第10話   愛 別

文字数 12,444文字

 ダイニングテーブルで差し向かうと、村山が主導する形で悠介への聴取が始められた。主に、牧野と澤村との関わり合い方の経緯について、時系列に添っての詳細な確認を彼らは試みた。
 牧野さんは、医師として特に貴方を信頼しているようですがー
具体的な質問を踏み込もうとした村山の眼前を、 不意に ふわーっっ と横切った何かがある。
「 お?・・・ 」
何処からともなくキッチンを訪れ、フロアから椅子経由でテーブル上に登場した、コタロウであった。
「 ・・・・・・・・ 」
さも福々しい長毛を蓄え、その 'がたい' の良さと削ぐわぬ温厚モードをお構いなしに振りまく猫の挙動を、緊張感を漲らせた表情のままで、やむなく三人の男たちは見守った。やがて何故なのか、馴れているはずの悠介ではなく、少なくともこの場に在っては最も強面の津久井を選んで、コタロウは丸々と膝に座ったのである。
「 ??? ー 。」
謹直な村山もいささか、表情がほころぶのを戒めるのに苦心しつつ、聴取上は不必要な確認をした。
「 こちらはー お宅で飼われてるペットなんですね?」
無碍に退かすことも憚られて、思いのほか困惑している津久井の膝の上で、コタロウはしみじみ喉を鳴らしながら綺麗な箱型に納まった。
「 いえー うちでは無くお隣りの飼い猫で、ベランダ伝いによく遊びに来てくれます。」
「 ・・・・・。」
膝の上の不思議な生物に気を削がれながらも、津久井は真顔を引き締め、澤村について確認した。
「 澤村さんが警察へ来られる以前に、相談を受けたり、不審に感じた事はありましたか ?」
「 いいえ。ありません。」
手帳に綴った情報の内容を目視で確かめていた村山が、改めて質問を投げ掛けた。
「 佐野さん。立ち入るようで恐縮ですが、」
「 はい。」
「 転院や区役所への福祉申請まで、非常に親身な世話をされるのは何故なんでしょう?」
「 ・・・・・・・ 」
今しがた、鉄拳制裁とともに水樹が吐いた 尤もな台詞が、脳内のあちこちに反響してリフレインを繰り返している。 何故 と問われて、 悠介自身も さて、何故?なんだろうー ?? と、他人事めいて腕組みするくらいしか、的確な返答を思い付かないのである。
「 そうですねー 。 澤村くんや恩師の向井教授から協力を求められたのが、きっかけでしたが 」
メモを取りたいのだが、津久井の左手を前足の肉球でしっかりとホールドし、コタロウが “ すぴぃー すぴぃぃぃ “ と、間隔の短い寝息を立てて熟睡してしまっている。やむなく右肘で手帳を押さえると、彼はペンを走らせた。
「 牧野くんと遭った時に、一般的ではない、深刻な背景を抱えているらしい直感はありました。」
「 そうですか。」
伝えたい心情にふさわしい言葉さがしに苦戦する様子の悠介を、村山は興味深げに見守った。
「 お恥ずかしい話、僕は・・・ 妻に先立たれた大きな喪失感を、10年以上埋められずにいます。」
背もたれに身体を預けて姿勢を崩し気味にすると、
「 自分と通ずる心の傷みを、彼の中に感じました。
埋めようのない虚無を抱えたまま、生き永らえる苦しみをー 」
思慮をめぐらせる際の癖で、悠介は前髪を掻き上げながら宙に視線をあそばせた。
「 特異なケースであるならば、其れなりの覚悟で、最後まで責任を持って診療にあたる肚を括りました。」
おおよそは、そんなところですー その口端に自嘲的な微笑を添えて、彼は村山と津久井を見遣った。
実はこの折、悠介の混乱の重量度を ぐん と増さざるを得ない、鮮烈な記憶が脳裏を過ぎっていた。クリニック近くの河川敷で出逢った、麗人の件である。偶然を装わねば牧野に遭遇し得ないー やはり尋常でない、込み入った何らかを孕んでのことに違いあるまい。
人一倍ウソが苦手な悠介が、 “刑事へ報告すべき” と責める心中の葛藤を見破られぬよう、懸命に装い続けた。牧野のためには、あの女性について誰にも知られてはならない ー 何故か、そんな想いを強く感じていた。何よりも、彼女が滔々と歌った、あの謎めいた唄があまりにも哀しく、美し過ぎた。例えるならば、物質や重力をも超越した次元で、悠介の魂魄が烈しく揺さぶられたのであった。あの唄声と哀惜ただよう姿を、忘れることが出来ない。
「 状況が変わって、牧野さんの精神状態に変化は見られますか?」
「 混濁などの過覚醒や、不安、鬱の発症は、現状は抑えられています。 しかし 」
所在なさげにテーブルの上で両手の指を組み合わせると
「 PTSD(心的外傷後ストレス障害)にともなう、膨大な期間の健忘や、深刻な現実感欠落の回復には、おそらく長い時間を要するでしょう。」
クリニックの窓から、空のかなたを仰ぎ観ていた牧野の横顔を思い浮かべつつ、悠介は自身の分析を述べた。
「 ー 別件の確認になりますが 」
村山は、やや遠慮がちに、視線を気持ち後方に動かして指し示した。
「 ?? ーなんでしょう。」
「 婚約者の水樹さんは、こちらで既に同居されてるんでしょうか?」
「 ・・・・ は?」
水樹の豹変ほどでないにせよ、悠介の顔色から、あからさまに血の気が引く様を刑事たちは目の当たりにした。良い加減の補足を付け加えようと、にわかに津久井は脳内で言葉を探したが、どうにも膝上と左手の勝手が良くなく閃かない。
「 彼はー 過去に受け持ったクライエントで、謂わば僕の友人です。 娘とは関係ありません。」
「 最初にこちらへ着いた者が確認した際、 水樹さんご本人から説明があったものですからー 」
どうやら、悠介の疲労と混迷もここへ来て極まった感があった。
「 彼が、自分で婚約者だとー ??」
ところが、である。水樹の口走った言葉尻をとやかくあげつらっては居られぬ未知なる戦慄が、満を持して、出現の刻を迎えていた。
緊急の無線連絡を受けた警官が、慌ただしく報告に駆け付けた。村山と津久井の背後に立て膝の姿勢を取ると、彼は声を低く、要件を伝えた。聞き終えた二名は、視線を落としたままで幾つかの言葉を交わした後、振り向いて悠介を見返った。
「 ・・・・・ 」
元来、下がり気味の目尻が優しい印象の顔立ちである村山が、表情を険しく曇らせて告げた。
「 ー 佐野さん。 お知らせする情報を、内密に願いたいのですが 」
「 ー ?? はい。」
牧野の病室に仕掛けられていた盗聴器の件など、一連の関わりが疑われ、失踪中であった看護師の新城が遺体で発見された、との急報であった。
本日の早朝 ー 静岡県内 山岳深部の峻烈な岩盤渓谷に架けられた吊り橋の下に、倒れている女性の姿を登山者が発見して通報した。地元の管轄署で調べたところ、所持品は未だ発見されていないが、被害者着衣のシャツポケットに綾嶺大学病院の看護職員証のみが遺されていたのだと云う。
「 遺体は複数箇所に打撲、骨折などが見られる他、頸部に圧迫痕が認められる事から、絞殺による他殺の可能性が考えられています。正確な死因の断定については、司法解剖を・・ 」
不意に、室内に大きな音と振動が伝わった。一斉に見遣ると、ダイニングの後方、三人掛けのソファの横に水樹が倒れている。
「 ー 大丈夫ですか?! どこかぶつけました?」
「 ・・・・・・・ 」
村山の報告を耳にしていて、突発的な眩暈に襲われたらしい。水樹の傍らに寄って屈むと、即座に起き上がろうとするのを掌で制してみせ、村山は目を覗き込んだ。茫然と天井に焦点を合わせている水樹の瞳に、充血や瞳孔の異変は見られなかった。
「 あー ・・・・ 」
横たわったまま疲れ切った表情で、身体に不具合を感ずる箇所をしばらく確かめていたのが
「 !! 刑事さんっっ !」
巻き終えたゼンマイ仕掛けがかからず動かなかった玩具が不意を突いて飛び跳ねるごとく、起き上がりざま村山の上着の襟元を、震える両手で掴んだ。
「 ー 先ずは、落ち着いてください。」
不動の村山は沈着な声で促したが、水樹が応ずることは難しそうであった。
「 病院の関係者がー 女の人が行方不明になって、殺されたってことなんですよね!?」
「 ・・・・・・・・ 」
「 まじで・・・ そんなヤバい誰かに狙われてるんですか???」
すでに膝と一体化した物体と化しているコタロウを、 そおっっ と両手で降ろして悠介に託すと、津久井は村山に並んだ。
「 本庁のリストに挙がっている、とある思想団体の重要な主催者が裏で関わっている疑いがあり、別の担当課で確認中です。」
「 ?? ー なんか、よく解りませんけど 」
胸の前で膝を抱え込むと、水樹は前髪を乱暴に くしゃくしゃ しながら、絶望的な眼差しを向けた。
「 どうしたら、成未さんをこれ以上危険な目に遭わせずに守れるのか、それを教えてください。」
「 ・・・・ 」
刑事らは束の間、視線を上げずに黙し合ったが
「 この後の捜査方針は、会議後の決定になりますが ー 」
居住まいを改めると、共にゆっくり立ち上がった。
「 とりあえず今夜は、この部屋の周囲に見張りを付けます。」
「 ・・・それで、明日になったら??」
水樹は、暗く鋭い視線をぶつけた。
「 改めて、捜査を担当する者がこちらへ伺って報告と説明を行います。」
緊急招集を受けましたので、我々は失礼しますが、何かありましたら署までご連絡くださいー

未だ作業中である他の捜査官たちに声をかけ、悠介と水樹に捜査協力への謝辞と成未への見舞いを伝えると、二名は思い切って第一現場を後にした。


 この日の作業を終え、捜査官たちが最終的に退室した時には既に23時を廻っていた。破壊されたベランダサッシには仮設の防犯装置を設してあるため、明日の現場検証まで触れないこと、各窓の施錠を就寝前に確実に確認することを告げ、彼らは帰署していった。
コタロウを隣家へ送り届けると、水樹は成未に食べさせる夜食を作り始めた。冷蔵庫内のストックからメニューをチーズリゾット的なものに決めると、手際よく調理に取り掛かった。背後のテーブルでオンザロックのグラスにウイスキーを注いだ悠介の右手を掌で制し
「 あした朝一で、成未さんの勤め先に必ず電話してくださいねー? いつ復帰できるか判らないって 」
鍋の火加減を気にしながら、水樹は念を押した。
「 ーそうだな ・・そうするよ。」
視線をそらせたまま水樹の手を退けると、悠介は低く呟いて返した。
「 ・・・・・・・ 」
ようやく浴室へ出向いた成未がシャワーを終え身繕いを済ませるのを、準備をすすめながら、水樹は見計らっている。この場でいま口を開いたところで、差し当たり今夜は、悠介と有意義な会話は到底 成立させられまい。
トレイを手に成未の部屋を訪れると、ベッドに横たわった彼女は辿々しい手つきでスマートフォンを操作していた。
「 ・・・・・!? 」
反射的に水樹は、この物質的な独占欲の希薄な、少なくともそうあろうと心掛けている青年にしては珍しく、心身の根幹にバーナーの炎を着火されたほどの激しい嫉妬心に駆られた。
彼女が通話以外の方法で会話している場合、実際の事実以上に、相手は同僚の異性に違いない、という妄想めいた懸念が、彼の心の深層で反覆され過ぎて来てしまっていた。この瞬間に限れば、彼の精神が疲弊を極めていたという、無理からざる要因もあったには違いない。
テーブルにトレイを置くと、 彼は ぞんざいに胡座を組んで座った。そして呼吸を整え、自分を落ち着かせようとする健気な努力を試みた。背後で、成未が体を起こす気配がする。
携帯をベッドサイドのスタンドに置いた横顔を眼で追った時、やりきれない憂いが、俄かに彼の心を霧雨で湿らせはじめる気配がした。また一方に在っては、若年に不相応な沈着な理性が、とにかく 先ずは食料を補充してからの話だ、と促しもした。水樹の傍らに座ると、
 とりあえずショートメールで、人事の先輩には報告しておいた
という報告を、未だ覚束ない口振りでもって彼女は水樹に伝えた。
" 恋は盲目 " とは、つくづく見事に的を射た例えであるものだ。成未の言葉を聞くにつけ、
従業員の義務として報告は終わらせたよ、という内容のはずが、彼の耳には
中村にメールしていた。本当は通話で彼の声を聞きたいのだけどー と、痛々しい ' 横恋慕 ' 変換 が施されてしまうのであった。
「 ー リゾット作りましたよ。冷めないうちに頂きましょう。」
水樹は努めて、食事を摂る行為に意識を集中すべくカトラリーを手にした。成未は素直に頷いて、両手を合わせて 頂きます をした。口に運んでみて、驚いた。いかにも男子らしいシンプルな調理なのだが、塩やスパイスなどの味付けがちょうど良い加減で、自然に食欲をそそってくれた。
( すごく美味しいよー )
もはや理由もわからず、止め処なく溢れて落ちる涙をティッシュで拭いつつ、成未は伝えた。
「 むかしー 故郷(くに)で親を困らせてた頃、姉ちゃんがよく夜食つくってくれたんす。」
上京以前の身上の話題について、めずらしく触れると
「 親はもう結構、俺のことは見限ってたんですけど 」
くすっっ と、彼は照れ臭げに小さな自嘲の苦笑を漏らした。
「 姉ちゃんが、よく飽きもせんと世話焼いてくれました。」
少年の頃、姉だけには見せていた「弟」の顔なのか、 無邪気で幼さの名残りも交じる意外な表情を、彼はふと浮かべて見せた。
もう日付が変わるから、休んでくださいねー と、 空になった二つのボウルを重ねた水樹の掌を、成未はひどく思い詰めた眼差しで強く留めた。そして、懸命に首を左右に振った。さながら、北極か南極で置き去りにされんとする救助犬が、同行を訴えて懸命に観測隊員を見上げる、瞳の哀切さであっただろう。
「 ・・・・・・・・ 」
水樹としては、夜じゅう、寝ずの番ほどの真剣な覚悟で、リビングのソファで仮眠を取るつもりでいた訳である。観念した面持ちでトレイを床に置くと、長い足を小さく折りたたみ彼女の正面に屈み込んだ。そうして、 つくづく と成未の顔を眺めた。

ふたつ年上で ー とても賢く勇気があって、そのくせ昨今の女子小中学生より遙かに無垢で無防備な、反則的に可愛らしい、この 堪らなく愛しいひとは ・・・・
なぜ、一体どこまで、
恋心の いたい箇所を 生かさず殺さず、 絶妙な距離感で じりじり 責め続けるつもりなのだろう?

「愛憎」の「憎」めいた刺々しい感情が、身体の何処か深淵で鋭く放った暗い閃きを、彼は見た。もう一層の事、である。成未の了解云々は度外視してでも、この場で今すぐ彼女の肉体を制してしまおうかー
焼け付く火ゴテで自ら神経中枢を炙るかの、凶暴で自傷的な衝動が、刹那、彼を烈しく揺さぶって苛んだ。
( 水樹くん ー お願い。そばにいて。)
かすれる声を絞って訴える成未の瞳が、最大限のレベルで懇願を示している。その額に優しくキスをして
「 ー いますよ。 大丈夫。シャワー浴びて来ますね。」
彼は、この危機をどうにか遣り過ごした。
食器を片付けに行くと、すでにキッチンとリビングは消灯され、悠介の姿はなかった。すべてのカーテンが閉ざされ、見知らぬ場所であるかのように室内は重々しく、暗かった。
浴室に入ると、未使用のタオルが数枚と間に合わせの着替えが、脱衣所に置かれてある。悠介なりに気を配ったらしい。ごく簡単に汗を洗い流すと、念のために玄関の戸締りの確認を済ませてから成未のもとへ戻った。フロアスタンドの間接照明に切り替えて、柔らかな暖色に包まれた空間になっている。ドレッサー前のスツールに腰掛け、水樹はタオルで ごしごし 髪を拭いた。
その眼前に、成未が一枚の紙を差し出した。
「 ーん ??」
いま、ちゃんと伝えられないから書いたの。読んで ー と、彼女は優しい表情で見上げた。

巻き込んじゃって、ごめんなさい。私なんかを大事にしてくれて、本当にどうもありがとう。
ぜんぜん知らなかったの。お父さんのファンで、不思議なひとって、ずっとそれだけ思ってた。
気づかなくてごめんね。
会社の中村くんとは、お付き合いしてる訳じゃないの。いつも支えてもらってて、私が勝手に癒されてたところはある。
水樹くんが言ってくれた通り、お母さんの事ずっと引きずってた。お父さんのせいにしたり、かわいそうな子ぶって自分をごまかしてた。甘やかしてくれる都合のいいバーチャルを、中村くんのイメージを勝手に借りて、妄想してたのかもしれない。
今すごく怖くて息ができなくなる。怖くて目を閉じれないの。
でも、水樹くんがいてくれたら思い出さなくて、ほんとに不思議なくらい安心できる。
勝手なことばかり言って、わがまま言ってごめんなさい。

「 ・・・・・・ 」
錯綜した想い達と散らばる言葉を懸命に拾い集めて綴ったらしい文面を見つめて、水樹はしばし黙していたが
「 正直なお手紙、どうもありがとう。」
爽やかに微笑んで返すと、 インスタントでコーヒー入れて来ますね と立ち上がった。
シンク周りの照明のみでケトルの湯が沸騰するのを待つ間、彼は腰ポケットに両手を突っ込んで物思いにふけった。
「 ー・・・ おや。」
二つのカップを乗せたトレイを手に戻ると、ベッドから降りた成未が何やら もそもそ うごめいている。ローテーブルを隅に寄せ、床のラグマットの上に急ごしらえの寝床を準備したいらしい。
彼女の意を汲んで、おおよそのスタイルを設えると
「 さ、召し上がれ。」
ベッドに背を預けてもたれながら、水樹は並んで床に座った。
外では、相変わらず雨脚の弱まる気配はなさそうであった。この刻にも、不気味な暗躍を繰り広げる闇世界と、日常を脅かす魔手から治安を維持死守する闘いに不眠不休で臨む人々が実在し、ひとつの同じ世界に共存している。
「 いま思ったんですけど、」
ー?? コーヒーをすすりながら、成未は彼を見上げた。まだ乾ききらない髪が、照明の明るみを纏って、地毛よりはやや淡い鳶色に艶めいている。
「 明日から思い切って長期のお休み取って、俺のとこに来て療養しませんかー ??」
( えっっ・・)
「 この機会に、先生とか今までの生活から一度離れて過ごしてみたら良いんじゃないか とー 」
立膝に載せた左手で頬を支えると、水樹は精いっぱいの現実的な思案を頭上に巡らせてみた。
「 俺の部屋、1LDKなんですけどロフトが一応付いてるんで 」
カップを胸に抱いたまま相槌を打って、成未は耳を凝らしている。
「 成未さんが、もしもそう望むなら。」
大きく瞳を見開いて顔を寄せると、彼女は懸命に頷いてみせて、同意を伝えた。
( 私、そうしたいー 水樹くん。)
「 またそんな・・・・ 」
カップをまとめたトレイを横へ退けて苦笑した水樹は、成未を少しばかり睨み付けた。そして、背後から ふんわり 両腕で肩を包んで抱き寄せると、呻くように呟いた。
「 うるうる のお眼々で殺ってくるの、勘弁してくださいー。 いい加減、無理ですって。」
包まれた大きな温もりに身をまかせようと、成未は腕を絡めて切実に頬を寄せた。
「 狙って来ないからな、このひとはー 罪ですね、ほんとに。」
彼女の髪に優しく頬ずりをして、水樹はささやいた。
「 俺が本当に必要な奴なのかどうか、ゆっくり確かめてください。ーね?」
そのまま体を横たえると、彼は肌掛けのケットを取って成未を丁寧にくるんだ。

今日まで、ほんとに良く頑張って来たじゃないですか。
あとはもう、天の神さまにまかせましょうー

降り止まぬ重々しい雨音も、平凡なはずの今日という日を、強烈な分岐点として否応なく刻ませた忌まわしい出来事も、しだいに遠ざかって行く。互いの体温を通して自然な反応で同期を始める二つの若い心臓の鼓動に、彼らは優しく包まれはじめた。
「 失くしたくなかったからー 言えなくてごめんなさい。」
強烈な睡魔に飲み込まれんとする意識の間際で、水樹は成未の耳朶にこの日最後の口づけをした。
「 もうずっと・・・ どんなにか、愛おしかったですよー 」


 大都会の東雲に、依然微かではあるが、既に明るみが滲みはじめている。一時間ほど前になって、ようやく雨が上がった。とは言え、曇り空が晴れわたった訳ではない。都心よりやや北東に位置する、比較的一般住宅や高層建築の少ない地域に建つチェーン展開のマンスリーマンション駐車場に、木内 諭(さとる)が降り立ったのは、午前4時半をまわった頃合いであった。
( ・・・・・・。)
鈍色に重々しく垂れ込めた夜の帳が、未だ地上の世界を憂鬱に支配している。熱帯夜の夜明けにも似た湿度の不快さを感じて、彼はネクタイの襟元をいささか緩めた。お定まりである、仕立ての良いスーツに包んだ細身の背筋を整えると、彼は三階の或る部屋を目指して非常階段を昇り始めた。
三階フロア奥の角部屋の前に立つと、室内から人の声が漏れ響いて来る。気配を立てず慎重に扉に耳をそばだてると、喋っているのは女で、日本語ではないようであった。
「 ー私だ。」
小さく二つノックを鳴らし、木内は扉を開けた。とたんに麝香系の、強烈に甘やかなフレグランスが鼻をついた。その先に、木内の判別できぬ言語を流暢にあやつり、大きな身振り手振りで喋り続ける女の姿が飛び込んで来た。部屋を出る身支度を整えていたらしく、入り口付近の木内へ冷ややかな一瞥を投げつけると、室内奥にいる男に向かって何ごとか勘高く口走った。
「 ー くっくくっっ 」
女の放った揶揄が的を得ていたのか、さも愉快そうに、その背後で男が含み笑いを漏らした。
煌々と照明が灯されたワンルームのベッドの上で、引き締まった半裸を剥き出したまま、その男は伸びやかに胡座を組んで座っていた。
慌ただしく木内の横を擦り抜けざま、女は男を振り返り、キスを投げて贈る大げさな仕草をした。不敵な笑みを口の端に浮かべ、男は左の瞼でウインクしてみせた。おそらくは、昨夜どこかで拾った女を買い、今しがたまで愉しんで明かした跡なのであろう。
「 ・・・・・・ 」
女が出て行くと、木内は神経質に施錠しながら開口一番に問うた。
「 口留めしておかなくて構わんのかー?」
悪びれるそぶりの欠片も見せず、ゆったりと膝の上で頬杖を突いて男は鋭い視線を返した。
「 ただの素人の出稼ぎだ。故郷の話を色々聞いてやったさ。」
椅子に引っ掛けたシャツを取って被ると、何気も無く、枕の下から一挺の実銃を装備したガンホルダーを取り出して装着しながら、彼は呟いてみせた。
「 あんたみたいなー 立派なスーツ着込んで偉そうにしてる客ほど、 サイテーなんだと。」
「 ・・・・・・ 」
迅速に着替えを済ませ、椅子に腰掛けて頑丈そうなブーツの紐を結びながら
「 あの女が、無駄に手古摺らせやがったからな。 口直しだ。」
男は、やや苛立たしげさを漂わせて、言葉汚く罵りを吐き捨てた。
「 薄汚えくせに気取りやがってー ああ云う手合いは、反吐が出るっ。」
「 ー 報酬と新しいパスポートだ。」
木内が手渡した他国通貨の札束とパスポートの内容を形ばかり確認すると、男は羽織ったジャケットの内ポケットへぞんざいに押し込んだ。
「 じきに、本庁の方も動いて来るだろう。」
その場に直立したままで、木内は低く呟いた。
「 次の連絡があるまでは絶対に動くな。」
「 ・・・・・・・ 」
長い左足を折り曲げて膝に乗せ、男は上目遣いに、尋常でない嶮しさで睨み付けた。
「 "セレム" の居場所が判ったのに、なぜ殺らん?」
「 俺は知らんー 」
丸腰の木内はさすがに臆したか、反射的な発声の反応で返してしまった後、
「 深谷会長の思し召しだ。」
伝家の宝刀を抜いて、どうにか応戦し得た。
「 ー ふんっ。」
男は憎々しげに、強力な貫通力を誇る『大蛇』の異名を持つ新型銃の、9×21ミリ口径弾薬の装填細部をチェックしはじめた。
「 "カルムン" が ー 」
この密室から脱出を果たすため木内に課された、もう一点の確認事項を切り出そうとして些か気が逸ったか、彼は重大なるミスを犯した。
「 ・・・・・・・ 」
無言で内ポケットより取り出した、銃器よりもやや長めの筒状のサイレンサーを装着すると、男は木内の眉間に1ミリの狂いも無く照準を合わせた。
「 いや。あんたの妹が 」
即座に言い直すなり、木内は両手を頭の横へ掲げてみせた。瞬時に唾液の分泌がフリーズし、声帯の振動が統制不能に陥りながらも、要件を伝え続けた辺りは、流石になかなかの胆力ではあった。この男とても、伊達にはこの世界を永らく生き抜いて来てはいない。
「 入国しているようだがー 」
「 ・・・・・ 」
「 これまで接触はないか?」
銃越しの視線に研ぎ澄まされた閃光を鋭く放ち、男は只ならぬ殺気を漲らせた。
「 ー あれば、こちらから報告する。」
両手を掲げたまま、木内は不動の直立である。
「 目端が効くわりに、物覚えが良くないようだな。」
言い捨てると、俄かに男は気怠げな気配を醸して銃を降ろした。
「 次に妹の名を口走ったら、呼び終える前に必ずあの世へ送ってやる。」
「 ・・・・・・ 」
「 それが厭なら、次は忘れん事だ。」

 二時間ほどの後、男は里中クリニックを視界に捉える事のできる鉄橋のたもとに立っていた。目深に被った濃いカーキのワークキャップのバイザー越しに、施設周囲の詳細な情報を確認し終えると、腰ポケットに両手を突っ込んだまま堤防沿いに歩き出した。
同じ時、牧野はいつもの窓から、早朝とも思えぬ どんより 暗く一面雲に覆われた、週末の東京の空を眺めていた。昨晩、佐野家を襲った急変について、彼は未だ報らされていない。管理栄養士の監修する療養者専用のダイニングによって彼の食事が賄われているが、この朝も、やはり食がすすまずにいた。里中が設えた簡易なメーカーで沸かしたコーヒーを半分ほど啜って、彼は過敏に、特殊な気配を感知した。それは、眼前に広がる公序と常識によって培われた日常とは異なる、異世界のみが発する特有のバイブスであった。
「 ・・・・・・ 」
カップをテーブルに置くと、牧野は背を向けたまま、部屋のドア付近に神経を集中させた。
「 背を向けて俺を出迎えるとはなー 」
特徴のある、重々しい湿り気を含んだ低い声が、彼の背後で厳然と響いた。
「 大層な入院患者だな。」
後ろ手にドアを閉め、男はその場所で立ち止まって呼ばわった。
「 記憶を失くした " セレム " ー 。」
「 ・・・・・・ 」
男の方を振り向くでも無く、牧野はさも憂鬱な面持ちで、窓辺の椅子に腰を降ろした。
バイザーをやや上向けて確認した男の視覚は、牧野の在りようを忽ちのうちに把握した。院内服をまとっては居ても、泰然と頬杖を突いて虚を眺めている佇まいは、男が “セレム” と呼んだ人物以外の何者でもなかった。
「 地球儀のちっと上の方へ俺が行ってる間に、ゴタついてたらしいじゃねえか?」
「 ・・・・・・ 」
これと云う反応を示さず、冷めかけたコーヒーを牧野は口に運んだ。とたん、足音も響かせずに駆け寄ると、男は背後から牧野の首を腕で強烈に組み据えた。
「 忘れた振りならデカの前だけで良いんだよ。それとも、 」
男は、締め付けている腕に一層の圧力を加えてみせた。
「 カルムンの一件まで忘れたとでもー 」
男の語気が、異様な興奮と緊張を孕んで鋭利に尖ったのを、観念でもなく、憮然でもなく、瞼を重く閉じて牧野は重くさえぎった。
「 忘れたかった・・・・ いや、違う。 死なせて欲しかった。」
「 ー なんだと??」
「 他は途切れとぎれなのに、あんたらの記憶だけが消えてくれなかったー 」
ふと気を削がれたのか、男は面倒そうに、牧野の体を無碍に放り出した。牧野は黒眼がちの瞳を大きく開いて、顎の線の鋭い、男の横顔を見上げた。
「 ー イムギ。」
「 ・・・・・ 」
目深なキャップに覆われている男の眼差しは窺えない。
「 ちょうど良いだろう。いま此処で眠らせてくれ。」
膝の上に両手を無力で乗せると、牧野は穏やかな表情で目を瞑った。
「 俺はもう、疲れたー 頼む。」
奇妙な静寂を漂わせる牧野の大きな背に苛立たしく舌打ちをして、男は乱暴に吐き捨てた。
「 生憎だがなー いまは殺れんっっ!」
「 ・・・・・・ 」
男の顔を見遣りもせず、牧野は溜息混じりで、その眉間にやりきれぬ翳りを宿した。
「 ー 何かあったのか。」
「 お前の主治医の家で、どこかのアホがやらかした。じきに、此処もデカが張り付くだろう。」
「 ・・・・・・ 」
「 役立たずのナースは、俺が始末しといてやった。 いい女でもない癖に、生意気に色仕掛けで取引きなんざ持ち掛けやがって ー 」
牧野に背を向けると、男はあからさまに不機嫌な声で呟いた。
「 この、俺にだぞ ?? 胸クソわるい!」
「 ・・・コーヒーでも、どうだ ?」
なぜか牧野は、外連味もなく問い掛けた。
「 ふっっ・・ 。 くくくっっっー 」
しばし堪えてから、イムギと呼ばれた男は、頑強な両肩を揺らしながら失笑した。
「 記憶喪失かなんか知らんが、相変わらず喰えん野郎だ。」
ドアの前で振り向き、右手をガンの形にして狙ってみせると
「 いいな。ー 次に俺が来るまでは、死ぬのは絶対に許さん。」
最後に、キャップから峻烈な眼光を牧野へ垣間見せて念を押し、超然と彼は去って行った。
「・・・・・・」
長身の背を見送りながら、なにか不思議と、懐かしい愛着にも似た感慨を自分の中枢に覚えて、牧野はひとり苦笑を漏らした。
  半分近くの記憶が消えたところで、
  所詮は、そういう世界でしか生きられんということか。
  あの男には、犬死して欲しくない。
  まあ、 ー 要らん気遣いだろうが。
「 ー つつっっ 」
忍び寄る外気の物憂く膨張した雨季の湿度を感じ、かつて背中に負った致命的な古傷の呻くような傷みが、彼の全身を貫いた。
「 ・・・・・・ 」
服を脱いで半身を晒すと、牧野は左手を伸べ、ぞんざいな縫合痕がただれた20センチ以上に及ぶ心臓真裏の傷痕を指でなぞった。
  あの場で、すべてを終わらせたはずだった。
彼が喪失した、30数余年間の膨大な記憶に紛らわせ厳重に封印した、貴いまでに麗しい女(ひと)の面影が、脳裏に点滅しはじめた。
そのひとの、滑らかな白い膚に再び触れることを願ってはならじー 
自らに立てた誓いに共鳴するかの、魂魄深くをえぐる疼きのみが、この瞬間、牧野という男の精神を生かしていた。








































































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登場人物紹介

水樹 史也( みずき ふみや)

広告制作会社勤務のイラストレーター。26才。心療内科カウンセラー 佐野 悠介との出逢いがきっかけとなり、かつて深刻であった精神状態から快方へ導かれて以来、悠介へ深い信頼を寄せている。

並外れて繊細な神経に恵まれた一方で、一般的な常識にとらわれない大胆な行動力をも兼ね備えている。

佐野家隣家の牡猫コタロウ( 水樹は一方的にヴァンプと呼ぶ )は親友である。

コタロウ

佐野親娘が暮らすマンションの隣人・黒田さんが飼っている去勢済の牡猫。

遠出はしないが、何故か佐野家へだけはベランダを器用に伝って頻繁に訪ねて来る。穏やかで人なつこい性格で、ツンデレのツン要素はあまり持ち併せていないらしい。

大柄な水樹 史也が繰り広げるスキンシップを実のところは迷惑に感じている、かどうかは不明である。

佐野 成未( さの なるみ )

大手通信販売会社に勤務する27才。きょうだいは無く、臨床心理士の父・悠介と二人暮らし。

十代で母を亡くしたせいもあってか、日常の生活者として揺るぎのない堅実さを備えたしっかり者である。

職場の同僚で後輩にあたる 中村 宏太 に異性として好意を感じているが、適当な距離から見守っていたいとひそかに願っている。

亡くなった母の実姉で、関西在住の叔母・川瀬 愛子 の無敵な明るさも好き。


佐野 悠介( さの  ゆうすけ )

臨床心理士を務める成未の父親。ある意味、純粋な少年時代のひたむきな向学心を持ち続けている。生来の気質としては朗らかで、性善説を信念とする。豪放と呼んでも可いマイペースと他人の反応をあまり意に介さない爽やかさが、弱点でもあり強みでもある。早世した妻の美穂をこよなく愛し、誰よりも傷みを背負っているが、忘れ形見の成未にも敢えて語った事はない。彼の血の通い合った心療の姿勢が、苦しむ者の拠り所となる。

中村 宏太( なかむら  こうた )

成未の後輩にあたる同僚の青年。人間関係に於ける周旋などに、ややもすれば誤解を招くほど不器用な誠実さと真面目さが長所とも謂える。その一本気さゆえ逆境に弱そうに見られがちであるが、外見とは裏腹の不屈な意志の勁さを秘めてもいる。誰にも明かさないが、片親の家庭に育ち自身の努力によって現職を掴んだ不遇な経歴こそが、未来を生きる糧となるという誇りと信念を強く抱く。

その一方、他人知れず成未に対する深い愛情を日々確かめてもいる。


記憶を持たない謎の男

事故なのか、傷害の被害者であるのか、瀕死の重傷を負って忽然と現れ、救急病院へ収容される。

怪我の後遺症によるものなのか、彼の「記憶」には深刻な混沌が生じていた。

唯一の所持品である色褪せた挿絵らしい紙の切れ端と、彼の脳内から無作為に出現するワードを手掛かりに、悠介と里中は心療にあたろうとする。

ところが正体不明者が次々と現れ、彼の身辺はしだいに不条理な危険に晒されてゆく。並外れた体力と身体能力を備えている事実に関しては、疑う余地がない。

里中 睦( さとなか  あつし )

悠介の同窓生で個人の臨床心理クリニックを経営する。佐野家とは美穂の在名中より親しい交流を持ち続けている。学生時代に培われた純粋な理念と悠介との信頼関係を自身の宝としており、悠介に臨床治療の片腕を託してもいる。成未にとっては、心の内を明かせる大切な存在である。

明朗な印象で独特の愛嬌の豊かさが魅力だが、外見とは裏腹のこまやかで緻密な神経を持ち合わせている。

澤村 泰弘( さわむら やすひろ )

悠介らの母校に附属する大学病院の心療内科で治療にあたる若手医師。緻密な頭脳と臨床医師としての適性から、周囲に将来を嘱望されている。公にはされていないが、不幸な幼年期に他家へ養子に迎えられた生い立ちを持つ。

心療を目指したきっかけは自らが幼い頃に負い、癒えることのない心の傷痕にある。少年時代に奏法を学んだヴァイオリンを愛し、多忙な中に於いても一人奏でて過ごす時間を大切にしている。

津久井 慎司( つくい  しんじ )

佐野親娘が居住する地域を所轄する警察の刑事で巡査長。謎の男の身元や負傷した経緯などが究明されないままの現状に違和感が拭えず、真相を突きとめようとする。微塵な情報を見逃さない、物的な手掛かりに基づく公正な分析を規範とすべく自らを律する一方、現場の人間に対する直感的な印象や気付きにも重きを置く。真摯な責任感と誇りが、職務に取り組む信条である。学生時代より精進している空手道の段位は黒帯で三段。

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