第6話 始まり3
文字数 1,632文字
「ほい。二日酔いの薬。コイツは良く効くって、俺の仲間内では評判なんだ。」
藤は目を覚ますなり、台所から薬を取ってきて水の入ったコップと一緒に俺に手渡した。
知らぬ間に他人の家に転がり込んでしまった状況の俺は借りてきた猫のように身を縮ませ、藤のアクションをひたすら眺め受け返すことしかできない。
「…すみません、薬まで。」
「いいさ、丁度貰い物が余ってたやつだし。」
「貴方は飲まなくてもいいんですか?」
「藤で良いよ。俺は二日酔いとは縁がないからなぁ。」
カラカラと笑って、藤は部屋の隅にあるちゃぶ台を布団の側まで引き寄せ、その上から電気ポットを取り再び台所に向かった。
俺の記憶が残っている限りでも、昨晩の藤はかなりの量を飲んでいた。それなのに、見る限りではそんな様子は一切伺えないので俺は内心驚嘆する。
そして同時に、酔い潰れたのは自分一人だけで、それを藤に終始世話させてしまったという最悪のシナリオが俺の空白の時間を埋める可能性が高いことに気づく。
悶々とし一人顔を青くしていると、藤がポットと湯呑みを2つ持って台所から戻って来た。それらをちゃぶ台に置いて胡座をかくと、俺の様子に気づいたのか、ん?と首を傾げる。
「どうした?深刻な顔して。吐きそうか?」
「いえ、その…情けない話なんですが、昨夜の記憶が途中からないんです。俺はどうやってここに…?」
「ああ、何だそんなことか。勿論、俺が店からタクシーで運んで来たぜ?」
店の親父と、タクシーの運転手にも手伝ってもらってな。と、藤はあっけらかんと答えた。
想像通りとはいえ己のあまりの醜態に落胆を禁じ得ず、俺は額を擦りつける勢いで藤に土下座で平謝りをした。
「重ね重ね、本っ当に申し訳ない…」
「あははっ、なんかデジャブだなぁ。いいさいいさ。あんまり楽しくて、俺も酒を勧めすぎたしな。お互い様だ。」
藤はそう言いながらちゃぶ台の上で湯呑みに湯を注ぎ、俺にその一つを差し出した。中にはインスタントの緑茶が出来上がっている。
しかし、知り合ったばかりの相手からの言葉を額面通りに受けとる程おめでたい性格をしていない俺は、膝の上に手を乗せたままそれを受けとれずにいた。
自分の不甲斐なさで仕事がうまくいかなくて、その腹いせに自棄酒をした挙げ句また他人に迷惑をかけてしまった。
その事実が、二日酔いで痛む頭をさらに容赦なく締めつける。
俺はまた馬鹿の一つ覚えのように、すみません、と謝って額を手で覆い、項垂れた。
「長谷見。」
すると、藤が俺の名を呼ぶ。
昨夜いつ自分の名前を教えたのかも判然としない俺は、それに思わず顔を上げた。
藤は湯呑みをちゃぶ台に戻し、胡座のまま畳を滑るようにして俺の正面まで近づいてくる。
正座の俺を少し見上げるその表情は、目の前の俺を通してどこか遠くを見ているようで、その吸い込まれそうな程深い黒色の大きな瞳に自然と目が釘付けになる。
妙な心地がしてきた俺は、遠慮がちにゆっくりと顔を背けようと動いた。
すると、バチンッ、と弾けるような音を鳴らして、藤の掌が俺の両頬を挟みそれを阻む。
その鋭い痛みで目の前に小さく閃光が走って、お陰で頭が一気にクリアになった。
。
「急に何をするんだっ!」
「お、戻ったな。よしよし。」
思わず敬語も忘れて声を荒らげると、藤は満足げに頷いて俺の顔から手を離した。
何のことを言われているのか分からず、俺はひりつく頬を撫でながら訝しげに藤を見下ろす。
すると、藤は俺の思考を読んだように伏し目がちに微笑んだ。
「"ごめん"は一回で十分伝わるからさ。長谷見はいつも、そうしていろよ。」
藤はそう言って、再び緑茶入りの湯呑みを差し出す。
ほぼ初対面の相手にまるで昔からの知り合いのように言われ、俺は戸惑った。
しかし同時に、心に重くのし掛かっていたものが、少しだけ軽くなったような気がしていた。
俺はやや躊躇いながらも、今度はその湯呑みをしっかりと受け取る。
淹れたての緑茶は、一口飲むと胸の不快感を洗い流してくれて、良い酔い醒ましになった。
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