第3話 食後の一杯2

文字数 2,678文字

今日読んでいた文庫本の置き場所が変わっている。

おそらく長谷見が所在なく手を伸ばしたものの、中身を見てすぐに止めてしまったのだろう。

先週買ったばかりのそれは所謂恋愛小説というもので、長谷見は以前からそういう類いの作品を毛嫌いしているのだ。

いや、毛嫌いというよりは単純に苦手なのだと思う。男女の甘い囁き合いや、情感豊かに繰り広げられる愛憎劇なんて、確かにこの仏頂面の男には縁がなさそうだ。

手に持ったスマホを険しい目で見ながら画面を指でなぞる長谷見を見て、俺は空になったビールの缶を指で弄びながらそんなことを考えていた。

つい10分前に他愛ないじゃれ合いを終えた後、長谷見のジャケットのポケットから着信音が響き、それから長谷見はこんな状態だ。

話し相手がいなければビールの減りも速く、俺は早々に暇を持て余したという訳である。

もう一本開けるか、と冷蔵庫にある残り一本のビールに思いを馳せたタイミングで、長谷見が盛大にため息をついた。

長谷見がこういう露骨な態度をとる時は決まって仕事関係と相場が決まっている。俺はビールを諦め、苦笑しながら頬杖をついた。


「何だ?また仕事でトラブルか?」

「まあな…。明日は確実に残業だ。」

「そいつは御愁傷様。」


俺が茶化して言うと、長谷見は一瞬こちらをジトリと睨みつけるが、それに対してわざとらしく笑って見せるとすぐに視線を外し、毒気が抜けたといわんばかりにまた短くため息をつく。


「…そういう訳だから、明日は来ないぞ。」

「分かってるよ。明日は今日の余り物をありがたくいただくとするさ。」

「そうしてくれ。」

「くくっ、すっかり俺のおふくろみたいだな、長谷見。」

「誰がおふくろだ。」


冗談で言った俺の言葉に返ってくる真っ直ぐな長谷見の反応が可笑しくて俺はまた笑ってしまう。

俺と長谷見の晩餐会は特に約束をしているわけではない。最初こそ何日の何時にと明確にスケジューリングをしてはいたが、いつしかそれが長谷見の休日以外ほぼ毎日のようになっていたので、こうしてお互い都合が合わなくなった時だけ連絡をして決行か否かが決まるようになった。

ここ最近は仕事で責任ある立場になったとかで、少し長谷見からのキャンセルが多くなっている。

その負い目があってか長谷見は断りを入れる度にバツが悪そうにするのだが、そもそもご馳走になっている立場の俺に長谷見を責める権利はない。

今だってからかっている俺に噛みつきながらも悩ましげな表情を浮かべているが、それは全くのお門違いというものだ。

俺は食卓に身を乗り上げ向かい側の長谷見の肩に手をのせる。


「長谷見、本当に気にするなよ。確かにこれは俺から言い出したことだし、責任感の強いお前が気負っちまうのも分かるけどさ。長谷見には長谷見の仕事や生活があるんだし、そっちを優先するのはお前の当然の権利だろ?」

「は?急に何の話だ?」

「だから、仕事で俺の方を断るのは仕方がないことだし、俺は全然気にしてないから。んな顔しなくてもいいって。」


暗い表情だった長谷見は、今度は訝しげに眼を細めて俺を見た。


「俺は今どんな顔をしてると言うんだ?」

「どんなって…なんというか、申し訳なさそうな?」

「別に悪いとは、思ってないんだが…」

「?違うのか?」

「…笑顔以外の表情なんか全部無意識だろ。俺にも分からん。」



そう早口に言って長谷見は口元を手で覆い、少し俺から顔を背けた。

何だか長谷見らしくない歯切れの悪さに、俺はますます心配が募る。


「長谷見…お前大丈夫か?最近仕事忙しすぎて体壊してるんじゃないか?」

「何なんださっきから。別にどこも悪くなんかない。」

「本当か?あんま根詰めすぎるなよ?長谷見は限界まで何も言わないから、俺は」

「おい、まるで"おふくろ"みたいだぞ、藤。」


俺の台詞を遮って長谷見は皮肉を言い、薄く笑った。

不意打ちのぎこちない笑顔に面食らってしまい、俺は何も言い返せず「そうだな。」なんてつまらない相槌を返すしかできない。

例えそれが皮肉混じりでも、長谷見が笑うのはそれくらい希少なことなのである。

ここ暫く見られなかった貴重な瞬間を目の当たりにし何故だか気恥ずかしくなった俺は、所在のない手を空のビール缶に伸ばして意味もなく口をつける。


「おい、それ空だろ。よこせ。」

「ん?おう。」


そんな俺の心情もつゆ知らず、また元の無表情に戻った長谷見は俺から空き缶を受け取り、やおら胡座の姿勢から立ち上がり自分の飲みかけの缶と俺の空の缶を持ち上げた。


「何だよ、終わるのか?」

「幸い殆ど飲んでないからな、今のうちに帰る。できるだけ残業時間は減らしたいんでな。」

「あっそ…。それで、早朝出勤するってわけかい。本末転倒って言うんじゃねーのか、それ。」

「何とでも言え。」


語調を強めて食いぎみに言う長谷見に、俺は呆れて肩を竦めた。



台所で空き缶の水洗いをする長谷見の横で、俺は壁にもたれながらそれをボーッと見る。

すると、長谷見がまだ中身の入った缶に手を伸ばしたので俺はそれを制止した。


「長谷見、それ寄越せ。勿体無いだろ。」

「俺の飲みかけだぞ。」

「別に気にするようなことじゃない。それより酒が無駄になることの方が問題だ。」

「まあ…それもそうだな。」


濡れた手でビール缶を持ちしばらく逡巡した長谷見は、手を伸ばしてそれを俺に手渡した。

缶は中に半分は残っている重さがあって、長谷見がいかにちびりちびりと飲んでいたのかが分かった。

時々こうして二人で酒を飲むことはあるが、思い返せば長谷見はいつも一本の缶だけで一時間は過ごしている。多分次の日の仕事に備えてそうした飲み方が癖付いているのだろう。

本当はかなりいける口なのに、その評価をするに至った長谷見の呑みっぷりは初対面以来見られていない。

今となっては、それは幸いなことだと思う。

少し昔のことを思い出して、俺の口元は自然に弛緩した。それに気づいた長谷見が俺の顔を覗き込むように首を傾げる。


「何を笑ってる?」

「ん?いや、ホントに全然飲んでねーなと思って。」

「それは途中でお前が邪魔したからだろ。」

「そーだっけ?」

「…いいから早く飲め。そして洗わせろ。」


惚ける俺に長谷見は恨めしそうに左手を差しのべる。

仕方ないので俺はビールを一気に煽り、底に残る一滴まで残さず飲み干した。


「っあ゛ー!美味い!!」

「だからそれ止めろって…。」


呆れたような声色で発する長谷見の言葉は、もはや何の効力もないことは本人も分かっているようだ。

俺がまたそれに笑って見せると、長谷見もまた性懲りもなく真面目に向かってくる。

俺は、長谷見とのこういう時間が大層お気に入りなのだ。



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