第8話  カルミナ・ブラーナ

文字数 13,493文字

 六月の中旬を迎えて、いくぶん遅めの梅雨入りが前日に発表された。午後2時をまわり、雨足は徐々に強まる気配を見せはじめた。澤村はこの日、寿々の実家である調布市の井上家を訪れていた。
養父である 澤村 賢司の妹 響子が寿々の母で、三年前に既に他界している。夫の 井上 岳は大手医薬品メーカーを勤め上げた後、関連企業へ常任顧問として出向中である。自宅を二世帯住宅に改築し、次女家族とともに暮らしている。
「 先週、寿々に会ってきたよ。」
キッチンで紅茶の準備をしながら、井上はカウンター越しに話し掛けた。
「 食事が少し、すすまないようでしたが・・・ ?」
「 ああ。そう聞いたよ。」
リビングに流れ続けるショパンのピアノ曲が、外界の雨音と完璧な調和を醸している。岳氏は少年期にピアニストを志したひとで、音楽大学への進学を断念して以後も、生活の中心には音楽があった。寿々の音楽好きはおそらく父親の遺伝で、学びたい楽器を自分で選ばせた際、5才の彼女が選んだのがヴァイオリンであった。
「 今年は梅雨がおそいな。」
ティーポットとカップを乗せたトレーを手に、彼はリビングへと戻った。ソファの後ろの壁面には、愛用のアップライトピアノが使い込まれたウォルナットの重厚な光沢を湛えている。
「 あんまり家には戻らんか?」
差し向かう椅子に腰をおろすと、肘掛けに頬杖を突いて、彼は澤村の顔を見遣った。
「 ええー 。」
「 うちも、近くてもつい疎遠になりがちでね。」
腕時計を気にかけて、井上は紅茶葉のジャンピングを待っている。
「 近ごろ、自分も人並みに愚痴をこぼすようになったよ。」
その引き締まった目元に、彼は苦々しい微笑を浮かべてみせた。
「 響子が居てくれたら、寿々をあそこへ預けずとも可かったのにー とかな。」
「 叔父さん 」
「 うん?」
頃合いを見極め、カップの上で丁寧に茶葉をこしながら、彼は濃いめのアッサムを注いだ。
「 できるだけ早く、澤村の家から籍を抜きます。」
「 ほうー 。 それで、どうする ?」
ソーサーにカップを乗せて澤村へ手渡すと、彼は怪訝そうに尋ねた。
「 自宅を併設したクリニックを開業します。」
「 それで ー??」
「 心療も生活も、生涯、命に替えて責任を持ちます。」
膝まずくと、深々と首を垂れて額を床に擦りつけ、澤村は彼に懇願を乞うた。
「 どうか・・・ 寿々さんとの結婚を、お許し下さい。」
手にしたカップから一口含んでテーブルに戻すと、井上は立て膝で澤村の前に座った。
「 君が息子になってくれたら、と、何度思ったか知れない。」
背をさすってやりながら、穏やかな口調を崩さず彼は言葉を続けた。
「 お義兄さんに提案したことも、一回や二回じゃない。」
膝を揃えて坐したまま、ようやく澤村は顔を上げた。
「 満理ちゃんの事故が起きた時ね 」
澤村をいざない、ソファに並んで座ると、彼は澤村に紅茶を口にさせた。
「 その場に寿々が居合わせたことで、耳を疑うような誹謗も受けた。しかしね 」
「 ・・・・はい。」
テーブル横に置かれたドラセナの、よく成育した濃い緑の葉先を指でなぞると
「 いっそこの後、君をうちで養育させてほしい、と頭も下げたんだが 」
井上はソファから立ち上がり、ゆっくりとピアノの鍵盤蓋を開いた。
「 なにせ・・ 当時、君には医院を継がせる の一点張りだったからね。」
彼は、グリンカのノクターンを奏で始めた。短調の哀切な旋律が、紡ぎ出す人間の生命の温もりを伴って、室内の空気を情感の機微で満たしてゆく。
やがて途中で手を止め、ピアノ用のベンチに腰掛けて振り向くと
「 寿々はね ー とにかく君が可愛くて、かわいくてしょうがなかった。」
懐かし気に、父親らしい柔和な表情を浮かべた。
「 まあ、一つには・・・ 音楽に美しさを感じる者の性(さが)とでも言うのか 」
思い付くままの和音を幾つかでたらめに辿り、鍵盤を眺めたままで彼は呟いた。
「 この、美しい音を愛する者同士は響き合う、と言うのかな。寿々の気持ちは、僕にも通ずる処がある。」
視線を上げた井上は、深く情のこもった眼差しを澤村へ注いだ。
「 そうなんだが・・・ 泰弘くん。」
「 はい。」
「 寿々の壊れてしまった箇所は、おそらく、もう元通りにはなるまい。」
「 ・・・・ !」
零れ落ちる涙を厭わず、澤村は懸命に、顔を横に振って否んでみせた。
「 治せます、とー けして確約はできませんが 」
見つめる優しい顔立ちの上に、井上が目にして来た、少年期の折々の澤村の傷ましい姿が浮かんで重なった。
「 せめて、生涯、寿々さんの側に居させて下さい ー 」
硬く組み合わせた両手を眼前に掲げ、彼は再び井上に乞うた。
「 寿々さんだけが・・・ ! 僕が生きていることの意味なんですー 」
潤んだ眼差しを、雨の滴で濡れる窓ガラスへしばし向けてから、井上は静かに微笑して答えた。
「 それでは ー 君にまかせよう。 どうか、寿々のことを頼むよ。」

 翌週、療養所からさほど遠くない、鎌倉材木座の海岸線を見渡せるコテージの宿泊を手配して、澤村は寿々をともない訪れた。転院に備えてのリハビリテーションとの名目で外泊の許可を取り付けて日程を調整し、三日間の休暇を取った。今月中旬には、里中が経営する隣区のクリニックへ和智が転院する旨に関して、区役所から正式に認可が降りている。和智に絡んだ一連の不審な出来事の背景については所轄警察の警備部が調査中であり、念のため、休暇中の連絡先などを長橋巡査長へ事前に報らせて来ている。事件性が立証された場合、あるいは何らかの罪状で起訴される可能性も否めまい。むしろ自らの身上を法に委ねる事により、兄の背負う負荷を軽減できるとすれば、それは澤村にとって喜ばしい成果であった。もはや、失いたくないものは何一つ、彼に残されてはいなかったのである。
唯一ただ一つ、寿々が懸念なく、くつろいで過ごすことのできる居場所を手に入れる使命があった。仮に、彼女とともに居られなくなろうとも、自分が提供する環境の圏内に寿々の安全を確保しておきたかった。
「 お食事の材料は揃っている?」
なだらかな傾斜をうねらせる登りの路で、助手席に座った寿々が訊ねた。
「 心配ない。」
慎重にハンドルを操作しながら、澤村は優しく目配せをしてみせた。
「 充分用意して、後ろに積んであるよ。ワインもね。」
「 まあ。嬉しい。」
ありがとう と、久々に華やいだ笑みを、寿々は華奢な顎いに浮かべた。
「 なにか、美味しいものを作らせて頂きたいわ。」
コテージのフロア下に駐車スペースが設けられており、到着すると、澤村は食料類を次々とキッチンへ運び込んだ。フラットなリビングの二面が、日当たりの良いテラスへ通じて大きく採光されており、エントランスからロフトの寝室へと、らせん階段が緩やかに延びている。
「 明るくて、いいお部屋ね。」
各所の窓を開いて、寿々は新鮮な空気を室内に通わせた。梅雨の時期に特有の、しめやかに潤った大気が幾分、はるかに海洋の気配をはらんで感ぜられる。近辺に自生のクチナシが咲いているのか、甘くせつない濃厚な芳香が室内を満たし始めた。
「 いい香り・・・ きっと、クチナシね。」
テラス越しに遠景を臨みながら、左耳の後ろで束ねた髪をやや煩わしげに解くと、彼女は長い髪を微風に戯れさせた。花の香りを感じて瞼を閉じるその横顔を、ちょうど雲間に差し掛けた陽光が、薄っすらと逆光に浮かび上がらせた。
「 ・・・・・・ 」
カウンターでコーヒーの準備をしていた澤村は、今更ながらに、寿々の知的で優美な横顔に はっ と、心を奪われて手を止めた。
「 寿々さんは・・・ 綺麗だね。」
「 まあー ??」
彼女は親しみやすい笑顔で振り向いた。
「 私なんて、そんなことないわ。 亡くなったお母様は綺麗だったけれど。」
澤村が淹れたコーヒーのカップを受け取り、彼の頬に ありがとう のキスを優しく添えると
「 それに、もう年を取ってしまったのよ。」
寿々は外連味のない、いつもの口調で呟いた。

 昼食は、時間がすこし遅くなったせいもあり、手軽なアペリティフとサラダ、ブレッドをテラスのテーブルに並べることにした。ロゼのスパークリングをグラスに注いで、二人はゆったりと、デッキチェアで向かい合って乾杯をした。
「 すこし早いけれど、構わないわね。」
「 構わないさ。」
BGMの音源を寿々のリクエストから選び、澤村はあらかじめ用意して持参している。ヴィターリのシャコンヌが、流麗にして哀切極まりないヴァイオリンの繊細な響きを開放的な空間に滔々と紡ぎあげてゆく。
井上氏に懇願した通りに今後の生活ビジョンを説明した後で、澤村は上着から黒い小箱を取り出した。傍ら近くに跪いて彼女の左手を丁寧に両手で包むと
「 寿々さん。僕と結婚してください。」
美しく輝く白金の指輪を薬指に飾って、寿々の目を真摯に見つめた。
「 ・・・・・・ 」
先んじて澤村より贈られた指輪に重ねられた稀少な貴金属の輝きを、彼女はしばし、無言のまま見つめていたが
「 ありがとうー 泰弘さん。」
兄がこの世に一枚きりの守護と信じて手放さなかった、色褪せた挿し絵の美女の姿さながらに、寿々はその柔らかな乳房に澤村を抱き寄せて言った。
「 でもね、」
「 なに?」
優しく自分の髪を撫でる彼女の心音に乱れがないか、澤村は耳をそばだてている。
「 法律の手続きはしないでほしいの。」
「 どうして ??」
間近に顔を上げ、嶮しい表情で彼女の瞳を見上げた澤村の頬を、掌で辿りながら
「 貴方の傍に居られることが叶うなら、私は何より幸せだけれど ー 貴方はまだ若いわ。」
美しく潤んだ静かな眼差しを、寿々は注いでいる。
「 貴方の伴侶にもっとふさわしい、若くて健康で、お子さんを産んで育てられる方と、いずれきっと出逢うと思うの。」
「 ・・・・・ !?」
「 だからー 」
言葉を継ごうとするのを、かつて無く強引に抱きすくめ、澤村は唇を奪って彼女の言葉を封じた。
「 ・・・・ 」
そのまま、寿々のしなやかな身体を膝の上に抱き上げると
「 ー 承知してくれるまで、ここから離さないよ。」
やはり彼らしからぬ、低く強い口調で耳元に囁いた。そして、揃いの指輪を箱から取り出すと
「 さあ、誓わせて。 ー 永遠に、貴女だけを愛して護ることを。」
彼女の手を握って添えさせ、澤村は自らの指に飾った。
「 いいねー ?」
「 ・・・・・・・ 」
聡明な眼差しで澤村を仰ぎ見ると、寿々は透き通るように微笑んで、頷いてみせた。
「 私も、永遠に貴方だけを愛して、護るわ。」

 食事を終えて、 すこし休みたい と寿々が言った。澤村はリビングのソファにクッションとブランケットを整えて、寿々を慎重に抱き上げて運び、横たわらせた。食器の後片付けを済ませると、彼女を胸にいだき、自らもソファに身体を埋めた。片時すらも離れがたく、傍らに寄り添っていたかった。
遅い午後の時間はゆるやかに漂い、曇天越しであっても陽射しはあまねく注がれて、折にふれ、地上を思いがけない明るさで照らし出した。腕の中で、寿々は安心しきって仮眠している。長い睫毛に、差し込んだ六月の光がきらめいて縺れる様に、彼はつい落涙をして、息を一つゆっくりと吸い込んだ。艶やかな細い黒髪の一筋にいたるまで、この、聡明で感受性の秀れた年上のひとの存在のすべてが、狂おしく愛おしかった。
クチナシの香とともに、彼女が常用しているレール・デュ・タンのパルファムの瀟洒な香りが、しだいに澤村を優しく包み始めた。柔らかな寿々の身体の温もりが伝わる心地よさに、昨日までの心身の疲弊が徐々に滲み出す感覚を、彼は覚えた。彼女の寝顔をずっと見ていたかったが、知らず識らずのうちに、澤村は眠りに引き込まれていった。

   「 ー !!!」
9才の澤村少年は、反射的に顔を背けてしゃがみ込んだ。
 ゔゔゔー っっっ!!!
肚にひびく重厚な唸り声を発して、自分より体の大きな番犬が、彼を威嚇し続けている。裏庭の楡の大木の幹にロープで後ろ手に縛られて逃げることが出来ない。幼い口には助けを呼べぬよう、タオルできつく、猿ぐつわが嵌められている。
八月、盛夏の昼下がりであった。頭上では幾種類もの蝉たちが、短い命を謳歌して、盛んな鳴き声をそれぞれに競い合っている。真夏日の高温に晒され続けて、汗にまみれた少年の髪は雫を垂れた。額を伝う汗が目に沁みるが、拭う事すら叶わなかった。次の瞬間、番犬は容赦なく猛烈な咆哮をはじめた。鋭い牙を剥き出しにして、澤村めがけて飛び掛ろうと、繋がれた鎖を力の限りで張り詰めてくる。
「 ひぃっっ 」
彼は身体を小さくして目を閉じ、心の内で必死に、生き別れた兄に縋った。
( ともにいー たすけて!!)
" キイィィィーッッ。"
青々と繁った常緑樹の生け垣の向こうの街路に、自転車が急ブレーキをかけて止まる気配がした。葉を掻き分け、澤村家の敷地内を怪訝そうに覗き込んだのは、14才の 井上 寿々そのひとであった。
「 ウィリアム!?どうしたの。 静かに ー 」
番犬の名を呼び嗜めようとして、彼女は泰弘に気付いた。
「 ?! 泰くんっ ??」
医院の門を潜るのももどかしく、彼女は夢中でフェンスをよじ登って乗り越えた。着地時に足元を取られて右半身から転び落ちたが、厭いもせずに駆け寄ると、震える手で澤村を保護した。
「 なんて・・・ なんて事でしょう!」
ポケットから取り出した美しい花柄のハンカチで顔を拭いてやる寿々の瞳に、涙がきらめいて溢れた。
「 怖かったわね。可哀想にー 」
ここへ至るまでの経緯について、勘の良い少女はおおよそ察する事が出来てしまったのか、問いかける言葉をつぐんで、少年を細い腕(かいな)に優しく抱き締めた。
「 ? あ・・・・・。」
兄以外の人間の胸に生まれて初めて抱かれて、耳を充てて、心臓の鼓動の音を聴いた。清潔なリネンの素材からは心地好い太陽の匂いと、束ねられた彼女の長い髪からは、シャンプーのきれいな香りがした。
この刹那の記憶は、澤村という男の精神の核心に、永劫なる、神聖な瞬間として鮮烈に刻まれている。寿々はフレンチスリーブの純白のワンピースを着て、揃いの白いサンダルを素足に履いていた。介抱するうち衣服はみるみる泥にまみれて汚れたが彼女は意にも介さず、疲れ切った澤村をその背に負って、井上家に連れ帰った。ヴァイオリン教室への往復路の途中に澤村の医院宅があり、夏休み中のこの日も、たまたま自転車で通り掛かったのであった。
 この年の一月に近隣の新居へ転入し、頻繁というほどでは無いにせよ澤村家と親戚付き合いのある中で、寿々は早くから違和感を感じ取っていた。院長の賢司は入り婿として初代から医院を継いだ人物で、婦人の佳津子は澤村家の一人娘である。夫妻には娘ふたりの実子がいた。姉は由梨子と言って、この年11才、年子の妹は満理子と言い、彼女らは一卵性の双子のように過分に親密な姉妹であった。8年前に子宮内膜症を患い、治療の過程において佳津子は子宮の摘出を余儀なくされた。さらに5年前、賢司の愛人が非嫡出子を出産した事実が判明して、夫婦仲の亀裂は修復が不可能なものとなった。こちらの子も女児であった。佳津子は、娘らのいずれかが女医となって医院を継いだ将来に、晴れて離婚するというビジョンを賢司に宣言した。が、彼は頑なに同意を拒み続け、民放の改正に伴って行政における取組みが始まった、特別養子縁組制度に活路を見出そうとした。すなわち、養育した将来に医師として医院を後継させ得る適齢の男児を探し続けた果てに、泰弘にたどり着いた訳である。そして、妻子からの反発を強引に押し切る形で養子として迎え入れた。
母娘らの憎悪の矛先は、澤村家内の混み入った事情とは縁もゆかりも持ち合わせない、泰弘という未知の少年へと、顔を会わせるよりも以前から理不尽極まりなく向けられていたのである。
少女らは母親びいきであったから、佳津子が泰弘の存在を受け入れず、愛情を注がない以上、何の疑問も感じずに盲従して模倣した。宅内で出来るだけ顔を合わせないとか、家族の会話に混ぜずに無視するとか、それでも一年間ほどはその程度で収まっていた。しかし、泰弘がおとなしく素直で、学業に於いても並はずれて優秀である事実が明らかになるに連れ、姉たちの虐待は日増しに度を越していった。これを義母の佳津子は諌めないばかりか、むしろ間接的に、泰弘への嫌がらせを推奨する立場を取り続けた。義父の賢司は、むろん勘付いてはいた。しかしながら、母娘との関わりをもはや完全に放棄しており、火の粉が降りかかる度に愛人の元へ逃げ込んでは家を空けた。こうした経緯が、なお一層、幼い泰弘に対する筋違いな憎悪に苛烈な拍車を掛けたのである。
 両家の親交が始まって、寿々が最初に異変を察したのは三月、雛祭りの祝いの席に於いてであった。
敷地内の洋館一階奥の居間に豪華な雛段が飾られ、ケーキやフルーツ、和洋のオードブル、サンドウィッチ、ちらし寿司などがふんだんに設えられていた。泰弘の姿が見えないのが気になって、彼女は佳津子に問うた。
「 叔母さま、泰弘くんは?」
ソファでシャンパングラスを手に寛いでいた佳津子は、寿々の方を見遣るでもなく
「 あの子は昨日から風邪気味なの。誰かにうつすといけないでしょう?」
賢司の指示で、自室で休んでいるからお構いなく と、冷ややかに答えた。
「 ・・・・・ ?」
十にもならない、しかも他処から迎えた、産んだ実の親御が他にあるお子さんに対する言葉とは、到底信じられなかった。下卑た言い様をすれば、すでに生理が始まって、少女なりに気高い母性が芽を吹き初めていた寿々の魂の奥深くに、経験した事のない鋭い傷みが走るのを感じた。
傍らに居た母の響子が、寿々の手をそっと握って、それとなく目配せをしてみせた。大人たちの事情に通じてもいる彼女には、思春期の、とりわけ父親に似て繊細な、芸術家的な浪漫気質を備えた長女の動揺がつぶさに感知できたのであろう。
( ・・・ ここにはご馳走がたくさんあるのに。泰弘くんは、ちゃんと貰えるのかしら?)
居たたまれない想いは、清らかな少女の心に もくもく と暗雲を重く垂れ込めさせて、彼女は静かに部屋を後にした。外の空気が吸いたさに中庭へ出ると、水仙の強い香りが風に乗って ぱーっっ と馨った。その香をたどって眺めた先、花壇の片隅に、小さく膝を抱えてしゃがんだ少年の後ろ姿があった。彼は、冷たい風に揺れる水仙が並んだ前にいた。
「 寒くない?」
傍らにしゃがみながら、寿々は優しく声をかけて泰弘の髪を撫でようとした。 その時ー 無意識の体の動きで、彼はまだ小さな両手で頭をかばい、その場に蹲ったのである。
「 ・・・・・ ?!」
さながら、鋭利な切っ尖に心臓を貫かれた如くの衝撃であった。彼女は目眩を感じた。そして、生まれて初めて、心の底から悲しくなって涙があふれた。この華奢な子が、日常的にどのような仕打ちに曝されているのかー
あまりにも不憫で、怖ろしく、思い測る事すら忌まわしかった。
「 ー 泰くん、こんにちは。お熱ない? だいじょうぶ?」
懸命に涙を堪えつつ、寿々は少年の肩を抱き寄せて寄り添った。半ズボンの膝が冷え切っている。羽織っていたニットのカーディガンを掛けると、
「 良い香りね。泰くんお花が好き?」
泰弘の素直で細い髪を、優しく撫でつけた。
「 ・・・ あの、」
「 なあに?」
俯いて口ごもりながら、やがて言葉を慎重に探しあてると、彼は続けた。
「 ちょうちょがね、飛んでたの。」
「 まあ。そうだったの。」
「 ともにいと一緒に、ちょうちょ見るのが好きだったから。」
少年の色白な額に頬をそっと寄せて、寿々は尋ねた。
「 お兄さんは、いま何処にいらっしゃるの?」
「 北海道の、敬愛の家 ー」
ここで突然、慌ただしい足音が中庭に響いたと思うと
「 寿々ちゃんー!!」
二人を見咎めた佳寿子が、険しい表情を露わにして甲高い声を発した。
「 あなた余計だわ!その子を甘やかさないで頂戴!!」
「 ・・・・・・?!」
我知らず、泰弘を背後にかばった少女を見降ろして、佳津子は容赦なく叱責を放った。
「 男なのよ? ーいずれは、この医院を継ぐ医者になるんですから!」
反射的に駆け去ろうとする泰弘の手をとっさに握ると、怯え切った眼を覗き込んで、寿々は優しく微笑んでみせた。
「 泰くん、またお話ししましょうね。」

 そして、翌年の七月に、恐るべき戦慄の分岐点は訪れた。
この年の新学期を機に、寿々が週末ごとに井上家へ泰弘を招いてヴァイオリンの個人レッスンを始めていた。美しい音楽が心の治療に効果をもたらすと聞き、幾らかなりとも泰弘の支えになれれば、と心を砕いた末の決断であった。妹が幼いころ、共に習い始めて結局続かず、使っていないヴァイオリンを彼の練習用に譲った。本当はもっとよい楽器を用意して持たせたかったが、澤村家の手前、不本意ながら当面は見送ることとした。泰弘は利発で、音楽の成績も優れていたので、始めるのにやや遅くとも、まだ間に合うに違いない と寿々は直感していた。何よりも、せめて1分でも長く、彼を井上の家で安全に保護できる障りのない大義名分が欲しかったのである。
一学期の終業式を終えて帰宅した泰弘は、その足で二階奥にあてがわれている自室へ向かった。学校が終わったら直ぐに、ヴァイオリンを持って井上家を訪れる約束を寿々と交していた。和やかに昼食を取れるように、との彼女の配慮であった。ところが部屋に入ると、泰弘は忌むべき数々の過去の経験から、不吉な予感を敏感に察知して辺りを見回した。教科書と共に、勉強机の上に並んでいるはずのヴァイオリンが消えている。
「 ・・・?!」
「 ヴァイオリンなら、預かってるわよ。」
腕組みをした長女の由梨子が、背後に立って見降ろしていた。体格がよく、中学生の寿々よりも背が高かった。
「 返して欲しかったら、裏の御蔵へ行きなさい。」
蔵 と耳にしただけで、泰弘は恐怖で体の芯が震えた。澤村家は、家系をたどれば遠く戦国時代まで遡る事のできる旧家で、受け継がれて来た宝物や古民具を保管した土蔵を、医院の真裏に保持していた。壁の造りが厚く人目に付きにくい上に、重々しく湿って淀んだ空気と古めかしい所蔵品の醸す不気味さは、少年をいたぶる演出に最適であった。誰にも知られる事なく、泰弘は事あるごとに此処へ連れ込まれ、姉妹から陰湿極まる虐待を受けていたのであるー しかし、ヴァイオリンだけは必ず取り戻さなくてはならなかった。
破裂しそうに心臓が乱れ打つのを、懸命に唇を噛みしめて耐えながら、ねっとりした湿度が肌に絡みつく薄暗い蔵の中へ、恐るおそる足を踏み入れた。
「 梯子をあがって来なさい!」
吹き抜けの中二階になっている屋根裏から、次女の満理子が疳高く叫んだ。
「 ・・・・・・・ 」
何度も改築を重ねて来たらしい土蔵は老朽化が著しく、木製の梯子も、朽ち果てたり木組みが外れてしまっている箇所が多い。聡明な少年は、精一杯の勇気をふるって、慎重に段を登った。
敵将の首を打ち獲ったかの傲慢さで、満理子が左手にヴァイオリンを、右手には蔵で見つけたものか途轍もなく大きく重そうな木槌を携え、ほくそ笑んで胡座を掻いていた。
「 これを返して欲しいんなら 」
ヴァイオリンをぶら下げてみせながら、彼女は言い放った。
「 今すぐ、うちから出て行きなさいよ!」
梯子を軋らせて、由梨子が登って来た。
「 とっとと出て行け! あんたなんかー 」
前後を姉妹に囲まれた形で、泰弘に逃げ場は無い。両手でようやく持ち上げた大木槌を、満理子は目の前に置いたヴァイオリンの上に振りかざした。
「 三つ数えるうちに 解りました。出て行きます って言わないと、叩き潰す!!」
「 いっ、いやだー !」
彼は泣いて叫ぶと、四つ這いの姿勢のままでにじり寄った。
「 寿々さんに取り入ってさ、嫌らしいったら!!」
「 あんたがヴァイオリン習うなんて、身の程知らずなのよ。」
「 ・・・・・・・ 」
「 寿々さんはね、有名な会社の重役のお嬢様なんだからね!」
「 あんたみたいな孤児とは、住む世界が違うのよ!」
あまたの理不尽な悪意と暴力に曝される中で、幼い少年なりに、自分がここで不都合を起こすと遠くにいる兄に迷惑が及ぶのではないか との気遣いをするばかりに、すべてを耐え忍んで来た。それが、ヴァイオリンを人質に取られた上に、遂に寿々にまで姉妹が良い及んだ。とうに極限を超えていた彼の忍耐の綱が、脳内に鮮やかな谺(こだま)を響かせて、この瞬間に ぶっつり 裂けて飛び散った。
「 ー 返せえっっっ !!」
頭から満理子に飛びついて、ヴァイオリンを奪い取ろうとした。不意を突かれ、彼女は後ろへ倒れた。埃まみれの板敷きの上で、烈しくもみ合いになった。
「 あんたなんかー! 死ねばいいのよっ!!」
加勢に割り込んだ由梨子が、恐るべき事に、木槌を彼の顔面めがけて振り降ろした。咄嗟の体の反応で目を閉じて交わし、かろうじて直撃は免れたものの、左頭部に強烈な衝撃を覚えた。頭の中心が、多方向へ大きく揺らいだ。
「 このぉぉっっ!!」
怒り狂って体のバランスを崩した彼女の手元から、泰弘は渾身の力を込めて、木槌を下階へ蹴り落とした。
「 死ねっっ!!!」
悔し紛れに尋常でない腕力で泰弘の両足を掴むと、由梨子は猛烈に引っ張り始めた。どうあってもヴァイオリンを離さない満理子の手首に、自分でも信じられぬほど漲る憎悪の加勢を得て、泰弘は力の限りに噛み付いた。
「 痛あっっ!!」
さすがに怯んだ満里子の手から奪い返したヴァイオリンを胸に抱き締めた、その時である。
「 あなたたち、何をしてるの?!」
寿々の良く通る声が、気高く響いた。
由梨子は大きく舌打ちをして、老朽して反り返っている手摺の箇所へと泰弘を性急に追い詰めた。異常な負荷が掛かって、手摺の一部はいとも脆く、階下へ崩れ落ちた。
「 止めなさいっっっ!!」
懸命に梯子を登る寿々を後目に、由梨子は泰弘の体を押し続けている。右手にヴァイオリンを抱き、左手で、残されている手摺に彼は必死に縋った。噛み付かれた手首を庇いながら、ふらふら立ち上がると
「 よくもー! よくも、やったわねっっ!!」
手摺を掴む泰弘の手を、満理子は厚底のスニーカーの靴底で踏み付け始めた。すでに泰弘の上半身は、ほぼ宙に押し出されてしまっている。
「 落ちろ! 落ちろっっ!!!」
あまりの激痛と、頭部に受けた損傷による出血でしだいに意識が遠のき掛けた刹那、寿々が由梨子を後方へ押し退け、泰弘の体をヴァイオリンごと強く抱き寄せて保護した。
 ギシギシイィィーーー
不気味な音を響かせつつ、満里子の足元がゆっくりと外側へ傾いだ、と思うや
「 えっー?!」
彼女と共に、屋根裏部屋の床の半分ほどが一斉に落下した。大量の木片がなだれ落ちる轟音に混じり、なにか重く鈍い音が聞こえた。梯子越しに階下を見降ろした由梨子が、狂気を孕んだ金切り声をあげた。
家宝として安置されてある、武者の等身大の甲冑兜が携えた袋槍の切っ尖が、錆び付いているとは言え、落下した満里子の腹部を背中から貫いたのであるー
救急搬送されたが、その日のうちに、満里子は11才で絶命した。
 この稀有にして特異な事故についての事後処理は司法と法律の取り沙汰する範疇となり、以降、長い年月にわたり井上家までも巻き込んで泥沼化した。
( 時系列のみを辿るならば、寿々は中学校を転校した後に音楽大学付属の高校へ進学した。音楽科の教員を目指そうとしたが、陰惨な事故が精神に遺したトラウマを克服できず、断念せざるを得なくなり大学を中退した。彼女の心を救いたい その一大命題のみが、しだいに澤村自身の存在理由となっていった。
高校以降の進路決定を控え、彼は心療の専門医を目指す道を選んだ。むろん、養父の賢司からは拒絶と壮絶な罵りを受けた。しかし、奨学金制度を利用して修学する事、大学合格以後に澤村家の養育を外れ、自立して生活する事を条件に、どうにか折り合いを取り付けた。家を出て5年後、長女の由梨子が内科医の婿養子を迎えて二代で診療を行っていたが、賢司は昨年引退し、院長を次代へ後継した。)


「 ・・・・うぅっー」
落ち込んだ深い眠りの中で、異様に現実感を伴った息苦しさに澤村は悶えていた。目を開こうと必死にもがくが、全身が微動だにも動かせない。
ゴポ・・・ ゴポッッ ゴポッッ
張り詰めた聴覚が、水泡の沸き立つ音を感知した。 此処は水の中なのかー ?! 緊張と恐怖が極限に達した時、不意に両目が開いた。
「 ー !!!」
透明な水面越しに、澤村の首を両手で締め付けている養母の佳津子の顔が視界に飛び込んで来た。そこに映し出されたのは、もはや人間の顔では無かった。目尻がこめかみへ吊り上り、瞳は煌煌と紅蓮に輝いて、唇が大きく頬骨まで裂けている。
「 この、人殺しっっ!!!」
澤村の緊縛は解けない。
「 お前のせいで満里子は死んだんだ! お前が殺したんだっっ!!!」
鎖骨のはざま、澤村の頸窩にあてがった指に、鬼女は抗い難い猛烈な圧力を加え始めた。
「 ・・・・・・・ 」
10才のあの日、死を意識した瞬間の記憶が、時空を超えて生々しく甦ると、 ふうっっ と意識が遠のいた。
「 止めてくださいっ!!」
「 ??・・・・・ 」
「 叔母さまっっ!!」
たしかに、寿々の声であった。
「 わたしを呪いなさいっ! この人には触れさせません!!」
途端に澤村を支配していた重圧は解かれ、懐かしい寿々の腕が上体を抱き起こした。反射的に息を吸い込んだが、彼は息苦しさに噎せ返った。寿々は、テーブルに用意されていたミネラルウオーターをひと口含んだ。そして優しく、澤村の唇に手を添えると、すこし尖らせた上唇で触れてみせて、飲ませる合図をした。
「 ・・・・・・・ 」
親鳥が巧みに、その嘴から雛鳥の口へと生きる糧を補うかのごとく、彼女は上手に呼吸を合わせて水を口移した。緩やかに注がれる冷水が、心地よく澤村の五感に浸透してゆく。徐々に戻って来る神経の機能が、二人で過ごす刻を手に入れた六月の、薄曇りの遅い午後の続きである事を認知し始めた。
「 いまー 僕の悪夢の中に、助けに来てくれた?」
膝の上で、澤村の額に滲んだ汗を拭いてくれる寿々に、未だ夢見心地のまま、彼はぼんやり尋ねた。頭の芯が、覚醒しきっていない。微笑んで頷いてみせると
「 わたしの魂はいつも、貴方と一緒にいるからー 」
彼女は、額の傷痕へ そっと唇を押し当てた。
「 ・・・・・・・ 」
しばし彼は、放心したように動かなかったが、 やがて はらはら と、無様に止め処なく落涙した。あまりに強烈な憎悪と悪意の残像に耐えかね、思いがけない弱音が、無防備に口をついて転がり出た。
「 あの時ー 手を放して僕が先に落ちれば良かった と、今でも思うんだ。」
彼の頬を拭いながら、寿々は真摯に見詰めている。
「 死んだのが僕なら、澤村では都合が良かったし 」
両手で頭を抱え込み、彼は慟哭に身体を震わせた。
「 寿々さんの人生を台無しにせずに済んだ・・・ 」
コレッリのソナタ ラ・フォリアが始まった。変化に富んだ曲調が、格調高くかつ激しく、三拍子の調べを優雅に奏でてゆく。
「 あんな逆境から、こんなに立派なお医者様になって 」
澤村の肩に寄り添うと、震えている髪に、寿々は頬ずりをした。
「 本当に、よく努力なさった ー 」
彼の頭上で、パルファムとともに甘やかな皮膚の香りが漂った。
「 ・・・・ ?」
顔を上げた澤村の眼前に、上半身の衣服をすべて脱ぎ棄てた、寿々の真白な裸身が露わに晒されていた。
「 ー !!」
思わず抱き寄せた澤村の瞳を覗き込み
「 わたしの魂も、この肉体も、貴方を護って愛するために、生を受けたの。」
再び零れ落ちる彼の涙を拭ってやりながら、寿々は毅然とした口調で願いを告げた。
「 だから、どうか泰弘さんは生きて。 生きて、わたしも生かして。」
「 寿々さん ・・・!」
彼女の、肌理の美しい柔らかな白い膚に、澤村は深く顔を埋めた。













































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登場人物紹介

水樹 史也( みずき ふみや)

広告制作会社勤務のイラストレーター。26才。心療内科カウンセラー 佐野 悠介との出逢いがきっかけとなり、かつて深刻であった精神状態から快方へ導かれて以来、悠介へ深い信頼を寄せている。

並外れて繊細な神経に恵まれた一方で、一般的な常識にとらわれない大胆な行動力をも兼ね備えている。

佐野家隣家の牡猫コタロウ( 水樹は一方的にヴァンプと呼ぶ )は親友である。

コタロウ

佐野親娘が暮らすマンションの隣人・黒田さんが飼っている去勢済の牡猫。

遠出はしないが、何故か佐野家へだけはベランダを器用に伝って頻繁に訪ねて来る。穏やかで人なつこい性格で、ツンデレのツン要素はあまり持ち併せていないらしい。

大柄な水樹 史也が繰り広げるスキンシップを実のところは迷惑に感じている、かどうかは不明である。

佐野 成未( さの なるみ )

大手通信販売会社に勤務する27才。きょうだいは無く、臨床心理士の父・悠介と二人暮らし。

十代で母を亡くしたせいもあってか、日常の生活者として揺るぎのない堅実さを備えたしっかり者である。

職場の同僚で後輩にあたる 中村 宏太 に異性として好意を感じているが、適当な距離から見守っていたいとひそかに願っている。

亡くなった母の実姉で、関西在住の叔母・川瀬 愛子 の無敵な明るさも好き。


佐野 悠介( さの  ゆうすけ )

臨床心理士を務める成未の父親。ある意味、純粋な少年時代のひたむきな向学心を持ち続けている。生来の気質としては朗らかで、性善説を信念とする。豪放と呼んでも可いマイペースと他人の反応をあまり意に介さない爽やかさが、弱点でもあり強みでもある。早世した妻の美穂をこよなく愛し、誰よりも傷みを背負っているが、忘れ形見の成未にも敢えて語った事はない。彼の血の通い合った心療の姿勢が、苦しむ者の拠り所となる。

中村 宏太( なかむら  こうた )

成未の後輩にあたる同僚の青年。人間関係に於ける周旋などに、ややもすれば誤解を招くほど不器用な誠実さと真面目さが長所とも謂える。その一本気さゆえ逆境に弱そうに見られがちであるが、外見とは裏腹の不屈な意志の勁さを秘めてもいる。誰にも明かさないが、片親の家庭に育ち自身の努力によって現職を掴んだ不遇な経歴こそが、未来を生きる糧となるという誇りと信念を強く抱く。

その一方、他人知れず成未に対する深い愛情を日々確かめてもいる。


記憶を持たない謎の男

事故なのか、傷害の被害者であるのか、瀕死の重傷を負って忽然と現れ、救急病院へ収容される。

怪我の後遺症によるものなのか、彼の「記憶」には深刻な混沌が生じていた。

唯一の所持品である色褪せた挿絵らしい紙の切れ端と、彼の脳内から無作為に出現するワードを手掛かりに、悠介と里中は心療にあたろうとする。

ところが正体不明者が次々と現れ、彼の身辺はしだいに不条理な危険に晒されてゆく。並外れた体力と身体能力を備えている事実に関しては、疑う余地がない。

里中 睦( さとなか  あつし )

悠介の同窓生で個人の臨床心理クリニックを経営する。佐野家とは美穂の在名中より親しい交流を持ち続けている。学生時代に培われた純粋な理念と悠介との信頼関係を自身の宝としており、悠介に臨床治療の片腕を託してもいる。成未にとっては、心の内を明かせる大切な存在である。

明朗な印象で独特の愛嬌の豊かさが魅力だが、外見とは裏腹のこまやかで緻密な神経を持ち合わせている。

澤村 泰弘( さわむら やすひろ )

悠介らの母校に附属する大学病院の心療内科で治療にあたる若手医師。緻密な頭脳と臨床医師としての適性から、周囲に将来を嘱望されている。公にはされていないが、不幸な幼年期に他家へ養子に迎えられた生い立ちを持つ。

心療を目指したきっかけは自らが幼い頃に負い、癒えることのない心の傷痕にある。少年時代に奏法を学んだヴァイオリンを愛し、多忙な中に於いても一人奏でて過ごす時間を大切にしている。

津久井 慎司( つくい  しんじ )

佐野親娘が居住する地域を所轄する警察の刑事で巡査長。謎の男の身元や負傷した経緯などが究明されないままの現状に違和感が拭えず、真相を突きとめようとする。微塵な情報を見逃さない、物的な手掛かりに基づく公正な分析を規範とすべく自らを律する一方、現場の人間に対する直感的な印象や気付きにも重きを置く。真摯な責任感と誇りが、職務に取り組む信条である。学生時代より精進している空手道の段位は黒帯で三段。

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