第6話 始まり5

文字数 2,441文字


そこでふと、俺は己の汗ばむ背中に気付いた。

今日は朝から快晴で、気温もこの時期にしてはかなり高かった。記憶の中の藤の部屋は古いせいか通気が悪く、少し蒸し暑かった気もする。

しかも、藤は今日休日だ。

もし前の晩、あの日のように一人で酒を大量に飲んでいたとしたら……

それらの状況がパズルのように組み合わさり、脳内で最悪の絵が完成した瞬間、考えるより先に手が勝手に部屋のドアを開けていた。


「藤!!」


玄関で叫びながら、俺は荷物を床に置く時間すら惜しみ革靴を乱雑に脱ぎ捨てた。

短い廊下を大股で通りすぎ、硝子の格子戸を割るような勢いで開ける。

見ると、そこにはあの日のように壁に背をついたまま足を投げ出し、力なく瞼を閉じる藤の姿があった。


「おい!藤っ!大丈夫か!?」


俺は荷物を放り、藤に駆け寄ってその肩を強く揺さぶった。麻の生地でできた半袖の白シャツは背中の部分が少し湿っていて、首筋にかかる髪も汗で濡れている。

すると、藤がゆっくりと目を開けて焦点が合わないままに何度か瞬きをした。


「…んあ?長谷見?どうしたんだ?」


藤がようやく俺を認識し声を上げたことに一先ず安堵した俺は、ため息をついて項垂れる。


「どうしたもこうしたも…呼び鈴を押しても電話をしても出ないから嫌な予感がして来てみたら、貴方がぐったりしているから…」

「ああ…悪い。そーか、もうそんな時間か…。すまん、今日はなんか、やたらと眠くてな…メッセージは見たけど…電話、全然気付かなかった…。」


そう話しながらも終始力が抜けたように呆けた藤の様子に、俺は眉根を寄せた。

部屋は窓が開けられてはいるもののやはりじわりと汗ばむ暑さで、見たところ藤の近くには何か飲み物を飲んでいたような形跡もない。代わりに、藤の手元には無造作に置かれた分厚い文庫本が一冊。


「…藤さん、今日はいつからここにこうして居るんです?」

「へ…?あー…今朝は10時くらいまで布団で寝てて…起きてすぐに読みかけの本読み出したから、昼前くらいからか…?」

「その間、水分は?」

「朝飯に…ゼリー食って、水飲んでー…えー…それだけか…」


天井を見ながら呑気に顎に指を添えて記憶を辿る藤を、俺は愕然としながら凝視した。


「藤さん…ちょっと失礼します。」


藤が、ん?と首を傾げるのも構わず、俺はその少し赤らんだ白い額に手を押し当てる。

触るとそこは内側に熱源でもあるのかと思うほど熱く、髪の生え際から流れた汗が俺の指を伝った。


「どう考えても熱中症ですよ!!」

「熱中症…?あー…ははっ、どうりで眠い訳だ…」

「笑い事じゃないっ!」


俺は急いで窓を閉め、エアコンの冷房を最大出力で起動した。それから台所に向かい冷凍庫を開ける。幸い冷却材で出来た氷枕があったので、それを引っ張り出した。何か飲み物はないかと冷蔵庫も見るが、中には納豆や豆腐、卵が僅かに入っているだけで、目ぼしいものは栄養補助食品の飲むゼリーくらいしかない。

仕方なくそれらを持って藤の元に戻り、一先ずゼリーの蓋を開けて持たせ飲むように促した。


「氷枕使って、ここに横になってください。今、救急車呼びますから。」

「救急車って…んな大袈裟な。大丈夫だ。吐き気もめまいもないし、ちゃんと水分取って冷やせば治るよ…」

「でも…」

「ほんほに、らいじょーぶらから。」


"ホントに、大丈夫だから"。
俺の言う通りに氷枕に頭をつけて横向きに寝転んだ藤は、ゼリーの吸口を咥えながらそう言って笑った。

暫く迷った末、俺はスマホをポケットにしまう。それから、ちゃぶ台に団扇が置かれているのが見えたので、手に取り上から扇いでやった。

その内部屋の温度も下がってきて、藤は安心したような面持ちでため息を一つついた。


「ありがとなぁ、長谷見…。悪いな、わざわざ礼をしに来てもらったのに、世話焼かしちまって…。」

「いえ…全部俺が勝手にやってることですから、構わないでください。」

「意識も幾分ハッキリしてきたし…もう良いぜ、このくらいで。」


10分と休まないうちに藤が、よっこらしょと、気の抜ける掛け声をしながら体を起こそうとするので、俺は慌ててその肩に手を当て畳に押しつける。

藤は目を丸くして、覆い被さる俺を見上げた。


「まだ全然休んでないでしょう!大人しく寝ててください。」

「いや、でも、このまま茶も出さずにアンタにこうして居てもらう訳にはいかんだろ。」

「そんなの良いですから、本当にっ!」


必死になって説得する俺の様子を見かねたのか、藤はふむと難しい顔をして考え込み始めた。

俺はまた藤が起き上がりはしないかとハラハラし、未だにその骨張った細い肩から手が離せない。

暫くすると、藤は分かった、と頷き俺と目を合わせた。


「じゃあ…俺はこのままちゃんと養生するから、長谷見はもう帰って良いぜ。」

「は?」

「今日わざわざ仕事休んで来てくれたんだろ?だったらこんなことで時間使ってないで、ちゃんと休め。礼はありがたく受け取らせてもらうから。こんな形になっちまって、悪いけどな。」


格子戸の前に投げ置かれた手土産に視線を向けながら、藤は困ったように笑って見せた。

その笑顔になんだか体よく追い払われたような気持ちがして、瞬間、頭の中で金属同士がぶつかり合うような硬質の鈍い音が響く。

俺はゆっくりと藤から手を離し、そのまま正座の姿勢で藤を斜めに見下ろした。


「…分かりました。じゃあ貴方はこのままちゃんと横になっていてください。」

「ああ、そうさせてもらうよ。本当にありがとうな。今度は俺から何か礼を」

「では、俺は食べ物と飲み物を買いに行ってきますので。」

「へ?」

「自分の休日の使い方は自分で決めます。いいですか。藤さんはそこで、黙って、寝ててください。」


まるで啖呵を切るようにして藤を言い含めた俺は、鞄から財布だけを取り出し、これ見よがしに手荷物を置いたまま玄関へ向かう。

後ろで藤が何やら言って俺を止めようとしたので、ダメ押しに、寝ててください!と強めに言い放ち、そのまま振り返らずに勢いのままアパートの外へと飛び出した。



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