第17話 『小雨降る径』

文字数 14,216文字

 テイクアウトのコーヒーを手に、成未と中村は石畳の路を しばらく並んで歩いた。
職場に於いてはミドルヒールのパンプスが定番なので、フラットなショートブーツの今日、傍らを歩く成未は一回りほど小さく思えた。カジュアルなフレアスカートのせいもあるだろうが、傍目にも彼女が自分より歳上には見えないだろう  ー中村は、取り留めなく想いを廻らせながら歩いている。
このまま成未を連れ帰って、想いの丈を籠めて愛してしまいたいー 
 そしてもう、何処へも行かせない。

人出が増して、芝生の緑地も凡そが家族連れやカップルで埋まっている。中庭園のはずれまで来て、成未が一つの方角を指し示した。
「 あ、ーあそこは??」
花壇が敷かれた先の正面に、2メートルほどの高さで石積みの壁面が敷地を区切っていた。本来は噴水が循環する設計らしく、幾つもの金属製の水栓が規則的に並んでいる。それを眺める位置に横長のベンチがあり、周囲には人気が無かった。
「 コスモスなんだね、今頃はやっぱりー 」
可愛いね と、成未は先ず花壇に寄って屈み、淡いピンクの濃淡に揺れる花びら達に瞳を煌めかせた。
「 ・・・可愛いです、すごく。成未さんは 」
「 えー??」
花壇を埋める花の色合いほどしか目に入らぬながら、誠実に傍らへ屈み込んでいる中村を見遣ると 眼が逢った。深い眼差しに、成未の胸の奥が切なく軋んだ。だから努めて、微笑んでみせた。
「 ありがとう。こんな年増に言ってくれるの、中村くんだけだよー
精神年齢は、中学くらいで止まっちゃってるんだけどね。」
ベンチに浅く座り、正面から向き合って中村の眼を見ると、成未は話し掛けた。
「 ーさっきの話の続きなんだけど、」
「 はい。」
「 あたしがそう云う気持ちにならないうちは、したくない ってー 」
「 ・・・・・・ 」
「 大切だから・・ 慌てて無理強いは したくない って 」
飲みたい訳ではなかったが、一口 コーヒーで喉を潤して 中村は俄かに重くなった口を開いた。
「 つまりー 彼は一貫して、紳士だった、 と???」
頷いてみせながら、不意に予期せぬ涙が自分の頬を伝った。成未はひとつ大きく息を呑み込んだ。
「 許せないのはね 」
「 成未さんー 」
カップをベンチに置き、中村は成未の肩へ腕を伸ばした。そして腕まで届いた掌で、優しく撫ではじめた。
「 怖い目に遭って、奇跡的に水樹君が助けてくれてー その後も、自分が頼って甘えたって事、なの。」

あの時、父との関係にも限界を感じて・・ 一度思い切って環境を変えてみたら って声掛けてくれた水樹君の好意に、夢中で自分から負ぶさったの、あたし。 何年も、ただ 摑み處のない人だなー としか、水樹君のこと思ってなかったくせに。
いまも、こんな話聞いてもらってる中村君にも、そう。身勝手に甘えるばっかりで、たくさん傷つけて来ちゃったねー 。 それを、せめて謝りたくて・・・
中村君から嫌ってもらうために、今日 お願いしたの。

「 成未さん!」
反応の意味は不明ながら、中村は成未の手からテイクアウトのカップを取り上げると、ベンチの上に並べて置いた。徐々に薄らぎはじめた午後の陽射しを惜しむかの様に、眼前の花壇では、一面のコスモス達が華奢な花びらを可憐にそよがせている。
「 母が死んでからは一層、誰も宛にしないで、自分に責任持たないといけないってー 」
精一杯の微笑を装って、成未は手元へ落としていた視線を中村へと向けた。
「 ずっと言い聞かせてたはずなのにー ほんと有り得なくて。 自分、こんな情け無い、ダメな奴なんだ、って。」
「 ・・・・・ 」
やはり無意識だったが、膝に揃えた成未の両手を中村は躊躇なく握り締めて瞳を覗き込んだ。
「 中村君みたいな善い人には、幸せになってもらいたい。本当に。
それでー 流通統括へ戻る前に、あたし年内で退社しようと思っ・・」
「 はあああ ???」
言い終える前に、不思議な声色で中村が きっぱり 遮った。
「 辞めてー それで!? 一体どうするんです。」
「 ・・ 関西の叔母さん家の近くで、一からやり直そう、と・・」
かつて記憶のない、中村の嶮しい表情が忽ちマックスにズームインして、成未の視界を埋めた。
「 貴方はー ! 俺を路頭に迷わせようと??」
「 ね・・ 」
全くの不意を突いて、衝撃が成未の身体を揺さぶった。継ぐ言葉を探そうと開き掛けた唇を、何かが強く塞いだー 反射的に見開いた睫毛の先に、中村の睫毛が触れ合った。
「 ・・・・・。」
中村の引き締まった唇が、烈しく奪っていた。咄嗟に拒もうとする彼女の反応に怯まず、中村は求める事を堅固に諦めない。成未の緊張が挫け始めるに連れて、彼の唇は優しくなっていった。
「 ・・・・ 」
ようやくの事で成未の唇を解放すると、右腕の中に引き寄せた彼女の髪へ頬を深く埋めた。
「 俺はー 」
デニムシャツの襟元から、微かなマリンノートの香りが彼の体温をまとい、閉じた瞼を仄かに包むのを成未は感じた。
「 そんな・・ 紳士とか、無理ですからー! いま直ぐにでも貴女を押し倒して、身体の全部で想いをー 」
「 ・・・・・・ 」
言葉を詰まらせた中村を仰ぎ見た睫毛を、彼の大きな涙が一粒、かすめて成未の頬を伝った。あまり切なさに 少し震えている手を伸べると、彼女は中村の頬を そっと撫でた。
「 部門配属された日から・・・ もう、長かったのでー 秘めてた時間が 」
「 ごめんー 中村くん、ごめんね。」
彼女の掌を再び頬の上で確保しつつ、中村は首を横に振ってみせた。
「 いや。ー俺が悪いんです。 もっと早く、ちゃんと伝えなかったから 」

あたしね、年増だしー こんなんで女子っぽい素質、欠除してるし。中村くんみたいな善き男子には、フィクスする素敵な彼女と幸せになってほしい って、ずっと思ってたの。変な誤解を招いたりして、邪魔しないように。

「 ー貴女が居なくって、どうやって生きてくんです。 夏のあいだ・・ 俺、ほんとにもうー 」
態とらしい、大袈裟な口説き文句ででもある方が、むしろ救いがあったろう。この真っ直ぐな青年の内側に、かくも傷ましい脆弱な痛点が潜んでいようとはー 成未は、想定し得ていなかった。
職場の年長者よりも沈着で堅固な精神の硬質性を備えていながら、いま目の当たりに中村が曝しているのは、如何にも年下らしい 無垢過ぎる危うさだった。ふと、未知なる感情が途方に暮れる成未の心の何処かより沸き出ではじめた。
「 ねー 中村くん。ここで良かったら、少し休んで??」
傍らのショルダーから取り出したハンカチを膝の上に広げながら、成未は優しく問い掛けた。
「 えっっ・・」
幾分 躊躇いをみせる傍らで、ベンチ上の余白に落下物などが無いかを見遣って、成未は確認した。
「 ずいぶん疲れさせちゃって・・ 日曜なのにね。 本当にごめんね。」
「 ・・・・・!」
底深い懊悩の眼差しを成未へ注ぎ、中村は何ごとか口を開こうとした。 ーが、全てを断ち切るごとく 一旦 大きく俯いてから、乱暴なほどの烈しさで 長身をベンチへ横たえた。と言うよりは、成未の膝に縋って、鳩尾(みぞおち)へ強引に顔を埋めた。
昼食後に仕舞ったニットのロングカーディガンを、彼の広い肩から背中へかけて成未は丁寧に被せた。そして、出来るだけ 自分の胸の膨らみを感じられるよう、両腕で中村を深く抱き寄せた。
ニットの下で、彼の肩が震えるのを感じた。その柔らかな髪を、成未は優しく撫で続けた。

背中越しの頭上に私鉄車輌の発着を繰り返し耳にしながら、成未はコスモス達に宿る秋の陽射しを眺めた。時折、飛行機の機影がダイヤの閃光のように虚空の高みを過ぎって消えて行った。気付くと、中村は膝の上で寝入ってしまっている。体が冷えていないか、そーっっと指先で頬に触れて確かめると、むしろ自分の指の方が冷たかった。
ー男の人って・・ すごく大きいんだなあ・・・
彼の髪を撫でる手は休めず、成未は心の内で 深く浸みわたる感覚を言葉に置き換えて呟いた。体格の大きさでは無く、目にする事のできない 精神の奥深さや広やかさについてである。それに比べた時、自身の浅はかさ 思慮の浅さは如何ほどだろうー 改めて、成未は居たたまれぬ自己嫌悪の重さに苛まれて、自らの呼吸が続く事さえ厭わしく思えた。
「 ・・・・・。」
脳裏では、諸々の鮮烈過ぎる記憶のボード達が、アトランダムに目まぐるしく旋回を続けている。暴力を行使された瞬間の恐怖感は、未だ生々しく 日常の何気ない折に頻繁に蘇って来る。里中に頼んで心療を継続中であり、投薬の処方箋をもらっていた。しかし一方、水樹の存在が在ってくれた事が、成未にとって大きな救いとなったのも事実であった。まさに、天の采配としか言い様がなかった。

『 どうしました ー 甘えたくなったの?』

事件遭遇の直後、沈着に的確な介抱をしてくれた水樹が、見知らぬ異性に思えるほど頼もしかった。大きな腕に守ってもらえた事が、例えようなく有り難かった。母や父の事すら束の間忘れた振りをして、今だけは、すべて丸ごと投げ出して異性に甘えてみたい ー
あの瞬間、そんな刹那の願いが 成未を水樹の胸に縋らせた。

『 忘れないでいて ー 俺が愛してることを 』

非常事態だったとは言え、身勝手な我が儘を唐突に振りかざした自分を 年下の水樹は懐ふかく翼を拡げて受け入れてくれた。彼の住まいで療養する間も、中村へ伝えた通り 水樹はプラトニックを貫いてみせた。指一本触れない と謂えばウソだが、この期間はあくまでも 成未が自宅を離れ。自身の人生と生活を安全に客観視するために必要な時間と位置付けていた。
強いて例えるとすればー 気心の知れた弟や従兄弟と共に過ごす とでも云った、遠慮会釈なく安らげる掛け替えない貴重な時間を、彼は成未へ贈ってくれたのであった。

「 ・・・・・・ 」
置き処ろのない恋情を、その 聡明で清冽な精神の内に持てあます、善き青年の横顔を成未は見つめた。思いも寄らず、いま自分の膝を枕にして、束の間のまどろみに心を憩わせている。

『 親父が9年前に交通事故で死んでるものですから 』

ー この人は、あたしと同じくらいの年でお父さん亡くされて・・・ たしか長男さんで、妹さんがいるってー きっと どんなにか波乱で、苦労の多かったことだろう。お母さんを支えながら、此所まで努力して来て

包んだニット越しに広い背を撫でながら想いを廻らすにつけ、遣り切れぬ切なさが 成未の胸の奥を締め付けた。無情に過ぎゆく刻を、無為に見送ってはいけないー ふと 諭し示す声を成未は自らの心に聴いた。と 感じたのは単なる妄想に過ぎず、脳内の何処かが判断を下しただけかも知れない。或いは、単に 謂わゆる処の '魔' が差しただけかも知れなかったがー
彼女は一つのことを決めた。そして 中村の微睡みを妨げぬよう気を配りつつ、バッグから携帯を取り出した。
「 ・・・・・・ 」
在宅であるはずの父宛にメッセージを送る画面を開いて掌に載せたまま、成未は しばし前方を眺めた。波打つピンクの濃淡や、その上空を覆う ごくごく穏やかな水色の大気圏、ベンチ背もたれの後方で和やかに響く休日を愉しむ騒めきや、子らの朗らかな歓声ー
総てを まざまざ と瞳は見て、耳は聴いていたが、彼女の心は 其れらをシェアしてはいなかった。

あの襲撃さえ起こらなければー せめてあの折に、居合わせてくれたのが父の悠介で、水樹で無ければ・・・

カットグラスの縁を満たし切って溢れ落ちた清水を、およそ人智の技に於いて、戻すことは叶わない。梅雨時の重苦しく湿った雨の夜、何の前触れもなく、当日の日没までの身辺を分断する峻烈な刃先が振り下ろされた。夏を過ごし、秋の訪れを迎えるまでに実在した時間の全てを、単なるお伽の世界の愛らしい夢物語として 何処かのフォルダに仕舞い込み、忘れた振りをする事は叶わない。
実のところ、9月になったら里中に診断書を頼んで退社する事を考えてもいた。思い切って連絡を絶ったのを期に、二度と中村の心を悪戯に掻き乱さぬよう、会えないままで家を出ようかと思った。しかし、同期たちや社内で待ってくれている人たちの善意を踏みにじる決意ができず、中村に対しても、それでは余りにも卑怯過ぎる と思い留まったー

『 俺が本当に必要な奴なのかどうか、ゆっくり確かめてください。』
『 もうずっと・・・ どんなにか、愛おしかったですよー 』

ようやくの決意で、今日という日に 中村へ懺悔を捧げるため時間を設けたにも関わらずー
なおさらに自分が重ねようとする愚行について、成未は 最後の自問自答を遣り取りした。

あたしー いったい、何なんだろう。 いままで何のつもりで生きて来てたんだろうー ???
こんな・・ ほんとは もう、悪魔だったんだ、実態は。

( 同期のまきりん家に来てるけど、思ったより具合悪いみたいで、今日は付いててあげる事にした。 明日は有休取ってるから、病院つきあってから帰ります。)

出来うる限り簡潔にメッセージを入力すると、送信をタップして瞼を強く閉じた。

自分で選んで、 ・・あたし、地獄へ堕ちますー ごめんなさい。
水樹くん・・・ ごめん。 ーごめんね。 ごめんね・・・・

そのまま携帯の電源を落としたが、指だけでは拭い切れない涙が溢れてこぼれた。中村に悟られぬよう、右脇に置いたバッグへ携帯をしまった手でハンドタオルを取り出そうとして、吊られたボールペンがベンチから転がり落ちた。
「 ・・・・・・。」
「 ー???」
不思議なほどに自然な反応の動きで、地面を転がるペンを拾い上げた人物の姿を、成未は ぼんやり見上げた。
ベンチの前に片膝を突いて大きな手を伸ばしたー 忽然と眼前に在ったのは他国籍の男性で、先ず視界に飛び込んだのは 西洋美術史のテキストで出逢った、黄金に輝いて波打つ美しい金髪だった。
「 アー、ユー・・ オール・ライト ??」
かの人は、徐ろに汚れを払ってペンを成未へ手渡すと、染みじみと微笑み掛けた。外国の人々と身近な交流が少ないながら、彼の発した英語の発音が 何処か他のヨーロッパ語圏の特徴的な訛りを帯びている事は分かった。
「 サ、サンキュー、 ・・どうもありがとう。」
魅入られた如く視線を外せずにいる頬へ両手を伸ばすと、驚くべき さり気の無さで、彼はその親指で涙を拭ってみせた。温かく、力強い指先だった。
「 ー ソゥ、 ビューティフル・・ 」
面長だが小作りな彫りの深い顔立ちに惹き込まれて、成未はつい、我と知らず呟いていた。自分の様子を垣間見て、とっさに何事か察して言葉を掛けたらしい気遣いの細やかさこそ 流石のレディファーストだな と、心が動くのを禁じ得なかった。
それにも増して、彼女を覗き込んだ瞳の色の美しさが、忽ちのうちに鮮烈な印象を刻んだ。不透明で彩度の明るいー しかし、この人物に備わる気質に拠るのか、いかにも奥深い思慮を湛えている。その色合いを例える色彩の名称を、成未は脳内に懸命で検索した。 絵の具の色でー たしかセルリアン、じゃ無くて・・
「 !! ターコイズ・ブルー! ユア、ビューティフル アイズ 」
「 レアリィー ??」
くすくすっっ と微かに笑みを漏らすと、彼は優美な身のこなしで立ち上がった。40代の初め、くらいだろうか。おそらくは180センチを超える長身に、ノータイでカジュアルな雰囲気でいながらダークグレーの上品なスーツで、着こなしは粋であった。さながら乙女の眼差しで仰ぎ見る成未の頬を もう一度 指先で一つ撫でてやると、左目を軽くウインクして見せた。
「 ・・ ユアー、ソゥ・キュート、トゥ。 リトル・レディ。」
外観の体格とは存外に対比的な、耳触りの ごく心地好い湿り気を帯びた、およそ忘れ難く繊細に響く声を遺して、ブロンドの長髪の男はベンチの背後へと去って行った。

( ???・・・・ )
いつか何処かで観た洋画のワンカットに束の間身を置いたかの、魔法の数分間だった。冷たくなっている手の甲をそっと頬に当てて、成未は異国の男の指の温もりを辿ってみた。何故なのか、もうずっと先からの旧知に似た懐かしさを覚えさせる、不思議でならない男の存在感であった。
「 ーんっっ・・ 」
ここで、蒼き瞳のもたらしたファンタジックな夢物語は、一旦 幕を閉じた。成未の心中に生じた微かな身動ぎを無意識に察したものか、中村が反応を見せた。さながら午睡を諦めきれない少年の様で、いっそう強く成未の膝に顔を埋めて腰を引き寄せようとして、彼は自我を取り戻した。
「 あっっ!? 俺、・・あれっっ ー??? 」
跳ね上がり掛けた肩と背を留めて、成未は彼の瞳を覗き込んだ。
「 急に起きると、体がビックリするからー ね、」
「 す、すみません、 俺ー 結構、寝ちゃってました???」
バッグから小ぶりのエコボトルを取り出すと、成未は保温された緑茶をカップ代わりの蓋に注いだ。
「 大丈夫。お茶、少し飲んでー ね??」
頷いて受け取った緑茶を飲み干す横顔が堪らなく愛しく、切なくて、成未は俯きがちに呟いた。
「 お願いしたい事を・・ さっき思い付いてー 」
「 ?? ーはい、」
カーディガンを成未に戻して、うたた寝の間に冷えさせてしまったであろう背を撫でつつ、中村は誠実な眼差しを向けた。
「 あの・・・・ 」
「 ??? 」
精一杯の勇気を振り絞り、彼女は自らの背を前方へと突き飛ばした。
「 今日ー 泊めてもらっても・・ 可い、かな・・ 」
「 ー えっっ ???」
「 ーこのまま帰りたくない・・ 一緒に居させてほしいー 」
合点仕切れないままに凝視し続ける中村を、成未は覚悟を秘めた眼で見上げた。
「 嫌だったら、はっきり断ってね。」
「 ・・・・・。」
返すべき相応しい言葉を懸命に探しながらも、とりあえず二、三度頷いて、彼は相槌を打ってみせた。
「 連れてってもらって、 ・・・ 中村くんに、あたしのこと抱いてもらいたい、のー 」
「 ・・・・・・ 」
中村の瞳の中で、戸惑いと感嘆とー 幾ばくかの猜疑と憤り、悲哀や慈しみなど多様な情動が 目まぐるしく一と思いに渦を巻いた。やがて一種の鎮静が訪れるのを待って、 彼は 極めて優しい声で口を開いた。
「 もちろん、俺はー 」
そろそろ傾きはじめた陽射しの中で、その瞳が、波なみと清らかな潤みを湛えて煌めいた。
「 成未さんを一緒に連れて帰りたい、 ・・・貴女の何もかもを、心から愛したいです。」
その上で、翌朝の出勤についてなど現実の懸念を気遣ったのを、決して狙った訳ではないが 翌日が有休となっている旨を成未は説明した。
「 ああ。それなら、良かったです。 そうかー だとしたら、」
何事かを心付いたものらしく、彼はジャケットの内ポケットから携帯を取り出した。そして成未の両肩に手を置き このまま少しだけ、待ってて下さい と念を押すなり、立ち上がって後方へと歩を進めた。通話の内容が成未の耳に障らないための配慮らしい。
「 ・・・・・ 」
中村の存在を欠いた膝の上を、俄かにひどく心許なく感じて、成未は自分がいっそう悲しくなった。だが同時に、自らの中心で何らの理屈なく ただ無垢に脈打つ『恋しさ』が 無性に愛らしくも思えた。
程なく小走りでベンチへ戻って来ると、中村は成未の前に体を屈めた。
「 俺も、明日 休みもらいましたからー 」
「 えっっー そんな、・・ 」
憂慮する言葉を続けようとした口元を人差し指で留めてみせると、彼は爽やかに微笑を浮かべた。
「 さっきのお返しです。 ・・大丈夫。心配要らないですよ。」
「 ー ごめんね、中村くん。 ごめんね・・・ 」
膝の上で両手をしっかりと包みながら、 中村は 見つめる眼差しに強く意志を籠めた。
「 必ず、俺が守ります。どうかもう、何も考えないで、忘れてー 俺を信じて任せてください。」

電車が混み合う前に移動を済ませましょう、 との中村の提案に従い、二人は歩き始めた。成未の右横で手を取ると、中村はしっかりと指を絡めた。素の身長で並んでみて、自分がようやく彼の肩に届く高さでしかないのに 成未は改めて気付いた。頼もしい青年の手は力強く確実に、優しい誘導を続ける。手を委ねることの心地好さに包まれるうち、成未は ふと 幼少期よりの記憶を辿った。
「 ・・・・・ 」
何故かしら、引いてもらう側でなく、相手の手を引いてあげる側が多かったような気がした。
「 ーうん?? 何です?」
今更の気付きに笑みを漏らした横顔を覗き込むと、JR在来線の車内の傍らで中村が尋ねた。ほぼ座席は埋まっているが、通路には未だ比較的、余裕が保たれていた。シートの真ん中あたりの空きに腰掛ける際、握ったままの成未の手を、中村は貴重品を隠すかのように上着のポケットへ仕舞い込んだ。その温もりの中、成未は指先へ緩やかな動きを伝えて小さく応えた。
「 小さい時からねー 誰かに手を引いてもらったこと、なんか少なかったなぁ、って・・ 」
「 ああー。そうでしょうね。引っ張ってあげる方だったですよね、きっと 」
間近に見上げる中村の睫毛に、車窓越しの遅い午後の陽が穏やかに宿っている。掌へ力を込めると、彼は微かに目配せを示してみせた。
「 俺も、ずっと手を引いて来てもらいましたから・・ 今はせめて俺に任せて、付いて来てください。」
「 うん 」
優しい眼差しを添えて、成未は頷いた。
「 どうもありがとう。ー付いてくね。」

平素、中村が主に自炊していると聞き、夕食は部屋で適宜のんびり摂ろう と決めた。最寄り駅で降車すると、ショッピングモールのグロッサリーに立ち寄って簡素な惣菜や食材とワインを大まかに選び、帰路に着いた。秋の足早な陽が傾き切る以前に、到着できそうであった。
「 もう、じきですけど・・・ 」
「 うんー ??」
俄かに、声をやや翳らせた 傍らを歩く中村を成未は見上げた。横顔越しに広がる晴天は、しだいに茜色の薄絹を纏いはじめている。周辺は比較的、高層建築の建て込んでいないエリアで、近接する河川を視界には臨めぬながら、水面の潤いは やはり街の空気の其処かしこに偲ばれた。
「 散らかしたままで来ちゃってー 色々、掃除が行き届いてないし・・ 」
「 ーあ、大丈夫。」
繋いだ手に優しく力を込めると、成未は にっこり 笑ってみせた。
「 お掃除するよ?? いくらでもー 」
「 いやいやー 」
昔ながらの住宅が並ぶ道幅の狭い舗道を辿るうち、差し掛かった四つ角を不意に横切った自転車から成未を庇いながら、中村は敢えて表情を厳しくした。
「 お仕事に行くんじゃないですからね?」
「 ・・はい。」
「 駄目ですよ、働きもの過ぎるから。成未さんはー 」
「 そう、なのかなー??」
軽く首を捻って怪訝な素振りをみせたが、中村の意を案外と介せていない証拠に、成未は言葉を続けた。
「 中村くん、和食の方が好きだっけー 晩ご飯のおかず、なにが好い??」
繋いだ中村の手を両手で眼前へ抱きかかえると、応えを促すつもりらしく、小さく揺らして中村を見上げた。
「 ーいや。です、から ・・ 『おふくろ』さんですか??? そりゃ好きですけどー 」
思えば、業務的な緊張や気遣いを伴わない、ごく罪もなく取り留めない会話を愉しむ機会は、これまで極く限られていた。中村が言い終えるより先に、とある建物の前を通り掛かって、社会科見学の小学生よろしく 成未が感嘆の声をあげた。
「 えっっ?? お風呂屋さんだって、ここー。中村くん 」
一見し、低い二階建ての雑居ビルかとも思えるが、舗道に面した正面中央が大きく開いて、その上だけを何やら廂(ひさし)めいた水色のタイルが囲んでいる。そーっ と足を停め、成未は興味深げに中を覗き込んだ。すると、紛れない銭湯のアンティークな木製の靴入れが、更なるミスマッチなビジュアルで誇らし気に壁面を埋めている。
「 ー 昔から続いてる銭湯らしいです。 休みの時とか、たまに来ますよ。」
そうなんだー 良いよね、こういうの。 中村に手を引かれるまま 短い横断歩道を渡りながら、彼女は ふと 覚束ない唄のフレーズを口ずさんだ。
「 ・・あなたと行った、横丁の風呂屋ー なんか、あったよね。 無茶かなしい、昔の歌、」
傍らで、飽かず可憐な反応を見せる想い人の、彩りも淡い砂糖菓子のごとき愛らしさを、秒の間も漏れなく撮影して手中の記録におさめ、始終 繰り返し眺めたい と、彼は心底思った。
「 それは、あのー 女の人が湯上がりに外で待たされるというー 」
「 そうそう。可哀想にねー お風呂行くたびに風邪引いちゃう。」
ほどなく、住宅街の角地に建つ三階建ての小振りなマンションへ二人は到着した。傾斜のなだらかな階段を昇り、二階の一番奥の部屋へ中村は成未を案内した。
部屋に入ってカーテンと窓を開け、差し当たり冷蔵の必要な食品を冷蔵庫へしまうと、彼はソファへ成未を座らせた。そして手の着く範囲を、慌ただしく片付けて廻った。コーヒーメーカーが次第と漂わせる暖かな香りの中で、成未はキッチンカウンターを彩る紫の花を眼にした。
「 あれ、 ・・ アネモネ、可愛い。」
思わず立ち上がって頬を寄せ、窓からそよぐ夕風に揺れる鮮やかな花びら達に指先で触れた。
「 ピンクは多いけど、紫って なかなか売ってないもの。 中村くん、お洒落だ。」
止む無く片付けに切りをつけ、コーヒーを注ぐ準備に掛かった中村は、花の状態に変わりのない事を確かめた。
「 成未さんが好きだって言ってたから、ずっと飾ってました。」
「 えっっ???」
「 なんか変ですけどー よく、神社とか行って パンパン って拝んで無事を祈る、みたいな 」
「 ・・・・・・ 」
'フォーリン・ラヴ' ー人はなぜ、恋に『堕ちる』もしくは『落ちる』のか。
なぜ、平和裡のうちに恋を『叶え』たり『手に入れ』得ないのかー もちろん諸説あって、「恋」とは別段 堕ちなくとも 如何ようにも成立させ得るとの意見もあろうけれど
筆者の認識に於いては、悲観という訳では無く 大いなる謎であり続けている。解明の仕様がない理不尽な現象なればこそ、人智が測り知る事の赦されぬ魔力を秘め、永劫に人心を蠱惑し続けるものに違いない、とー。
中村の部屋へ話を戻せば・・ 本心の奥底で永らく怖れ、様々に尤もらしい常識や道理を盾にカムフラージュし続けて来た「恋」に、この瞬間、信じ難いほどの呆気なさで 成未は真っ逆さまに堕ちたのであった。何者かが、彼女を中村の背へと、唐突に全力で縋らせた。
「?? んっっ・・??」
「 中村くんー 」
手から滑り落としそうになったカップをどうにか握り直し、背を向けたままで 中村は声を返した。
「 ーはい。」
渦巻く想いは、果てしのない言葉に変換されつつ成未の脳裏を高速で旋回し続けたが、彼の大きな背に顔を埋めながら、成未がやっと発した言葉は わずか二文字だった。
「 好き・・。」
「 ・・・・!!!」
愛おしさに堪え難く、振り向きざま成未を強く抱き寄せて、中村は気が狂いそうなほどの眩暈を覚えた。両腕で抱き上げると、胸の中に抱いたままベッドへ成未を運び、壁に背を持たせて座った。
「 ーあの、・・中村くん、あたし・・・ 」
「 ー 中村じゃ無くて・・ 宏太(こうた)と 」
成未の髪に優しく口づけて、中村は職場的でない名で呼んでほしい と乞うた。その心音に耳を澄ませながら、成未はひどく躊躇いつつ、心中の懸念を伝えた。
「 宏太くん、あたしあんまりー 経験少ない と思うの、だから・・ 」
「 ーだから ???」
ほぼ暴発寸前にまで達し掛かろうとする愛したい衝動を懸命に堪えて、彼は掠れた声で鸚鵡返しに問うた。
「 ーもし、がっかりしたら正直に言ってね。すぐ帰る・・ 」
「 ほんとに、もう・・ 。 貴女という人はー !!!」
皆まで聞き終えずに両手の指を深く絡めると、中村は成未を深くベッドへ沈めて、やや苛立たし気に全身を重ね合わせた。そして、真っ直ぐに成未の眼を見つめた。
「 愛していますー 俺はずっと、貴女だけを 」
「 宏太くん・・」
「 これから俺が、 ・・厭って言うくらい経験させるんですからね。」
「 ・・・・・・ 」
ほろほろ と涙を伝わらせた頬を唇で優しく辿りながら、中村は囁いた。
「 大切なファーストキスから・・ やり直させてくださいー 」

 シャワーを浴びる間も離れがたく、結局は体を寄せ合って二人は浴槽の湯に浸かった。浴室を出ると、食事の準備を始める決心が着くまでの心積もりでソファにシーツを敷き、素肌のまま寄り添い毛布を被った。
カーテンの向こうで休日が迎えている夜の時間帯の気配は、淡い間接照明が醸す二人だけの夢の世界へは伝わって来ない。清々しくなった皮膚の奥深く さざめき続ける、激しい衝動と陶酔の余韻に心地好く身を預けるうち、どちらともなく深く寝入ってしまった。やがて先に目覚めかけて、成未は束の間 あやふやな意識の浅瀬にひとり漂っていた。

ー あれ?? 雨になってる・・・
恵まれた小春日和の晴天を過ごし来た現実と奇妙に混在しつつ、成未の意識のすべてを俄かに雨音が包み始めた。初秋の冷ややかな雨ではない。匂い立つ陰鬱な湿度は紛れなく梅雨の時候の、あの夜の雨音だった。成未は不意に、過呼吸の感覚に襲われた。恐怖に見開いた視界に映るものは暗黒のみで、他には何もない。しだいに意識が遠のいたー しかし彼女は未だ、そぼ降る雨音の支配する異次元から戻ることが許されない。ようやく息を一つ吸い込んで目を上げた先に、傘をさして佇む父の姿が、ぼんやり浮かんだ。
ー ???
( ー 疲れたんだよ、俺。史くん・・ )
ー えっっ???
悠介の横顔が見つめる先を眼で追うと、初めて佐野家に現れた夜の有り様に、ずぶ濡れの水樹がひどい猫背で立っている。
( ・・・・・・ )
被ったフードは雫の重みを含んで、俯いたままの水樹の横顔を一層 深く覆い隠して表情は測れない。やがて彼は、ポケットに突っ込んだ右手を さも気怠げに引っ張り出した。
( ー なら、終わらせますか。)
長過ぎる袖に隠された何かを、水樹は指先で弄びながら ぶらぶら 振ってみせた。その先端が一瞬、銀色に煌めいた。
ー 水樹くんっっ!?
叫んだと同時に、水樹の濡れそぼった眼差しがズームして成未の視界を埋めた。測り知れぬ深さの哀しみと絶望が、切れの長い瞳を満たしている。

「 ・・成未さん。 成未さんー!!」
繰り返し耳元で名前を呼ぶ声に、恐る恐る もう一度開いた瞳の前に、中村の気遣わし気な眼差しがあった。
「 あっっー・・ !!」
痙攣に駆られる如く跳ね起きようとした肩をしっかりと受け止めて抱き寄せると、中村は そっと囁いて 成未の緊張をなだめた。
「 俺が居ますよー ね。大丈夫ー 大丈夫。」
「 ・・・・・・ 」
素肌越しの間近で鼓膜に伝わる中村の鼓動を辿りながら、成未は呼吸を整える努力をした。毛布で丁寧に覆い隠した腕の中で、彼は成未の髪を撫で続けた。
「 疲れさせちゃいましたね・・・ ごめんなさい。」
「 ううんー。」
頬を上げないまま、成未は首を横に振ってみせた。
「 違うの、 ・・・ びっくりさせて、ごめんね。」
職場の様々な場面に於いて自分を包み、安らぎを与え続けてくれた感触と何ら齟齬のない、中村のほどが善く心地好い肌の温もりに成未は夢中で埋もれた。このまま溶けて、彼の皮膚の一部となって消えてしまいたいと思った。
「 ー せめて、手のひらサイズになりたい・・ 」
「 うんー??」
髪に頬を寄せながら、彼は優しく問い返した。
「 変なこと言ってー ごめんね。 宏太くんのポケットに入れるサイズになって、ずっと一緒にいたい・・・ 」
「 そのサイズの成未さんも、」
包んだ毛布ごと成未の全身を強く抱き締めて少し笑ってみせると、中村は深い吐息を漏らした。
「 可愛いでしょうね、きっとー 」
一たび互いの膚を重ね合わせることの叶った後、若い恋人たちは今更に、寄り添う足元で唐突に ぽっかり 開いた未知なる懊悩の闇に息を潜め立ち尽くしている。一説には、元来 女性の性から派生した後に誕生したのが男性であり、人が地上で肉体を授かるや、元々の同体と再び繋がるために唯一人の相手を探し求める彷徨を続ける宿命が定められているのだと言う。
絶妙な距離の間に長らく身を隔てながらも、彼ら其々の本能は、ずっと早い段階において 互いが 『離れ離れとなった片割れ』である との認知を済ませていたのかも知れなかった。
かつて経験した事のない未曾有の恋しさ 離れ難さに、打ちひしがれるとの表現は奇妙だが、二人で一人分のサイズに毛布に納まったまま彼らは動けないで居る。いまは静かに重なり合う、触れ得る互いの肉体のすべての感触が、例えようの無い心地好さで 自己の存在を溶かし合っていた。
「 ・・・宏太くん、どうしようー 」
「 どう、ってー??」
撫でていた髪を後ろへ搔き上げ、中村は そっと成未の耳元へ口づけた。
「 明日から、あたし もう、まともに生きれない気がする・・ 」
「 まともに って、そんな・・ 」
やや笑みを含みながら彼女の瞳を覗き込んだが、真摯な眼差しを逸らさずに中村は問い掛けた。
「 ー 後悔してますか?」
してないー 鸚鵡返しに応えると、成未は彼の手の在り処を求めて毛布の中を探した。察して伸べた掌に頬を寄せて眼を閉じ、成未は その感触の愛おしさを抱き締めた。
「『好き』って、ほんとに・・ 病気みたい 」
恋を謳った往年の名曲歌謡の歌詞にある如くで、 逢えたら逢えたで堪らなく切ないが、 逢えなきゃ とても耐え切れず、逢わずにはいられないー この、無限地獄的な歓びと悩ましさが 果てしも無く ぐるぐる しちゃう訳である。とは言え、いっぱしの成人同士であるからには、社会に於ける役割や責任をすべて放り出し、四六時中 素膚で毛布にくるまって過ごす事も適わない。比較的 安全な日常が維持されている国家に暮らしてすら、何かに付け、存外と思うに任せない事柄の多いのが人の世の常であるらしい。
「 ひとまずは、飯にしましょうね。」
部屋着代わりに用意したブルーデニムの長袖へ成未の腕を通させながら、中村は観念したような微笑を浮かべた。そして、ソファから離れる前に もう一度 成未を抱き寄せて優しく唇を重ねた。
「 愛していますー 」
















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登場人物紹介

水樹 史也( みずき ふみや)

広告制作会社勤務のイラストレーター。26才。心療内科カウンセラー 佐野 悠介との出逢いがきっかけとなり、かつて深刻であった精神状態から快方へ導かれて以来、悠介へ深い信頼を寄せている。

並外れて繊細な神経に恵まれた一方で、一般的な常識にとらわれない大胆な行動力をも兼ね備えている。

佐野家隣家の牡猫コタロウ( 水樹は一方的にヴァンプと呼ぶ )は親友である。

コタロウ

佐野親娘が暮らすマンションの隣人・黒田さんが飼っている去勢済の牡猫。

遠出はしないが、何故か佐野家へだけはベランダを器用に伝って頻繁に訪ねて来る。穏やかで人なつこい性格で、ツンデレのツン要素はあまり持ち併せていないらしい。

大柄な水樹 史也が繰り広げるスキンシップを実のところは迷惑に感じている、かどうかは不明である。

佐野 成未( さの なるみ )

大手通信販売会社に勤務する27才。きょうだいは無く、臨床心理士の父・悠介と二人暮らし。

十代で母を亡くしたせいもあってか、日常の生活者として揺るぎのない堅実さを備えたしっかり者である。

職場の同僚で後輩にあたる 中村 宏太 に異性として好意を感じているが、適当な距離から見守っていたいとひそかに願っている。

亡くなった母の実姉で、関西在住の叔母・川瀬 愛子 の無敵な明るさも好き。


佐野 悠介( さの  ゆうすけ )

臨床心理士を務める成未の父親。ある意味、純粋な少年時代のひたむきな向学心を持ち続けている。生来の気質としては朗らかで、性善説を信念とする。豪放と呼んでも可いマイペースと他人の反応をあまり意に介さない爽やかさが、弱点でもあり強みでもある。早世した妻の美穂をこよなく愛し、誰よりも傷みを背負っているが、忘れ形見の成未にも敢えて語った事はない。彼の血の通い合った心療の姿勢が、苦しむ者の拠り所となる。

中村 宏太( なかむら  こうた )

成未の後輩にあたる同僚の青年。人間関係に於ける周旋などに、ややもすれば誤解を招くほど不器用な誠実さと真面目さが長所とも謂える。その一本気さゆえ逆境に弱そうに見られがちであるが、外見とは裏腹の不屈な意志の勁さを秘めてもいる。誰にも明かさないが、片親の家庭に育ち自身の努力によって現職を掴んだ不遇な経歴こそが、未来を生きる糧となるという誇りと信念を強く抱く。

その一方、他人知れず成未に対する深い愛情を日々確かめてもいる。


記憶を持たない謎の男

事故なのか、傷害の被害者であるのか、瀕死の重傷を負って忽然と現れ、救急病院へ収容される。

怪我の後遺症によるものなのか、彼の「記憶」には深刻な混沌が生じていた。

唯一の所持品である色褪せた挿絵らしい紙の切れ端と、彼の脳内から無作為に出現するワードを手掛かりに、悠介と里中は心療にあたろうとする。

ところが正体不明者が次々と現れ、彼の身辺はしだいに不条理な危険に晒されてゆく。並外れた体力と身体能力を備えている事実に関しては、疑う余地がない。

里中 睦( さとなか  あつし )

悠介の同窓生で個人の臨床心理クリニックを経営する。佐野家とは美穂の在名中より親しい交流を持ち続けている。学生時代に培われた純粋な理念と悠介との信頼関係を自身の宝としており、悠介に臨床治療の片腕を託してもいる。成未にとっては、心の内を明かせる大切な存在である。

明朗な印象で独特の愛嬌の豊かさが魅力だが、外見とは裏腹のこまやかで緻密な神経を持ち合わせている。

澤村 泰弘( さわむら やすひろ )

悠介らの母校に附属する大学病院の心療内科で治療にあたる若手医師。緻密な頭脳と臨床医師としての適性から、周囲に将来を嘱望されている。公にはされていないが、不幸な幼年期に他家へ養子に迎えられた生い立ちを持つ。

心療を目指したきっかけは自らが幼い頃に負い、癒えることのない心の傷痕にある。少年時代に奏法を学んだヴァイオリンを愛し、多忙な中に於いても一人奏でて過ごす時間を大切にしている。

津久井 慎司( つくい  しんじ )

佐野親娘が居住する地域を所轄する警察の刑事で巡査長。謎の男の身元や負傷した経緯などが究明されないままの現状に違和感が拭えず、真相を突きとめようとする。微塵な情報を見逃さない、物的な手掛かりに基づく公正な分析を規範とすべく自らを律する一方、現場の人間に対する直感的な印象や気付きにも重きを置く。真摯な責任感と誇りが、職務に取り組む信条である。学生時代より精進している空手道の段位は黒帯で三段。

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