした。
「 ・・・ ありがとうございます。」
居住まいを正した澤村の表情に、医師として、頼もしい後輩の顔が清々しく浮かんだ。
「 どうか、 佐野さんの傍に居させてください。」


 役所の二階、社会福祉関係の窓口で用件を職員へ伝えると、フロア突き当りの小さな別室へ案内された。窓はなく、四人掛けのテーブルと椅子が2組置かれてあり、簡素なパーテーションで仕切られている。白い壁には丸い時計だけが掛けられていた。ほどなくドアがノックされて、担当者らしい男性職員が現れた。
「 どうも、御足労をお掛けして恐縮です。」
「 こちらこそ、お世話をお掛けします。」
職員は二人に着座をすすめ対面して座ると、福祉部地域推進課の十河と言います、と名乗った。瘦せ型の、しかし骨格の頑丈そうな、歳は40の前半あたりだろうか。悠介と澤村は名刺を添えて挨拶して、十河という男の左眼と左顔面の筋肉の動き方に不自由さを見て取った。発声についても、やや聞き辛い部分があるものの、聡明で有能な人物であろう事は容易に推察された。紙面化して持参した資料をテーブルに並べ、相談したい要件の概略を悠介は述べた。その目を見守りながら、十河は一枚ずつ資料を手に取って確認する作業を続けている。途中、シャツの胸ポケットから蛍光ペンを取り出してチェックを加え始めた。
「 先ず、ですね。」
ひととおり聞き終えて、彼はテーブルの上にゆっくりと両手を置いた。
「 私が言うまでもないですが、こちらは非常に稀で特殊なケースとなりますね。」
二名はうなずいた。顔を上げると
「 差し当っては、生活保護を適用させて頂ければと思いますが、」
十河は悠介に問い掛けた。
「 失礼ですが、佐野さんはご担当の心療以外に、この方のためにどのような手助けをしたいとお考えですか?」
「 彼の記憶や精神的な社会適応力を回復するためには、最低限、安全に治療を受けられる環境の保証と、時間が必要です。」
「 はい。そうですね。」
十河は頷いてみせた。
悠介の想定しうる範囲においては、勤務先である里中のクリニック内に保護して治療を続け、社会復帰を目標とする事。彼の身分の証明を可能とするため、必要であれば身元の引き受けであるとか、養子制度などの申請をやぶさかとはしない、などの考えを彼なりに伝えた。
ノックと共に、至急の用件らしく男性職員が分厚いファイルを手に入室して来て、一礼をした。
「 あ。 すみません。」
悠介らに目礼をして、十河は椅子をテーブルから少し提げた。差し出されたファイルを目視して声を低く指示を示すと、職員は口頭でいくつかの確認を済ませ、慌ただしく部屋を出て行った。
「 失礼しました。」
テーブルに戻った彼は、改めて二人を見遣った。
「 お考えの趣旨は承知しました。 戸籍等の扱いについては、その方の記憶が、何処かの時点で回復される可能性も考えられる訳ですので 」
「 ええ。」
「 先ずは、主治でいらっしゃる澤村さんの診断証明書を提出していただいて 」
「 はい。」
「 書式はお任せしますので、佐野さんの方で向こう3ヶ月間の具体的な治療計画と、必要となる経費の概算見積もりを提出してください。 そちらに基づいて、できるだけ速やかに生活保護の認可を行います。」
「 ・・・・・・ 」
整然とした十河の回答が伝えている骨子を脳内で反芻しつつ、半ばは信じがたい想いで、悠介は深々と頭を下げた。
「 どうも・・・ ありがとうございます。」
親しみのある笑みを、十河は初めて引き締った頬に浮かべた。
「 役所なものですから。 足周りが良くなくて、恐縮です。」
持ち込まれた資料を几帳面にまとめながら、彼は必要書類の提出日と認可までに要するおおよその日数について、説明を付け加えた。手帳にメモする悠介を見つめ、彼は敢えて訊ねた。
「 愚問かもしれませんが、」
「 ええ?」
「 佐野さんは、なぜそこまで、この方の面倒を見られるのでしょうか?」
傍らの澤村も、同様に悠介の言葉が聞いてみたく、真剣な眼差しで見守っている。
「 そうですね。 直感 というか」
「 直感、と言いますと??」
「 自分は何につけて人一倍不器用な性質で・・・ 」
膝に乗せた両腕で自らを支え直して、解説に適当な語彙を悠介は捜した。
「 様々な状況のなかで、これは大切なことじゃないのか、と感じた事柄を見過ごさないで生きる、と言いますか。自分に響いて来た事実からは逃げない、運命がどうとかー そのあたりの事とは違うんですが。」
「 なるほど 」
ひとつ深く頷いてみせて、資料を手に立ち上がると
「 また、お話を聞かせてください。」
十河は右の掌を悠介の眼前に差し出した。握手を交わしながら、悠介は十河の目を見つめ返した。
おのれの人生を全うすべく、真摯に生を営む人間の力強さが、彼の握力から悠介へと温かく注がれた。

















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登場人物紹介

水樹 史也( みずき ふみや)

広告制作会社勤務のイラストレーター。26才。心療内科カウンセラー 佐野 悠介との出逢いがきっかけとなり、かつて深刻であった精神状態から快方へ導かれて以来、悠介へ深い信頼を寄せている。

並外れて繊細な神経に恵まれた一方で、一般的な常識にとらわれない大胆な行動力をも兼ね備えている。

佐野家隣家の牡猫コタロウ( 水樹は一方的にヴァンプと呼ぶ )は親友である。

コタロウ

佐野親娘が暮らすマンションの隣人・黒田さんが飼っている去勢済の牡猫。

遠出はしないが、何故か佐野家へだけはベランダを器用に伝って頻繁に訪ねて来る。穏やかで人なつこい性格で、ツンデレのツン要素はあまり持ち併せていないらしい。

大柄な水樹 史也が繰り広げるスキンシップを実のところは迷惑に感じている、かどうかは不明である。

佐野 成未( さの なるみ )

大手通信販売会社に勤務する27才。きょうだいは無く、臨床心理士の父・悠介と二人暮らし。

十代で母を亡くしたせいもあってか、日常の生活者として揺るぎのない堅実さを備えたしっかり者である。

職場の同僚で後輩にあたる 中村 宏太 に異性として好意を感じているが、適当な距離から見守っていたいとひそかに願っている。

亡くなった母の実姉で、関西在住の叔母・川瀬 愛子 の無敵な明るさも好き。


佐野 悠介( さの  ゆうすけ )

臨床心理士を務める成未の父親。ある意味、純粋な少年時代のひたむきな向学心を持ち続けている。生来の気質としては朗らかで、性善説を信念とする。豪放と呼んでも可いマイペースと他人の反応をあまり意に介さない爽やかさが、弱点でもあり強みでもある。早世した妻の美穂をこよなく愛し、誰よりも傷みを背負っているが、忘れ形見の成未にも敢えて語った事はない。彼の血の通い合った心療の姿勢が、苦しむ者の拠り所となる。

中村 宏太( なかむら  こうた )

成未の後輩にあたる同僚の青年。人間関係に於ける周旋などに、ややもすれば誤解を招くほど不器用な誠実さと真面目さが長所とも謂える。その一本気さゆえ逆境に弱そうに見られがちであるが、外見とは裏腹の不屈な意志の勁さを秘めてもいる。誰にも明かさないが、片親の家庭に育ち自身の努力によって現職を掴んだ不遇な経歴こそが、未来を生きる糧となるという誇りと信念を強く抱く。

その一方、他人知れず成未に対する深い愛情を日々確かめてもいる。


記憶を持たない謎の男

事故なのか、傷害の被害者であるのか、瀕死の重傷を負って忽然と現れ、救急病院へ収容される。

怪我の後遺症によるものなのか、彼の「記憶」には深刻な混沌が生じていた。

唯一の所持品である色褪せた挿絵らしい紙の切れ端と、彼の脳内から無作為に出現するワードを手掛かりに、悠介と里中は心療にあたろうとする。

ところが正体不明者が次々と現れ、彼の身辺はしだいに不条理な危険に晒されてゆく。並外れた体力と身体能力を備えている事実に関しては、疑う余地がない。

里中 睦( さとなか  あつし )

悠介の同窓生で個人の臨床心理クリニックを経営する。佐野家とは美穂の在名中より親しい交流を持ち続けている。学生時代に培われた純粋な理念と悠介との信頼関係を自身の宝としており、悠介に臨床治療の片腕を託してもいる。成未にとっては、心の内を明かせる大切な存在である。

明朗な印象で独特の愛嬌の豊かさが魅力だが、外見とは裏腹のこまやかで緻密な神経を持ち合わせている。

澤村 泰弘( さわむら やすひろ )

悠介らの母校に附属する大学病院の心療内科で治療にあたる若手医師。緻密な頭脳と臨床医師としての適性から、周囲に将来を嘱望されている。公にはされていないが、不幸な幼年期に他家へ養子に迎えられた生い立ちを持つ。

心療を目指したきっかけは自らが幼い頃に負い、癒えることのない心の傷痕にある。少年時代に奏法を学んだヴァイオリンを愛し、多忙な中に於いても一人奏でて過ごす時間を大切にしている。

津久井 慎司( つくい  しんじ )

佐野親娘が居住する地域を所轄する警察の刑事で巡査長。謎の男の身元や負傷した経緯などが究明されないままの現状に違和感が拭えず、真相を突きとめようとする。微塵な情報を見逃さない、物的な手掛かりに基づく公正な分析を規範とすべく自らを律する一方、現場の人間に対する直感的な印象や気付きにも重きを置く。真摯な責任感と誇りが、職務に取り組む信条である。学生時代より精進している空手道の段位は黒帯で三段。

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