第4話 お開き

文字数 2,186文字



「忘れ物ないか?まあ、あってもすぐ取りに来れるだろうが。」


玄関から延びる短い廊下の壁にもたれ、藤は俺に尋ねた。

玄関口の前で、靴べらを添えて革靴に足を入れる俺は藤に背を向ける形で答える。


「今日は鞄以外何も持ってないからな、大丈夫だとは思うがもし何か見つかったら保管を頼む。」

「了解。ま、そう言ってお前が忘れ物したことなんか一回もないけどな。」


背後で藤が鼻で笑う声が聞こえた。

靴を履き終えた俺が振り向くと、上り框が10センチほどある為藤の目線と俺の目線は大体同じ高さになる。

藤の見送りはいつものことだが、改めて正面から真っ直ぐこの顔面と向き合うのは、毎度少しの緊張感があった。


「じゃあ、邪魔したな。」

「ああ、今日も美味い飯作ってくれてありがとな。気をつけて帰れよ。」

「ああ。明日もちゃんと飯食えよ。」

「だーから、そういうとこがおふくろっぽいんだって。」


大きな目を三日月型に細めてからかうように笑う藤。

またしても俺を「おふくろ」などと形容するので、反射的にその笑顔をじとりと睨みつけた。


「あのな、誰のせいでこんなに過保護になってると思ってるんだ。」

「あー…」


突きつけられた藤は、わざとらしく明後日の方向へ視線を飛ばす。

藤は大食いの割に、食べることに拘りがない。食べ物がそこにあればあるだけ食べるが、なければ1日水だけで過ごすような極端な食生活をよくしていた。

おまけに本に夢中になると水分すらまともに摂らないこともある為、夏場1日中家に居たりすると吐き気がするだの頭痛がするだのと不調を訴えることもしばしばだ。

この部屋での晩餐会が始まったのも、藤のそういう信じ難い不健康なエピソードを聞いたことが発端なのである。


「仕事の日ですら面倒だとゼリーだの補助食品だので済ませるような奴の食を世話してれば、俺でなくともこのぐらいの心配はする。」

「分かった分かった。俺が悪かったって。もう"おふくろ"なんて言わねーよ。」

「当然だ。」


藤はバツが悪そうな顔で観念したとばかりに両手を上げる。

俺はフンッと鼻をならし、目の前の男を言い負かした優越感に浸った。


「分かったなら、はぐらかさずにちゃんと約束しろ。明日もちゃんとした食事をとること。いいな。」

「ああ、肝に命じるよ。ったく…長谷見には敵わねーなぁ。」


藤はそう言ってまた眉尻を下げながら笑った。

黙っていると温度がなく感情が読めない表情をするのに、いざ話し始めると藤はよく笑う。

初めて会った日も、そのギャップに驚かされたものだった。近寄りがたいその姿からは想像もできない程の人懐こい笑顔を今でもハッキリと覚えている。

あれから月日を重ね、その笑い方にも様々あることを知った。

そして、そのどれもが俺の眼にはやたらと眩しく見えた。



「長谷見?」


知らずに呆けていたらしい俺を案じ、藤が俺の顔に自身の顔を寄せてきて、俺を呼ぶ。

我に返ると同時に目の前にその綺麗な造作が迫っていたので、俺は思わず頭を仰け反らした。

そして、ガンッと派手な音をたてて、俺の後頭部は玄関の金属扉に突っ込む。


「った!!」

「ぶっ!あっははははははは!!何してんだ長谷見!」


勢いよく吹き出した藤は腹を抱えて笑い、仕舞いには廊下にしゃがみこんでしまった。

俺は恥ずかしいやら悔しいやらで表情が定まらず、あえなく手で鷲掴みにするような形でその顔を隠すしかない。

そのうち藤は気が済んだようで、しゃがんだまま目尻の涙を腕で拭った。


「あーやっぱ、長谷見といると退屈しないな。」

「嫌味かっ。」

「これは純粋に誉め言葉だぞ。」

「…そうは聞こえない。」

「ったく、自信持てよ。」


そう言って、藤は膝に手をついて立ち上がり、再び俺と視線を合わせる。


「お前は真面目で仕事も料理もできて、最高に面白い俺の自慢の友達だぜ?長谷見。」



藤は微笑んで、そんなクサい台詞を何のてらいもなく俺に贈った。

そこまで堂々とされると、ドアに頭をぶつけた程度でまごついている自分が馬鹿馬鹿しくなる。

束の間の一勝も虚しく、やはり最後はこの男に勝ちを譲らねばならないらしい。


「…それは光栄だ。一応覚えておいてやる。」

「ああ、そうしてくれ。おっと、随分引き留めちまったな。」


藤が靴入れの棚に置かれたアナログ時計を見て言うので、俺も腕時計を確認すると帰り支度をしてからすでに15分は経過しようとしていた。


「長谷見と居ると時間が過ぎるのが早いな。明日会えないのが今から寂しいよ。」

「おい、まるでジゴロが愛人に言う台詞だぞ、それ。」

「ははは。」

「まったく……。じゃあな。また連絡する。」

「ああ、待ってるよ。おやすみ。そっちも体調気を付けろよ。」

「ああ、おやすみ。」


ドアノブを回し扉を押し開けると、
いつの間にか外はすっかり夜になっていて、アパートにいくつか取り付けられた光度感知式の自動照明がぼんやりと辺りを照らしていた。

ドアを閉め、コンクリートの廊下を渡って鉄階段を下り、アパートの西側に面した道路まで出て足を止める。

そこで2階の廊下を見上げると、少ししてドアが施錠される音が遠くに響いた。

藤はいつも、俺が鉄階段を降りきるまで鍵をかけるのを待っているのだ。


「……自慢の友達、か。」


先ほどの藤の言葉を反芻し、何故か胸に靄がかかったような感覚を覚える。


俺は小さくため息をつき、元来た道を歩き出す。

明日はあの部屋に行けない。それだけで今から憂鬱だ。




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