第1話 長谷見と藤2

文字数 1,171文字

窓の隙間から入り込む冷たい風に鼻を擽られ、目を覚ました。

寝ぼけ眼で外を見ると、日中あれほど暖かく照らしていた太陽はすっかり身を潜め、空は水で薄めたような紺色に染まっている。

昼から読み溜めていた本を消化していたのだが、春の陽気にあてられいつのまにかうたた寝をしてしまっていたらしい。

ゆっくりと壁にもたれた背中を起こし両手を組んで大きく伸びをすると、凝り固まった関節からポキポキと軽妙な音が鳴る。

ふと、見上げた先の時計を見ると時刻はそろそろ晩飯時。そうと分かると途端に腹の虫が鳴き出すのだから、現金なものだ。

そろそろ来る頃か。

そうぼんやり考えていると、図ったようなタイミングで玄関のドア向こうから微かに足音が聞こえてくる。

薄い鉄を叩く音が一本調子に何度か続くと突如錆び付いた不快な金属音が大きく響き、またすぐ元の規則的な音に戻る。この古いアパートの外階段を登る時の独特な音色だ。


「いいタイミングだな。」


独りごちて、小さく笑みが溢れた。

畳に足を投げ出した姿勢から四つん這いになり、ちゃぶ台に移動して電気ポットのスイッチを入れる。立ち上がり窓を閉め、電熱ヒーターをちゃぶ台に寄せた。


歩いて15分程の距離とはいえ、まだ夜は冷える時期。あの石でも張り付いているのかと思う程の表情筋が、輪をかけて堅くなっているに違いない。


呼び鈴が鳴る。

踵を返して玄関に向かい自分の靴を少し脇に寄せ、裸足で土間に踏み入ってドアを開けた。

目の前に立っていたのは、やはり想像通りの仏頂面を掲げたビジネスコートにスーツ姿の男。よく見ればなかなか整った顔なのに、目の下のクマのせいで年の割りには老けて見える。


「すまん、邪魔をする。」


少し掠れた破棄のない声で、長谷見はいつもと同じ挨拶をした。一体何に対して謝っているのか、毎度玄関口で見るその顔は心なしかバツが悪そうにも見える。

俺はそんな様子に小さく苦笑しつつ、何も聞かずに長谷見を迎え入れた。とにかくその全身から溢れ出る疲労感をどうにかしてやることが急務だからだ。

仕立ての良いコートとダークグレーの背広をハンガーにかけてやり、客用の座布団に座らせて茶を差し出す。長谷見がうちに来た時のルーティーンだ。

黙って緑茶をすする長谷見をちゃぶ台の向かい側で眺めていると、その顔に生気が戻ってくるのがありありと分かる。

眉間の深い皺が徐々に緩んでいくと、物静かな、それでいて芯のある印象を感じさせるこの男の本来の顔貌が浮かんだ。

それを見届けると、俺はいつも妙に安心した心持ちがして


「長谷見、おかえり。」


と、いつからか口にするようになっていた。

それに対して、初めは黙り込んで何やら考えを巡らせていた長谷見も


「…ああ、ただいま。」


と、いつからかごく自然に返事をするようになった。


今ではもう、このありふれたやり取りが俺達二人の日常になっている。



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