第9話  ネィ・セカンド・スプリング・アゲィン

文字数 14,840文字

 里中の経営するクリニックは、都内城南地区と神奈川県を隔てる一級河川のほとりに位置している。
6月最後の勤務日に当たるこの日、午前中の診察を終えた悠介は、二階に設備された療養施設に牧野を訪ねた。綾嶺大学病院の病棟から転院して、10日ほどになる。数日ぶりに梅雨の晴れ間となった正午前から気温は予想外に上昇し、一気に夏日を観測した。午前中セッティングされていた空調を解除して全ての窓が解放され、未だ気の早い、夏の予感の気配を室内に取り込もうとしている。
「 よ、」
いつも通りの気さくさで、悠介が部屋の扉を形ばかりノックした。
「 先生ー どうも。」
牧野も、いつも通りの、土手越しに遥か隣県を見渡せる窓際にテーブルを寄せていた。配膳された昼食をとっていたのが、悠介を見ると立ち上がり、端的な振舞いで穏やかに辞儀をした。そもそもが、礼儀正しい男であるらしい。今日の日照の加減のせいでもあろうが、大学病院にいた頃よりは、表情の彩度が明るみを帯びて感ぜられた。
「 俺もここで、昼飯喰っていい?」
入室するなり、来客用の折り畳み椅子をクローゼットの隙間から ガタゴト 引っ張り出すのを見て、牧野はふと、心地好さそうに口元を崩した。
テーブル上に彼が作ってくれたスペースへ、悠介は無造作に、持参した保存容器と箸箱とエコボトル、出勤前にコンビニで仕入れたサンドウィッチを広げた。
「 トモくん、寝れてる?」
まめにバンドで固定した保冷剤を外して蓋を開けると、容器の中身は盛りだくさんの野菜サラダである。ごくシンプルにカットしたリーフ類とパプリカ、コーンとビーンズ、ミニトマトなどがざっくり放り込まれている。
「 ー はい。」
牧野は、サンドウィッチにかじり付く悠介を愉しげに見守っている。
「 ・・・・ うん?」
「 先生、自分で料理を?」
一食分のフレンチドレッシングのビニールの切り口に、やや手こずっている悠介に、彼はたずねた。
「 俺さ、血圧高めなんだよ、体質的に 」
ようやくサラダの味付けを終えると、ボトルから緑茶を一口飲んで
「 ー んで、 嫁さんが生きてる時に厳しく躾けられてね。」
悠介は、歳を重ねても変わらず爽やかな頬に、人懐こい笑窪をにじませた。
「 お医者の不養生・・ になるから、外でもちゃんと生野菜食べろ って 」
「 奥さんとの約束、守ってるんですね。」
大きく頬張ったサラダを懸命に咀嚼し終えると、少年めく悪戯な瞳で苦笑してみせた。
「 ほんと言うと、俺、生野菜あんまり好きじゃないんだけどな。」
にわかに廊下に人の気配が響いたと思うと、昼食らしいレジ袋を提げた里中が慌ただしく参入して来た。
「 いやー 外、けっこう暑い、今日。 湿気は、あんま無いんだけどね。」
こちらの同窓生も同様に、何気なく椅子を抱えて持ち出して来ると、揚々として二人の隙間にセッティングを始めた。里中の昼食は、彼的にテイクアウトの定番メニューらしい、牛丼の大盛りつゆだくである。ワイシャツの両袖を几帳面に肘まで折り上げながら、ペットボトルの健康茶をさも美味げに飲んで、 ふうー と、何かの一息をついた。
「 ほれ、ー 」
頼まれもしないのに、里中が裏返して置いたプラ容器の蓋に、悠介は自身のサラダを一盛り こんもり 乗せた。
「 へっ ??」
「 君もさー 」
やや憎々しげに、二つ目の別種類のサンドウィッチを齧りながら
「 健康管理してくれる人いないんだから 」
「 はあ。」
真面目とも不真面目ともつかない口振りで、悠介は左目のみ ぱちり と短かく瞬きして、目配せをした。
「 食事のバランス考えないと、な。」
「 ふうー・・・ ん。」
訝りながらも素直にサラダを頬張ったが、里中はわざとらしく頭上に視線を遊ばせ、呼ばわってみせた。
「 美穂さーん? 佐野が野菜押し付けてくるんで、上から叱ってやって下さーい。」
所在無げに長い脚を組み、窓際に頬杖を突いて二名のやりとりを眺めつつ、牧野がくつろいだ笑みを浮かべた。転院を機に、短めに整えられた彼の美しい黒髪に風がそよいだ。
「 ・・・・・・・ 」
瞼を閉じて、北西の方向へと髪を解きながら過る風の行方を、彼は五感に確かめようとした。が、ふと、彫りの深い眼差しを鋭く開いた。
「 お二人に、警察の関係でご面倒を掛けてませんかー ?」
「 警察?」
食事を終えた悠介は、一階のオフィスから汲んできたコーヒーを啜りながら答えた。
「 いや。なにもない。里中は?」
うん、ないねー と、里中は幸せそうに牛丼の最後の一口を頬張った。
綾嶺大学病院の関係者専用駐車場を中心に、牧野の襲撃に持ち込まれたと思われる注射器とナイフの確認が敷地内で計画的に実施されたが、物証を得る事は出来なかった。病室に仕掛けられていた二機の盗聴器、および、澤村が怪人物より手渡された 一連の書面からも、不自然なほどに、残留指紋は確認されていない。また、名刺に記載されていた団体名や住所は架空であり、固定電話の契約者も別人であった。牧野が自筆したとされる ’遺書’ に関しては筆跡鑑定が行われ、ほぼ100パーセント偽造書である事が立証されている。牧野自身の犯罪経歴の記録は、先に刑事課の津久井が辿り着いた通りで、未成年時の傷害・暴行事件の一件のみであった。
但し、何らかの関与の可能性が考えられる看護師の新城が行方を眩ましており、探索中である。警備課が動き始めた翌日に無断欠勤し、入居していたワンルームマンションが解約されており、それ以降、連絡がいっさい取れなくなっている。
「 まあ、この際、調べてもらえば善いんじゃないか。」
ゆるやかに脚を組んで座り直すと、悠介は、開かれた窓越しに青空を遥かに見上げた。
「 そう言っちゃ何だが 」
「 ー うん。 そうな。」
里中が、丸い目元を ぱっちり させて頷いてみせた。
「 澤村君も、悪意を持って狡猾に付け込まれてた訳だし。」
頬杖を解くと、牧野は両手をしっかりと胸の前に組み合わせて、悠介を真剣に見詰めた。
「 行政と司法には、公正な役割をぜひ果たしてもらってさ。」
「 はい。」
「 それで、この先なにか思い出す事とかあったら、俺たちに知らせてくれ。」
「 ー 解りました。」
瞬きとともに、牧野はゆっくりと一つ、頷いてみせた。
法律はさっぱりだがー  と、悠介は午後の陽光の中で爽やかに微笑んだ。
「 もしも必要になるなら、その時は一緒に闘おう。俺は絶対に、君ら兄弟を投げ出さんから。」


 午後の診察まで間があるからと、悠介はクリニックの外へ牧野を連れ出した。施設正面の駐車場と堤防沿いの公道を区切って、低木の数種をアレンジした花壇が設けられている。この季節、アルストルメリアやインパチェンスなどが盛りの極彩色を競っている傍らに屈むと、やおら彼は、腰ポケットから軍手を取り出した。
「 トモくん、これ使って。」
「 ? ー はい。」
要領を得ず、ぼんやり立ったままで、牧野は差し出された軍手を受け取った。目を閉じて、息を大きく吸い込んでみた。河川周囲の緑地から、 からり と乾いた日光の加勢を受けて、若々しい草いきれが勁く湧き立ってくる。鼓膜の奥で、この瞬間も堅実な血流の循環を弛みなく続ける心臓の鼓動へ、彼は耳を澄ませた。
  なぜ俺は生まれ、 なぜ、未だ生きてるのだろう ー 。
「 この前から気になっててさ。」
言いながら、悠介が何やら細々と手を動かしている。
「 ・・・・・・ 」
並んで覗き込んだ牧野に、彼は掌を広げて、摘み取った小さな雑草を見せた。
「 梅雨どきは、伸びるの早いからね。」
「 そうですね。」
そのまま素直に、大柄な彼はむしろ悠介よりも器用な手仕事で、草むしりに勤しみ始めた。花壇に敷き詰められた良く肥えた土は、雨水の豊かな湿りを帯びて、土壌の香りを彼の鼻先に優しく漂わせた。未だ制御しきれないまま、歪つな心のうちに、牧野は自らの姿に三文芝居めいた愚かしさを感じてもいる。しかし、これほど無防備で邪気の無い人間のつながり方に、おそらくは出逢った経験がない。傍らで黙々と土をいじる不可思議で無垢な医師の横顔を、彼は見遣った。すでに、悠介の額には薄っすらと汗が浮かんでいる。
( 長くは続かないかも知れないが ー せめて許されても可いだろう。)
この時、堤防の方角から、ギターの弦がしめやかな音色を風に乗せて響かせ始めた。
公道をはさんで、ちょうどクリニックの真後ろ辺りの緑地を訪れて、弾く人物があるらしい。悠介にも耳馴染みのあるスタンダードなメロディがいくつか、午後になって一層、明るさを増した陽光にそぐわしく続いた。近隣に高校や大学が数校あるため、河辺の広い空間を利用して学生らが思い思いの活動を行う姿は、ごく日常的な風景であった。この場合も、なんら不自然に感じることなく、美しい音色に耳を癒されながら、悠介は草むしりを捗らせた。するとふと、音が途絶えた。
「 ーお ? 今日は、ライブもう終わりか?」
名残惜しげに、彼は手を止めて河川の方角を見遥かした。牧野も同様に、同じ方角へ目を上げた。やがて、弦の爪弾き方にも相違があるのか、次は音感が大きく変わって、哀切に満ちた曲を奏ではじめた。
そして、よく通る、類い稀れに美しい女声の歌唱が加わった。韓国の言語のようであった。歌詞のフレーズは長くはなく、非常に印象的な主旋律を軸にしたシンプルな曲調が、むしろ奥深い格調と情趣を感じさせた。
「 なにか・・・ すごく哀しい唄なのかー 」
川面からそよぎ来たる風と寄り添う、妙なる歌声に引き寄せられて、悠介は両手の泥土を擦り落としつつ公道に立った。見渡した緑地のはずれに、黒いストラップを背に掛けた一人の女性の姿がある。すらりと伸びた長身に、上品な濃紺の花柄を意匠したワンピースをまとっていた。美しい歌声が近くなって、続いた。
悠介はそのまま堤防の端に腰をかけ、真剣に聞き入った。歌詞の意味は判らないが、一つ一つの美しい言葉に込められた、言語の種類を超え得る人の想いの純潔なバイブスが、彼の心を深く揺さぶっている。
「 ・・・・・・・ 」
ためらいがちに道を亘った牧野も、傍らに腰をおろした。河川は滔々と平穏によどみなく流れ、そろそろ繁殖期を迎えるヨシキリの類いが、晴れた空高く、独特の鋭い声を響かせて過ぎった。曲の間奏を爪弾きながら、女性が緩やかに振り向くと、真っ直ぐな黒髪が、はらはらと風になびいた。二十代の後半くらいか。
抜けるように肌の白い、目元の涼しい、美貌の女性であった。
「 ー こんにちは。」
会釈を示す所作をして二人に微笑みかけると、ややコードを変調し、先ほどとは違った趣きで、彼女は再び歌い始めた。それは、日本語の歌詞であった。

潮騒哀しい 浜辺で待つのよ
あなたと出逢った あの日の蒼空

生まれた理由を あの時知ったの
あなたの瞳が すべてを教えた

「 ・・・・・・・ 」
膝の上で両手を組み合わせ、牧野は黒く美しい瞳を瞬ぎもせずに見つめている。

黄昏れ近づく 浜辺で唄うの
あなたと見上げた あの日の明け星

からめた指先 解かぬと誓った
あなたの眼差し あなたの温もり

ー 世界が果てても わたしは待つのよ

深く余韻を曳いて、歌唱が終わった。しばし呆然と見守った後、ふと悠介は腕時計の示す時刻に気付いて、現実に立ち戻らざるを得なかった。
「 素敵な唄を、どうもありがとう。」
拍手で感謝と賛辞を示しつつ、彼は立ち上がると真剣な表情で辞儀をしてみせた。
「 いえ、こちらこそー 」
歌声そのままに済みきった声で、彼女も微笑を浮かべて辞儀を返した。
「 ・・・・・・・ 」
まだ立ち上がる気配のない牧野の肩をひとつ優しく叩いて、悠介は午後の診療の準備に向かった。
「 トモくん、先に戻るな。」
牧野と女性が初対面ではなく、なんらか特別な知古の間柄である そんな、彼特有の直感を感じていた。
「 はい。ー 」
彼女を見つめたまま、牧野は立ち上がった。思いきって背を向ける気配を察したか、彼女の髪が敏感に揺れて美しい頬を縁どった。
「 ・ ・ ・ ・ 」
牧野は声を発さずに、日本の言葉ではない4つの文字を、唇で一つずつ象ってみせた。
「 ー !!!」
堤の上に立つ牧野を見上げる彼女の白い頬を、大粒の涙が伝い落ちた。その瞳に、やや眉間を険しく見開いた眼差しで目配せをすると
「 ・・・・・・・・ 」
牧野は、左と右の掌(てのひら)を胸の前で縦に並べた。そして両腕の筋肉に力を込め、ゆっくりと二度、彼女に強く握ってみせると、自らを振り切り、クリニックへと向かった。


 週末の都内は、朝からの雨足が徐々に強まり、あいにく夕刻から土砂降りとなった。道路上の自然渋滞はもとより、バスや電車の一部にも少なからず影響が及び、運行ダイヤに遅れが生じ始めた。午後のミーティングが押した事情もあって、今月中に財務部へ提出する上期営業損益見込み報告のデータ入力を、成未は1時間ほど残業して目処をつけ、会社を19時前ごろに出た。階段や構内の足元が滑りやすくなっている地下鉄も私鉄も、傘と湿り気を帯びた乗客で相当な混み具合であった。乗降駅に着いて改札を出ると、見上げる夜空から注ぐ雨の勢いは、ややおさまって感ぜられる。しかし、傘を差しても濡れずに歩くのは難しそうであった。
いっそ、レインブーツにしたら良かったなー と思ったりしつつ、乗車間の密集した湿度で一気に増幅した疲労感に一つ溜息をついて、成未は歩き出した。帰宅して、とりあえずシャワーが浴びられれば、週末の雨音も心地好い響きに感じられそうであった。傘の雫をできるだけ払い落としながらマンションの外階段を昇り、ショルダートートから鍵を取り出した。すると、室内から にゃはぁーん と、辺りを埋めている激しい雨音に混じって、コタロウの声が聞こえた気がした。
( んっっー??)
慌ただしく開錠するとドアを開いて傘を玄関に置き、灯りを点けようと手を伸ばした時である。暗い室内で何かが動く気配を感じた瞬間、不意に、彼女は背後から身体を拘束され口を塞がれた。
「 ー!?」
滑稽な話だが、とっさに彼女の脳裏を過ぎったのは、 水野の性質の良くない悪ふざけ であった。度を越すにも、さすがに程度がひどすぎる。とりあえずパンプスのヒールで足を踏ん付けてやろう と、真剣に思ったのである。言われるところの、余りにも異常な事態に突然遭遇した際、人間の理性に於いては、正気を保つための生存本能として、あえて感知の精度をバグらせてしまう 的な、ある意味、素直な反応だったのかも知れない。怖れる気配もみせずに体を動かそうとよじると、残念ながら、背後から発せられた男の声は、特徴のある水樹の声とは明らかに別人であった。
「 佐野に伝えろ。こう ー だ。」
「 !? 」
突然、瞼と唇を冷たい感触が覆い、強く引き攣れる傷みを伴なった。強力な粘着テープの類いらしい。
「 ー!!!」
何者かは、懸命に逃れようとする成未の両腕を巧みに掴むと
「 牧野から手を引け。」
前のめりに床へ倒れたのを、静かに、しかし抗い難い確実な腕力で押さえ付けた。
「 さもないと、これだけじゃあ済まなくなる。」
右の頬に押し当てられた金属の、異様に鋭利な肌触りに、成未の全身を強烈な悪寒が駆け抜けると同時に、
バアン!! と、誰かの手が灯りのスイッチを押した。水樹が立っていた。
「 警察ですか? 女の人が襲われてます、すぐ来てくださいー 」
左手で携帯から通報しつつ、右手に傘を装備の代用として侵入者へ掲げ牽制している。大きな男は目無し帽で顔を隠し、黒い長袖のニットに革手袋で、サバイバルナイフを手にしていた。
「 そのひとをー 傷つけるな!!!」
日頃のヴォイス・トーンが年齢に不相応に低めの水樹とは、別人の声色だった。
男の国籍は不明だが、アジア人であるのは違いない。推定される年令は30代後半から40代初めくらいか。発声の抑揚を意識的に抑えてもいるのだろう。言葉になにか特徴的な訛りやアクセントは、聞き取れなかった。体格は、身長182~3センチの水樹より一回りほど大きく、ニットの下に隆々とした筋肉の強さが感じられる。有力な手掛かりは裸眼の部分であって、水樹は特有の鋭い観察能力を総発動しながら睨みあいを続けた。
「 なんなんだ、貴様は?」
思いがけず立ち上がると、男は無慈悲に成未の身体を床に放り棄て、水樹に鋭い一瞥を投げ掛けた。
「 婚約者だ。」
「 ほお・・・??」
遠く駅の方角からパトカーのサイレンが聞こえて来た。尋常でない俊敏さで男は踵を返すや、侵入口かと思われるベランダのサッシより逃走した。 にゃはぁああーーん ベランダ伝いに来たのか、コタロウがあっぱれな平常心で水樹の足元にすり寄って来た。梅雨の夜の雨音が支配する空間に戻った室内に、 ゴロゴロゴロ・・・ コタロウが鳴らしまくる喉の音が雄弁に響いている。成未を両腕で抱き上げながら、水樹が優しい声を出した。
「 ヴァンプ、濡れた? 怪我しなかったか?」
とっさに調理用のハサミしか在りかが浮かばなかったので、キッチンに立ち寄った。ウォールホルダーからハサミ、冷蔵庫からミネラルウォーターを、さらに洗面のタオルを取って彼女の肩に掛けると
「 ー よし。 成未さん、手当てしますよ。」
額にそっと頬を寄せて囁いた。リビングのソファに腰をおろし悠介の携帯にかけたが、留守電に切り替わったので、水樹はざっくりとメッセージを残した。そこへ、通報を受けて駆け付けた2名の警察官が慌ただしく到着した。遭遇した出来事の大まかな内容を説明報告しつつ、彼はハサミの刃先を安全に差し込める成未の皮膚とテープの隙間を探した。まず鼻の両脇、唇と顎のあいだにハサミを入れ、剥がれやすそうな部分を慎重に選んでいると、成未が自らテープを剥がそうと、口元へ無造作に手を伸ばした。
「 こらっ。」
その手を払い除け様に、彼は舌打ちをしてみせた。
「 こんな酷い粘着 ベリベリ 剥がして、 ほっぺに傷が残ったらどうするんです!」
「 ・・・・・・ 」
「 実は俺、いま生涯で最大に、テラバイトくらいは怒りで満ち溢れてますからね ー 」
未だ覆い被さっているテープ越しに成未の瞳を覗き込んで、水樹は眉間を厳しく、視線を鋭くしてみせた。
「 大人しくしてるように。」
室内の遺留物を探索中の警官に、水樹は確認の声を掛けた。この部屋の世帯主へは連絡済みで、おそらくは急いで帰宅するはずである事。そして自分が仕事で絵を描いているので、見えた範囲の犯人の姿形を後ほど描いてみせる事、を伝えた。その上で
「 彼女は具合が悪いので、少し部屋で休ませて可いですか。」
警官に了承を取り付けると、成未を抱き上げ、水樹は彼女の部屋へ移動した。コタロウも来るようだったので、彼お気に入りの カリカリ かつおフード の盛られたディッシュも持参した。
ベッドに腰掛けると、水樹はダメージを最大限少なくテープを取り除く細かな作業に没頭した。両目周りの視界が徐々に復旧し始めるのに伴って、異常過ぎる緊張が引き起こした神経の昂りと混乱が、少しずつ鎮静するのを成未は感じはじめた。
「 ・・・・・・・ 」
彼女が擦り抜けないよう、しっかり膝の上にホールドしながら、水樹は水で湿したティッシュやハサミの刃先を器用に駆使している。艶やかに長い彼の睫毛が触れるほど寄せた瞳が、時折り容赦なく、成未を正面から見詰めた。様々な感覚が回復するにつれ、水樹の腕の中に居ることの不思議なほどの心地好さに、成未はぼんやり身を任せている。
「 ー いま、手当てしてるのが 」
目の周りから上手に全てのテープを取り除いて、彼はやや怨みがましい眼差しで成未を見上げた。
「 例の、会社の後輩くんなら良かった とか、どうせ思ってるでしょう。」
言われてみて、たしかに、この事態を耳にした場合の中村の、誠実な表情が蒼ざめる様が脳裏に浮かんだ。
「 残念でした。」
口周りの最後の作業にかかるため、片膝を立てて成未を少し仰向かせると、水樹はトレードマークの不敵な笑みを口の端に浮かべた。
「 俺なんです。貴女を護れるのは 」
タオルを成未の顎下に備えて敷き、彼はミネラルウォーターで自らの口元を潤した。そして、その水分を含ませた唇と舌先で、封じられた成未の唇粘膜の周囲を丹念に湿していった。
「 ・・・・・・・ 」
水樹の前髪と皮膚の香りが徐々に、未だ混乱の遺る神経系統の損傷箇所を埋めてゆく。巧みに粘着成分を水分でふやかしつつ、やがて、成未に痛みを伴わせずテープを取り除く事に彼は成功した。
「 可哀想にー 痛むでしょう。」
擦過傷や出血はまぬがれた、成未の形の好い唇の状態を確かめながら、水樹は表情を曇らせた。ドレッサーにブラシを見つけ、彼女の髪を丁寧に梳かしはじめた足元では、 カリカリッッッ と、コタロウがハッピーなオーラを漂わせつつお食事中である。
「 すこし、お水飲みましょう。」
ペットボトルから一口含むと、彼は優しく、成未の口元に指先で合図のノックをしてみせた。素直に目を閉じると、成未は痺れの残る唇を開く努力をしつつ、水樹に委ねた。二口飲み干した。回復魔法なみに、水分が すっっっ と全身に浸み込んで初めて、ひどく身体が渇いていたのに気付いた。
「 何が起きたのか、わけ解らんけど ー 」
成未の頬を撫でながら、水樹は沈痛な眼差しを注いだ。お食事の済んだコタロウが、 ほわあっ と重力を感じさせずに飛んで、成未の膝の上にまあるく収まった。彼からはかすかに、抽出されたカツオのテイストが芳ばしく香った。
「 生まれて初めて、“殺気” て云うやつを、まじで感じた。さっきー 」
成未は驚きを持って、怖れなのか、怒りなのか、彼の心に俄かに翳った暗黒な感情を見守っている。
「 やばかった・・・・ 」
水樹くん と名を呼ぼうとして、彼女は新たに、身体機能の違和感に戸惑いを感じた。
( ・・・・・?)
脳内に浮かぶ言葉が、音声に変換されて出ないのである。動揺して、性急に自分の声を探したが、かすれた溜息しか、辿々しく開いた口からは溢れない。とたん猛烈な速度で、経験した一連の恐怖と緊張がフィードバックし、彼女の身体の中心から烈しい震えが襲った。堪え切れず転がりそうになるのを、水樹はしっかりと抱き締めた。
「 可哀想にー 」
二人のはざまで、コタロウは重要なルーティンである食後の毛繕いに余念がない。
「 無理に声を出しちゃ駄目です。とても怖かったんだから。」
彼は規則的な速度で、成未の背をさすりながら
「 愛してる って、なんか ペラペラ してて好きじゃないんですけど 」
( ・・・・・・・ )
見上げた成未の目を、彼は深々と覗き込んだ。
「 まじです。俺は。 たとえ貴女が、他の誰かを好きだとしても 」
すると水樹は、なぜだか妙に哲学的な台詞を呟いて 晴れやかに にっこり してみせた。
「 構わないです。俺はー 愛する って云うのは 、きっと、そういうことだから。」
( ・・・・・・ )
思い通りに話せなかった とか、いわゆる心神耗弱の状態にあった とか、後付けの言い訳なら、この場合なにかと言い様はあるに違いない。論理的な理屈を一切排除して、この瞬間、成未は努めて我を忘れた。母を亡くして以来、誰かに命ぜられるともなく課して来ていた、常識的な理性を専らとすべき といった嗜みを、本能がはじめて土足で踏みつけ、自らの精神から駆逐する 革命 に成功したのである。
「 ー んっ ・・・??」
両腕を伸ばすと、水樹の首に成未は自らすがった。
「 どうしました ー 甘えたくなったの?」
優しく受け止めて抱き寄せた彼の唇に、彼女はそっと、唇を重ねてみせた。瞼を閉じた成未を生かしている世界は、いま、リネンのシャツ越しに伝わる水樹の温もりのみであった。
「 ・・・じゃあね、」
成未の顎に手を添えて見つめると
「 ーキスするよ? たくさん。」
瞼から頬へかけて、ゆっくり口づけながら彼は囁いた。

「 忘れないでいて ー 俺が愛してることを 」
この上なく優しく、ふかく、水樹は彼女の唇を求めつづけた。


 所轄刑事課の元宮巡査部長は、第一現場に出動した警察官からの無線連絡を受けしだい、課員を向かわせた。この時間帯、佐野家のマンションに至近であったのが他件で張込み中の村山と津久井であった。襲撃されたのが心理士の 佐野 悠介の娘、と聞き、直感的に、元宮は牧野兄弟に絡んだ 何ごとか を予感した。津久井のみ外すかー 瞬時、彼は決断を迷ったが、あえて2名をそのまま行かせる事にした。実は、正式な認可を得ぬまま牧野の身辺を津久井が調べた一連に関しては、署内の表沙汰に出ない所で、元宮が各部署へ頭を下げて火消しをした。無論、津久井に報せてはいない。新たな局面を迎えた以上、津久井はどうせ、大人しく遠巻きになど出来まい と、肚を括ったのであった。たまたま同行していたのが村山だった点が、元宮の背中を押した。村山は、交番勤務時代からの津久井の同期生で、実務能力はもとより、実直で温厚な人柄も信頼に足る警察官であった。
彼らが到着した際、キッチンのダイニングテーブルでは、フリーター風の大柄な青年が黙々とドローイングに取り組む姿があった。襲撃の被害に遭った本人は、自室で仮眠しているのだと言う。世帯主の悠介は、未だ帰宅していなかった。現状わかり得ている情報についての報告を確認すると、二人は駐車場へ降り立って、ベランダへの侵入経路を推察した。施錠されていたサッシの鍵は、外側からガラスが破損され空けられていた。
「 僕が記憶しているのは、こうです。」
室内に戻ると、ちょうど水樹が目撃した犯人の風態を描き終え、テーブルに鉛筆を置いたところであった。
「 ほう・・。」
背後から覗き込んだ村山が、ごく一般的な反応で感嘆を示した。
「 上手いなぁ。さすがですね。」
「 ま・・・ 一応、これで飯喰ってますんで。」
意外な気がして、テーブルの上で両手を組みながら水樹は村山を見上げた。
「 我々も、犯人の似顔絵を聴き取って描く訓練があるんですがー 」
村山は照れ臭そうに、陽に焼けた頬をほのかに崩した。
「 自分とかは、絵心がまったく無いものですから。」
「 そうなんですか。」
ペンケースをしまおうと、水樹が傍らの椅子に置いたバッグに手を伸ばした時、玄関に慌ただしい気配がざわめいた。
「 ・・・・・・ 」
上目遣いにそちらへ目を遣ると、敏捷な動きで刑事たちの前を駆け抜けた青年の後ろ姿に
( ー? 並みの若者じゃないようだ。)
と、2名は同じ印象を感じた。
「 なっ・・ 成未はー 史くん! 成未は?!」
「 しい ーー っっ!」
想像した通り、動揺し切った様子の悠介が、玄関に仁王立ちのまま上擦った声で呼ばわった。傘を差すのも覚束なかったのか、本降りの歩道で転倒でもしたのか、髪からしずくが垂れるほど濡れそぼっている。
( ー こっちの介抱の方が、手が掛かりそうー )
考えてみれば、水樹にしても、である。
ハーバル関連を取り扱う新規顧客企業のブランド・アイデンティティのラフプランを3種類、午前中に自宅でデータにまとめ、午後にオフィスへ出た。常の通りで、マネージャーの樋口からはご機嫌になるほどダメ出しを頂いた。急遽、作業中のグラフィックメンバーまでも巻き込まれ、熱いミーティングが展開される羽目となり、その続きを居酒屋まで持ち越されかけたのを、どうにか脱出して、成未の顔が見たくて寄ったのである。唐突に、神経中枢の深刻な疲労に気づいた途端、彼は目眩を感じた。
「 静かにして下さい。成未さん寝てますからー 」
先ずは両手を濡れた肩に置くと、水樹は悠介の顔を強い視線で覗き込んだ。
「 寝てる って・・・? なあっ、ー成未は 」
「 先生、お医者でしょうが? 話しますから、落ち着いて下さいって!」
我を忘れて粗暴に言い掛ろうとする口元を掌で抑えつけると、水樹は強引に並んで座り込んだ。そして、自分が着いた時には成未が既に拘束されていた事、警官が駆け付ける前に犯人はベランダから逃走した事、辛うじて、凌辱や身体的な暴力には晒されていないであろう事を、悠介に説明して聞かせた。
「 ・・・・・・・ 」
膝の上に乗せた両手で頭を抱えたまま、悠介は瞼を閉じて耳を傾けていたが
「 君が間に合ってくれたおかげなんだなー 」
ありがとう 震える声を搾り出して感謝すると、堪え難げに首(こうべ)を深く垂れた。
「 ・・ 史くん、すまん。 すまんかった。」
「 ・・・・・・・・ 」
専門的な理論に則った施術より以前に、この風変わりな佐野という医師の、在るがままの企まぬ心こそが、牧野の精神にほのかな明るみを灯せたのにちがいない。
彼らのやり取りを見つめながら、津久井はひとつの核心を感じていた。悠介が帰宅したのを機に、親娘からの聴取を始める間合いを村山は微妙に見計らっているのだが、もう少し待つ事にした。
開け放たれたドアの向こうには、降りしきる雨に濡れて にじむ街の灯りと漆黒の夜空が遠く広がっている。
  あの晩も、ひどく降ってたな ー
重過ぎる記憶が傷痕の封印を久々に解くと、不可解に爛(ただ)れた古い病相の名残りを彼に突き付けた。
かつて水樹が深刻に病むに至った詳細な経緯については、故郷で過ごした幼少時代まで遡らなくてはならず、いずれかの機会に改めて辿る必要があるだろう。彼が初めて、悠介を頼って彷徨い歩いたあの雨の夜。
帰宅途中の悠介が、マンション横の公園のブランコで見つけなかったら、彼は早まった決断を決行していたかも知れない。このドアが開いて、水樹の視界が成未の存在を認識した時に、精神の無意識などこかで蘇生機能のコマンドが自動的に発動された ー。
気付けるまでの刻を要したが、一目惚れであったに違いない。
 とにかく風邪を引くから、着替えて下さい と促され、立ち上がった悠介が靴を脱いだところへ、成未が覚束ない足取りで壁を伝って恐るおそる顔を覗かせた。
「 ・・・・ 」
水樹を探し当てて見上げた彼女の眼差しは、出逢った記憶のない、痛い気な慄きを無防備に晒している。
「 ー 少し寝れました?」
突き動かされる愛しさを精いっぱいに制御しつつ、彼は優しく抱き留めた。ひとり目覚めて、傍らにあるべき母親を探す幼な子の心許無さで、成未は大きな胸にすがった。丁寧な接吻を介して水樹が注ぎ込んだ愛情に満たされ、いつしか唇を重ねたまま、深い眠りに落ちていたのである。
「・・・!!!」
さながら人格を違えたかの、尋常ならない娘の有り様を驚愕とともに凝視する悠介の存在を認識するのに、若干のラグを要した。
( あっっ。お父さん ・・・に? 伝えろ ってー )
いっとき空白に抜けていた襲撃の記憶が、悪夢ではなく実際に経験した事実である現実を、彼女の脳内が鮮明にリブートしてしまった。時間を経て、彼女の耗弱はむしろ深刻さを増したようであった。歯が噛み合わないほど烈しく震え出した成未を、水樹は自室へいざない
「 そばに居るから、ね。大丈夫ですよ。大丈夫。」
寄り添ってベッドに腰かけた。背を撫でている彼の耳元に顔を寄せると、なぜか成未は懸命に、襲撃のあらましについて伝える努力を始めた。混乱する精神の何処かより、繰り返し発せられる
“ 警察へ事実を伝えなくてはならない ” との厳格な指令に、彼女は責め立てられていた。
「 警察の人に、伝えたい んですねー ??」
村山と津久井に目配せをしつつ、
今のうちに吐き出しておいた方が良いんだ と判断し、水樹は神経を集中させて成未の切れ切れの言葉を拾い集め、推察し得る要件を彼らに伝えていった。

玄関の鍵は掛かっていた。突然、背後から襲われて拘束された。
父の佐野へ伝言をされた。
「 マキノ から手を引け。さもないと、これだけではすまない。」

時系列を追体験する恐怖と闘いながら、水樹の介在に助けられ、成未は使命を果たした。真新しい鋭利な創傷部位に手を添えて開かせ、にわか支度の塩水を注いで洗うかの、云うなれば荒療治であった。
「 はい。もう、おしまい。もう、なにも考えないで。」
そっと成未を横たわらせ、タオルケットを掛け終えた瞬間、である。
彼の目の色が さっっっー と変わった。中腰の姿勢で聴取にあたっていた刑事らの間へ割って入るなり、後ろの悠介の襟元を両手で掴み上げると、力任せに彼を壁へ押し付けた。
おっっー ??
むしろ、村山と津久井は呆気に取られて制する機を損なった。
「 マキノぉ??」
「 ・・・・・・ 」
悠介には、もはや順序立てて説明する気力は、まったく期待できないようであった。
「 あんたはっっ ?! 何やってんだ ?!」
26年と少し生きて来て、彼が初めて味わう感覚である。渾身へ沸騰した怒りに連動した全身の血流が、一気に頭頂部めざして上昇を開始した。
「 堅気じゃない奴の女にでも手ぇ出したのかっ?!」
見当違いも甚だしい訳であるが、牧野兄弟の件とは無縁の水樹にしてみれば、逆上の加減からすると無理らしからぬ誤解ではあった。
「 ・・・んな事、ある訳ねえだろうが !!」
しかしながら、ここは悠介も反撃せざるを得なかった。水樹の手を乱暴に振り払うと、鋭い眼差しで見上げて返した。
「 いま診てる男性クライエントだ!」
「 はあぁー ?!」
「 救急搬送された大学病院で狙われて、いま里中のとこで療養してる。」
なんとか概略のみを説明した訳である。が、どのワードが決め手となったのかは兎も角も、水樹の怒気はここに至って、遂に頂点へ達してしまった。刑事課の敏腕警察官二名の眼前において、という辺りが、彼ならではの不遜さと言えなくもない。
「 馬鹿野郎っっっ !!」
右の拳が悠介の顔面にヒットして、倒れ込み様に掴んだドレッサーの一面鏡が大きく傾いだ。とっさに村山が支えて転倒をしのぎ、津久井は背後から水樹を羽交い締めに抑え込んだ。
「 何だって、そんな訳のわからんのと関わってるんです ?!」
立ち上がれないままで、軽く脳内に震盪を感じながら
「 ・・・ 一応、医者の端くれだからな。」
悠介は、その疲弊した瞼をゆっくり閉ざした。
「 この人に何かあったら・・・ このひとは 」
津久井の腕を払い除けると、膝を抱えて震えている成未を自らの背後にかばい
「 先生にとっての奥さん とおんなじ、他に替わりの居ない、たった一人の人なんだ!!」
強い視線を放った水樹の切れの長い瞳から、涙が ほろほろ と零れ落ちた。
「 お巡りさんが間に合わなかったら、俺、」
言い淀んだ声に惹きつけられて、悠介は懊悩に翳った眼差しを向けた。
「 あの男を殺っちゃってたかも知れないでしょうが !!」
「 ・・・・・・・・ 」
刑事らは無言のままで成り行きを見守っていたが、やがて津久井へ目配せをし、村山は平静な口調で成未と水樹に謝意を述べた。
「 ご協力、ありがとうございました。 気になる事や思い出す事がありましたら、ご連絡ください。」
二人を部屋に残してダイニングへ移動したところへ鑑識課員が到着し、足跡や指紋、遺留物の採取作業に取りかかった。


































































































































































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登場人物紹介

水樹 史也( みずき ふみや)

広告制作会社勤務のイラストレーター。26才。心療内科カウンセラー 佐野 悠介との出逢いがきっかけとなり、かつて深刻であった精神状態から快方へ導かれて以来、悠介へ深い信頼を寄せている。

並外れて繊細な神経に恵まれた一方で、一般的な常識にとらわれない大胆な行動力をも兼ね備えている。

佐野家隣家の牡猫コタロウ( 水樹は一方的にヴァンプと呼ぶ )は親友である。

コタロウ

佐野親娘が暮らすマンションの隣人・黒田さんが飼っている去勢済の牡猫。

遠出はしないが、何故か佐野家へだけはベランダを器用に伝って頻繁に訪ねて来る。穏やかで人なつこい性格で、ツンデレのツン要素はあまり持ち併せていないらしい。

大柄な水樹 史也が繰り広げるスキンシップを実のところは迷惑に感じている、かどうかは不明である。

佐野 成未( さの なるみ )

大手通信販売会社に勤務する27才。きょうだいは無く、臨床心理士の父・悠介と二人暮らし。

十代で母を亡くしたせいもあってか、日常の生活者として揺るぎのない堅実さを備えたしっかり者である。

職場の同僚で後輩にあたる 中村 宏太 に異性として好意を感じているが、適当な距離から見守っていたいとひそかに願っている。

亡くなった母の実姉で、関西在住の叔母・川瀬 愛子 の無敵な明るさも好き。


佐野 悠介( さの  ゆうすけ )

臨床心理士を務める成未の父親。ある意味、純粋な少年時代のひたむきな向学心を持ち続けている。生来の気質としては朗らかで、性善説を信念とする。豪放と呼んでも可いマイペースと他人の反応をあまり意に介さない爽やかさが、弱点でもあり強みでもある。早世した妻の美穂をこよなく愛し、誰よりも傷みを背負っているが、忘れ形見の成未にも敢えて語った事はない。彼の血の通い合った心療の姿勢が、苦しむ者の拠り所となる。

中村 宏太( なかむら  こうた )

成未の後輩にあたる同僚の青年。人間関係に於ける周旋などに、ややもすれば誤解を招くほど不器用な誠実さと真面目さが長所とも謂える。その一本気さゆえ逆境に弱そうに見られがちであるが、外見とは裏腹の不屈な意志の勁さを秘めてもいる。誰にも明かさないが、片親の家庭に育ち自身の努力によって現職を掴んだ不遇な経歴こそが、未来を生きる糧となるという誇りと信念を強く抱く。

その一方、他人知れず成未に対する深い愛情を日々確かめてもいる。


記憶を持たない謎の男

事故なのか、傷害の被害者であるのか、瀕死の重傷を負って忽然と現れ、救急病院へ収容される。

怪我の後遺症によるものなのか、彼の「記憶」には深刻な混沌が生じていた。

唯一の所持品である色褪せた挿絵らしい紙の切れ端と、彼の脳内から無作為に出現するワードを手掛かりに、悠介と里中は心療にあたろうとする。

ところが正体不明者が次々と現れ、彼の身辺はしだいに不条理な危険に晒されてゆく。並外れた体力と身体能力を備えている事実に関しては、疑う余地がない。

里中 睦( さとなか  あつし )

悠介の同窓生で個人の臨床心理クリニックを経営する。佐野家とは美穂の在名中より親しい交流を持ち続けている。学生時代に培われた純粋な理念と悠介との信頼関係を自身の宝としており、悠介に臨床治療の片腕を託してもいる。成未にとっては、心の内を明かせる大切な存在である。

明朗な印象で独特の愛嬌の豊かさが魅力だが、外見とは裏腹のこまやかで緻密な神経を持ち合わせている。

澤村 泰弘( さわむら やすひろ )

悠介らの母校に附属する大学病院の心療内科で治療にあたる若手医師。緻密な頭脳と臨床医師としての適性から、周囲に将来を嘱望されている。公にはされていないが、不幸な幼年期に他家へ養子に迎えられた生い立ちを持つ。

心療を目指したきっかけは自らが幼い頃に負い、癒えることのない心の傷痕にある。少年時代に奏法を学んだヴァイオリンを愛し、多忙な中に於いても一人奏でて過ごす時間を大切にしている。

津久井 慎司( つくい  しんじ )

佐野親娘が居住する地域を所轄する警察の刑事で巡査長。謎の男の身元や負傷した経緯などが究明されないままの現状に違和感が拭えず、真相を突きとめようとする。微塵な情報を見逃さない、物的な手掛かりに基づく公正な分析を規範とすべく自らを律する一方、現場の人間に対する直感的な印象や気付きにも重きを置く。真摯な責任感と誇りが、職務に取り組む信条である。学生時代より精進している空手道の段位は黒帯で三段。

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