第12話  paradoxa

文字数 15,726文字

 我われ人類が生を営む、奇跡の惑星の北極寄りに茫洋とつづく北の大地の果て、有史の歴史を紀元前までさかのぼる理想郷が、ソスリュコの祖国であった。
ヨーロッパへと繋がる穏やかな内海を抱き、ギリシア神話に '世界を支える柱の一つ' と喩えられた峻険な山脈に背後を護られ、気候は一年を通じ温暖であった。遥かなる古え、山岳地帯に居を定めた少数の人々に端を発して、東西文化の十字路上の要衝に位置する民族が辿る事となった、千数百年余におよぶ歴史を紐解くには枚挙に暇まがない。が少なくとも、今世紀に至るまで凡そ人類が飽かず光芒を繰り返し続けて来た、武力を行使した侵略や征服と悲劇の歴史の縮図であるには違いない。

( ナザルヴァ? ーナザルヴァッ!?)
民族衣装の喪服をまとった母が、棺の周囲を取り巻く人々の中へ息子の名を悲痛に叫んで、11才の彼(ソスリュコ)の姿を見廻した。緑豊かな街並みと海岸線を見下ろせる渓谷中腹の墓地で、大勢の参列者たちが祈りを捧げ、涙を拭っている。代々歌い継がれて来た鎮魂歌の奥深い哀調が、弦楽器の伴奏とともに浅い春のそよ風に乗り、渓谷の傾斜を海へと降りてゆく。竦んで動かせなくなった小さな膝を抱え、朽ちかけた墓標の蔭に隠れている少年を見つけた叔父が、彼を胸に抱き上げた。
( お別れを・・ するのよ、ナザルヴァ。 ーお父様に )
睫毛の縁取りの美しい、涙で濡れそぼった濃い鳶色の瞳を、連れて来られた幼い息子に向けると、母は父に最期の別れをするよう、悲鳴にも似た声を搾って促してみせた。
年の離れた二人の姉たちが母と体を寄せ合い、地上で目にする事が許される最期となる、父の亡骸に永遠の愛と祈りを捧げている。思想と主義によって、人類が自らの世界を大きく隔てて来た巨大なパラバイムが崩壊を生じる中に、ソスリュコの祖国においても、民族浄化と自主独立を求める声が沸騰した。父は民間人であったが、志願して参加した抗議行動が暴動にまで発展し、遂には他国の圧倒的な軍事介入によって鎮圧される事態となった。市街戦の流れ弾に腹部を射抜かれ、父は44才で絶命した。
棺の中で、父はうたた寝をしているように見えた。顔は傷ついておらず、蓄えられた口ひげと顎髭が、明るい陽射しを映して美しく黒々と輝いている。瞼の下に、薄っすらと覗いたままの黒目がちな瞳が、いまにも鮮やかに開いて笑みを浮かべそうに、少年には思えた。
そして、棺の蓋は閉じられた。地中へ降ろされてゆく亡骸を送る人々の祈りが、堪え難い嘆きに大きくどよめいた。
  父の大きく力強い胸に飛び込み、温かい掌で頭を撫でながら
  自分の名前を呼んでもらう事が、もう二度と叶わないのか ー!?
死別するという事の現実を不意に厳然と突きつけられ、少年は力の限りに泣き叫んだ。
( 父さんーっっっ!!!)

成人を待たず、自ら義勇兵として紛争地域のレジスタンス活動に身を投じたナザルヴァは、彼の数々の戦歴から、いつしか古代神話に語り継がれる逸話に準え『ソスリュコ』= 伝説の英雄 と尊称される存在になっていた。
7年ぶりに戻った故郷のささやかな街に、当時十代の彼ら兄妹 ー イムギ( 日本語名は「隼斗」はやと )とカルムン(風馨)が居た。アジアの経済大国である日本から、とある救援活動ボランティアチームの一員として訪れたのだ と聞いた。他のメンバーは現地で予定された活動期間を終え、前年すでに帰国していた。
兄妹の母親は半島から帰化した在日四世で、父親はヒスパニック系の米国人であった。兄妹は私生児として出世し、風馨が産まれる前に父親はアメリカへ帰国してしまった。母親は風馨を産んだ後、深刻な薬物依存症に陥り、兄妹に対する苛烈な虐待とネグレストを繰り返した。風馨がようやく一才を過ぎた頃、真冬の洗面台に溜めた湯に漬けたまま、放置される事態が起きた。母親の監視をかい潜り、4才になるかならぬイムギが妹をタオルで包んで部屋を抜け出した。
( 赤ちゃんがー 妹が死んじゃうー っっ !!!)
最寄りの交番へ大声で泣き叫びながら駆け込んで、彼女は一命を取り留めた。
以後、兄妹は児童養護施設に引き取られて養育された。しかし、施設での生活や義務教育の就学すべてに馴染めず、イムギは異世界への出口を常に探し続けていた。そこにヒットしたのが、深谷がもっともらしい美辞と詭弁を装飾して張り巡らせていた、偽善のトラップであった。旧ソヴィエトの社会主義体制崩壊にともない、当時緊張の高まっていた紛争地域へ出国するという選択肢は、生まれて初めて、イムギに「光」の尻尾をチラつかせて見せた。妹の意向は度外視して、兄妹そろって参加する事を決めた。一つには、主催者の深谷がいたく彼女を気に入り、手元に置いて生え抜きの愛人に育てるべく、黒い画策を巡らせている危険性も彼の背を押した。壮絶なる逆境の只中で、世の誰よりも美しく、気高く利発に成長した妹の風馨は、彼の生に於いて欠く事と汚される事の決して許されぬ、唯一無二の異性でもあった。

( 麓で交戦状態っっ !!!)
武力衝突の緊張が極限に達しつつある渓谷深部の陣営に詰めていたソスリュコらのもとへ、急報が持たらせられたのは、小雪のぱらつく一月の早朝であった。 '麓' とは、彼の生まれ育った街のことを指していた。年をまたいだ対峙の続く制圧軍側に参入した傭兵らの一部が暴徒化し、昨晩から一軒の民家に押し入って民間人を拘束中である旨の報告は受けていた。拘束者の中に、風馨も含まれていた。現場となっているのは兄妹が入国以来、身を寄せていた老夫妻宅であった。前世紀の戦闘で息子を喪い、娘たちは他国へ亡命させて郷里に遺った夫妻は、 孫が戻って来てくれた と兄妹を親しく迎えた。彼らは飾らぬ、あるがままの愛情を注いで、兄妹が初めて経験する心安らぐ生活を与えてくれた。
前年11月、イムギは沿岸沿いの防衛活動に義勇兵として加わる決心を固めて恩人宅を後にした。
兄を見送りに海岸へ降りた帰路の砂浜であった。海上に浮かぶ生国を遙かに隔てた砂浜で、特有の濃色が美しい海を眺めている東洋人と、風馨はふと出逢ったのである。それが、牧野であった。
特有の言語を使いこなせず往生していたところで、奇しくも、彼の目指す目的地は風馨が暮らす街だった。
( 日本の方とお会いするなんて ー 不思議ですね。)
土地勘のある者にしか辿れぬ道程を案内しながら、先を歩く風馨が微笑した。むしろ、その思いは牧野の方が痛烈であったに違いない。便宜上、深谷が命名した『セレム』というコードを背負い、外交の裏舞台に於ける極く秘密裏の特命を帯びて、牧野は極東より彼の地を踏んだ。この折、彼は26才、風馨は17才であった。

( ーナザルヴァ。この、星の形のほくろは神様の御守護。貴方はいつでも護られているの。)
懐かしい母の指先が、ソスリュコの左目下の特徴的な形象のほくろを優しく撫でた気がした。
( ・・・ 母さん ??)
不用意に深く落ち込んでいた眠りの淵底で、過分な重力の負荷を神経に感じて浮上できないまま、彼は瞬きをして周囲を確認した。盛夏の故郷ほどは澄んでいないものの、青空の鮮明な彩度が眩しく視界に飛び込んで来た。膝の上でうたた寝する彼の髪を撫でていたのは、風馨であった。
「 ー 眠ってしまっていたか。」
「 お疲れになったんですわ。」
深谷らとの会談の後、遅めの昼食を終えるとソスリュコは珍しく、 少し休みたい と言った。二階書斎の、海を見下ろせる窓下のソファで彼は長身の体を横たえた。
「 ・・・・・・ 」
白檀の芳香が、頭上で仄かにそよいだ。ネクタイを緩めてはいたが、やや寝汗をかいていたらしい。扇で微風を送りながら、額に浮かぶ汗を柔らかなガーゼで丹念に拭き取りつつ、風馨が彼の午睡を見守っていた。
「 風馨。」
強く抱きすくめたい ー 奥底の何処かに狂暴さすら秘めた、目眩めく衝動に駆り立てられ彼は身体を起こした。その刹那、左胸の深部を貫いた強烈な痛みに、彼は思わず風馨の膝に縋った。急激に血流が滞り、彼の画面から血の気が引いてゆく。
「 ソスリュコッ!!」
袂から取り出した応急薬の口腔内スプレーを彼の口元へ差し向け、風馨は鋭く叫んで吸引を促した。彼女の手を借りて数回、吸引を行うと、ソスリュコは風馨の胸に上体を預けて瞼を重く閉じた。危機的な発作は、どうやら遣り過したようであった。
三年前、意識を昏倒する激烈な心臓発作に見舞われた。治療にあたった専門医によれば、大動脈弁閉鎖不全 及び 深刻な心筋症 を伴う慢性心不全との診断であった。投薬と食事療法による経過観察とあわせ、外科手術を施す選択肢が提案された。しかし彼は、手術による治療を選ばなかった。
サイドテーブルのグラスに風馨が注いだミネラルウォーターを口に運ぶと、未だ大儀そうな発声でソスリュコは呟いた。
「 ー 風馨。」
「 はい。」
見つめる彼女の視界のすべてを、眼差しの濃いセピアで埋めながら、彼は真摯な問いを投げた。
「 かつて多くの同胞が命を喪い、あるいは祖国を捨てた・・・ 。もはや裏社会と繋がるほか闘い方を見つけられぬ無法者になり下がった私をー 君は蔑んでいるのだろう?」
その知的な額を湿らせた冷たい汗を拭い、乱れた前髪を整えると、風馨は毅然と応えた。
「 いいえ。ソスリュコ。 貴方はいつも、誰よりも勇敢で高潔です。」
「 マキノよりもか?」
「 まあ・・・・ 」
視線を鋭くして一層、深く瞳を覗き込むのを
「 彼は、一介の日本人に過ぎません。」
駄々を捏ねる息子をなだめる母親の優しさで囁いて、彼女はソスリュコの右手を両手にいただき、そっと頬を寄せた。
「 ・・風馨。 私の、可愛らしい小鳥 ー。」
彼女の温もりにしばし身を任せてから、唇に軽く指先で触れると、彼は入浴の準備をするよう促した。
「 続きは、バスで聞かせておくれ。 嫌な汗を掻いた。」

オーシャンビューのバスルームに差し込む陽射しが、黄昏のシフォンを思わせ振りに纏いはじめている。空の青さが、いくぶん鈍く透明度を落としたように感ぜられた。
和風の拵えで統一された浴室奥の木製の浴槽で温めの湯に身体を伸ばし、ソスリュコは、立ち篭める木材のしめやかな芳香を吸い込んだ。入室して来た風馨は、純白の肌襦袢の裾と袂を紐でたくし上げた、古式ゆかしいスタイルである。
「 それでは暑いだろう。 一緒にお入り。」
「 ええ。お身体を洗ってから。」
長方形の浴槽周囲を巡らすベンチから微笑んでみせた表情は、何処か晴れやかであった。お手製の肌触りの良いメッシュで石鹸をふんだんに泡立て、ベンチに腰掛けたソスリュコの全身を隈なく、丁寧に洗いあげてゆく。その作業が自分にとっても心地好いものであるのか、彼女は珍しく、無邪気な少女の横顔を輝かせた。
「 お髪を、洗っても宜しくて ?」
風馨の膝を枕にして爽やかになった身体を横たえたソスリュコは、ゆったり瞼を閉じ、頷いてみせた。不可思議な島国に宿命的な生を受け、奇跡のごとく鋭敏でしなやかな精神を宿した、この歳下の華奢な異性を、いつからとは知らず、もはやどうする事も出来ぬほど愛してしまっていた。
「 ・・・・・・・ 」
心地好い温度のシャワーで、滑らかなシャンプーの泡を丁寧に洗い流されながら、彼はおよそ信じ難い恍惚に身を任せていた。
  骨抜き 腰抜け と罵られる人生の幕引きになろうとも、
  相手がこの女であるなら、それもまた可いだろう ー 。
すべて洗い終えた風馨は静かに、懐から何かを取り出した。
ソスリュコの研ぎ澄まされた聴覚が、極々かすかな、一般的ではない奇妙な '音' を頭上に感知した。
「 !?ー 」
見上げた先に、風馨が咽喉元に両手で握りしめている棒状の物体が、ちょうど窓から差し込んだ黄金の夕陽を照り返して見せた。彼女はやや襟元を寛げ、首筋の右側に頸動脈の周囲を選んで、刃渡り20センチほどの護身用ナイフの刃先を柔肌に突き立てていたのである。
「 風馨っ!!!」
即座に取り上げようと伸ばした手を、彼は咄嗟に抑制した。急所と片刃の刃面の距離が近過ぎる。
「 良い子だー 止めなさい。」
厳然たる眼差しで牽制しつつ、ソスリュコは上体を起こした。刃先を呑んだ首の付け根からは、鮮血が美しく糸を曳いて、襦袢の襟を朱に染め始めている。
「 お願いです。音楽活動を止めたいの。」
「 いいとも。 好きにすれば可い。」
彼は、頷いてみせた。
「 牧野の事を、忘れる事は出来ません。」
「 ー わかった。」
「 いいえ。 違うのっっ !!!」
暴挙を阻止するべく、その場をしのいで会話を進めようとするのを、風馨は在らん限りの覚悟を込めて拒絶した。
「 何を言ってるんだ、君はっ!?」
理性を見失う事の稀な男が、力の加減にも配慮が及ばぬほど逆上して我を忘れ、格闘時の体の反応で風馨の右手を捻り上げた。彼女が思わず床に落としたナイフを浴室の反対方向へ遠く投げると、
「 怪しからんっっ!!!」
返す手の甲で、風馨の頬へ容赦ない平手打ちを与えた。強い衝撃を受け、湯で湿ったベンチを滑り落ちて床に反転したが、彼女は怯まずに顔を上げた。
「 牧野と出逢って、彼を愛しました。でも、彼と共に過ごす事は許されませんでした。それが、彼と私の、抗う事の出来ない運命に違いありません。」
髪が乱れ、胸元まで鮮血が滲み出るのを厭いもせず、尊く煌めく涙を、風馨は白い頰に伝わせた。
「 不幸である事に囚われ続けて、傲慢で空っぽな私を捨てずにいて下さった貴方を・・・ どうか、愛させて ー。愛する事を許して。 いつも、お側近くに居させて下さい。」
最愛の異性に邪険な手を挙げてしまった罪悪感に、ソスリュコは著しく苛まれ頭を抱えていたが
「 我儘を許して頂けないようでしたら・・ 生きる甲斐のない命を、此の場で断って終わらせます。」
異様な静寂に満ちた風馨の言葉が、彼の平常心を急旋回で復活させた。
「 ー すまなかった。 痛むだろう?」
打撃を与えた箇所の状態を迅速に確認すると、創傷の疵口をシャワーで洗い流しながら襦袢を脱がせ、彼女を抱き上げてソスリュコは浴室を後にした。

寝室で応急の手当てを済ませた頃には、この日の日照は緩やかに終わりを告げようとしていた。人影の減った波打ち際では、鴎たちが賑やかに群れながら、青空の名残りを愛しんでいることだろう。
「 ー なかなか、良い風だ。」
窓を開いて、ソスリュコは黄昏の涼風を室内にそよぎ入れた。彼の大きなグレイのナイトガウンで包まれた風馨は、彼の高い背中と、背中越しの風景をベッドの上でぼんやりと眺めた。彼がラフに纏ったスタンドカラーの麻のシャツを、膚に心地好い微風がそよがせている。
自分の肉体に受け継がれた幾種かの民族とは異なる遺伝子を持つ、明晰な男の生い立ちについて、改めて想いを巡らせようとした。しかし何故か、自分と兄が過ごした子どもの頃の記憶ばかりが風馨の脳裏を過ぎった。
彼女は両親の顔や声を知らない。兄妹は近畿地方の過密な養護施設に居て、四六時中、様々な年令の子どもたちが泣いたりはしゃいだり、周囲は賑やかしかった。何の疑いもなく、この世界の子どもは皆、地域ごとの施設で育てられるものと思っていた。特に自分だけが、恵まれていない可哀想な子だ と云う意識もなかった。四つ上のイムギは小学校へ上がると、国籍の問題や養育できる親がいない事など、何かにつけ、悪質ないじめの槍玉に挙げられた。それでも、風馨が懸念なく入学できるよう、妹の前では絶対に弱音を吐かなかった。生来持っていた気質なのか、妹を死守するため必然として身に付けたものなのか、兄はとにかく、半端なく強かった。さほど体格に恵まれずとも、謂わゆる無敵の『ケンカ番長』であった。風馨が入学する時分には、校内や施設内で彼に逆らえる者はいなくなっていた。
そんな彼が他国へ渡り、志願兵として最愛の妹の傍を離れた折、忽然と現れた得体の知れぬ男が風馨に惚れさせた上、キナ臭い裏工作の応酬戦に巻き込んだ。当時、軍事的にも一触即発の最前線に在ったイムギとしては、牧野と名乗る日本人に対し殺意めいた憤怒に貫かれた辺りの経緯は、想像に難くない。粗野で、不器用で、極めて 'いびつ' な術しか知らなかったが、兄は彼女に、産みの母以上に世界中の誰よりも、掛け値ない愛を注いで護ってくれた。だから風馨は、愛を知って育ち、愛を分かち合う事を厭わなかった。

牧野は当初、国内某雑誌社と契約して派遣されたフリーのジャーナリストを名乗った。紛争の動向に関して独自の取材をすべく訪れ、共同取材を行うロシア人軍事アナリストとこの地で落ち合って年内に帰国する予定だと言った。ひと月ほど宿泊を頼めそうな場所を尋ねられた風馨は、ためらいも無く自らのステイ宅へ案内し、老夫妻の快諾を取り付けてくれた。不可思議に符合する生い立ちや成育の境遇などの共有感がきっかけとなり、互いに強く惹かれ合い、彼らが恋心を震わせるまでに、さして時間は要しなかった ー 。

牧野が到着を待つロシア人は予定を過ぎても現れず、滞在期間は伸びて、遂に年を越した。
北西へ吹き抜ける風が強まった一月の夕刻、自動小銃で武装した見知らぬ7名が老夫婦宅に押し入った。男達に課せられていた任務は、軍事アナリストを拘束拉致する事であった。が、情報が錯綜していたのか、滞在中であるはずのロシア人が見当たらない。人数を分けて見張りを残すと、隠蔽や逃走の幇助を疑って、牧野を尋問するために数名が納屋へ連行した。次に牧野が戻されて来た時には、半死半生の深手を幾つも負っていた。とは言え見殺しにするのは得策でないらしく、風馨らに手当をするよう、彼らは銃を突き付けながら命じた。
最も傷が深かったのは左の背中で、引き裂かれて爛れた皮膚の合間から骨や臓器が覗いてしまっていた。
( 早くお医者様に治療してもらわないと、この人が死んでしまうー !!!)
溢れる涙を拭いながら歯を食いしばり、傷の消毒と止血を懸命に繰り返して風馨は夜を明かした。
やがて迎えた夜明けー
家屋の周囲から、唐突に銃撃による攻撃が始まった。押し入った男達も一斉に持ち場へ散り、激しい応戦を始めた。何が起きているのか、まったく解らなかった。
( ここを殲滅する気だ!! )
信じ難い気力で寝台から起き上がった牧野が、夫妻と風馨を誘って裏庭から脱出したものの、一名に気付かれた。射程距離内に牧野らを捉えた相手は、全自動小銃で容赦なく狙撃して来る。夫妻を背後に伏せさせ、自らの身体を盾にして風馨を庇った牧野の左肩を一弾が砕いてかすめた。
( 逃げろっっっ!!! )
渾身の力を振り絞って牧野は叫んだ。ところが ー 風馨は、彼の腕に縋った手を固く離さなかった。
( !? )
( 一緒に死なせて! )
見上げた風馨の、涙で潤んだ瞳の刹那の美しさを、牧野は おそらく生涯忘れ得ぬであろう。
やむなく咄嗟に彼女を全身で覆い、彼は地面に倒れ込んだ。正にこの時、ソスリュコらが到着して彼らを救い、現場の制圧に臨んだのであった。

「 ー・・・ くぅっっー 」
不意に、制御を突き抜けた激しい嗚咽が口から零れ落ちて、風馨は震える身体を小さく竦めた。
「 どうした?」
駆け寄ると、ソスリュコは彼女の手を優しく握った。
「 突然、哀しくなって ー 取り乱してごめんなさい。」
「 少しフィノでもお上がり。今日の夕食は此処に運んで、簡単に済まそう。」
辛口の白シェリー酒を注いだグラスに手を添えて口に運ばせると、彼は傍らに腰掛け、風馨を膝の上に抱き寄せた。その腕から、遠慮がちに顔を遠ざけるのを
「 ーうん??」
訝って覗き込んだソスリュコの眼に映った風馨は、未だ出逢った事のない、儚げな少女の面影であった。
「 涙で、お似合いのシャツを汚したくありませんの・・・ 」
「 ・・・・・・ 」
しばし声をつぐんだ後、惜しみなくシャツのボタンを外してみせると
「 ではこれで ー 気兼ねが要らないね? 」
彼は素肌の胸深くに風馨を抱き締め、シャツで包んだ。その大きな腕の中で、彼女は無心に声を放って、無我夢中で泣いた。
「 ー ・・・。」
彼女の髪を優しく撫でつけていたソスリュコのシャツのポケットで、携帯が着信を報らせた。急いで退こうと身動ぎをした風馨を留めつつ手短かに要件の通話を終わらせると、彼は電話機をドレッサーの前へ放った。
「 お忙しいのに・・ ごめんなさい。」
「 今日はもうたくさんだ。」
腕の中に泣き濡れている姿を見遣って、彼はふと堪えがたく、慎ましやかな唇を激しく奪った。瞼を深く閉じると、彼女もソスリュコの唇を一途に求めた。
「 ・・・・ 愛してくれるのか 」
「 どうか・・ 愛することを許して ー 」
初めて交わす口づけの神聖さで、重ねた柔らかな粘膜越しに、彼の生命と精神の実在を風馨は懸命にたどり続けた。


 日本海を挟み北海道道南とほぼ緯度を同じくする、極東地域随一の重要軍事港湾として世界情勢の要を担う、麗しい半島の都市では、一年のうちで最も明るく、過ごしやすい季節を迎えていた。
帝政時代最期のツァーリが遺した歴史的遺構である、独特な様式と鮮やかな色彩が特徴の凱旋門が建つ緑豊かな公園近くに、そのアパートはあった。帝政期に建築されたヨーロッパ風の邸宅が、民間に払い下げられて貸し部屋になっている。華麗なる建築物は、数百年にわたり人類が辿った激動の歴史の記録を刻みつつ、21番目に迎えた世紀と、なおも連綿と続く人々の有り様を傍観している。石造りのアーチを潜ると、中庭を囲んで重厚なエントランスがそびえ、メイン大階段のほかに、優美な曲線を描く左右の外階段が二階バルコニーへと通じている。
彼女の暮らす部屋は、二階フロアの西端であった。平日の22時を廻っていたが、街の繁華な中心部では、主に観光客らによる宵の口の賑わいが続いている事であろう。軍事・外交上の戦略から、半世紀以上も閉鎖されて来た港湾都市が開放されて未だ日は浅い。国際貿易の重要な物流拠点の役割を取り戻し始めるとともに、観光客の誘致も盛んになりつつあった。
外へ両開きの出窓を大きく開いたまま、翌朝の起床アラーム時間を確認して消灯し、彼女はベッドに体を横たえた。半島の先端を東西へ鋭利に削いで喰いこんだ港湾の水面より、彼女の枕元まで、夜半の潮風が傾斜の緩やかな坂道を通って来る。時折、貨物船の汽笛が遥かに響いた。眠りの階段をゆっくり降り行く彼女の呼吸と心拍数が、最適なコンディションを掴み掛かった時であった。
  ー !?!
彼女の唇と頸部が、不意に抗い難い力で押さえ付けられた。
「 ・・ !!!」
手元に煌めく刃物を眼前に見せつけると、必死に逃れようと身動ぎする彼女の上に、侵入者は土足のまま馬乗りに座った。すると、恐怖が頂点に達したはずの彼女は、暗闇を凝視していた瞳を閉じて、抵抗するのを止めた。男の身体つきの特徴と体重の掛かり具合が、すべてを悟らせたのであった。
「 なんだー ?? もっと暴れろよ。面白くねえ。」
どう言う訳か、侵入者はあからさまに不機嫌な声を発した。
「 ー しっー 。」
口を覆った大きな掌を退かしもせず、彼女は人差し指をまっすぐ立てて見せた。
「お隣りの マレーヴィチ先生、耳ざといのよ。」
壁の向こう側へ目配せをして小声で囁くと
「 はあ!? おっさん、あんたに気があるんだなー!」
彼はにわかに、危険なスケールの怒気を頭上で膨らませた。
「 腹違いの弟だって言ってある。」
「 エレーナ?」
引き締まった体軀を彼女の上に長く伸べて重ね合わせてから、男はごく間近で瞳を覗き込んだ。街灯もさして届かない深夜の窓辺で、貴石のごとく美しい、彼女の瞳の透明な水色は見て取れない。
「 なあに? 風来坊の美男子さん。」
温かみのあるアルトで、彼女は優しく応えた。両手でエレーナの頬を撫でながら
「 ほかの男と寝たか?」
神妙な声色で風変わりな問いを投げて来る男に、しばし呆然と言葉をつぐんだ後、彼女は くすくす 笑いを漏らした。半年近くも無しの礫で放置しておいた女に向かって、初めに問う言葉が因りによってこれとはー 並みの女ならば、さぞかし紛糾する場面に違いない。
「 笑ってごまかすな。 ー寝たんだな!?」
「 ハヤト(=イムギ)。」
彼の力強い唇に、エレーナは限りなく優しく唇を重ねた。そして、深夜の外気を含んで湿り気を帯びている瞼や頬を、愛しげに唇でなぞった。通常の彼とは異なった有り様で、されるがまま、彫りの深い瞼を心地好く閉じている。
「 どんなに寂しくても、私にはあなただけで可いの。他の男は要らないの。」
「 ・・・ 死んだ旦那がいるだろ。」
「 セルゲイはー 」
言い掛けた彼女の手を両手で掴むと、ハヤトは左右の白い小指を前歯で交互に甘噛みしてみせた。
「 名前を呼ぶな。ムカムカするー!」
「 ・・・・・・ 」
少し伸びすぎた、マホガニーがかった艶やかな彼の黒髪に、エレーナは優しく頬ずりをした。
三つほど年下の、傲慢極まりない この無法者を、理由も知らず、 彼女は心底からいとおしく感じた。エレーナには二人の姉がいるが、すぐ下に弟がいたとして、弟へと向かう特有の切なさに似通う情愛であるのかも知れない。
「 ねえ?? 少し痛いわ・・ ミーリュイ(ダーリン)。」
久しぶりで手にしたお気に入りの玩具に熱中する様で、ハヤトは彼女の肉体のあちこちを忙しなくいじり始めている。
「 痛いくらいが良い。」
抗いがたい恍惚が凶暴に押し寄せて来る予感を静かに塞き止め、エレーナは彼の耳元で囁いた。
「 私の愛しいサプサン(=隼)ー 先ず、あなたの好きなお夜食を温めさせて。」

 あんず色のキャミソールの上にサマーニットを羽織ると、彼女はキッチンに立った。
冷凍保存してあるメニューの一食分を鍋で加熱し、手軽なグリーンサラダを盛り付けた。あり合わせの魚とともに根菜や葉物をバターとブイヨンで煮込んだ、ごく素朴な家庭料理で、作り置きがしてある。トレーを手にリビングへ戻ると、ハヤトはフロアマットの上で片腕で体を支え、腕立て伏せをしていた。氷を添えたグラスにウォッカを注いで、エレーナはカウチソファに腰を下ろした。支える腕を替えて追加した運動を終わらせた後、跳ね上がるような勢いで彼はソファに身体を横たえた。彼女の膝の上でグラスを傾けながら、今晩はじめて、間接照明に照らされたエレーナの姿を殊更に見つめた。
「 ・・・・ あんたは、なんでそんなに綺麗なんだ??」
3年前、この極東の大都市を任務のため訪れたハヤト(=イムギ)は、以降の活動に必須となるロシア語会話の習得を深谷より命ぜられた。その個人レッスンを、深谷から内密に任されていたのがエレーナであった。彼女は、ごく健全な外国人向け会話教室の講師を勤めているが、貿易商であった亡夫は裏世界に通じていた。真相を承知の上で夫婦になるからには、様々な意味に於いて、平凡な生き様では済まされない覚悟が、彼女なりにあっての事だったに違いない。
ごくごく不定期に、この街を訪れるごと通って来るようになった、不可解きわまりない東洋の男が醸す強烈な 'キナ臭さ' も、 エレーナは別段、嫌悪しなかった。彼の詳しい素性や、携わる活動などにも興味は無かった。ただ、粗野な暴君まがいの緊張感を常に漂わせるハヤトが、折に触れて覗かせる、純潔度の高い 『クリスタルの棘 』 とでも呼ぶべき、美しい魂に心惹かれた。
愛用の革製ガンホルダーを事も無げにアンダーシャツの上に装着したまま、殊にお気に入りのエレーナの長いブロンドに、彼はごく久し振りで触れた。緩やかに波打つ、白金に近い黄金の髪は細く絶妙なバランスの湿度を含んで、尖りのない彼女の輪郭を優しく縁取っている。
「 ・・・ 逢いたかったわ ーミーリュイ。」
何処か遥かより、膝の上へ急降下で舞い戻って来た愛しい男の状を、彼女は丁寧に見遣った。いくぶん頬が削げたように感じて、胸の奥が痛んだ。見受けたところ、怪我などは負っていないらしい。湯気の立っている夜食のボウルに手を伸ばす気配がないのを察すると、エレーナは自らスプーンを取ってシチューの熱さを確認し、ハヤトの口元へと運んだ。
「 あなたの好きな味付けよ?」
いとも高慢に頬張ってみせて、彼は満足げに宣(のたま)った。
「 ・・・ 美味い。」
しかしサラダの小皿をエレーナが手に取った途端、きっぱりと好き嫌いを言う幼児と同様、彼はあからさまにそっぽを向いた。
( まあ・・・。野菜嫌いさん。)
どういう訳か生野菜を嫌うのを良く心得ているので、彼女はこの場の戦略を頭上に巡らせた。
「 葉っぱ は嫌いだ!」
懸命に笑いを堪えつつ、止むなくサラダのリーフを一咥えすると、エレーナは口移しで直接、しぶしぶ開けたハヤトの口の中へ押し込んだ。
「 ・・・・・・・。」
さも不服そうに音立てて咀嚼する頬を、彼女は豊かで柔らかな、気高い胸の中へ抱き寄せた。
「 愛しいあなたを生かせるために、嫌いなお野菜も必要なのよ。」
「 神なんて信じねえが 」
瞼を閉じて儚げな心音に耳を澄ますと、そのカウントのリズムを測りながらハヤトは呟いた。
「『天からの贈り物』があるって、あんたと居る時には、馬鹿みたいに信じられる。」
「 ・・・・・ 」
理由も解らず、不意に溢れ出た大粒の涙が彼女の頬を伝って落ちた。
「 ?? こら。泣くな。」
怪訝そうに覗き込んだ眼差しには、曖昧さを嫌うこの男には極く珍しく、茫洋とした翳りが垂れ込めている。
「 俺が嫌いになったのか??」
「 好きで仕様がないから、困るのよ。」
エレーナは努めて微笑んでみせた。さながら草原に揺れるマーガレットの白い蕾が、人知れず、 そっ と華奢な花びらを開かせる瞬間の可憐さであった。
「 ー 私に飽きたら、棄てる前に、どうかあなたが手に掛けてね ー 」
出し抜けに、常と変わらぬ口調で 只ならぬお願いごとを口に出したのを聞き咎め
「 はああー!?」
つい、細い顎を結構な握力で掴んで上を向かせると、ハヤトは正面から容赦なく凝視した。
「 あんたは、俺の 『プレシャス』 なんだぞ?」
こちらも俄かに只ならぬ怒気を沸き上がらせ、彼は無造作にエレーナを肩に担いで立ち上がった。
「 訳のわからん事を言うな。」
捕獲した仔鹿でも持ち帰るように、無抵抗な彼女の身体を半分折りに担いだまま寝室へ運ぶと、再び無造作にベッドの上へ転がらせた。
「 困らせた罰に、お仕置きしてやるー!」
ブーツの長紐をやや苛立たし気に解いて乱暴に脱ぎ捨て、エレーナを抱き起こすと、彼は鋭い眼差しで真っ直ぐな問いを投げ掛けた。
「 俺が好きか?? 」
「 好きよ。ー変になりそうなくらい。」
潤んだ瞳を美しく煌めかせて応えるのを確かめ、ハヤトは両手の指を深く、勁く絡み合わせた。
「 なら、要らん心配はするな。 好きなだけ抱かせてくれー ずっとあんたが恋しかったんだ。」

 翌朝 目を覚ました時、エレーナはハヤトの腕の中に居た。一分の隙間も惜しんで膚を寄せ合い、唇を重ねたまま知らぬ間に眠りについていた。窓から差し込む陽射しの角度や、窓の外から伝わって来る街の音から、アラームの起床時刻は とうに過ごしている現実を彼女は直ぐに悟った。昨日の帰宅時までの日常と繋がっている、社会一般において課せられた諸事を、もはやきれいに諦めると、彼女はハヤトの寝顔を見守ってしばらく過ごした。とても幸せだった。
端麗な顔立ちの中に、東洋的な峻険さと、対極的な 'ラティーノ' の ドライなバイタリティが違和感なく同居している。ふと濃い睫毛が震えて、彼の眉間が曇った。夢の中で、なにか辛い思いをしているのか ー と後ろ髪を引かれたが、さすがに勤務先のコミュニティセンターへ連絡するリミットであった。ハヤトに気付かれぬよう、そっとベッドから降りて電話を掛け、市内在住の姉が交通事故に遭ったため、当面一週間ほどは看病や家族の世話などで出勤できなくなった と取り繕った。
遅い朝食を食べさせたく、コーヒーをすすりながら様子を窺っていたが、もうしばらく彼の眠りは覚めなさそうに思えた。いっそ、彼の好む食材を現在のうちに準備しておこう と決めると、厳重に施錠して、エレーナは一番近いマーケットへ自転車を走らせた。
小一時間ほどで運搬用のリュックに積めるだけの食材を揃え、小柄な両腕に一抱えの荷物を持って帰宅した。荷物を抱えたまま寝室を覗くと、ハヤトの姿が無い。
「 ハヤトー ??」
明るく晴れた夏の午前の風景が、前触れなく、分厚い鉄製のシャッターで眼前に分断された。たちまち、彼女の心は真っ暗な不安で塗り潰された。荷物をフロアに投げ出すと、キッチンー リビングー バス と見て廻ったが、何処にも見当たらない。睡眠不足のせいもあってか、彼女の脳内で、頭頂部が大きく旋回した。平衡感覚に支障を覚え転倒しかかった体を、エレーナはバスタブの縁をとっさに掴んで支えた。膨大な量の涙が込み上げる予感を感じた時、何処かで、聞き覚えのない声が自分の名を呼んでいるのに気付いた。
「 ー ??? 」
声を辿って、寝室のベッドと窓の下の隙き間を恐るおそる覗き込むと、ごく狭いスペースに思いも掛けないハヤトの姿があった。両膝を窮屈そうに小さく折り畳んで、力無げに項垂れて座っている。
「 ーエレーナ。」
顔を上げて彼女の姿を確かめると、これまで聞いた事のない、悲痛な響きで彼女の名を呼んだ。
「 食べ物を買って来たの。」
努めて穏やかな声を掛けながら駆け寄って、エレーナはその傍らに身を屈めた。
「 留守にしてごめんなさい。」
「 ・・・・・・ 」
寝乱れた髪を整えようと伸ばした手を掴み、ハヤトは腕の中に彼女を抱き寄せた。
「 ミーリュイ(ダーリン)? 具合が良くなくて?? 」
「 ヤバいんだ。」
彼の胸に当てた耳を澄ませてみて、心臓の鼓動が常より少し早く感じた。
「 何かあったの?」
エレーナはすべての感覚を研ぎ澄ませ、彼の心理に起きている異変の真相を突き止めようとした。
「 狂った母親が妹を殺す夢を見たー。 」
窓から差し込む明るい陽射しを宿らせて煌めく、波打つブロンドに頬を埋めると
「 それで目が覚めたら、あんたが居なくて・・・ 」
ハヤトは、両腕に一層の力を込めて彼女を強く抱き締めた。
「 ガキみたいに哀しくなったんだ。」
「 ー 怖ろしい夢を見たのね。 かわいそゔに。」
エレーナの瞼に、何かが ぽとり と落ちて伝うのを感じた。腕の中から彼を見上げると、ほっそりしたハヤトの頬を、幾筋もの涙が濡らしていた。
「 あんたを知らなけりゃよかった。」
ジーンズからハンカチを取り出して彼の頬を拭うと、皮膚に薄く滲んだ汗で冷たくなっている。
「 こんな間抜けたザマじゃー 俺は負けるかも知れん。」
そっ と頬を重ね合わせ、彼女はハヤトの髪を優しく撫でた。 中庭で盛りを迎えている百合の花の濃密に甘い香りが、風向きに乗じ、時折り窓から忍び込んで来る。
「 いいえ。あなたは強い。」
顔を横に振ってみせると、エレーナは静かに囁いた。
「 これからも誰にも負けない。それに、私が必ず護ってみせる。たとえ八つ裂きにされても、火炙りにされても。」
「 ?? ・・・・ 」
膝の上に彼女を抱きかかえて瞳を覗き込んだハヤトの眼差しは、信じ難さに大きく見開かれている。
「 どうしてー あんたは、そんな正気じゃ無い事を考えられるんだ??」
エレーナは、この朝 この極東の街に与えられた、爽やかな快晴の空よりも透明に煌めく水色の瞳で彼を見つめ返した。
「 だって・・・ 自分の生命よりも、あなたの全てを愛してしまったのだもの。」
仕様がないわ と、彼女は 得も云えず愛らしく、 にっこり 笑みを浮かべた。
「 あんたって女はー 」
降り注ぐ夏の光とともに在るエレーナを凝視するうち、彼は言い知れぬ不気味な感覚に囚われた。己れの存在の奥底で永らく共生させ続けて来た、爆発的に凶悪な憤怒が、その重々しい頭を擡げる予感がした。次の刹那、それは閃光の鋭利さでハヤトを衝き動かすと、恋しいエレーナの両腕を後ろ手に掴んで乱暴に床へ引き倒し、頸部を押え込んだ。
「 どうせ死んだ亭主も、そんな殺し文句で好い気にさせてたんだろうがっ!?」
彼女は抵抗も、暴れもしなかった。ただ、ゆっくりと首を横に振ってみせた。
「 いいえー。あなたにだけよ。」
「 ウソだ!!!」
掴んだ腕を引いて彼女の上体を壁に荒々しく押し付け、ハヤトは厳然と、魔性めいた執拗さで睨み付けた。
「 女なんぞー どいつも所詮、薄汚ねえ俺の母親とおんなじなんだ。気紛れにガキつくって、平気で見殺しにしやがる。」
顎を押さえ付ける握力の強さが、もはや、踏破された彼の制御の箍(たが)を戻せぬ状況である事を彼女に報らせていた。エレーナは潔く覚悟をして、心のうちで静かに、神に召される祈りを捧げはじめた。
「 使い棄ての安い道具だけで可いんだっっ!!」
ベッドの上へ彼女を放ると、ハヤトは裸体のままで身体を重く重ね合わせた。エレーナの意識は、やや茫洋とぼやけている。
「 なのにー! なのにっっ!!! 」
手荒く肌けさせたシャツの下の白い膚に縋り付いて、彼は嗚咽に肩を震わせた。
「 あんたの中には本物の楽園があってー 阿呆みたいに、夢を見てみたくさせるんだ。くそっっー !!」
「 ・・・・・・・ 」
瞼を瞑っていたエレーナの耳に、港湾を行き来する船舶の汽笛や遥かな鉄道の響きなど、平穏な日常の遠景が徐々に戻って来た。ハヤトを衝き動かさせた、膨大な激情の波濤は 一先ず去ったようであった。
「 ・・・ 私のミーリュイ。 愛しいひと。」
彼の乱れた髪に優しく頬ずりをしながら
「 たくさん辛い目に遭ってー '女'を憎んでいるのね。」
エレーナは有らん限りの力で、彼の身体を抱き締めた。
「 可いのよー。 いっそ殺してちょうだい。それも幸せだわ。」
驚いて間近に眼差しを寄せたハヤトの表情を、常の彼とは異なる、真実の愛に初めて遭遇した 一人の男の深い懊悩だけが覆っていた。微笑んでみせ、深く情愛を籠めた優しい視線で語りながら、彼女は そっ と唇を重ねた。その唇の柔らかさに、ハヤトは声を潜めて哭いた。

 ・・・一瞬も離したくない。
 あんたを抱いていたい。誰にも触らせたくない。
 あんたが好いんだー 。
 エレーナ・・・ エレーナ、 エレーナ。






































































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登場人物紹介

水樹 史也( みずき ふみや)

広告制作会社勤務のイラストレーター。26才。心療内科カウンセラー 佐野 悠介との出逢いがきっかけとなり、かつて深刻であった精神状態から快方へ導かれて以来、悠介へ深い信頼を寄せている。

並外れて繊細な神経に恵まれた一方で、一般的な常識にとらわれない大胆な行動力をも兼ね備えている。

佐野家隣家の牡猫コタロウ( 水樹は一方的にヴァンプと呼ぶ )は親友である。

コタロウ

佐野親娘が暮らすマンションの隣人・黒田さんが飼っている去勢済の牡猫。

遠出はしないが、何故か佐野家へだけはベランダを器用に伝って頻繁に訪ねて来る。穏やかで人なつこい性格で、ツンデレのツン要素はあまり持ち併せていないらしい。

大柄な水樹 史也が繰り広げるスキンシップを実のところは迷惑に感じている、かどうかは不明である。

佐野 成未( さの なるみ )

大手通信販売会社に勤務する27才。きょうだいは無く、臨床心理士の父・悠介と二人暮らし。

十代で母を亡くしたせいもあってか、日常の生活者として揺るぎのない堅実さを備えたしっかり者である。

職場の同僚で後輩にあたる 中村 宏太 に異性として好意を感じているが、適当な距離から見守っていたいとひそかに願っている。

亡くなった母の実姉で、関西在住の叔母・川瀬 愛子 の無敵な明るさも好き。


佐野 悠介( さの  ゆうすけ )

臨床心理士を務める成未の父親。ある意味、純粋な少年時代のひたむきな向学心を持ち続けている。生来の気質としては朗らかで、性善説を信念とする。豪放と呼んでも可いマイペースと他人の反応をあまり意に介さない爽やかさが、弱点でもあり強みでもある。早世した妻の美穂をこよなく愛し、誰よりも傷みを背負っているが、忘れ形見の成未にも敢えて語った事はない。彼の血の通い合った心療の姿勢が、苦しむ者の拠り所となる。

中村 宏太( なかむら  こうた )

成未の後輩にあたる同僚の青年。人間関係に於ける周旋などに、ややもすれば誤解を招くほど不器用な誠実さと真面目さが長所とも謂える。その一本気さゆえ逆境に弱そうに見られがちであるが、外見とは裏腹の不屈な意志の勁さを秘めてもいる。誰にも明かさないが、片親の家庭に育ち自身の努力によって現職を掴んだ不遇な経歴こそが、未来を生きる糧となるという誇りと信念を強く抱く。

その一方、他人知れず成未に対する深い愛情を日々確かめてもいる。


記憶を持たない謎の男

事故なのか、傷害の被害者であるのか、瀕死の重傷を負って忽然と現れ、救急病院へ収容される。

怪我の後遺症によるものなのか、彼の「記憶」には深刻な混沌が生じていた。

唯一の所持品である色褪せた挿絵らしい紙の切れ端と、彼の脳内から無作為に出現するワードを手掛かりに、悠介と里中は心療にあたろうとする。

ところが正体不明者が次々と現れ、彼の身辺はしだいに不条理な危険に晒されてゆく。並外れた体力と身体能力を備えている事実に関しては、疑う余地がない。

里中 睦( さとなか  あつし )

悠介の同窓生で個人の臨床心理クリニックを経営する。佐野家とは美穂の在名中より親しい交流を持ち続けている。学生時代に培われた純粋な理念と悠介との信頼関係を自身の宝としており、悠介に臨床治療の片腕を託してもいる。成未にとっては、心の内を明かせる大切な存在である。

明朗な印象で独特の愛嬌の豊かさが魅力だが、外見とは裏腹のこまやかで緻密な神経を持ち合わせている。

澤村 泰弘( さわむら やすひろ )

悠介らの母校に附属する大学病院の心療内科で治療にあたる若手医師。緻密な頭脳と臨床医師としての適性から、周囲に将来を嘱望されている。公にはされていないが、不幸な幼年期に他家へ養子に迎えられた生い立ちを持つ。

心療を目指したきっかけは自らが幼い頃に負い、癒えることのない心の傷痕にある。少年時代に奏法を学んだヴァイオリンを愛し、多忙な中に於いても一人奏でて過ごす時間を大切にしている。

津久井 慎司( つくい  しんじ )

佐野親娘が居住する地域を所轄する警察の刑事で巡査長。謎の男の身元や負傷した経緯などが究明されないままの現状に違和感が拭えず、真相を突きとめようとする。微塵な情報を見逃さない、物的な手掛かりに基づく公正な分析を規範とすべく自らを律する一方、現場の人間に対する直感的な印象や気付きにも重きを置く。真摯な責任感と誇りが、職務に取り組む信条である。学生時代より精進している空手道の段位は黒帯で三段。

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