第6話 始まり8
文字数 1,200文字
洗い物をシンクに集め終えてから、藤はほとんど使用感のないスポンジを手に取り、そこに塗りたくるような勢いでぐねぐねと洗剤をかける。
それからダイヤル式の古い蛇口を大きく捻って一瞬だけスポンジを水にさらすのだが、水圧が強すぎて水が跳ね返りあちこちに水滴が散らばった。
しかしそんなことには目もくれず、藤は蛇口を閉じ、スポンジを力一杯握り潰すようにして泡立てる。洗剤の量が量なので、その手から泡が溢れてボタボタと洗い物の上に落ちた。
「いやーそれにしても今日は助かったよ。こうして具合悪くなることはよくあるんだが、今日は特別ヤバかったからな。」
「えっ」
先行きが不安になるばかりの藤の挙動に気を取られ、危うくその衝撃発言を聞き逃してしまうところだったが、何とか溢さず拾い上げた。
「今日みたいなことが、よくあるんですか?」
「ああ。つってもまあ、いつもは頭痛とか軽いめまいくらいだが…昔っから本に集中すると飯も水も摂らずに読み耽っちまうもんだから、子供の頃からしょっちゅうな。今は大分マシになったんだが、悪い癖ってのはなかなか抜けなくってさ。」
存外慣れた手付きで包丁を洗いながら、カラリと笑う藤。
しかし、聞いているこちらはとても笑える心境にはなれない。
部屋に押し入り藤の脱力した姿を見た時の、一瞬にして体が凍りついたような感覚がまだ鮮明に残っているからだ。
今日は偶々俺が訪ねる日だったから良かったものの、そうでなければこの人はどうなっていたのだろう。
考えるだけでもゾッとする。
「そんなわけで、読みながらでも片手で食えるゼリーばっかストックして食ってたんだが、やっぱそれじゃダメだったな!」
「当たり前ですよ!せめて主食くらいは常備して、毎日ちゃんと、食べてください…」
「あはは、泣くなよ。」
「呆れているんですよっ!」
眉間を押さえる俺を藤が茶化すので、思わず吠えた。
それでも藤は本気で取り合う気があるのかないのか、笑いながら悪い悪い、と言ってスポンジをしまい、そのまますすぎの作業に入る。
「冗談はさておき、確かに長谷見の言うとおりパック飯くらいはちゃんと買っとくかな。また、人様に迷惑かけるわけにはいかねーし。」
「是非そうしてください。」
「しかし、おかずはなぁ…」
「惣菜やレトルト食品でもないよりは良いですよ。」
「あれ、すぐ飽きるだろ。あ、そーだ。長谷見また作りに来てくれよ。長谷見の飯なら何回でも食えると思うし。」
「え、」
「なんてなー。さすがにそりゃあ、図々しいか。」
意表を突かれて固まる俺を余所に、藤は冗談めかして一人言のように言った。
その後すぐに、よし終わった!と声をあげ、藤は水切りラックに放るように箸を立てかける。
それからキュッと音を鳴らして蛇口を捻り、濡れた手を軽く振って、残った水気をシャツの腰の部分で拭った。
所々藤の雑な面が垣間見えていい加減指摘したい気持ちになったが、何故だかそれは、言い出せなかった。
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