第21話 『恋ひ恋ひて』

文字数 15,239文字

恋ひ恋ひて逢へる時だに愛(うるは)しき言尽してよ長くと思はば
           万葉集 巻四(六六一)大伴坂上郎女


「 ーわかった。」
暗く押し詰まった医療施設の片隅で、悠介の視線を逸らしも遣らず 里中はゆっくりと頷いてみせた。と同時に、自らの涙腺が急激に熱を孕んで膨張するのを憚かる間もなく、堰を切った涙が大量に零れ落ちた。悠介の発した言葉に起因して起こった情動の反応であったのか否か、彼にも皆目 不明だった。
「 ・・・・。」
「 ・・えっっー あれ?? もらい泣きしちゃったよ、なんかさ、」
直ぐさま常の朗らかな笑顔を繕って苦笑に付そうと、肉付きの良い掌で里中は ごしごし頬を擦った。組み合わせた両手で額を支えたまま 暫し悠介は沈思していたが、やがて疲弊の浮かぶ瞼を強く閉じた。
「 里中ー ほんとに、 ・・本当に済まん。」
「 ー?? なんだよ、可いって もう。」
里中の取りなしへ耳を貸す気配もなく、悠介は 肩より低く首(こうべ)を項垂れた。
「 ーやっぱり俺なんかじゃなく、お前と一緒になった方が、美穂は・・ 」
言い終えさせぬ間合いで襟元を掴んだ里中の拳に、峻烈な力が込もった。血縁者以上に永らく刻を共に過ごし来た中で、悠介が初めて目の当たりにした 真摯な怒気であった。
「 云うな! ーそればっかりは許さんぞ!」
「 ・・・・・・ 」
「 お前が結婚決めた時ー 俺の分も、美穂ちゃん幸せにするって誓ったよな!?」
手を払い除けもせず、悠介は ただ、自分という ひどく歪つで厄介な人間を どうにか世に在らしめてくれて来た無二の友人を、瞬がず見詰めた。
「 相手がお前じゃなかったら、俺だって諦めんかったさ。」
掴んだ襟元を強く揺すってみせつつ、里中は 厳しい眼差しを真正面から悠介へぶつけた。
「 美穂ちゃん命かけてんだ。お前が弱音吐いてる場合かって!」
半ば縋るように里中の力強い両腕を取り成して収めさせると、悠介は 幽かに自嘲の笑みを口の端へ浮かべた。
「 俺ー ほんとに駄目なんだよ・・ 幸せにしてやれてるのか、いつも自信が無くてな。あいつが 幾つになっても、あんまり可愛いもんだからー 」
大きく深いため息と共に、里中は 虚ろになった腕を胸の前で組んで 何処か宙を見上げた。
「 そりゃ・・ そうだろう。 美穂ちゃんだからな。」
不意に、音立てず分娩室のドアが開かれて 救急の対応に当たった看護師が現れた。見たところ 長い勤続の経験に通じていそうな年配の看護師は、二人を見とめるなり 初めて柔和な表情を見せた。
「 奥さま、とてもよく頑張られましたよ。労ってあげて下さいね。」
「 はっっ・・・。」
奇妙に硬った返答をした悠介の様子を見て取り、彼女は言葉を付け加えた。
「 可愛らしいお嬢ちゃんですよ。ーたぶん、ご主人似でしょうね。」
「 ・・・・・ 」
案内されて面会に入った一室の煌々と明るい寝台の上に、髪を医療用のキャップで包んだ治療着姿の美穂と、生を受けて間もない新生児の成未が並んで横たわっていた。二人を見遣り、美穂は 素顔の目元を ぱっちりと、さも晴れやかに見開いて微笑んで見せた。その笑顔は瞬時に焼き付けられて、悠介と里中の記憶内に "永劫" と名付けられた 大切なフォルダの一枚として保管されている。
「 ーねえ?? お父さんと里中のおじさんだよ。はじめまして。よろしく、ってー 」
未だ分娩時の面影の名残る、二つ身となって分かれたばかりの赤ん坊へ 美穂は すっかり母親らしい笑顔で優しく話しかけた。
「 ずいぶん大変だったねー 美穂ちゃん、おめでとう。」
「 ありがとう。」
本来、夫である悠介が先ず掛けるべきはずの言葉を 不思議なほどに違和感なく里中が口にしたのを、美穂が愛らしく受け取った。第三者の目から見れば、やや不可解な有り様には違いない。
「 ・・・・・・。」
一と間おくれて恐る恐る寝台に寄った悠介は、分娩室の扉の前で別れた数時間前よりも一層の煌めきを増したかに思える美穂の傍らへ、膝から崩れ落ちた。
「 よかった・・ ぶじで良かったー。」
少し苦笑してみせて、美穂は黒々と輝く瞳を悠介へ優しく向けた。
「 今日から "お父さん" なんだよ?? ー悠ちゃん、しっかりね。」

「 ・・・・・??」
何事か返そうとした口元が思うように動かぬ不快感を覚え、悠介は俄かに膨大な不安に包まれた。
見渡した周囲は ただ ぼんやり暗く、何も見えず 何も聞こえない。自分が何らかの 比較的高い位置に仰臥しているらしい感覚だけが認知できた。ともかくも起き上がってみようと試みたが、身体中の関節が外されているかの如く どこにも力が入らない。その癖、見開いた瞳越しの情報に反応する神経中枢は 異様なまでの過敏さで覚醒し切っている。
「 ・・・・!!」
鼓膜の裏側で急激に血流が乱れ 血管内が膨張するのを感じて、彼は頭部をもたげようと懸命にもがき始めた。すると、冷たくなった額と鼻先に ふと 心地好い春の陽溜りの温もりが触れた気がした。
「 悠ちゃん。悠ちゃん・・・ 好きよ。」
優しく囁いて、紛れない美穂の膨らかな唇が げにも柔らかく悠介に口づけた。滑らかな髪が悠介の頬を撫でながら ゆっくりと解けた。
「 美穂・・ !!!」
何と引き換えようとも最愛のひとを抱き締めんと、掛け替えのない無二の感触を夢中で確かめるうち、いつしか何処か異なる次元の空間に二人は居た。
ー遠く、崩落し続ける水流の響きだけが聴こえた。湿り気を帯びながらも、得も云えぬ涼やかな清々しさを五感が確かめると、自分の身体が自在さを取り戻している事に悠介は気付いた。
「 美穂ー ?? 美穂っっ・・・!!!」
狂わんばかり恋情の切なさに、彼は美穂を腕(かいな)深くへと抱き締めた。その姿が仮に幻や魔性であったとしてすらも、例え この異空間が荒唐無稽な幻影に過ぎずとも 構わなかった。いま彼の指が確かめ、すべての知覚が触れ得ているのは ただ一人の美穂の実体であった。
「 ー会いたかった、会いたかったんだ・・・ !!」
互いに被服しているはずの衣類の感触は無かった。生前、果たして幾たび堪え難い愛おしさで愛し尽くしたであろう 心地好い美穂の素肌の肌触りと匂いに、悠介は深く自らの存在を埋めた。
「 ごめんねー 悠ちゃん。ごめんね・・ 」
震えている彼の髪を優しく撫で付けて、美穂は柔らかな唇を重ね続けた。
「 ー美穂ー もう・・ もう、可いだろ?? もう一緒に居させてくれー 」
魂魄より震え出ずる声を憚らず、悠介は止め処なく慟哭して美穂の身体へ縋った。
「 ・・・・・。 」
待てども声の発せられぬ様に不安を覚え、彼は 母に無理をねだる幼な児さながらに額を強く摺り寄せてみせた。
「 ーなあ?? 俺さ・・ 頑張ったろ?? 成未は もう一人でやれるだろ?? ーなあ!!!」
「 成未が・・ 恋をして少し大人になって、苦しんでる。」
「?!・・・」
懐かしい指先で悠介の頬を拭いながら、美穂は 母親らしい深い慈しみに満ちた声で呟いた。言葉を返そうと顔を上げた刹那、二人の居場所が ふとー 明るく様変わりした。
雲を掃ききった快晴の青空が頭上に拡がり、初夏の力強い芝生の草いきれが彼の意識を満たした。後方で微かに、キャンパスのチャイムと構内の学生らの騒めきが長閑に響くのが聴こえた。
在学中、空き時間を共に過ごす定位置だった 広大な緑地公園の片隅の、大きな欅の木陰で 彼らは学生の姿で憩っていた。午後の講義が始まる頃合いに思えた。公園内の数ヶ所からフォークギターや管弦楽器などの練習音が、てんでの方角から鳴っては 青空へと吸い込まれてゆく。昭和という時代が幕を閉じようとしていた、ひどく邪気の無い 緩やかな空気が当時のままに二人へ寄り添った。
行き交う人の目を逃れ得る この大木の木陰で、晴れた日に土の温もりを感じながら 美穂の膝枕へ身体を投げ出して過ごすのが 悠介にとって至福の刻であったー。
「 ーもう、・・・一人は厭だ! 厭なんだ・・ !!!」
ふんわりと涼やかな素材の美穂のスカートに、彼は顔を埋めて呻いた。
「 よしよし・・・ 悠ちゃん 寂しがり屋さんだものね。」
華奢な腕にかなう限りの強さで抱き寄せた 果てしなく柔らかな美穂の胸に溶けて、このまま消えてしまいたかった。爽やかな木綿の白いブラウスに宿った 明るい季節の陽光の香りがした。
「 ーでも、ね。 あたし何時だって、悠ちゃんと一緒に居るから・・ 」
「 気休め言うな!」
耳を貸す気配も見せず、むきに苛立たしく言い捨てた嶮しい表情へ、彼女は少し悪戯な眼差しを 愛らし気に注いだ。
「 ・・倒れる前の晩ご飯も、ちゃんと食べてなかったじゃん。」
「 ?? ・・・・ 」
美穂の一番のお気に入りであった 笑窪がくぼむ頬の辺りへ、気さくなガールフレンドの如く朗らかにキスすると、彼女は にっこり微笑んだ。
「 ランチ食べ過ぎたから、晩は軽めで良い ってー ウイスキーと出来合いの焼き鳥と、残り物のお漬物しか食べなかったでしょ。 せっかく、成未が薄味のおでん作ったのにー 」
「 ー・・・・ 。」
返す言葉を探し当て得ず呆然と見上げた美穂の円やかな輪郭が、降り注ぐ陽射し越しに煌めいてから 逆光に翳った。
「 牧野さんは・・ ほんとは悠ちゃんと一緒に居たかったの。」
ーでも、ね。成未や悠ちゃんや澤村さんや・・ たくさんの大切な人を衛るためにね、
そっと 此処から居なくなるしか、仕様がなかったのー。牧野さんが一番つらいんだよ。

「 えっっー・・ ?? ちょ、ちょっと待て。 ーだって、さ、お前。」
「 うん?? だいじょぶだから、ね。 悠ちゃん 落ち着いて。」
あくまでも確保して離さぬ美穂の膝の上で、彼は俄かに やや平常に近い感覚を取り戻して疑問を投じた。
「 ほんとに側に居てくれるんなら、なんで見えんわけ!? 百歩譲って、"透明" しか無理としてもだー 」
「 ふむふむ??」
学生時代の熱いディスさながら、不器用に展開し始めた悠介の唐突な理論と主張を苦笑に伏する事なく、美穂は真摯な相槌を打ってみせた。
「 せめて声が聞こえて話せるとか、
ーあ、いま横へ並んだな とかさ、気配とか触った感触とか だけでも、なんで分からんわけ???」
「 それはね 」
悠介の引き締まった口元を 懐かしく愛おしみ指先で辿りながら、彼女は優しく囁いて告げた。
「 側に居るのを悠ちゃんが信じてないから。あたしが、もう何処にも居なくなったって 思い込んでるから。」
「 だってー だって、さ・・ 」
震える手を伸べると、躊躇いがちに絡み合わせた美穂の指先を 彼は撓むほど強く握り締めた。
「 ー俺の・・ 俺の大事な、美穂のこの身体も髪の毛も、ぜんぶ焼かれて・・ ー骨の欠片しか遺らんかったじゃないかー!!!」
惚けたごとく 止め処なく伝わる涙で頬を濡らす悠介の額へ、美穂は自らの額を そおっと押し充てた。
「 あたしだってー あれ切り、二度と 大好きな悠ちゃんに抱っこしてもらえなくなったんだよ??」
「 ・・うん。」
「 何にも悪い事してないのにね、辛いね・・・ 」
二人の頭上で、欅の高い枝が 爽やかに吹き渡る風とともに微かな葉擦れを響かせた。いつしか 周囲を満たしていた和やかな音声は何処かへ消え、ただ 青空と瑞々しい新緑だけの世界となっている。
「 悠ちゃん、・・ほら、見て??」
「 ???ー 」
悠介の腕の中で、両手に頂いていた彼の左手の甲を 美穂は ゆっくり指し示した。親指の付け根の下に、覚えのない薄らかな黒子(ほくろ)がふたつ 斜めに並んで見えた。
「 うん?? なに? ーほくろ??」
涙で瞳を煌めかせながら、しかし彼女は努めて愛らしく 戯けた口振りで微笑んでみせた。
「 これから教える事は、決して誰にも言ってはなりませんぞー 約束できますかな??」
「 ・・はい。」
「 このほくろに、心を込めてキスしたならば、」
「 はい、・・・。」
お手本を示すつもりか、優しい唇で左手の甲へ触れると 美穂は そのまま自分の頬へあてがって悠介を見上げた。
「 必ずや、亡き奥方と何らかの交信が叶うであろうー。」
「 ・・・・・。」
滑らかな頬の感触を懐かしむにつけ、狂おしく愛おしい妻の眼差しを見詰めたまま、彼は堪え難い絶望に打ち拉がれた。
「 なんだよ・・ 俺、未だ独りで残されるのかよー ??」
  あたしが生きれなかった分も、悠ちゃんが代わりに生きて。
  人の心の苦しみを和らげる手助けがしたくて 就いたお仕事だもの。

「 そうなんだけどさ、・・ー美穂 」
微風にそよぐ艶やかな髪へ触れようと指を伸ばして、悠介は美穂の名を呼んだ。その、自分の声が ふと彼の意識を覚醒させた。
「 美穂??・・・・ 」
彼の視覚が認識したものは、晴天の広がる屋外でも 明るい陽光に煌めいて揺れる美穂の髪でもなかった。無機的な白い壁面で囲まれた治療室の中央の寝台に、悠介は横たわっていた。途端に、言い知れぬ圧迫感に襲われた。寝台の周囲が様々な治療機器で埋められている事と、自らの体を動かす機能が著しく滞っているらしい事実を、彼は次第と悟った。程なく、数名の看護師が慌ただしく入室して来た。続いて担当医師が駆け付け、治療が始められたー

 悠介の意識が回復したのは、昏倒して救急搬送された翌日の午前8時半を回った頃であった。
牧野の忽然たる消失と悠介の搬送に関して里中から緊急連絡を受け、所轄署では前夜直ちに 捜査への着手を開始している。牧野の暮らしていた部屋へは、村山と加藤が急行した。里中の通報で凡その状況は把握しつつ入室した二名は、室内の片付き方に 先ず異様な感覚を覚えて、暫し 立ち尽くした。
「 また随分とー 」
台所のシンク前で屈み込み、入居以前さながらに清掃が施され 磨かれてある水道の蛇口を見上げた加藤が、常らしく偽らざる感慨を呟いた。
「 綺麗にしてありますねえ、潔癖な性質なのかなー ?」
「 ー抜かりのない感じだな、確かに。」
白手袋を装着した手で電源の落とされてある冷蔵庫のドアを開いて中を確認しつつ、村山は微かに苦笑を浮かべた。
「 お?? 鑑識さん、早いなあ。」
深夜の外通路に重々しい靴音が慌ただしく響くや、鑑識部の3名が解放中の玄関先へ到着した。
「 残留物、どんな具合です??」
ベテランの松原係員が、面積の広い角ばった顔立ちと ひどく不釣り合いな、丸く温かみのある瞳で声を掛けた。
「 日用品はすっかり残ってるんですけどね、見た処ではさっぱり・・ 」
「 ははあー。」
居住範囲を分割して手分けすると、係員らは ごく微細な残留物等の手掛かりを確認する作業に取り組み始めた。村山と加藤は押入れの引戸を外し、置き去られた寝具を中心に残留物の入念な確認を進めた。住所者のまばらな団地内の数えうる戸数の灯りは何処も消えて、晩秋の夜更けは 既に寂寥に満ちた深い闇の底へ沈んでいる。やがて日付を違え、ベランダの現場を確認する係員の手元を携帯用の照明で照らしていた村山を、低く憚った声で松原が呼びに来た。
「 村さん、ちょっとー 」
「 はい。」
松原に従い玄関へ向かうと、剥き出しのコンクリートの上で最大限低い姿勢で屈み込んでいた、二十代の和泉係員が顔を上げた。
「 なにか見つかりましたか?」
松原と共に同じ視線の高さへ屈みながら、村山は和泉の如何にも几帳面そうな面差しを覗き込んだ。
「 ここ、なんですが・・ 」
彼は細めのLEDライトを白くオンして、上り口側の一角を照らして示した。おそらくは、外掃き用の箒を使用し 牧野か或いは別の人物かが丁寧に塵を掃き出していったものと思われる。無機的な灰色の表面には残留痕も見当たらなかったが、四隅のうちの一箇所のみに 係員の鋭敏な観察眼は、極めて微細な異物を発見して検知し得た。
床へ俯せに体を投げ出し、示された隅を注視すると 一ミリに満たぬ微小な物体が目視できた。照らしながら拡大鏡を翳して見せた和泉は 沈着に推測を述べた。
「 同様の微小物が3粒、砂に混じっていると思われます。推測ですが、形状からすると 煙草の葉ではないかとー 」
「 ーうん。おそらくは、煙草だな。」
同様の感触を覚えた松原が、寝そべったままで傍らの村山を見遣った。
「 牧野という男は喫煙者かね?」
「 ・・・ 自分的には、不明です。」
収集用の小さなビニール袋へ異物を慎重に採取する和泉の手元を見守りながら、二名は玄関の上り口で起き上がり、顔を見合わせた。
「 彼に関して最も情報を持っているのは、搬送された佐野医師なんですがー 」
言い掛けて、実弟に当たる澤村医師が今晩 当直している旨を里中から聞いたのを思い出し、村山は立ち上がって通話を試みた。和室の古びた畳の確認作業の進捗を把握すべく、係員の傍らへ屈み込んだ松原の元へ 程もなく村山が戻って来た。
「 弟の澤村が知る限りでは、喫煙者では無いとー 」
「 ふーん・・。」
開け放たれたサッシの彼方へ、星のない晩秋の夜空が冴え冴えと冷たく広がっている。より気温が下がったように感じられた。
「 ーま、現時点で想定できるとすれば、だ。」
「 ええ。」
「喫煙する別の人物が部屋に入った。牧野と云うのは よほど慎重な男らしいから、他者の入室を許す事は通常 考えにくい。」
「 そうですね。」
二名の差し向かいへ 不意に視線の高さを合わせて覗き込んだ加藤が、邪気もなく 言葉を継いでみせた。
「 喫煙する '女' と隠れて付き合ってた、とか??」
「 ・・・・ 」
些かの困惑が過るのを待った後、松原は真摯な表情を一層 引き締めて頷きながら加藤を見遣った。
「 その線も、無いとは言い切れんわな、そりゃ。」
暫し沈思し、黙々と作業に没頭する係員らの小さく丸めた背中を見渡すと 村山は口を開いた。
「 問題は、仮に別の入室者の存在を想定すると 牧野の消失との関連性ですね。暴力を行使しての拉致は、現場からは考えにくい。しかも、一昨日の昼には普段通り 佐野医師の治療を受けて会食し、昨日の昼には 弟の澤村医師を急用でもないのに職場へ訪ねている。」
膝の上に乗せた無骨に大きな掌へ、松原は やや所在無げに視線を落とした。
「 細かい事情は測り難いがー この部屋は、おそらく本人が 事前に清算したんだろうよ。何かは知らんが、よくよくの覚悟じゃ在るんだろう。」
「 どうやら・・ そのように思えますね。」


 深夜まで及んだ捜索は一旦の区切りを以って引き揚げられ、翌日以降の本格的な捜査へと持ち越された。翌朝、日本時間の8時を過ぎた頃ー 即ち、悠介がICU内で意識を取り戻す直前にあたる頃合いである。日本海を隔てた極東の街と日本の間の時差は ごく微細であって、一時間ほど進んでいるのみである。拠って、この同時刻 エレーナが退院後の療養生活で日課としている 朝食後のそぞろ歩きの時間帯と ちょうど同期する事となる。
10月初旬 退院を許されて後のエレーナの生活は大きく一変している。九死に一生を得た深刻な裂傷の予後は予断を許さず、長期に及ぶリハビリと経過観察が必要との担当医の判断と指示に委ねられた。市内在住の何れかの姉の世帯で預かるという話が先に出たが、市警のリヴィンスキーが頑なに拒んで実現させなかった。其ればかりか むしろ、月の内に 事件前までの一切を清算し終えて新居を整え、11月に入籍を済ませて自分の妻として娶る意向を伝えて了承を得たー。
夫の死後、5年近くの歳月を暮らし慣れた彼女の部屋から なだらかな坂を真っ直ぐ降れば、繁栄を誇る港湾都市の緑豊かな湾岸公園である。リハビリを決して急がぬように、との担当医の忠告に従って エレーナはかつて経験の無い、時間や責務の縛りを努めて解いた たゆたう時間の中に日々を過ごしていた。心身が覚醒する頃合いを見てから起床し、時刻を気に掛けず朝食を摂った。雨天等でない限りは ミネラルウオーターを携えて湾岸沿いの公園まで散歩に出掛け、食料の購入など所用を済ませながら 昼前までに帰宅するのが 何とはなしの習慣となっている。折に触れ、公園で過ごす彼女の元をリヴィンスキーが訪ね来た。多忙な職務の合間に紡ぎ出した 僅かな隙間を余す事なく、携帯で連絡を取り合った場所に駆け付けては 的確にエレーナを見出した。
時の許す限り彼女に付き添って共に過ごし、買い物に同行して荷物を部屋まで運んで送り届ける日もあった。
件(くだん)の日の午前、9時過ぎに部屋を出て 彼女はいつも通り、緩やかな歩調を心掛けつつ通い慣れた坂を降った。10月も月末を控えて、この街の季節は 日増しに目に見えて近付く冬の訪れの足音を聞きながら着実な備えを進めている。朝晩の冷え込みが、通年通り 一気に厳しくなった。
身体を締め付けないニットのハイネックワンピースに散歩用のローヒールのブーツ、薄手のダウンパーカーを羽織って出掛けた。事件前に比べると数キロ落ちた体重が戻っていなかったが、着衣のサイズを変更するまででは無い。港湾沿いの公園施設の面積は広大であって、疲労を感じぬ範囲で彼女が過ごすエリアは 自ずと限られる。外国航路の貨物船用ドックと海軍施設が繁華に混在する港湾を一望に見渡せる、円形の花壇の周囲に施設されたベンチが 彼女の憩う一つの定位置となっていた。週末のこの朝、残り少ない晩秋の晴天を求めてか、緑地を訪れる人々の出足は思いのほか早く、観光客の姿も多く見受けられた。水平線の紺碧に翳りは宿らぬものの、頭上に広がる晴天の青は堅実に彩度を淡くして 地上に注がれ来たる陽光は儚い。清々しい朝の微風にそよぐ花壇のセキチクの茜色や芥子のコーラルオレンジも、咲き誇る各々の彩りは 何処かしら薄らかで淑やかな印象に感ぜられた。
「 ・・・・・ 」
一口 水分を補った350mlのペットボトルを傍らのショルダーへ戻し、エレーナはゆっくりと 遙かに虚ろを仰ぎ見た。彼女の白金の長い髪を 風が優しく解いて過ぎった。虚空をわたる鴎らの姿は、この時 見当たらない。ふと バッグの中で、携帯の着信音が呼んだ。
「 エレーナ、何処にいます??」
リヴィンスキーであった。いま、公園の駐車場に着いたのだ と言う。花壇のベンチのところに と応えると、彼は瞬時に居場所を察し得た。
「 其処にいて下さい。すぐ行きます。」
通話を終えた彼女の鼻先を、特徴的で極く濃密な巻き煙草のシャグの薫りが 微かにくすぐったー
何とはなし、凪いだ海面の潮の気配とともに芳香を吸い込んだ時、真後ろのベンチから 誰かが彼女の名を呼んだ。
「 エレーナ。 ーこれは、どうも・・ 。」
男の声である判別はできたが、とっさにエレーナは退職した職場の関係者か 或いは、ロシア語学習の指導を受けていた生徒の誰か かと思った。と云うのは、発せられた声の抑揚が 如何にも親密で、情緒的に響いたからである。
「 ?? ・・・・ 」
何らの警戒心なく声の方を振り向いた彼女の視界を、俄かに アッシュグレイの瀟洒なストライプが遮った。刹那、優美な物腰で彼女の右側へ腰を下ろした三揃えの紳士は、纏った黒の中折れ帽の つば先を目深に下げつつ 口の端に微笑を浮かべてみせた。
「 "永遠の愛" を誓った夫の声を 聞き分けられんとはなー 」
「 ???? 」
さながら 真白な標本台の中央で、鋭利なピンを急所に打ち込まれた蝶のごとく身体を強張らせたエレーナの瞳を、50代前半かと思しき紳士は ゆっくりと覗き込んだ。帽子から覗く銀色の髪は短く刈り上げられ、金属製の細いフレームの眼鏡越しに見詰めた暗緑色の瞳は 右側が義眼であるらしい。外観に様変わりが施されてあろうとも、独特な上目遣いの眼差しが放つ絶対的な支配感と、鼓膜に低く纏わる 湿り気を帯びた声色は 亡夫 セルゲイ その人のものに紛れが無かった。
「?!? ーセルゲ・・ 」
尋常ならぬ声を洩らし掛けた彼女の唇を、男は素早い所作で口づけて塞いだ。
「 ・・・・!! 」
忘れ難い官能の記憶を唐突に蘇らせられ、苦悶の表情で瞼を閉じたエレーナの口元を唇で辿りながら、彼は囁いた。
「 ーたとえ警察が事故死と断定しようが、なぜ偽装を疑ってみなかったー 愛する夫の生存を信じようとしなかったのは・・ 何故だ?? 応えてみろ。」
「 セルーゲイ・・ 」
首筋から耳元へと這わせる唇に、彼は次第と嶮しく 容赦を許さぬ憎悪と無慈悲を滲ませ始めた。
「 それとも 」
上着の裏へ滑らせた手で彼女のくびれた細い腰を強く掴むなり、エレーナの五感に深く灼き付けられた感触で 耳朶を甘噛みしてみせた。
「 あっっー 。」
「 私が死んで、むしろ好都合だったかね?? あの、何処の馬の骨とも知れん下品な小僧と愉しむためにはー 」
自分の嗅覚が敏感に反応を示した巻き煙草の薫りが、セルゲイの愛飲していた希少で高価な銘柄のものである事を、否応もなく エレーナは記憶の中で紐解いている。彼がこの世とエレーナの須らくを占めていた その時代へ瞬時に刻を遡る魔法陣の中央へ捕縛されたかの戦慄に襲われた。
「 ーいえ。いいえ・・・ 彼を知ったのは、三年前の事ですー 」
脳内に烈しい眩暈と息苦しさを感じながら、彼女は精一杯の気力を絞って言葉を選び出した。細かな戦慄きを隠せない華奢な顎を指先で捉えて顔を上げさせると、この男に特有の冷厳な眼差しを 彼は容赦なく浴びせた。
「 ほうー?? 赦しを乞わぬばかりか、この期に及んでも庇おうとは 見上げた心意気だな、・・最愛なる我が妻よ。君も 随分と大人になったらしい。」
顎の輪郭に沿わせた指を耳元から頸(うなじ)へと鋭く滑らせるや、セルゲイは瞬きすら赦さぬ間近へと彼女の顔を寄せさせた。
「 君の身体が いかほど熟れたかー 実に興味深い。いずれベッドの上で、たっぷりと披露させよう。」
「 ・・・・・・ 」
一眼となろうとも、見慣れない偽色の奥底に漆黒の渦を巻く 彼の獰猛な瞳が、エレーナの魂を鷲掴んで酷たらしく揺さぶってみせた。彼女は既に ほぼ意識を失い掛けている。しかしこの時、彼は一つの気配を巧みに感知して 其の絶対的な毒牙を一先ずは抜き取り、彼女を開放した。
「 ふん。 ー早くも 愛しの "騎士ランスロット" がお出ましのようですな、恋多き王妃どの。」

( ??誰だー )
花壇を中心に平らかに開けた散策用の舗道を見遥かしながら 段差の薄いステップを降り掛けていたリヴィンスキーは、遠景の中に見知らぬ男の姿を捉えた。一見して、行きずりの他人では無い 親密な間柄であると目視できた。彼は急ぎ足のピッチを一層 速めた。
行き交う人々の有り様には、何らの異変も見受けられない。時折り港湾内から響き来たるドックのサイレン音も、名残りの晩秋の陽射しに紛れて 何処か ぼんやりと長閑に聞こえた。
( ・・・・ ??)
エレーナの傍らで ベンチから立ち上がった男の容姿を鋭く見据えると、向こうでも鋭敏に気配を察したらしい。むしろ、花壇へ近付くリヴィンスキーを迎えるが如くに向き直ると 両手を腰のポケットへ突っ込んだ。目深に被った中折れの下に、眼鏡を装っているまでは遠目で見て取れた。
「 ー待たせてしまいましたね。」
自分の到着に気付かぬ風のエレーナの円やかな背中へ、彼は やや声高に呼ばわってみせた。しかし彼女に反応がない。降ろしたままのブロンドが、ただ 柔らかく風にそよいで陽光に煌めいた。
「 !?・・・・ 」
とっさの勘で、彼女の身上が 何らか只ならぬ緊張に見舞われているのを察知し、リヴィンスキーは円周沿いに駆け寄った。
「 どうしました!? ー大丈夫ですか!?」
「 ・・・・・ 」
放心したかのように虚ろへ開かれていた水色の瞳が、傍らで肩を抱き寄せたリヴィンスキーを ゆっくりと確認した。襲撃事件の際ですら彼が出逢わなかった 得体の知れぬ絶望と戦慄が、彼女の瞳孔を痙攣させている。
「 君とは会っているな。 ーいくらか 出世でもしたかね? 公僕よ。」
如何にも さり気なく身に付いた スレンダーなシルエットの胸元を反らして、男は横顔のまま リヴィンスキーへ一瞥を投じた。
「 ??・・・・。」
慎重な視線を向けた刑事の瞳の蒼を目尻に見とめると、男は優美に歩いて エレーナの眼前へ歩を進めた。
「 時にー 」
「 ー!?」
気怠げにポケットから取り出した左手で ハットのつば先を やや持ち上げながら、彼は冷厳と言い放った。
「 先ず、この小じんまりした美女に触れている 君のその手を退かしたまえ。」
「 断る。 ー私には、彼女を擁護する義務がある。」
「 ー?? ・・・。」
しばし沈黙し、彼は徐ろに 上質な素材の内へ分厚い筋肉を忍ばせた両肩を、緩やかに揺らしてみせた。苦笑が漏れかかるのを、俯き気味に顎を引いて堪えているらしい。
「『愚の骨頂』とは、正しく これだ。仮にも、行政の秩序を維持する責務に当たるべき者が ー 馴れ馴れしく他人の妻の肩を夫の眼前で抱き寄せるとは、全体、どういう了見なのかね??」
「 な・・!!?」
シルバーのフレームを外し、一たび透かし見てから 男は面と向かって、裸眼の顔面を明るい陽光へと晒した。容色の演出に 幾つもの印象を異にするトラップが施されてはあれど、いま眼前に存在しているのは紛れ無く 永らく追い続けた 故 'クラシコフ' 本人であった。
「 あれは全くー ひどい事故だった。」
眼鏡を掛け直し、ベンチへ背を向けると 彼は義眼となった右反面で二人の方を見遣った。
「 実際、生死の淵を彷徨ったが・・・ 幸運にも 事故現場の近くに親しい友人がいてね 」
「 ー・・・!」
左腕の下へ庇い込んだエレーナの肩が、微かに反応して揺らいだ感触をリヴィンスキーは見過ごさず感じ取った。
( ' 女 ' かー 。)
むしろ公然と、彼女を自らの大きな懐ろの中へ隠そうと一層 擦り寄るのを、瞬ぎもせず その視界に捉えつつ セルゲイは続けた。
「 片目を失ったのみで命拾いをしたが、リハビリには時間を要した。失ったものを取り戻す準備にもー 」
彼の頭上の遙か高みを、一群れの鴎らが輝きを曳いて過ぎってゆく。極東の空には 幾らかの雲が薄らかに掛かって、地上に営むものの彩度を均しく淡く見せた。やはり優雅な所作で帽子を脱ぐと、セルゲイは 変わらず毅然と伸びた背で水平線を見遥かした。彼のトレードマークの一つであった漆黒の艶やかな長髪は、白銀に近い銀の短髪へと様変わりしている。陽光に美しく透ける毛質は 以前の湿めやかさとは正反対に、港湾をわたる微風と戯れて 細く軽やな そよぎを見せた。
「 しかも しばらくは、記憶が混乱していてね・・ 。」
肩越しにエレーナへ注いだ効き目の眼差しの鋭さには 何らの衰えも感じさせない。鮮明な眼色の彩りにも拠ってか、むしろ より苛酷に、冷ややかな印象を与えた。
「 ところが、どうだ?? 夫が苦しんでいる間に、最愛の妻は あっさりと悲劇の未亡人を決め込んだ挙句 年下の若造と情事(いろごと)三昧とはー !」
「 ー!!!」
呼吸を詰めて俯いた顔を両手に埋めたエレーナを、リヴィンスキーは しっかりと左腕の中へ抱き寄せた。その様を見るなり セルゲイは閃光の鋭さで身を翻し、刑事の紺のスーツの襟元を鋭く掴み上げた。
「 貴様ー。 ・・吐け、あの凶暴な小僧を何処へ隠した!? 職権乱用にも程があるな。」
「 ・・・・・・。」
あくまで盾の姿勢を崩さぬ 強固な拒絶の意志を無言で見つめ返す彼の傍らから、エレーナが懸命に声を絞り出した。
「 違います、この方は・・ 関わりは無いんですー 」
「 ??・・。」
重たげな二重瞼の半眼越しに一瞥を呉れた セルゲイの左眼に、殺気の焔が蒼白く揺らめいたのを リヴィンスキーは極く間近で眼にした。その刹那、セルゲイの右手の甲が 冷酷な的確さでエレーナの顔面へ平手打ちを与えた。体の均衡を不意に崩され、彼女が大きく左後方へ傾ぐのを咄嗟に留めたリヴィンスキーを、セルゲイは依然 開放しない。
「 事故の真相を究明できん警察も相変わらず間抜けだがー 咎められるべきは、むしろ君だろう!?」
この 冷徹極まりない男には ごく稀な感情の昂りが、一層強めた 襟元の握力を通じて伝わって来る。エレーナの 乱れる呼吸と激しくなる震えを匿った背後に感じつつも、リヴィンスキーは両の奥歯を食い縛り 挑発に対する忍耐を貫く姿勢を見せた。
「 その上、私の前で此奴まで庇ってみせるとはー 此奴がギャラリーに潜り込んで来た あの時から、気に入っていたからな、君は。 ・・忘れたとは言わさんぞ!」
「 彼女の身柄は、市と我々が正式な手続きに則って管轄中だ。思うようにはさせんー!」
「 "彼女"、だと ・・???」
見降ろすセルゲイの瞳孔が 刺々しい音を響かせるまでに、忽ち最大限の緊張を顕わにした。幾多の戦慄の記憶が激烈な怒濤となって、エレーナの中枢神経を狂わせんばかりに揺るがした。
「 いいか。これは正真正銘、私の"女"だ。気安いにも程がある ー貴様。赦さんぞ!!」
この時、彼の上着の内ポケットで携帯の着信が鳴った。
「 ・・・・・ 」
ひとつ間を取った後に、掴んだ握力を緩めぬまま彼は通話に応じた。
「 ー宜しい。そのまま其処で待て。20分以内に着く。」
携帯を戻しながら リヴィンスキーの襟元を眼前近くまで引き寄せると、セルゲイは不動なる かの嘲笑を浮かべてみせた。
「 いいか。この私を見縊(くび)るなー? いずれ必ず、後悔させてやる。」
「 ー望むところだ。 八つ裂きにされようが、貴様に二度とエレーナは渡さん!」
「 ・・・・・。」
掴み続けた襟元を 憎しみを込め荒々しく打ち棄てると、セルゲイはベンチへ半身を預けた。虚ろに刑事の腕の中へ庇われたままでいるエレーナの顎(おとが)いを 峻烈に捉えるや、彼は烈しく唇を奪ってみせた。鋭い緊張を走らせたリヴィンスキーを 鍔の下から眼鏡越しに一瞥し、覆い被さるかに向きを変えさせ、執拗に その感触を確かめながら妻の唇を貪った。
「 いいな。 ー君は 私だけのものだ。これ迄も、これからも 」
「 セ・・ルゲイ・・・ 」
「 他の男は決して赦さん、と あれ程言ってあったろう??」
「 ーあっっ。」
膨らかな耳朶へ 強い前歯をきつく当てがい念を押してから、俄かに情趣を翻し 彼は無情極まりない反動とともにエレーナの身を突き離した。混乱を極める彼女の意識の中枢に、濃厚なシャグの芳香と セルゲイの圧倒的な粘膜の感触が深く灼き付けられた。
「 ー・・・・。」
同時に、不意に重力の負荷から解かれ得た錯覚を覚えると、体の重心が透明に消滅してゆくかの恍惚感に包まれた。いつしか 白く濁り始めた空の遥かな青を、彼女の開かれた視界が ごく緩やかな速度で仰いでゆくのを仰いでいた。
「 エレーナッッ!!!」
背もたれの無い真後ろへ背筋を伸ばしたまま倒れ掛かるのを、リヴィンスキーが咄嗟に支えた。既にセルゲイの靴音はこの場を去り、花壇後方の なだらかな階段へと歩を進めている。
「 ・・・・・・ 」
エレーナを膝の上へ慎重に抱き上げながら、彼は 5年前に死んだはずである男の 遠ざかる背を見遣った。物理的な定義以外の、或いは 何らかの死と蘇生が、かの 不世出とでも呼ぶべき過重な存在感を伴う男の身上に於いて為されていたのは、事実なのかも知れぬ。
此方を振り返らない後ろ姿を追うリヴィンスキーの脳裏に、捜査にまつわる 過去の幾多の印象的なシーンと折々のセルゲイの姿が、鮮烈に蘇っては過ぎった。
「 ー・・なさい 」
「 ー!?」
包まれた両腕の中で、エレーナが微かな呟きを漏らした。ほんの少し上を向かせて覗き込むと、血色の褪せ切った優しい顔立ちに、なにか滲みわたるまでも冴え冴えと 清らかな微笑を醸している。
「 気をしっかり持つんですー !!」
励ましながら、その面差しの美しさに 思わず恍惚を感じた自らの情動を、彼は心中 懸命に嗜めた。
「 ごめんなさいー 本当に・・ 私は やはり、あの時に召されるべきでした。」
「 駄目だ。そんな事を思ってはいけない!」
折しも 捕食が盛んとなる頃合いを迎えてか、海上の其処彼処に群れる鴎たちの特徴的な鳴き声が、風景に もう一つの演出を添えつつある。携帯から救急搬送の依頼を告げる精悍な横顔を仰ぎ見て、エレーナは 大きな涙の粒を頬へ伝わせた。
「 貴方に・・ こんな、とんでも無いご迷惑をお掛けしてー すべて、私が悪いんです。」
「 ー エレーナ!!」
無骨な指先で白い頬を拭い、刹那ためらった後に リヴィンスキーは そっと唇を重ねた。
「 必ず、護りますー だから 」
セルゲイが眼前に施した酷たらしい傷痕を、自分の口づけに拠って拭い去ってしまいたかった。
「 忘れるんです。大丈夫。何も考えないで・・ 」
「 ミハイル・・ 優しい方・・ 」
深く力強い腕の中で、エレーナは 力ない肢体を預けたまま彼の唇を受け続けた。震わせながら閉じた瞼の裡側を、ハヤトの艶やかな頭髪のマホガニーと切なげな息遣いが 鮮やかに浮かんで埋めたー



































































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登場人物紹介

水樹 史也( みずき ふみや)

広告制作会社勤務のイラストレーター。26才。心療内科カウンセラー 佐野 悠介との出逢いがきっかけとなり、かつて深刻であった精神状態から快方へ導かれて以来、悠介へ深い信頼を寄せている。

並外れて繊細な神経に恵まれた一方で、一般的な常識にとらわれない大胆な行動力をも兼ね備えている。

佐野家隣家の牡猫コタロウ( 水樹は一方的にヴァンプと呼ぶ )は親友である。

コタロウ

佐野親娘が暮らすマンションの隣人・黒田さんが飼っている去勢済の牡猫。

遠出はしないが、何故か佐野家へだけはベランダを器用に伝って頻繁に訪ねて来る。穏やかで人なつこい性格で、ツンデレのツン要素はあまり持ち併せていないらしい。

大柄な水樹 史也が繰り広げるスキンシップを実のところは迷惑に感じている、かどうかは不明である。

佐野 成未( さの なるみ )

大手通信販売会社に勤務する27才。きょうだいは無く、臨床心理士の父・悠介と二人暮らし。

十代で母を亡くしたせいもあってか、日常の生活者として揺るぎのない堅実さを備えたしっかり者である。

職場の同僚で後輩にあたる 中村 宏太 に異性として好意を感じているが、適当な距離から見守っていたいとひそかに願っている。

亡くなった母の実姉で、関西在住の叔母・川瀬 愛子 の無敵な明るさも好き。


佐野 悠介( さの  ゆうすけ )

臨床心理士を務める成未の父親。ある意味、純粋な少年時代のひたむきな向学心を持ち続けている。生来の気質としては朗らかで、性善説を信念とする。豪放と呼んでも可いマイペースと他人の反応をあまり意に介さない爽やかさが、弱点でもあり強みでもある。早世した妻の美穂をこよなく愛し、誰よりも傷みを背負っているが、忘れ形見の成未にも敢えて語った事はない。彼の血の通い合った心療の姿勢が、苦しむ者の拠り所となる。

中村 宏太( なかむら  こうた )

成未の後輩にあたる同僚の青年。人間関係に於ける周旋などに、ややもすれば誤解を招くほど不器用な誠実さと真面目さが長所とも謂える。その一本気さゆえ逆境に弱そうに見られがちであるが、外見とは裏腹の不屈な意志の勁さを秘めてもいる。誰にも明かさないが、片親の家庭に育ち自身の努力によって現職を掴んだ不遇な経歴こそが、未来を生きる糧となるという誇りと信念を強く抱く。

その一方、他人知れず成未に対する深い愛情を日々確かめてもいる。


記憶を持たない謎の男

事故なのか、傷害の被害者であるのか、瀕死の重傷を負って忽然と現れ、救急病院へ収容される。

怪我の後遺症によるものなのか、彼の「記憶」には深刻な混沌が生じていた。

唯一の所持品である色褪せた挿絵らしい紙の切れ端と、彼の脳内から無作為に出現するワードを手掛かりに、悠介と里中は心療にあたろうとする。

ところが正体不明者が次々と現れ、彼の身辺はしだいに不条理な危険に晒されてゆく。並外れた体力と身体能力を備えている事実に関しては、疑う余地がない。

里中 睦( さとなか  あつし )

悠介の同窓生で個人の臨床心理クリニックを経営する。佐野家とは美穂の在名中より親しい交流を持ち続けている。学生時代に培われた純粋な理念と悠介との信頼関係を自身の宝としており、悠介に臨床治療の片腕を託してもいる。成未にとっては、心の内を明かせる大切な存在である。

明朗な印象で独特の愛嬌の豊かさが魅力だが、外見とは裏腹のこまやかで緻密な神経を持ち合わせている。

澤村 泰弘( さわむら やすひろ )

悠介らの母校に附属する大学病院の心療内科で治療にあたる若手医師。緻密な頭脳と臨床医師としての適性から、周囲に将来を嘱望されている。公にはされていないが、不幸な幼年期に他家へ養子に迎えられた生い立ちを持つ。

心療を目指したきっかけは自らが幼い頃に負い、癒えることのない心の傷痕にある。少年時代に奏法を学んだヴァイオリンを愛し、多忙な中に於いても一人奏でて過ごす時間を大切にしている。

津久井 慎司( つくい  しんじ )

佐野親娘が居住する地域を所轄する警察の刑事で巡査長。謎の男の身元や負傷した経緯などが究明されないままの現状に違和感が拭えず、真相を突きとめようとする。微塵な情報を見逃さない、物的な手掛かりに基づく公正な分析を規範とすべく自らを律する一方、現場の人間に対する直感的な印象や気付きにも重きを置く。真摯な責任感と誇りが、職務に取り組む信条である。学生時代より精進している空手道の段位は黒帯で三段。

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