第16話 『 Parlez moi d’amour 』

文字数 16,362文字

 20年前の9月中旬ー その日も、午後から降り出した静かな雨足は日没の後も弱まらず、河川敷を濡らし続けていた。時刻は、そろそろ20時を回る頃合いである。連続傷害事件容疑者の潜伏場所を特定していた津久井の父・祐一郎は、所轄警察署の巡査長とともに覆面車輌の車内に居た。深夜に若い男たちの騒ぐ声が煩いと、近隣の住宅より頻繁に苦情が届けられていたマンションを彼らは監視している。8ヶ月ほどの間に、この河川沿いの堤防で、夜間の傷害事件と傷害未遂事件が既に4件発生していた。いずれも不特定の通行者を対象とした犯行と推定され、使用された凶器はサバイバルナイフであった。違法薬物の常用摂取と、更には、薬物売買に関わる大規模な組織の存在が疑われて立ち上げられた特別捜査本部に、祐一郎ほか数名が警視庁より派遣されていた。
被害者の目撃情報以外に有効な遺留物等の手掛かりは少なく、捜査は暗礁に乗り上げるかに見えたが、未遂に終わった事件が突破口を持たらした。護身のため被害者と揉み合いになった際、自らが握っていた凶器で容疑者の身体の何処かが出血した。その極く微量の血液の飛沫が、被害者の衣服に遺されていたのであった。種々の科学捜査が施された結果、捜査本部は一名の容疑者を絞り込むに至った。
先に、ゲームショップ数件での窃盗事件の被疑者として捜査対象となった20才前後の男子数名の中に 新美宏之が居た。逮捕・勾留に及ばなかったものの、この折に採取されたDNA型記録が今回の傷害未遂事件の遺留記録と合致するとみなされたのであった。新美の身辺を捜査するにつれて、その傷ましい家庭環境が浮き彫りとなっていった。父親はかつてプロのベーシストで、母親は小さなライブハウスでシャンソンを唄っていた。新美が中学に上がった頃、バブルの崩壊を境に仕事が激減し始め、父親の所属するオフィスが多額の負債を抱え倒産して以後の窮状は、甚だしかったらしい。母親は歌い手を返上してスーパーマーケットへ働きに出た。だが父親は一般的な職種への就職を頑なに拒み続け、自身の音楽性に活路を見出す一点のみに執着した。しだいに引き籠りがちとなって貯蓄は底を尽き、母親は流通倉庫の夜勤の仕事を増やして どうにか兄弟を養った。
当時、小学2年だった紫乃は母の居ない帰宅後の時間を、動かない父親の存在に怯えながら過ごさざるを得なかった。遂には徐々に精神を蝕まれてゆく父親の有り様が、折しも繊細な思春期を迎えていた新美に与えたであろう抱え切れぬ苦悶と憎悪の膨大さは、想像に難くない。
やがて、家族を養う生活費でもなく己れの活動資金を得るために、父親は悪質な金融へ手を出した。そこが、この家族にとって最終の崩壊点となった。返済を督促する業者らの只ならぬ訪問が頻繁となる中に成す術もなく、ある日前触れなく父親は全てを投げ出した。妻と未成年の子らを放棄して家を出たきり、行方が判らなくなった。途方に暮れた母親は実家からも断絶を申し渡されて、殆んど半狂乱の精神状態で区の福祉課へ駆け込んだのであったー
「 新美が外出しますー 一人ですね。」
運転席でハンドル越しにエントランスを見張っていた傍らの巡査長が、低く呟いた。傘は差さずに上着のフードをキャップの上へ重ねて被っている。その長身とは不釣り合いに痩せすぎで酷く猫背な特徴的な容姿を、祐一郎は暗い車内から確認した。この折以前、新美とは3回 他の捜査員を交えずに会話する機会を設けていた。
「 話をして来ます。指示を出すまでは動かんでいて下さい。」
物音を立てぬよう、祐一郎は降車した。やや先回りした逆方向から自然な邂逅を装い、透明なビニール傘を上げてみせた。
「 新美君。ちょうど会いに行くとこだったよ。」
「 ??・・・・ 」
目深なバイザーの下に隠された新美の視線は、ゆっくりと前方の祐一郎を認識したようであった。そのまま立ち止まったので、祐一郎もズボンのポケットに右手を突っ込み、両者は堤防沿いの舗道で しばし対峙した。陸橋の交通量は少なくなっている。雨の滴がさほど大きくは無いせいか、河川の水量は緊張をもたらす程には増えていないようであった。衣服を濡らす夜半の雨は 寂(しん)として、既に冷たい。
新美の自宅を幾度も訪ね、祐一郎は母親からも出来得るだけ事情を詳しく聴いていた。正式な離婚を成立できぬまま特例的にひとり親家庭の認可を取り付けて、どうにか公立高校へ進学が叶った。しかし新美は高校生活に馴染めず、次第と素行の良くない生徒たちへ無気力に身を委ねるようになっていった。2年の夏休みからは捜査対象となっている賃貸マンションに転がり込んで、家に戻らなくなった。いわゆる半グレ集団の主格にあたると思しき男が、部屋の借り主であった。
「 先週、妹さんと話した。」
「?!・・・・ !!」
一瞬、掴み掛かって来ようかと思われた鮮烈な怒気は忽ち潰え、ようやく二十歳を迎えようとする若者は、奇妙な折れ方で長い身体を半分にして屈み込んだ。
「 ー 大丈夫か。」
早足で歩み寄る祐一郎の足元へ四つ這いで這い進むと、新美は刑事の両の足首を異様な強さで掴んだ。
「 ・・新美君、どうした。」
頭上を傘で覆い、静かな物言いで問い掛けた祐一郎へ顔を上げぬまま、新美は痛切な呻き声を上げた。
「 妹を・・ 妹をー !! 助けてくださいっっ!!」
「 ー?? なんだ。何かあったか?」
慎重に手を差し伸べ、河川敷へ下る階段の最上段まで誘導すると、先ずは並んで座らせた。
半分以上差し掛けた傘の柄を顎に挟んで両手を開け、傍らを覗き込むと、やはり表情の見えない青年は全身を震わせていた。
「 息ができるかー?」
右手を そっとジーンズの膝に置くと、石のように冷えている。さほど年端の違わない息子を持つだけに、祐一郎は捜査に不必要な情が心底に騒めくのを禁じざるを得なかった。
「 俺、稼げてねえからってー 」
言葉を詰まらせ、俄かに昂揚する感情の起伏に自らが翻弄されて、新美は身体を揺すりながら啜り泣いた。
「 明日中にカネ入れないと、妹を拉致ってー 風俗へ売るって・・・ 」
「 ・・・・・・ 」
祐一郎は、その背を静かにさすった。
「 ー家に帰れよ。」
「 ー?!」
明らさまな混乱と困惑の気配を剥き出した横顔に、祐一郎は続けた。
「 家の周りは警察で見張る。明日の朝8時に俺が迎えに行くから、署で話をー 」
「 嫌だよ!! 警察なんかー!!」
最後までも聞き終えず反射的に叫んだ襟元を、祐一郎は容赦なく掴んで引き寄せた。傘が後ろへ落ちて、暗黒の夜空遥かより、音立てぬ雫が頭上に降り注ぎはじめた。不意を突かれて動けずに居る新美の顔をフードとバイザー越しに凝視し、祐一郎は低いが強い声で告げた。
「 ・・口を閉じとけ!」
「 ーはあ??」
二言は聞かず、祐一郎は大きな分厚い掌を挙げるなり、往復の平手打ちを新美の顔面に呉れた。
「 !!! 」
襟元を固定されて倒れないものの、脳内の中心まで届く衝撃をひと息堪えて、新美は刑事の両手首を掴み返した。
「 あんた・・ 警官だろ?! 良いのかよっ?!」
「 警官だってー ガキの親に違いがあるか!」
「 はああ?! 意味解んねえしー 」
ようやく手を放すと、祐一郎は傘を拾い直した。
「出来の良くない息子にも、言って判らん時にはやる。
野郎ってのは、痛い目観んと解らんもんだ。」
「 ・・・・・ 」
細長い両脚を邪魔そうに胡座を掻くと、新美は頬を痺れさせている傷みの名残りを、躊躇いがちに指先でなぞった。
「 ・・ そんな、親父が居てくれる奴だって、いるのになー 」
待機させてある車輌へ同行させようと立ち上がった時、巧まざる不測の不運が、彼らを阻んだ。
河川を挟んだ向かい側をルーティンの巡廻中で通り掛かったパトカーの警察官が二人を見咎め、最寄りの橋を迂回し徐行して接近した。
「 ・・ お巡り??」
停車した車輌から制服警官が降り立つのを見とめた新美の神経が瞬時に強張るのを、その痩せた背に添えた掌越しに祐一郎は感じた。
「 大丈夫だ、俺が話すー 」
単なる情緒不安等であればこそ、であった。新美の体内機能は成長期よりの常習的な薬物の摂取により、実年齢の成人を迎えずして各所に無惨な綻びを生じていた。異常な峻烈さで、不信と憤怒の鋭利な杭が、彼の頭上高くの何処よりか打ち込まれた。
「 くそおーっ!!! ハメやがってっっ 」
咄嗟に肩を押さえて鎮めようとする腕を振り切りざま身体を半分に折り曲げ、祐一郎の腹部へ烈しく頭突きを喰らわせた。足元が糠っていたせいもあり、体の均衡を保ち切れず 祐一郎は右後方へ転倒した。この折、堤防の石段が右後頭部を直撃した。耳の奥で厭な音が響くのを奇妙な冷静さで感知してから、束の間 意識が消滅した。
「 ーおいっっ!! 待ちなさいっっ!!!」
警官の年若そうな怒号が、祐一郎を暗黒に濡れそぼる現場へと引き戻した。
「 ・・・・。」
あやふやな五感の感覚を確かめながら、後頭部の違和感へ指で触れてみると生温かく濡れている。
( ー 切れたか。)
慎重に立ち上がろうと、いったん地面に両脚を投げ出して座り状況を見遣ると、新美と警官、覆面車輌から駆け付けた所轄巡査長が、腰を落とした姿勢で対峙している。祐一郎の落とした傘の先を窄めて携えた新美が、凶器代わりに警官らへ差し向けていた。
「 ー警視庁刑事部の津久井だ! 聴取中・・ 」
祐一郎が警官に呼ばわった瞬間、新美は傘を投げ棄てて駆け出した。
「 新美っっー 」
いま逃亡させては、絶対にならない その意志のみが、祐一郎を走らせた。
全力で追っている筈にも関わらず、平常の徒歩ほどの速度しか感ぜられぬ苛立ちと、曖昧になっている痛感を引き摺って祐一郎は叫んだ。
「 逃げるなっっ!! 一緒に来い !!!」
「 ・・・・!!」
粗暴な肉食動物のごとき素早さで祐一郎目がけて駆け戻るなり、その胸に新美は飛びかかった。そのまま川堤の草叢の傾斜へと、二人は揉み合いつつ転がり落ちた。そして、ようやく留まった泥濘の中で祐一郎の襟元を掴むと、新美は その頭部を烈しく揺さぶって地面へ打ち付け続けた。
「 どいつもこいつもー バカにしやがって!!! くそっっっ!!!」
自身を見失っている青年の手を解かせるべく、その手首を掴んだものの、しだいに祐一郎の意識は遠のき始めた。
追い着いた警官らが、背後から新美を取り押さえたー 引き離される間際、不意に新美が顔を近く寄せて何かを叫んだ。やはり視線は見えなかった。細い顎の口元が、苦しげに歪んだ気がしたー

救急搬送の後、可能な限りの懸命な処置が施されたが、意識の回復を見ぬまま 翌日の明け方に祐一郎は息を引き取った。

検察へ送致された後、当事件に対する公判請求が行われ、大麻所持罪 傷害罪 傷害未遂罪 及び 殺人罪の罪状を併合した30年の懲役と執行猶予なしの実刑判決が新美へ言い渡された。弁護側は第一審の判決を不服とし、直ちに量刑不当と事実誤認を事由に控訴審の手続きを行った。事件発生時、被告は未成年であり、常識より逸脱した不遇な生い立ちの背景を軽視すべきでないとし、情状酌量と減刑を裁判所へ申し立てた。控訴の論点としては、三点を掲げた。
本被告に対しては、大麻所持罪 及び 傷害未遂罪 傷害致死罪 三種の併合罪の適用が妥当である。第一審の量刑根拠には、重大な事実誤認がみとめられる。事由の根拠は、以下三点の事実に拠る。
一、違法薬物の常習摂取により、被告は当時 深刻な心神耗弱状態にあり、故意の殺意はなかった。
二、被害者とは在命中より交流があり、当日 捜査協力のため説得に応じる対応を行っていた。
三、別途発生した複数の傷害事件に被告は関わっておらず、実際に実行したのは傷害未遂事件の一件のみである。
この控訴は棄却され、さらに上告が試みられたものの、下された判決は やはり棄却であった。

 津久井が初めて紫乃の姿を見かけたのは、祐一郎の四十九日の法要が終わって間もない、その年の瀬に開かれた公判の折であった。法廷の傍聴席最前列 右端に設置された席に、新美母娘は着席していた。審理の行程で、母と娘それぞれが情状証人として証言に立った。中学2年だった紫乃は学校のセーラー服で、長い髪を首の後ろで纏めていた。背筋を伸ばして証言席に着席すると、正面を見据えて尋問への返答にのぞんだ。検察側の反対尋問に答える彼女の言葉を、当時17才の津久井は傍聴席から真摯に聞き入った。
「 被告人が起こした事件について、簡潔に説明してもらえますか?」
「 間借りしている部屋の借り主に命の危険を感じる脅しを受けて、金品を奪うために不特定の人へ暴力を振るい、怪我を負わせました。その後、借り主から妹である私に危害を加えると脅されました。被害者の方へ相談している時 他の警官が現れて怖くなり、逃げようとして被害者の方へ暴力を振るってしまいました。」
裁判官からの補充尋問で、' 被告人が今回の事件を起こすに至った 最も大きな原因 ' について尋ねられると、紫乃は裁判官を見上げながら懸命に言葉を綴った。
「 兄はー 優しくて気の弱い性格です。行方不明になった父さえ ちゃんとして居てくれたら、違いました。母は昼も夜も働いて、親戚や学校や知り合いの人に兄の事を相談していました。でも! ・・誰にも手を貸してもらえませんでした。」
最後の言葉が震えていた。胸を打たれる想いを、なぜか津久井は禁じ得なかった。さればこそー 自らの手を差し伸べられ得る領分に於いて、被告人を更生へ導こうと父は心を砕いていた筈ではないのか。

被告人質問で証言台に立った 新美 宏之の有り様は、さながら洋服を纏わせた亡霊のようであった。公判を前に母親が心尽くしで差し入れた濃紺のスーツは、丈に合いながらも痩せ過ぎな体格に大きく余っている。短く刈り上げられた長いうなじには、依然として、少年の か弱い名残りが滲んで見えた。検察官より舌鋒鋭く浴びせられる反対尋問に対し、黙秘を行使する事なく、新美は終始俯きがちに低い声で回答を続けた。罪状に関しては、一連の傷害事件への関与と祐一郎に対する殺意の二点は否定した。
最終陳述を迎え、裁判官より ' 最後に、言っておきたい事があるか?' と尋ねられて、新美は両の掌を握りしめながら しばし立ち尽くした。
「 特に無いですかー??」念を押されると、彼はこの日初めて蒼白い顔を上げて裁判官を仰いだ。
「 ー 津久井さんは・・ 生まれて初めて、話を聞いて欲しいと思った人でした。あの時、津久井さんに従っていたら・・・ こんな事にはー 」
激しく込み上げたらしい嗚咽を懸命に呑んで堪え、彼は最後の言葉を絞り出した。
「 ・・ 俺の、父親になって欲しかったですー 津久井さん、ごめんなさい。
・・・・ ごめんなさいー !!!」
「 ・・・・・・ 」
泣き崩れて被告人席へ誘導される新美を見つめる津久井も、傍聴席で止め処なく落涙していた。

父と最後に言葉を交わしたのは、事件の一週間ほど前、週末の深夜であった。いったん深く就寝した後 珍しく目が覚めた津久井は、冷蔵庫内の麦茶を飲みにキッチンのドアを何気なし開けた。すると思い掛けず、間接照明がぼんやりダイニングテーブルを照らしている。日を跨いで帰宅した祐一郎が、遅過ぎる夜食を採っている最中であった。この折以前に父と顔を合わせたのは、おそらく夏休み中の事だった。
「 お? なんだ、具合でも良くないかー??」
ネクタイは外していたが、襟元を緩めたワイシャツの袖を、ぞんざいに肘までまくったままである。テーブルの上には、充電中の携帯が置かれていた。気遣う言葉とはやや異なる趣きに、祐一郎は日焼けした顔を柔らかく綻ばせた。この数ヶ月の間、城南地区の特捜で根を詰めているらしい旨を、ごく ざっくりと、母からは聞いている。
「 いや、別にー どうも無い。」
素っ気なく応えたきり、冷蔵庫の前で喉を潤す津久井の背中を眺めていた祐一郎は、夜食を頬張りながら言葉を続けた。
「 お前、明日休みだろう。ちょっと座れ。」
「 えー・・ ?! 面倒い。」
「 どうだ? ちっとは、勁くなったか??」
あからさまにシブる反応を意に介さず、祐一郎はテーブルの中央を空けて右肘を突いてみせた。向かいに座って相手になれ と手振りで示す、 体格的には ほぼ互角まで近くなりつつある父に逆らい切れず、津久井は椅子に腰を下ろした。少年の時分より、父子で共有する貴重な時間ごとに、護るための腕力の重要さを祐一郎は諭し続けて来た。
「 ・・・・・ 」
気の向かない風で、ごく久し振りに握り合わせた父の掌が、一層 分厚く力強く感ぜられた。
「 ー行くぞ!」
合図を聞いた瞬間、津久井の本気モードがオンになった。連日の激務で疲れているはずが、祐一郎の右腕は びくとも動かず、垂直を保ったままである。思いのほか増している息子の力強さの感触を、祐一郎は掌越しに ゆっくり確かめていた。
「 慎司、・・ずいぶん勁くなったな。」
「 ・・・・・ 」
なおも諦めず ムキになって力を込めてくる息子の横顔に、この折にも 祐一郎は常と変わらぬ口癖を改めて諭した。
「 油断せずに鍛えとけよ。 ー先ず力が無いことには、何も護れんからな。」


     サアアアーーー ツッッッ
不意に、直ぐ耳元を重い雨量を孕んだ雨音が駆け抜けた感覚を覚えて、津久井は瞼を開いた。
「 ・・・・ ??」
飲んでもいないのに、酷い二日酔いで迎える明け方のような重い倦怠を身体の芯に感じた。同時に、すこし遠くで傷痕の疼きが痺れを伴い、現つの世界に自分がいま在る事を彼に識らしめた。俯せたベッドのシーツに遺された、気高く甘やかな香りを心地好く五感で辿りながら、非情にも、津久井の纏った夢の魔法は しだいに解けようとしていた。
瞼近くを、触れるか触れないかの ごく微かな接触で くすぐる何かの存在を感じた時、紫乃の声が密やかに憚って囁いた。
( くぅちゃん・・ 寝ていらっしゃるの。 起こさないであげて、 ーね?? )
「 ・・・・・・。」
大人気もないー と 心のうちに自嘲しながら、いま暫くは 寝た振りのままで居たいような、凡そ少年染みた感傷の浅瀬に津久井は浸って横たわっている。その額に、心地好く湿った柔らかな指先が触れて、彼はゆっくりと眼を開いた。
「 ーごめんなさい。 起こしてしまって・・ 」
ベッドサイドの小さな灯りが、紫乃の面影を薄く照らし出した。ナイトガウンをまとい、濡らしたガーゼを手にしている。冷やした掌を そっと津久井の額と頬に充てて体温を確かめると、紫乃は 彼の瞼の周囲をガーゼで慎重に拭いはじめた。
「 少しお熱があるように思って・・・ 」
「 ・・・・・・ 」
留める事も忘れたまま、顔面を癒す 自分とは異なる性別を持った '女' という存在の持ち得る 稀有な柔軟さに、津久井は何か 胸深くを打たれた。その情の深さは、果たして如何ほどであろう。地上に降りしきる秋雨よりも細やかに、彼女の真心は 恋しい男の傷付いた身体と心を気遣って、しめやかに夜を通して潤し続けるに違いない。
「 気分がお悪くないですかー?? どうぞ、少しお水を召し上がって・・・ 」
サイドテーブルの上で、紫乃は よく冷えたミネラルウオーターをグラスに注いだ。
「 紫乃さん・・ 」
上体を起こして グラスを差し出した白い手を両手で包むと、津久井は真っ直ぐに紫乃の瞳を見つめた。
「 ー 済まなかった。 貴女の気持ちも聞かずに、俺は・・ 」
「 もう ーもう、'紫乃' と呼んで下さい。どうか。」
最後まで言わせず言葉を遮り、紫乃は津久井の胸に頬を寄せて縋った。しなやかな温もりが、彼の存在の内の空洞を心地好い密度で忽ち満たし、覚めたくない魔法で もう一度包み込んでくれた。
「 好きになってはいけない、と ずっと戒めていました。」
「 ・・・・・・ 」
腕の中に強く、津久井は紫乃を抱き締めた。そして、彼女の柔らかな髪に頬を埋めた。
「 ー 五年前に猫ちゃんが代替わりした時、わたしが名前を付けたんです。」
「 ?? ーうん。」
「 ・・・お気に障ったら ー叱って下さいね。」
「 ??? 」
ふと、いつの間にかベッドの枕元へ収まって、丸く輪を成し ふくふく と寝息を立てている赤トラ猫を、津久井は見遣った。どうやら、就寝時に於ける彼の定位置であるらしい。
「 自分だけ解るようにー 津久井さんのお名前から 一字 頂いて 'く'ぅちゃん にしたんです。
こっそり、いつも貴方のお名前を呼べるように・・ 。」
「 ・・・ ー!! 」
自分の腕の中でいっそう息を小さく 美しい睫毛を震わせるばかりの女の健気さに、津久井は 烈しい目眩を覚えるほどの愛おしさを感じた。同時に込み上げた嗚咽を堪えきれず、思わず掌で額を抱えた。
「 大丈夫ですか? お加減がー 」
眼を大きく仰ぎ見た頬の薄い膚を辿々しくなぞりながら、津久井は声を絞った。
「 済まない。 ー 俺さえ もっと早くに決心して、迎えに来ていれば・・・ 」
淑やかに頬を寄せると、続きが察せられたのか 紫乃は小さく首を横に 『いいえ』と、動かしてみせた。
「 お母さんを死なせずにー 」
わななく唇に、紫乃は自らの優しい唇を重ねて 言葉を遮った。慌ただしく求め返そうとする津久井の視界を埋めた潤んだ瞳は 幾らか淡い煉瓦色で、枕元を照らす灯りに薄く透けている。
「 母を救えなかったのは、わたしの責任ですー 」
「 紫乃 」
「 でも・・ 」
両の頬を涙の雫が伝ったが、彼女は視線を逸らすことなく穏やかな微笑を浮かべた。
「 母は、津久井さんに心から感謝していました。 お父様(故 祐一郎)のお墓にお参りするのを許して頂けた、本当に有り難いって・・ 」

交番勤務の最後の年だった。パトロールで近隣を通りかかった際、津久井は初めて新美宅を訪問した。かねてより、折り入って打ち明けていた同僚の村山が、さり気無く背中を押してくれたのであった。

声を掛けておいてあげた方が、親父さん 喜ぶんじゃないかー。
あちらも、母ひとり娘ひとりなんだろう?

新美の母親は、積年の苦労と心労が果てを尽いたかの如く、三年前の年頭に著しく体調を崩して緊急入院した。精密検査の結果、末期ステージの肺ガン 及び 深刻な心臓弁膜障害に罹患している事実が判明した。手術と長期に亘る入院治療が必要と聞かされて、彼女は衝動的に、自ら死を選んだのであったー

「 ・・・抱いて下さるなんてー まるで夢のようです。
此処で、いま・・ 死んでしまいたい。」
息尽きてしまいそうな ひたむきさで 自分の膚へ縋る女の、儚なすぎる身体を つい、骨格が軋むまでの強さで津久井は膝の上へ抱き上げた。
「 ー俺が、必ず護る! だから、どうか貴女は生きて・・ 俺を生かしてください。」
「 津久井さん・・ 」
無骨な男の両手へ細い指先を滑らかに潜らせると、絡ませた指の一つ一つに、紫乃は丁寧に口づけた。
「 ・・ ご無事をー いつも、お祈りしていました。」

生命を紡ぐ唯一つの よすが で在った男へ注がれるべき紫乃の情愛に育まれ、満ち足りて眠る猫の傍らで、 津久井は目眩く愛の疼きに貫かれるままに 紫乃を求め続けた。



( ー中村くん? ね、きれいだね。)
すぐ傍らで成未が語り掛けた気がして、中村 宏太は 右横を見遣った。思いがけず、自分の肩越しに 可憐な瞳が大きく煌めいて彼を覗き込んだ。そして、遥かを仰ぎ見た。
( 満月なのかなあ、今日ー )
( えっっ ??)
視線を辿って見上げた先に、煌々と輝く銀箔の月が夜空高くに丸く浮かんでいた。
( ほんとだ・・・ きれいですね。)
月はともかくも、成未に先ず どんな言葉から始めて話を聞けば良いものか決めあぐねて、中村は俄かに苛立ちを覚えた。
( 成未さん、俺ー )
( ー?? )
軽やかに返り見た笑顔が、突然フリーズした。中村の視界が無機的に白く埋まってゆく中に在って、成未の面影が次第にぼんやりして、やがて白だけの世界になったー
  !? ー成未さんっっ !!!

見開いた彼の実眼が捉えたのは、自分が暮らす部屋の見慣れた紺のカーテンだった。
「 ・・・・・・ 」
少し呼吸が乱れているのを鎮めながら、中村はサイドテーブル上の携帯に手を伸ばした。土曜の午前5時7分だった。
「 ー ・・・。 」
仕方なく起き上がり、ミネラルウオーターを一口飲むと戸外の気配に耳を傾けてみた。最寄りの国道から車輛の走行音が微かに聞こえたが、10月を迎えた週末の街は緩やかに早朝を過ごしているようであった。
この年、中村の身近な場所から成未が忽然と姿を消して戻らぬまま、夏が始まり ほぼ終わった。
近いと言っても、プライベートで交際して来た訳では無い。しかしながら入社後の研修を経て現職に配属されて以来、実務に費やす時間の殆どを、彼は成未の傍らで過ごして来た。課内で最若年の中村に対し、種々様々な思惑が交差する人間関係の中に在って、成未は常に明朗で居ながら泰然として ぶれる処がなかった。外連味(けれんみ)なく爽やかに実務を手解きながら、中村の未だ青く尖っていて勿体ない弱点や失敗を、連日のようにフォローし続けてくれた。男勝りかと思えば、それでいて不思議な天然で愛らしく、乙女ほどに無垢で純粋な優しさに満ちているー
「 ー よく、笑ってる・・・。」
掌の中で、携帯に保存されてあるレク行事や忘年会など課内で撮った写真を、中村は辿った。いつも化粧の薄い成未が、澄ました表情で写っている写真は ほぼ無かった。何かしらキメようとする変顔か、思い切り笑った 破顔の笑顔ばかりだった。
中村にとって最も深刻だった打撃は、成未との連絡方法が ふっつり 断ち切れてしまった事だった。事件の後、携帯番号を変えたらしくSNSの旧アカウントも全て無効となっていた。社内で問い合わせても、個人情報である上に刑事事件の捜査中という事で、情報は固く封じられたままであった。事件のあらましに関してすら、新聞やニュース等のごく表面的な内容しか判らない。
実父の方が臨床心療の先生だから、自宅でひと月PTSD(精神的後遺障害)の治療をするらしい。くれぐれも、そっとしておいてあげるようにー
とだけ、夏期休暇前に課の上司からメンバー全員へ説明があった。
「 はー ・・・。」
二度寝が叶いそうにないと諦め、一つ溜息をついて、彼はローベッドから抜け出した。とりあえずコーヒーメーカーのセッティングをして、カウンターに飾った細身の花瓶の水を新しく入れ替えた。この青年特有の健気さで、何かの折に成未が好きだと言っていた '紫色のアネモネ' という花をあちこち探し廻っては、飾っていた。そもそも 'アネモネ' そのものの形状が判らず、携帯で検索した画像をフラワーショップの店頭で確認してもらった。見舞いにも行けない代わりに、せめても回復を祈りたかった筈が、成未に見立てて花へ話しかける度 彼の心の虚無は膨らむ一方であった。
「 なんかー 目覚めちゃいました、成未さん。」
レギュラーの量がいい加減だったせいか、カップに注いだコーヒーは過度に濃かった。ふと、寝間着代わりのカットソー一枚では肌寒いのに気付いて、椅子に引っ掛けた薄手のニットを羽織ってデスク前に座った。パソコンとタブレットを開く気になれない。熱いコーヒーを啜ると、眉間の奥深くまで神経に染み渡るような刺激を覚え、中村は しばし瞼を閉じた。9月を迎えて職場復帰を果たしたものの、差し当たり成未の就業は総務部の三嶋の管轄内で負担軽めの慣らしから始める との、人事部の方針である。おかえりなさい の社交的な挨拶のみで、個人的な会話は未だ実現できていない。部署のフロアが違うため、昼食時間に食堂を訪れる際には いつも、それとは無く成未の姿を探した。これまでに3回、総務部の女性社員らと昼食を囲んでいるのを見掛けた。距離を隔てて見遣る彼女の印象に、大きく変わった風は見受けられなかった。ただ、夏前よりも痩せたように中村には思えた。それと、髪型が少し違っていた。いつもストレートを顎の下辺りで揃えていたのが、肩に付く長さまで伸びて前髪が下りている。そのせいなのか、以前に較べると大人っぽい雰囲気を感じて、中村は なお一層 成未が遠ざかったようで遣る瀬なかった。
一度、ふと目を上げた成未と、斜めに3テーブルほど隔てて視線が逢った。中村は動揺したので、笑みを浮かべられぬまま 不自然な表情で、低く右手を振って見せるのがやっとだった。成未は、いつも通りの笑顔で彼に手を振った。そして彼を見つめた成未のよく動く丸い瞳が、何かしら伝えたい想いを込めたように 中村には感ぜられた。しかし同席していたメンバーと予定があるらしく、間もなく成未は退席して行った。去り際にもう一度 中村を見遣ると、ランチのトレーを抱いた片手で、彼女は小刻みに手を振ってみせた。今度は どうにか微笑で返して、中村は理由もなく繰り返し頷いてみせたー

軽くシャワーを浴びた後、近所のベーカリーでお気に入りのチーズフォカッチャとサラダで朝食を済ませた。差し込む陽射しが温もりを伝え始めたのを感じ、中村は窓を開いて空を仰ぎ見た。申し分のない晴天の一日が控えているらしい。
「 ・・・・。」
今更になって、俄かに強烈な眠さを感じた。特に予定は無いにせよ、秋晴れの週末を うっかり妙な時間帯に寝過ぎたりするのも如何なものか と気が引けた。が、再び諦めて、一時間後にアラームをセットするとカウチソファに体を投げ出して毛布を被った。程もなく、彼は深い眠りに引きずり込まれた。
次に意識が戻ってきた時、何かしらの違和感を覚えて中村はテーブル上の携帯に手を伸ばした。思いの外 明るい陽光が室内を満たしている。時間を見ると、既に午前11時を過ぎていた。アラームはオフになっているのだが、まったく記憶がない。
「 んんー???」
しかも、未登録の不明な番号から一時間ほど前に着信の履歴が残されていた。
「 なんだっけー??」
ソファに座り直して頭を ごしごし擦ってみたが、思い当たる節がなかった。かけ間違いか、性質の良くない無言電話かー 下手にいじらず削除しておこう。
冷め切ったコーヒーを目覚ましに口へ運んだと同時に、携帯が着信を告げた。同じ番号からだった。
「 ・・・・・ 」
溜息混じりで携帯を手にすると、応答をスライドして相手の反応を窺ってみた。
「ー あの、ごめんなさい・・ 」
「?? ーはい?」
怪訝そうな女の声が、ためらいがちに何処かより中村へ話し掛けた。
「 中村くん、お休みの日にごめんねー 佐野です。」
「 えっっ???」
たしかに、成未の声だった。
「 な・・ 成未さん、ですかー??」
つい、携帯を強く握りしめると、中村は確認を返したものの奇妙な抑揚になった。
「 色々、本当にごめんね。いま大丈夫だった??」
「 あ、全然ー 大丈夫です。 それより・・ 総務で、逆にしんどくないですか??」
電話の向こうで、ひと息 成未が微笑んだように感じた。
「 どうもありがとう。中村くん、あの・・ 」
明日、少し時間をもらえるようだったら、どこか静かな所で会って話がしたい という趣旨を成未が続けた。中村は精一杯 呼吸を整えつつ、混乱する脳内をなだめて適確な稼働を促した。どうにか、成未の自宅最寄りの隣り駅が直結している、程よい規模のモール中庭のデッキテラスでランチする事を決めた。念のため、雨が降った場合の待ち合わせ場所をもう一つ決めて通話が終わった。
「 ・・・・・ 。」
成未の新しい番号を登録し終えて、中村は 何か ぼんやりと、掌の上の携帯を眺めた。久々に聞いた彼女の声に何ら変わりは無かったし、とにかくも明日、逢うことが叶った。ので、あるがー
おそらくは、其れなりの決心をした上での連絡だったに違いない。成未が伝えたいと思うのは何についてなのか。いや、むしろー その時間を使って、自分が成未へ必ず伝えなければならない言葉は何か。
いずれにせよ、明日に予定した時間が 掛け替えのない大切な、一つの分岐を示唆する予感がした。意外なほど気分が重く沈む感覚を覚え、彼は窓辺に立って空を仰ぎ見た。水色の高い空に、二筋の飛行機雲が雄大な平行線を貫いて、しだいに淡くばらけて果てでは混じり合っている。
この二年と半年ほどの間、成未を想って来たのは真実で、悔いなど無い。殺伐としがちな日常のごく身近な場所に 想いを寄せたくなる異性が在ってくれた事を、中村は改めて、心から幸せだと思えた。
「 成未さん、ありがとう。 俺はー ずっと、貴女のことが大好きです。」
微風に ふわふわ 戯れるように揺れる、数本の鮮やかな紫の花へ、彼は優しく語り掛けた。

 あくる日曜も、幸い好天に恵まれた。正午近くになって、戸外では肌を直接照らす陽射しが やや強過ぎるかと思われるほどに暖かな秋の休日となった。ダイナーのテラスで一席予約を入れてあったが、中村がモールに着いたのは待ち合わせの一時間以上前だった。中庭を見降ろせるコーヒーショップのカウンターでしばらく過ごし、念のため携帯への連絡を気に掛けながら外へ出た。石畳の敷かれた舗道の周囲に、芝生の小さな緑地が幾つか点在している。遊具等は設置されていないものの、低く揃えられた木材で仕切られたエリアは幼児らの遊び場でもあるらしい。子どもを裸足で遊ばせながら、シートを広げて昼食の準備をするファミリーの姿も見受けられた。
沿線の私鉄車輌が乗り入れる駅のエントランスは、中庭を挟んで、ちょうど向かい側のエスカレーターを昇った位置にある。穏やかな休日の陽溜まりが心地好く、エスカレーターと約束のテラスの両方が見渡せるベンチで、中村は瞼を閉じてみた。頭上に響き来る車両の走行音と、到着、発進を告げるアナウンスを おそらく二往復ほど聴いた。ふと、直ぐ傍らに何か気配を感じて眼を開いた。
「 ??・・・・ 」
会議等の際に隣席でよく見掛けた、少し遠くを仰ぐような成未の横顔が、自分の右横に在った。
「 あー あれっっ?? えっ? いつ来てました!?」
ここでも声をひっくり返してしまった中村に、成未は 堪らなく懐かしい笑顔を優しく浮かべた。
「 着いたの、2本前かなー? ごめん。なんか心地好さげだったからー 」
「 やー・・ 気付かなかった。 すみません。」
ばつの悪い苦笑を滲ませ、両手で額を抱え込む中村を見つめながら、成未は笑みを俄かに翳らせた。
「 中村くん、ちょっと痩せないー?? 大丈夫??」
「 ・・・・・!」
恥ずかしいくらいに、中村は嬉しくて懐かしくて、涙が溢れそうになった。咄嗟に、遥かな高みより降り注ぐ陽光に懸命に紛らわせて ごしごし顔を擦って深呼吸をした。
「 俺は大丈夫ですよー 色々、本当に大変でしたね。」
微笑んで返すと、 昼飯にしましょうー と、成未を促して立ち上がった。

中庭に面したテーブルでランチを摂りながら、さながら社内食堂で摂る昼食のように、この数ヶ月間の課内の出来事や現職の様子について互いに話した。特段、取り留めもない話題ばかりだったが、前触れなく ぽっかり 空いた未知の時間を忘れさせる 心地好い会話だった。共有して来た長い時間のうちに育まれた信頼と、侵し過ぎずに保たれた優しい距離感に何ら変わるところは無かった。食後のコーヒーカップを両手で包んで、成未はふと表情を変え 中村を見上げた。
「 ずっと前から、ちゃんと言いたかったのー 中村くん、いつも本当に、どうもありがとう。」
「 えっっ・・ ??」
斜め向かいから真摯な眼差しを注ぐ成未を、彼は改めて見遣った。いつもと変わらず薄化粧だが、女性にしては彫りの深い、しかし尖りのない小作りな面差しに、中村はおそらく初めて 純粋に '異性' を感じた。胸の中の何処かが ずきんー! と烈しい傷みを伴って疼いた。
「 母の法要から色んな事があり過ぎてー それまでの自分が、何もかも許せなくて・・・ 」
「 いや、なんだってそんなー 」
やや気色ばむのを隠さず上体を乗り出した中村に、成未は順を追って、プライベートな出来事と自らの心の在り様を伝え始めた。受け入れ難かった母の急死、父へのわだかまりや子供っぽい責任転嫁、知らず識らず演じていたバーチャル優等生な自分、永らく父のサポーターだと思っていた水樹と云う存在ー
「 あの事件のこともねー 父の配慮の無さ過ぎが、とんでもなく周りを巻き込んでるんだって、許せなかったんだけど 」
「 ーええ。」
両手の指を組み合わせて耳を傾けつつ、中村は視線を逸らさずに誠実な相槌を打った。
「 その後、父は一言も言い訳とかして来なくてー 」
成未は、少女めく 透明な微笑を浮かべた。

父なりの、譲れない大事なものがあっての事なんだよね。・・どうしても守りたい患者さんを庇って。
十代の頃、母のことで何度も父を責めたの。でもー 一度も、一言も言い返さなかった。そんな父を、卑怯とか無責任とか、本気で嫌ったりしてたの。
一番辛い思いしてたのは、本当は父なのにねー。

「 こんな話・・・ ごめんね、中村くん。本当に。あたし、本当に・・ バカさ加減半端なくて 」
「 ー 成未さん!」
無意識だった。中村は、届く位置にあった成未の左手を強すぎる力で握っていた。成未が職場で出逢った事のない、堅固な意志を湛えた青年の清冽な眼差しが、彼女を見つめた。
    ー ・・・・・・ ー
思い掛けず、中村の声が鋭かったのと 顧客の中で頭ひとつほど高い彼が俄かに醸した、週末の昼食時にそぐわない緊迫感が、 さっっっ と見えない波紋を周囲に曳かせた。
「 ・・うん??」
しかし中村は、従来 成未の中で定着している沈着なイメージの崩壊を意にも介さず、一途だった。遠巻きから、引き続き興味を向ける視線も ちらほら注ぐのを厭う事なく、彼は視線を逸らさない。小春日和の陽溜まりに居ながら、中村の顔色から血の気が引き出したように見えて、成未は何やら心配になって来た。
「 立ち止まってみる きっかけは何にしても、責めるだけじゃ無くて、自分を労わってあげなきゃー !」
「 ・・・・・。」
初めて触れた中村の掌の、思いのほか大きく骨太な感触越しに 成未は つくづくと、この青年の稀少な性質の善さを痛感していた。同時に、遣り切れぬ切なさが次第と彼女の心を湿らせはじめた。
「 そうー。 中村くんは何時でも、優しく庇ってくれて・・・
支えてもらうばっかりだったの。頼ってばかりで・・ 恥ずかしい。本当に、ごめんなさいー 」
想いを込めた成未の指先を、中村は顎の前で しっかりと両手で抱きかかえた。
「 違いますって! だから俺はー 成未さんが居てくれたから 」
言い掛けて、彼は ふと 瞼を強く閉じて沈思した。テーブルの上で、二つのカップのコーヒーは すっかり冷めている。やがて、確保した成未の手を 熟っと見つめながら 彼は悩まし気な声で続けた。
「 ・・成未さん。」
「 ・・うん??」
「 そのー 事件の後しばらく、 'その人' の所で療養してた ってー 言いました???」
「 うんー。詳しく聞いてもらいた・・・・ 」
こちらを覗き込んだ中村の眼差しが、日蝕が起きたかのごとくに忽ち暗澹と翳りを帯びて、成未は口ごもった。尋常でない緊張を感じ、彼の表情を見守った。
「 それって、・・ つまりー 'セッ 」
咄嗟に、自由の利く右の掌で中村の口を覆った成未の反応は、中々に素早かった。再び、周囲から発せられる 興味と些かの懸念を孕んだ空気が、どんより漂うのを背後に感じた。唐突に口元を塞いだ指先に口づけそうな勢いを鎮火すべく、成未は中村に退店を乞うた。
「 ごめんね、中村くんー 場所を替えてから、続きを聞いてもらえる??」


















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登場人物紹介

水樹 史也( みずき ふみや)

広告制作会社勤務のイラストレーター。26才。心療内科カウンセラー 佐野 悠介との出逢いがきっかけとなり、かつて深刻であった精神状態から快方へ導かれて以来、悠介へ深い信頼を寄せている。

並外れて繊細な神経に恵まれた一方で、一般的な常識にとらわれない大胆な行動力をも兼ね備えている。

佐野家隣家の牡猫コタロウ( 水樹は一方的にヴァンプと呼ぶ )は親友である。

コタロウ

佐野親娘が暮らすマンションの隣人・黒田さんが飼っている去勢済の牡猫。

遠出はしないが、何故か佐野家へだけはベランダを器用に伝って頻繁に訪ねて来る。穏やかで人なつこい性格で、ツンデレのツン要素はあまり持ち併せていないらしい。

大柄な水樹 史也が繰り広げるスキンシップを実のところは迷惑に感じている、かどうかは不明である。

佐野 成未( さの なるみ )

大手通信販売会社に勤務する27才。きょうだいは無く、臨床心理士の父・悠介と二人暮らし。

十代で母を亡くしたせいもあってか、日常の生活者として揺るぎのない堅実さを備えたしっかり者である。

職場の同僚で後輩にあたる 中村 宏太 に異性として好意を感じているが、適当な距離から見守っていたいとひそかに願っている。

亡くなった母の実姉で、関西在住の叔母・川瀬 愛子 の無敵な明るさも好き。


佐野 悠介( さの  ゆうすけ )

臨床心理士を務める成未の父親。ある意味、純粋な少年時代のひたむきな向学心を持ち続けている。生来の気質としては朗らかで、性善説を信念とする。豪放と呼んでも可いマイペースと他人の反応をあまり意に介さない爽やかさが、弱点でもあり強みでもある。早世した妻の美穂をこよなく愛し、誰よりも傷みを背負っているが、忘れ形見の成未にも敢えて語った事はない。彼の血の通い合った心療の姿勢が、苦しむ者の拠り所となる。

中村 宏太( なかむら  こうた )

成未の後輩にあたる同僚の青年。人間関係に於ける周旋などに、ややもすれば誤解を招くほど不器用な誠実さと真面目さが長所とも謂える。その一本気さゆえ逆境に弱そうに見られがちであるが、外見とは裏腹の不屈な意志の勁さを秘めてもいる。誰にも明かさないが、片親の家庭に育ち自身の努力によって現職を掴んだ不遇な経歴こそが、未来を生きる糧となるという誇りと信念を強く抱く。

その一方、他人知れず成未に対する深い愛情を日々確かめてもいる。


記憶を持たない謎の男

事故なのか、傷害の被害者であるのか、瀕死の重傷を負って忽然と現れ、救急病院へ収容される。

怪我の後遺症によるものなのか、彼の「記憶」には深刻な混沌が生じていた。

唯一の所持品である色褪せた挿絵らしい紙の切れ端と、彼の脳内から無作為に出現するワードを手掛かりに、悠介と里中は心療にあたろうとする。

ところが正体不明者が次々と現れ、彼の身辺はしだいに不条理な危険に晒されてゆく。並外れた体力と身体能力を備えている事実に関しては、疑う余地がない。

里中 睦( さとなか  あつし )

悠介の同窓生で個人の臨床心理クリニックを経営する。佐野家とは美穂の在名中より親しい交流を持ち続けている。学生時代に培われた純粋な理念と悠介との信頼関係を自身の宝としており、悠介に臨床治療の片腕を託してもいる。成未にとっては、心の内を明かせる大切な存在である。

明朗な印象で独特の愛嬌の豊かさが魅力だが、外見とは裏腹のこまやかで緻密な神経を持ち合わせている。

澤村 泰弘( さわむら やすひろ )

悠介らの母校に附属する大学病院の心療内科で治療にあたる若手医師。緻密な頭脳と臨床医師としての適性から、周囲に将来を嘱望されている。公にはされていないが、不幸な幼年期に他家へ養子に迎えられた生い立ちを持つ。

心療を目指したきっかけは自らが幼い頃に負い、癒えることのない心の傷痕にある。少年時代に奏法を学んだヴァイオリンを愛し、多忙な中に於いても一人奏でて過ごす時間を大切にしている。

津久井 慎司( つくい  しんじ )

佐野親娘が居住する地域を所轄する警察の刑事で巡査長。謎の男の身元や負傷した経緯などが究明されないままの現状に違和感が拭えず、真相を突きとめようとする。微塵な情報を見逃さない、物的な手掛かりに基づく公正な分析を規範とすべく自らを律する一方、現場の人間に対する直感的な印象や気付きにも重きを置く。真摯な責任感と誇りが、職務に取り組む信条である。学生時代より精進している空手道の段位は黒帯で三段。

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